私のちょっとあおり気味の
記事に
「Nouvelle 批評。」でちょっと遅れてお返事いただきました。
価値体制批判と認識体制批判が、KENさんの議論の展開の根っこのようなので、ここに基づいて考えなきゃいけないんでしょうね。例に挙がっていたのは、西欧民主主義がそのままの価値観をアジアの近代化に持ち込む話でしたが、ホモフォビアをポイントアウトする立場がどうして「価値体制批判」になるのか、よく理解できません。よろしければ、ここがという例をあげていただいて、ご批判願います。
先のエントリーは、批判していない所を批判されたと勘違いされておられる様子ですね。ヌーヴェル戦略全般をホモフォビアの現われだなんて一言も言った覚えはないし、多様な語りを展開しようという路線には、共感してるんです。ちゃんとそう書かないでごめんなさいね。私が批判したのは、「エログロ路線批判」の部分ですから。一度のみならず何度も何度も出てきて、他からの記事も引っ張ってきたりして、目の敵にされている様子が「あなたちょっとどうよ!」って思ったから、その部分についてポイントアウトしたまでで、それを誹謗中傷の粋に達してるなんて言われても、ちょっとびっくりです。だいたい、ホモフォビアなんてみんなすべからく克服できてない部分を少しは持ってるわけで、それってホモフォビアよって言われてカチンと来るのは図星だからでしょう。(また煽っちゃった・・・)
既存の性規範を打ち破ろうとするために、過度な性表現をする「エログロ路線」は、結局アンチテーゼでしかないので、性規範を強化することにしかならないっていう、そう言いたいのはわかりますが、そもそも性規範って言うのもホモフォビアの根っこにあるセックスフォビアを隠蔽するための文化ですから、五十歩百歩です。
エログロ嗜好と決め付けられ、レッテルを貼られましたが、まあ別にそれでもいいです。エログロアレルギーはそれほどありませんから、私は。それと、エログロ路線として例示されているエピソードは、私は肯定しているわけではなく、「それはしょうがないんじゃないですか?そんなに目くじら立てるほどのことでもないんじゃ・・・」くらいに言ってるわけです。但し、どうせエログロするんだったら、誰かへのあてつけみたいな半端じゃなくてちゃんと自己表現として高めて行かれれば、いいものになるんじゃないですかと提案してるに過ぎません。
「ホモが目立つから、カミングアウトしてるやつは目障りだ」というのと、「性的快楽ばかり強調されるエログロ路線は、ノンケのゲイに対する評価を下げる」というのって、結局世間の目を過度に気にしている所では同じ穴の狢と思えます。昔からあった「ゲイはこんなに芸術的なのよ!」って所しか表現せずに、一部の「お耽美シンパ」を獲得してきた姿勢も、どう見られるのかばっかし言ってて、より多くの人の共感を得るのには限界があります。
私が言いたいのは、生きてゆくために何が価値があるかを自分でしっかり判断できるよう、自分に巣食っている世間のバイアスに敏感になりましょうということ。自分のバイアスを棚にあげて(否認して)、他人の批判ばかりするのは止めましょうってこと。それもいわゆる「近親憎悪」みたいに、エログロして弾けて壊れかかってるゲイを槍玉に挙げるのはやめなさい、みっともないから、ってことです。
私が欲しいのは、リアリティーある多様なゲイとしての表現です。どう見られるかにびくびくして窮屈に生きるのはもうたくさん。だから、
ゲイのセックスの実体がどんなだか、
エイジングに対するみんなの意識はどうか、
ゲイとして一般社会に売れるものは何かとか、多様な側面で自身を語っているつもりです。足りない所はあるけど、特定の一部を排除しようとは少なくとも意識していません。もし、語れていない部分があるとすれば、それは私が超えるべき部分なんでしょうね。そういうのが見つかればいいと思います。
TLGPのシンポジウムで伏見さんが「どうしてゲイにHIVがこんなに広がってるかって言うことに対する答えが、アクティビストの中から聞こえてこない。それを言うとゲイにとって不都合なことが起きるからですか?」って仰って「やっぱりあんまりヤリマンだったって事を振り返ってみてもいいのではと思う」とご自身の考えを示されました。私は「ヤリマンだったって事を振り返る」人がいてもいいと思うし「持ってたのに面倒でコンドームが使えなかった自分を振り返る」でもいいし「ちゃんと自己肯定できずに、いつも人任せにしていた(あたしはこれよ!)」なんてのもあるかもしれないし「極端に愛を優先して、自分の健康に気を配れなかった」とかもありそうです。いろんな取っ掛かりを持って、自分の将来のための情報として、使える「振り返り語り」をみんなで分け合いたいです。

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