Nothing's gonna change my love for you

Hold me now
Touch me now
I don't want to Nothing's gonna change my love for you
live without you

 
このブログのタイトル Nothing's gonna change my love for you 思い出の曲のタイトルからとりました。 邦題は 「変わらぬ想い」 80年代の後半に流行った洋楽曲です。 歌詞はここ(^^)/ 訳詞はここに(^^)/

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投稿者:管理人
そうですね。「主観」。

お世辞といったら下世話というか、すこーし的が外れてしまいますが、「(この歌を詠んでいる、この文章を作っている)私にとっての最上の人間」という意味にとれば何の問題もなくなるわけで。

ところで、高市王朝がですね(爆)
投稿者:ペギラ
大王の使用例にこんなのもある。
kitunoさんの提示されている法王帝説から
「娶尾治大王之女 名多至波奈大女郎爲后」

万葉集には、他にもある。
 高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
「大王乃 所聞見為」「八隅知之 吾大王之 天下 申賜者」「吾大王 皇子之御門乎」
「吾大王之 萬代跡」

高市皇子を「大王」としている。

新たな妄想を生みそうですが、(笑)
長屋親王とかで。。

記述者・作者の主観というものが色濃く出ているのではないか。
何人かにつかわれているか?
使われているんです。
公式ではない主観のこもった文章に。

そうみれば、「尾張大王」も「高市の大王」も「法王大王」も
作者・記述者の特別な思いが感じられるだろう。
投稿者:kituno
ロトさんの「A」「B」「C」「D」論。
とてもわかりやすくて、私が常々感じている思いをまとめてくれているようにも感じましたので、本日トピックに引用させていただきました。許可してくださりありがとうございます。
確認してくださいね。

「用明天皇がアメタリシヒコだったのではないか」という『新唐書』を論拠としての意見は、私のトピックでも書き込まれたことがあります。しかしその後の『宋史』日本伝には聖徳太子の記事があり、「開皇中に使者を送ったのは聖徳太子」と読みとれるような文章があります。また用明天皇が池辺皇子だとする説があり、ちょっと疑惑の目を向けざるを得ない事件を起こしています。
投稿者:管理人
無かったことじゃないな。蘇我と物部の氏族間の争いや崇仏廃仏といった小さな混乱だったと矮小化させるため・・・。

あれ。変なスイッチがはいっちゃったか(^^ゞ

投稿者:管理人
推古は用明(日本国?蘇我)と崇峻(倭国?物部)の対立による国家的混乱を無かったことのようにさせるために、後世に「アメノシタシロシメス大王」つまり「天皇」として即位していたことにされたのだった!!!
投稿者:管理人
用明の在位たった三年。

用明は即位時に酢香手姫を伊勢斎宮に任命している。酢香手姫は聖徳太子の死亡年とされる推古30年つまり622年に自ら斎宮の職を引いたという記録があるらしい。

どうして37年もの間、斎宮を勤めて急にやめるのか。兄弟である聖徳太子が死んだからというより、父の用明が死んで後ろ盾がなくなったからじゃないのか。

崇峻暗殺にしても、「あめのしたしろしめす」ほどの人間が殺された以上、いくら蘇我馬子の権勢が強かろうが、馬子はもっと批判されてしかるべきだろう。

崇峻を殺させたのは、馬子じゃなく用明だったからじゃないのか?

用明天皇の本当の死亡時期は推古22年じゃなかろうか。

用明が長生きだったから用明即位時に大兄だった彦人は即位できないまま死んだ。

新唐書によればアメノタラシホコは用明の事とある。

これが事実で、「聖徳太子」は用明の事跡をその息子「厩戸」が行ったように見せかけているのじゃないか?勿論、厩戸も用明の政を助け中心的にこなした人物ではあったのだろうが。。。。
投稿者:ペギラ
日本書紀や風土記や万葉集ができた頃には、「おほきみ」であり「だいおう」ではない。

もし「だいおう」と読むならば、それは新しいということになる。

峻別できる年代は平安のどこかでしょうね。

ひとつ宿題だ。探してみなくちゃ。

伊予の碑文は、本当に罪作りな話だよ。
「大王」という文字を使っているにも関わらずあの漢詞。
さらに「夷與」なんて胡散臭い文字使って。
XPのパソコンなのに、95風のクラシック表示をさせているようなもんじゃないですか。
投稿者:管理人
ペギラさん、それはシンプルでわかりやすいですね。

私の妄想癖からいうと、

本当は聖徳太子は用明の後を継ぐ「あめのしたしろしめすおおきみ」だったのだけれどもその直系子孫が絶えてしまったので、後世の追号選択のとき「天皇」から外した。

といういう妄想が。。。。。

他の中国史書に比べ同時代性は少ないし日本側から仕入れたとおぼしき史料を利用しているから信用がおけないといわれる『新唐書』には「アメノタリシヒコ」は用明の事だって書いてるしなぁ。まあ信用がおけないから無視してよいのかもしれないけれども。。。

日本書紀の用明の死亡時期にも細工があったりして。。。

実はもっと長生きしていた!!

なんて(^^ゞ
投稿者:管理人
漢語としての「大王(だいおう)」として書かれているもの、「おおきみ」に「大王」をあてたもの。

峻別はできるのでしょうか?

万葉集の「大王」は「おおきみ」でいいとして、伊予の碑文なんかの場合は漢語・漢文としての「大王」じゃないんだろうか?
投稿者:ペギラ
「大王」 という漢字があてられるが、和語としては「おほきみ」という発音。

「おほきみ」とは天皇、皇族、親王、諸王の尊敬語や総称として使われる。

「大王」でも「王」でも「女王」でも「おほきみ」

聖徳太子が「天皇」となっていないのだから、すなおに「王(おほきみ)」をさらに飾った漢字として「大王」を使ったとみては。

そんなにこねくりまわさなくても、シンプルにどうですか。
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