それと並んで二つの琴もあり、鹿の角のついた革袋に入れた篳篥が置かれてあった。昌樹は独身だが、桐の本箱にも、積み上げた書物にも、机の上には埃はなかった。身ぎれいな彼の風格そのままに、何もかもしっとりと落ち着いて清潔であった。
見上げた神棚には灯明がついてい、開けた小さな扉の中に、仄白い幣帛がのぞいていた。それだけが、切迫した憂いの感情を表白していた。
「やはり来なかった?」
軍治である。
「来ない」
昌樹は答えた。
「恥知らずめがー」
軍治は、気持ちをそのまま吐き出した。
昌樹は黙って、軒先から展がる田面を眺めていた。微風にもさやぎ渡る濃緑の彼方に、蛭ヶ岳の連峰が妙に近々と見えた。
「ー茶を立てよう」
襲いかかる虫の音に、消え入るような音をたてた炉端の釜に寄って行く兄のゆとりが、軍治を感動させた。
「私は、武門はかえるまいと思っている」
ぽつりと昌樹が言った。
軍治は本当の事だと思った。それは武門を知っている者の言葉であり、鋭い批判でもあった。軍治も知っていた。しかも苛立っているのは、軍治自身の要求でしかないことが、はっきり旨に落ちてきた。
「武門には武門の考えもあり、部門の受けた運命的な性格もある。こうなっては、私たちにはもうどうすることも出来ない」
軍治は、出された薄茶を押し戴いた。
「今だから言うが、代官・上倉彦左衛門と親の懇意を笠に着た嫌われ者の新三郎だった。武門が何故新三郎を斬ったか、私にはよく解かるような気がする」
飯田新町から、篠原村にはすぐ近くだ。其処の百姓が与力の家を、大根を買うように買って出たのである。買ったことに退目は感じない時代であった。しかし、生意気盛り
で思い上がった若者には武門の二本差しがどう映ったか?どんな経緯になったか手に取るように解かるというものである。
「それならなおのことー」
「お前なら自首するだろう。だが、それは軍治でなくて武門だったのだ」
「それは解かる。だがー」
「−もう一服たてようかな?」
昌樹は穏やかに茶をすすめた。
続く
石井計記著 黎明以前より転載

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