また、残念な事件が起きてしまった。
月曜の新聞が休みの時に限って何か起こることが多い。
前の日(日曜日)の新聞に、ちょうど永山則夫の事件について書かれていた。
それは偶然だと思うが、あの事件が言わば通り魔事件の走りのようなものだったと思う。
永山が事件を起したのは、青森から集団就職で東京へ出て来て、そうしてそこに自分の居場所がないことにいらつき、低学歴へのコンプレックスなど、鬱屈したものが溜まって行ったことから引き起こされたもの、と、解釈して良いのだろう。
この構図は、今回の事件と何ら変わっていないと思う。
もちろん低学歴や極貧の問題は現在の状況とは違う。
けれどもそういった状態から引き起こされる若者の疎外感や鬱屈した感情の、行き場の問題はそう違わないのではないかという気がする。
日曜の新聞にはもうひとつ、映画「靖国」の騒動から見える排除の論理について、右翼の人が文を寄せていた。
自分と相容れない意見の者は排除する、最近のそういう傾向がこわいと。
他人に寛容さがなくなっていくのは、その人の住んでいる世界、生きている世界が狭ければ狭いほどそうなるので、その傾向が強くなる。つまり視野が狭いのだ。
狭い世界でしか生きていない、狭い世界しか知らない、だから視野が狭くなる。
だから違う意見を許せなくなる。
永山則夫は、無知が事件を起した、と言った。
「無知の涙」を私は読んでいないのだが、あのころ、文庫本で多数売られていた。今でも売っているのだろうか。
このような事件は今後もっと増えるだろう。
永山則夫の時代よりももっと若者は我慢することをしなくなっている。我慢出来なくなっている。
親の教育にもよるだろうけれど、世の中が便利になって行って、チャンネルを変えに立つことなく、スイッチひとつで画面を変えられるテレビや、食べ物が暖まるレンジ、お尻まで洗ってくれるトイレ、何でもスイッチひとつで自分の思いのままになる家電製品に囲まれていると、自分の人生もスイッチひとつ、自分の考えひとつで思いのままにならなければ我慢出来なくなるのだ。
もっと自分の生活している世界のその向こうを見て、もっと違う考えがあること、思いのままにならないことがいくらでも世の中にはあるのだと言うことを、そのことで、先達も、人間の多くが、殆どの人がさんざん悩んで来たのだということを、若い人には知ってもらいたいなとおばさんは思うのだった。
挫折したり、そこからなかなか立ち上がることが出来なかったり、自分の思い通りにならないことこそが普通なのであって、みんな思い通りにならないから、それを何とか自分の中で折り合いをつけようとする。折り合いをつけながら生きていく。
折り合いをつけることが、人生を生きることだと言ってもいい。
そういうことが、人生を生きているとだんだん分かって来る。
若い人は、若いくせにもう人生をすべて分かったような理屈を述べるが、実は何にも分かってないのではないだろうか。
事件の報道を見ながらそんなことを考えた。