夜、部屋を閉め切り、こつそり、その地図を開いた。赤、緑、黄の美しい絵模様。私は、呼吸を止めてそれに見入つた。隅田川。浅草。牛込。赤坂。ああなんでも在る。行かうと思へば、いつでも、すぐに行けるのだ。私は、奇蹟を見るやうな気さへした。
私はSD市の高台にあるK町といふところで、賄(まかな)ひ付きの下宿に住んでゐた。隣の部屋の工学部生から譲り受けたアルバイトのため、下宿のをばさんに、朝6時に朝食を出してもらつてバスに乗り、高台から下りて、駅からSS線で隣のSG市の電電公社に出かけた。仕事は電設工事の手伝ひで、自動交換機の林立するフロアの頭上に配電スペースがある。鉄骨で組まれた櫓(やぐら)といふ案配だ。配電スペースだから、腕ほどもある太い電線が縦横に蛇行してゐるほか、巨大な電流を通すために、赤青に塗り分けられた鉄道レールのお化けみたいなエ字型のバーが渡されてゐる。その、地上3mほどの櫓に上がり、さらにその2mほど上にある天井に火災感知器を点々と設置し、それらの間を電線で結んで電源に接続する。
私はその仕事の下働きとして、機材を運んだりゴミ掃除をしたり、あるひは作業員への伝令を受け持つたりした。初日は、カタカタ自分で動いて交換する機械が物珍しかつたが、上がつてみると3mといふのは思ひのほか高く、怖くてもうやめようかと思つた。だが、そこで私は半月の間働いた。
棟梁はさらに隣のI市から来てゐて、やくざを気取つてゐたがいい兄(あん)ちやんだつた。一度はそのIの川開き祭に連れて行つてもらひ、彼のアパートに泊まつた。その町に河口のあるK川は、はるか北の、私の郷里から流れてくる川でもあつた。だからとても愛着があつた。夜、飲み屋から戻つて来て、布団を敷いた後、成田の管制塔占拠のニユースを二人で見た。右翼(やくざ)を自称してゐた彼は、(気持ちは分かるがソ連の旗を掲げるのは……)と言つてゐた。彼の書棚から私は五稜郭戦争の本を借りた。
翌朝、車で出発し、途中で次々と若い作業員たちを拾つて現場に向かつた。若い作業員たちと私は、それなりに結構仲良くしてゐた。彼らの話は、女の子のことばかりだつた。そのうちの一人は、もう結婚してゐた。彼らは私を君付けで呼んでゐた。私の方が彼らより年上だつたのだが、私はどちらかといふと人に使はれるのが好きなのだ。棟梁は毎日、電電公社の食堂で私たちに昼飯を奢つてくれた。すみません、いただきます、ぺこりと頭を下げて食べる、わかめととろろ芋といふやうな昼食はうまかつた。
どうしてこんな話を書くのか。これと卒業論文とは、思ひ出の中で切り離すことができない。半月の仕事の後、私は8万なにがしかのバイト料を手にした。棟梁は電設会社の事務所(それはまるきり掘つ立てのプレハブ小屋だつた)まで私を車で送つてくれた。私はお礼を言ひ、このことは一生忘れません、とやや大げさに付け足して、車の窓から手を差し入れて握手までしたのだが、実際、忘れてはゐない。それには理由がある。
その8万のうち5万ほどを使つて、私は叢文閣版の有島武郎全集を、SD市の古本屋M堂から購入した。前から目を付けてゐたのだ。M堂の店長が、車でK町の下宿までそれを運んでくれた。2階の部屋から車が着いたのを見て、うれしくて階段を駆け下りた。まだ現行の筑摩書房版は出てをらず、全集は大正末・昭和初期に出た叢文閣版か新潮社版しかなかつた。全作品を網羅してゐたわけではなく、また勿論かなり古びてもゐたが、それでも天金の分厚い本が本棚に並ぶと壮観だつた。その時まで私の本棚にあつた全集は、1冊ずつ買ひ求めた新潮社のカミユ全集だけだつただらう。
その3年の夏休みが終はると、唐突に、先生の「五十の賀」とかいふ触れ込みの宴会があつた。出席してみるとそれほどの人数でもなくて、いつもの飲み会とさうは変はらなかつた。卓から離れて、幾人かの同級生と私は話した。(夏休み何してたの?)と訊かれて、(アルバイトをしてゐた)と答へたのには、少し誇らしい気持ちが混じつてゐた。卒論を書く作家の全集を買ふために働いたのだ、と。
本格的に卒論の勉強を始めたのは4年になつてからだ。それまで3年間住んだK町の下宿を出て、やはり山手のMが丘のアパートに移り、夏休みに全集を読み耽つた。もともと読みやすい組版ではなく、古い本なので染みや傷みもある。中でも英文日記が難物だつた。有島は候文の手紙や係り結びのある擬古文の日記も書くことができたが、他方では幼い頃から英語の教育も受けた人である。渡米渡欧の際の船旅の様子が、本格的な英文で書かれた日記には、当時翻訳はついてゐなかつた。
Mが丘のアパートの一室で、昼からスタンドをつけて辞書首つ引きで唸つてゐると、窓の外から子どもたちがのぞく。その部屋は一階にあり、窓の外の狭い庭に子どもたちが勝手に入り込むことがあつた。女の子が(お勉強?)と言ひながら窓の下を通つて行く。欧州から帰る航海日誌のインド洋を過ぎたあたりで、「稲妻が光つてPhosphorescentな明滅が船の進路に見えた」といふやうな文章がある。Phosphorescent? 辞書を引いてそれが「燐光」の意味だと初めて知る。さういふことの繰り返しだつた。紙さへも黄ばんだその全集を読むのはつらかつたが、でも、これを読まないことには、ここから前へは進めないのだと、決意を固めて読み進めた。
それから立派な筑摩書房版の全集が、第4巻の『或る女』を皮切りに刊行され、卒論を完成した頃には数冊も出てゐた。それには英文日記の翻訳もついてゐた。それから修論。修論を書き上げた時には、これで何とかなる、と感じた。村上春樹が『風の歌を聴け』を書いた時に、これで後は小説家としてどうにかやつていけると思つた、とどこかでいつてゐたが、それほどではないにしても、とりあへずこれだけのことが書ければ、これからもどうにかなるだらうとは朧気にも確信があつた。
それ以来、30年になるのだが、そして間に10年くらゐは確かに遠ざかつてゐた時期もあるのだが、卒論と修論で学んで考へて書いた言葉の塊は、いつもいつも私の心の中のどこかにあつて、行き詰まると私は必ずそこへ戻り、解決に必要な言葉を取り出しては、何とかしのいで来た。SG市の電電公社の交換機の林と配線の束、その時一緒に働いた棟梁と仲間たち、見知らぬ港町を歩いた川開き祭の夜、古本屋とそこで買つた古ぼけた藍色の布張りと茶色の箱の全集。私の心の中にはまだまだあの頃仕入れた言葉の塊が詰まつてゐて、その言葉を使へばどんなところにだつて行ける。私には隅田川も浅草も牛込も赤坂も関係がない。現実よりも素敵な世界が夢の中にはあつて、その夢の通路をとほつて私はどこにでも行けるし、消えた(消えぬ)過去をもう一度体験することもできる。死んだ者や、もう二度と会へない人とも、会ふことができる。行かうと思へば、言葉を用ゐて、いつでも、そこへすぐに行ける。
「綺麗な花だなあ。」
と若い編輯者はその写真の下の机に飾られてある一束の花を見て、さう言つた。
「なんて花でせう。」
と彼にたづねられて、私はすらすらと答へた。
「Phosphorescence」
※引用(順に)
太宰治「東京八景」
太宰治「フォスフォレッスセンス」