2005/9/27


 
アメリカに漂着した音吉達は、インディアンの捕虜として暮らしていたが、
インディアンと毛皮の取引をしていたハドソン湾社の英国人に発見された。
ハドソン湾社の太平洋地域総責任者、ジョン・マクラフリンは、
彼らをハワイ(サンドイッチ諸島)経由で英国に連れて行った。
イギリスに着いた3人には、1日だけ上陸許可が下りて、
日本人と初と思われる、ロンドン市内見物をした。
ハドソン湾社側には、彼らを足がかりに
日本と国交を開きたい、という思惑があったが、
英国政府側には、その気がなく、
結局3人は、ハドソン湾本社のジェネラル・パーマー号で、
マカオ(ポルトガル領)へ送られる。

彼らはマカオにつくと、ドイツ出身の宣教師のカール・ギュツラフに預けられた。
このギュラツフは、熱心な宣教師で、語学にも興味が強かった為、
彼ら3人の協力を仰ぎ、聖書の和訳に取り組んだ。
「ヨハネ伝福音書」と「ヨハネの手紙」を訳し、初の和訳聖書として残っている。
この偉業は、日本キリスト教史上に記録を残した。
このギュツラフの元、音吉ら3人が、聖書を訳して行く様子は、
三浦綾子さん著「海嶺」にも、書かれているが、
当時の彼らの概念で、ゼウスの存在自体を、
一番相応しい言葉を探そうと、討論している下りがあって、
とても面白く、興味深い。

彼等がマカオに着いて2年後に、
九州出身で、南シナ海で35日間漂流後、フィリッピンのルソン島に漂着、
原住民に1ヶ月ほど捕らえられ、スペイン船に乗せられて来た、
庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松の4人と合流する。

その7人の存在を知った、アメリカ商人、C・W・キングは、
彼らの帰朝を足がかりに、日本政府と国交を持とうと考え、
7人の日本送還計画を、立ち上げる。
1837年7月(日本の暦で天保8年6月)、
彼らを乗せたアメリカ船、モリソン号が日本へ向かった。
翌年、7月30日(旧暦6月28日)モリソン号は、
江戸湾浦賀港に近づいた。それは漂流から5年ぶりの事だった。
しかし、その時代は、幕末の鎖国下「異国船打払令」が
出ていた一番厳しい時期だった。
非武装の貨物船モリソン号は白旗を掲げたが、砲撃を受けてしまう。
富士山を眺め、故郷を想う、音吉達の胸中は、幾ばかりであったか。。

砲撃を受けたモリソン号は引き返し、8月10日に鹿児島湾に入り、
九州出身の庄蔵らが一旦上陸し、出先役人からは、労いの言葉を受けたが、
船に戻ると、翌日また、砲撃を受けてしまう事になる。
江戸幕府からは、藩に対し、外国船が来れば砲撃するように
と、伝達が来ていたのである。こうして、2度に渡る砲撃を受け
断腸の思いのまま、音吉達は、再びマカオへ戻る。 
彼らはこの日を境に祖国を捨て、今や外国で自立しなければならなかった。
7人は、それぞれ、中国や香港で結婚し、新たな人生を歩んだのである。

音吉は、しばらくイギリスの船に乗り各国を回ったが、
後に上海のイギリスの貿易会社に勤務、同じ職場のイギリスの女性と結婚した。
そして新たな漂流日本人が来ると、自分が帰国できなかった悲しみを乗り越えて、
中国船で彼等が日本へ帰国出来るようにと、外国と折衝し、その中継基地の役割を、果たした。
音吉の尽力で、帰国した一人が、音吉が次のように語ったと記録している。

「我16才(数え年)にて漂流し、父母へ一つの孝養も得遂げざるのみか、
却って大いなる嘆きを掛けたれば、朝夕これのみを思いつづけ、心に忘るる隙なし。
この上せめて、国の漂流民を世話して帰国せしめ、
父母の冥利とも致さんと思う。」

音吉はその後2回通訳として日本(長崎)へ来ているが、
1回目は捕まることを恐れ、中国名・林阿多(リン・アトウ)を名乗り、
2回目の時には、既に妻子がいたので、帰国の意思はなくなっていたという。
音吉はイギリス人妻と死別した後、マレー人と結婚、シンガポールに引っ越した。
時代は移り変り、ペリー来港後の、1862年(文久2年)、
開国に向かって動き出した、日本の遣欧使節団が、
シンガポールに寄った時には、音吉が市内を案内し、
途中音吉の自宅へも寄らせ、手厚く持て成している。
(この使節団には、福沢諭吉らが居た) 
その記録によると、シンガポールで貿易事業を成功させており、
家は庭付きの邸宅で、男女の召使がおり、馬車も所有していたという。
1864年ジョン・マシュー・オトソンとして、イギリスへ帰化。
1867年、遂に故郷の地を踏むことなく、病気にてシンガポールにて没。
   享年50才であった。
音吉始め、彼ら鎖国中の漂流民の人生に於いては、
海の荒波の中は生き抜いても、歴史の荒波をくぐり抜けることはできなかった。
             ☆
音吉の故郷、美浜町には、日本福祉大学付属高校がある。
同校の和太鼓クラブ「楽鼓(らっこ)の会は、2003年から、
著者 三浦綾子さんのご遺族の了解を得て、
音吉の生涯を題材にした「海嶺」という曲作りの励んでいるそうだ。
海嶺」とは、いわば大洋底に聳(そび)える山脈。
人目にふれずとも、海の底で厳然と聳える山は、
人目にふれない庶民の生きざまに似ていると、三浦綾子さんは書いている。
太鼓演奏曲「海嶺」は、11月6日に初披露があるそうだが、
是非、拝聴すべく、足を運びたいと思っている。

◎参考書籍
三浦綾子 著 「海嶺」
春名徹 著 「にっぽん音吉漂流記」 

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