2005/9/27


25日、大盛況のまま幕を閉じた、愛知万博。
3月の万博開幕に先駆けて、2005年2月17日、中部国際空港が開港した。
開港、間が無い2月20日、
その新しい滑走路へ、シンガポールから、一機の飛行機が降り立った。
その飛行機には、173年ぶりに、正式帰国を遂げた人が乗せられていた。
その人の名は、知多郡美浜町出身の船乗り、音吉
正しくは、彼の遺灰である。

時は、日本が鎖国中の天保3年(1832)音吉らを乗せた、
千石船・宝順丸は、尾張藩からの貨物を名古屋港で積んで鳥羽港へ向かい、
またそこから江戸を目指した。しかし、鳥羽港出向後、遠州灘(難所)で
嵐にあい、舵を損傷し遭難、太平洋を14ヶ月漂流の後、アメリカ西海岸、
現在のワシントン州、フラッタリー岬に、流れ着いたのである。
漂流民としては、無事帰国を果たした
ジョン・万次郎の漂流時より、約9年前の事であった。


宝順丸の積荷は米と陶器で、また海水を真水にする「ランビキ」の技術もあった為、
餓死の心配は無用だったが、出航当時、14名居た乗組員は、
ビタミン不足により、次々と壊血病を発症。漂流途中、11名が死亡した。
生き残った3名は、28才の熟練した船乗り、岩吉。
炊(かしき)の見習い、15才の久吉。そして同じく14才の音吉であった。
フラッタリー岬に流れついた一行は、その地で、インディアンの奴隷となる。
一方、音吉の地元では、数ヶ月に渡り、各地の舟問屋に
宝順丸の行く先を、問い合わせていたが、結局船の消息はつかめず、
地元の良参寺という寺に、乗組員一同の墓を建てていた。
   以下、石碑脇に建てられている看板
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