2005/10/26

ちょうちんブルマのその後 番外編  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

私のことを、指差して「ちょうちんブルマ」からの脱皮を妨げた「こっちゃん」は、やはり名門中学の陸上部だっだだけあって、通信陸上のその後も、着々とタイムを上げ走るのも早くなっていた。そして何より170cm近い長身だった。私達の学年は、こっちゃんの他にも足の速い者が後2人居て、校内の学年対抗リレーでも、3年生に勝てる早さだった。私達は東海3県にあるカトリック5校の大会のリレーにも、新記録をかけて出場する事になった。私達の高校には、体育専門の先生がいなかった為、体育の先生(講師さん)は某体育大学から来られていて、そこの大学の陸上部へもバトンの練習を中心に、指導して貰いに行く事にもなった。

こっちゃんは、私達4人の中で1番早かったが、バトンの受け渡しがネックになっていて、当然のようにアンカーに指名された。私はスタート時に瞬発力はあっても雷管の音でひるむ癖がありスタートには適さず第3走者になった。それに、不器用なこっちゃんに、バトンを渡すのは、私の役目とされた。リレーの指導をしてくれた大学陸上部の人達は国体にまで出たグループだったので、バトンの受け渡し練習も、並の練習ではなかった。バトンサークルに入ったら、走者は「Go」と声をかけ、同時に次の走者はスタートする。そしてお互い走りながら後は、「はいっ」と声をかけ、振り向かずバトンを受け取る。私達は手に肉刺が出来、破れても、破れても、新記録の為と厳しい練習を重ねた。

試合当日は、秋晴れの良い天気だった。私達は万全をつくして望んだつもりだった。愛知県の某高校女子部で、その大会は開催された。他にもアーチェリー、テニス等、強い部活も参加していた。その中でも、リレーはやはり花形で、全試合の最後に開催された。私達のチームは最強だった。私は1位でバトンを受け取り、2位とは既に10メートル以上の差がついていた。私も更に引き離して行ったそうだ。ところが、200メートルトラックの第3コーナーを周ろうとした時、バトンのウェイティングサークルに、こっちゃんの姿が無い。私は一瞬、何が起こったか察知できなかった。するとこっちゃんは、走り終えた第1走者と共に、コースの中で、悠然と体操座りをしているではないか!「こっちゃーん」(実際は呼び捨て)私は彼女の名前を喚きながら走っていった。こっちゃんは「はっ」と気付いて立ち上がりバトンサークルに来たが、私から「はい、どうぞ」みたいな、バトンの手渡ししか出来なかった。のちに言う「宅急便受け渡しリレー」であった。こっちゃんは泣きながら爆走した。受け渡す時には3位のチームと同時になっていたが、こっちゃんは牛蒡抜きし、1位になった。しかし、新記録は藻屑と消えた。

応援していた同じ女子校の仲間は、私の喚きながらの走行、こっちゃんの泣きながらの爆走と、「はい、どうぞ」のバトン受け渡しが、余りにも対照的で面白かったと後で他人事のように言っていたが、本人達は、「あんなにバトンの練習したのに。。。」と悔しかった。それでも、こっちゃんの泣いている姿に、誰も怒る者はいなかった。指導してくれた大学生の人が、「ふぅー」とついた、ため息だけが、やたら大きく聞こえていた。因みに、こっちゃんは、体育前の着替えの時、ストッキングとパンツも一緒に脱いでしまう癖があった。それも、面倒だからと、先にスカートを脱いでしまっているから、大変だ。当時更衣室が無かったので、教室で着替えていたのだが、一度、体育の先生が伝言の為に入って来た瞬間に、脱いでしまった事があり、先生にお尻を披露してしまった強者である。しかし、あの時「ぎゃーっ」と言って逃げ出したのは、先生の方だった。そのこっちゃん、3年前優しそうな彼と結婚した。「宅急便を受け取る度に、あのリレーを思い出します。すまん」と年賀状に書かれていた。こっちゃんにとっては、今でもあのリレーの事がトラウマ?らしい。
0

2005/10/25

ちょうちんブルマのその後 part 1  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

先日の中学校の思い出の中の、ちょうちんブルマの話に対し、コメントを頂いたり、メールを頂いたりしたので、リクエスト?にお答えし(僅かな人ではあるが、楽しんで頂けたようで)今日は、ワールドシリーズも無いことだし、ちょうちんブルマのその後を書く事にした。と言っても大した落ちはないのだが。。。
私は幼少時から、どうも大事な所でずっこける傾向にあったようだ。自分では、このボケは、養殖されたボケのつもりではあったが、どうやら天然のボケらしい。近頃、新年のモットーは「エレガント」だが、毎年、元旦早々崩れ去っている。何でも、友達の分析によると、他の人が冷静な時に慌て、慌てている時に冷静らしく、根っからの、天邪鬼なのかもしれない。

そんな感じで幼少時から何かに追いかけられながら、走るのが速くなり、陸上部に在籍していたのだが、2年になる時、陸上部を辞める事になってしまう。それは先輩女子部員が卒業し、もう1人の同級生の女子もソフトボール部に転部する事になった為、職員会議で女子陸上部は無くなる事に決ったのだ。行き場をなくした私は…と書くと悲哀に満ちた感じなのだが、ショックだったのはM先生だけで、私はトラックに青春をかけるなどという意気込みもなく、男子の中で搾られるのは堪らないと思っていたので、何の抵抗もなく他の部に移る事にした。その代わり、M先生は、陸上の大会には出場させるという条件をつけた、そんな条件を呑んだ上で呼んでくれたのが、バスケット部であった。チビではあったが、すばしっこかったし、シュートのコントロールも悪くなく、何より大勢で、パスの練習したりするのも楽しかった。そうして、バスケット部に属しながら、陸上の練習もする…なんていう、陸上部だけだった時より、むしろ、ハードになったのだが、何とか楽しくやっていた。

ところが、バスケットのパスの練習をしていた時、校内に入り込んで来た、暴走族のバイクに撥ねられるというアクシデントに遇う。脳震盪を起こし、ダイレクトにぶつかった左足の腱を痛め、暫く陸上の練習は出来なくなってしまったのだ。しかし、快復後は、駅伝に出たり、相変わらずのお転婆ぶり?だった。市民運動会では景品を取り捲った。鍋やハンガー、石鹸等、家庭用品を持ちきれくて、鍋を被って帰宅した事もあった。そのようにして、家計を助けていた?にも関らず、祖母からは「何とかならないか」と言われ続けていた。習字の先生や、茶華道の師匠から、匙を投げられたのもこの頃だったからだろう。何せ家庭科の時間だろうと、美術の時間だろうと、さっさと済ませて外に出て遊ぶ事ばかり考えていたし、女の子らしさからは程遠かった。祖母は、まったくをもって諦めが悪く、親族が集まると「女の子らしくする方法」を相談していたらしいのだ。

そこで出た結論が、スペイン系のミッションスクール(女子高)へ進学させる事だった。父は女の子らしく…という目的は果たせそうもないとは思ったらしいが、情操教育たるものには、興味があり、悪くない、と賛成した。当時、父は教頭になって居り、教頭会とやらの役員をしていて、「教員をしていると、子供の育て方を迷い、間違いがち」という話題になる度、「全くその通りだ、うちなんか、出来損なった典型だ」と大声で言い放っていたくらいだった。このように、祖母の大いなる期待と、父母のかすかな期待を背負い、その女子高を受験する事になった。今でも、地元では、出身高校を聞かれて答えると100%の確率で「え゛っー?。あそこは、お嬢さん学校でしょ」と、今の私からは、まるで想像がつかないかのように、驚かれる。よって、高校名は、余り答えたくないのが本音である。
0

2005/10/25

ちょうちんブルマのその後 Part 2  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

その女子高の試験は、2月初旬に、筆記3科目論文2題、そして本人面接で行われた。私は半ば、「駄目なら、公立もあるさ」くらいの気持ちでいたし、実際に、出た論文の題名が「フロンティア精神」と、「いろはにほへと」だったから「はぁ?なんだこれ?」というレベルで、開拓者の精神を解き明かすなんてもっての他、西行法師がどんな気持ちで歌を詠んだのかも、なーにも考えず、とりあえず、高校生になったら…みたいな、題目から外れた事を書き、原稿用紙を埋めていた気がする。面接も、スペイン人のシスターが相手だったから、部屋に入った瞬間には、英語で聞かれると、びびったものの、「どうぞおかけ下さい」と流暢な日本語で言われ、気が緩んでリラックスし過ぎてしまった。どうせ論文で落ちると諦めていたし、反って元気溌剌だった。大人しく答えるようにと、言われて居た事すら、頭からすっかり飛んでいた。当り前だが、落ちていると思い込んでいた為、合格発表すら見に行かなかった。

しかしながら、両親の面接が功をなしたか、それとも何か間違ったのか、何と合格してしまった。その高校は、単願のみの80名定員だった為、他の私立/公立高校の試験日は出校日になっていた。とりあえず、講堂に集められ、オリエンテーリングを受けたり、大きな教室に入れられて、中学の復習問題のテストを受けたりした。その雰囲気は、私が今まで味わったことの無い、「都会的香り」がするものだった。そんな中、受かったからには、都会的雰囲気の女子高生になってみようとも、思い始めていた。何故なら、同じ中学からは1人も進学していなかったというより、厳密に言うと、私の中学からは初の入学者だったのだ。父は、いつまで持つかな…と思っていたらしいが、とにかく入学式に至るまでは、なるべく目立たず、大人しくしていた。面接で一緒だった朝ちゃんという子は、「良家のお嬢様」と思っていた、と後で言っていたから、私の演技力も大したものであったと思っている。

入学式の時、1人、遅刻してきて、大騒ぎで自分の場所を探していた同級生の子にも、整然と「ここではないですか?」なんて、教えちゃったり出来たものだから、私はすっかり落ち着き払った女子高生気分だった。そしてクラスの発表があり、私は1年2組になった。例の遅刻して来た子とは、違うクラスだった。少し安堵した。ああいう子と同じクラスだと、地が出てしまうのも時間の問題だと懸念していたからである。静粛な雰囲気の中、廊下を通って1年2組の教室に入った。担任の先生はまだ来ていなかった。自分の席に着こうとしたその時。。。「あっ、あの時の、ちょうちんブルマー」。。。私を指差す向こうには、通信陸上の時、予選で一緒だったらしい(私は覚えていなかったが)こっちゃんというやつが居た。どこまでも着いてくる「ちょうちんブルマ」の汚名?に、がっくりしたものの、これで地で行けるという安心感も生まれた気がする。このように始まった、私の高校生活。。結局は、入学式に遅刻した来た子とも仲良くなってしまい、朱に混じって赤くなるどころか、厳粛な規則にまで妙な規則が加わってしまう程の活躍?ぶりは、また、別の日記で……

0

2005/10/24

ホワイトソックス、さよなら勝ち!2連勝  Boston Red Sox・MLB

いやはや、凄い試合だった。勝負を決めたのは、ポドセドニックさよならホームラン。花火が上がり、球場の電光掲示板にはWhite Sox Winと、表示される。選手達は、まるで優勝したかのように喜んでいた。9回表でジェンクスが制球を乱した後、代打ビスカイーノのヒットで同点にされた時は、流れがアストロズに向いたかと思われた。それが一打で、覆されたのだ。振り返ればレッドソックスとのプレイオフでも、ポドセドニックはゴンザレスからスリーランを打っていた。

野球は、本当に最後まで判らない。だから観ている私達に感動をくれる。今日のシカゴは気温7℃、小雨も降っていた。体感温度はかなり低いだろう。USセルラー・フィールドの観客は防寒具を纏っていても、相当寒そうだった。その観客の寒さに追い討ちをかけるように、試合の流れもアストロズだった。しかし7回裏、満塁になったところで、眠っていた主砲が火を吹いた。コネリコの満塁ホームランで逆転したのである。その後、アストロズも同点に追いつく。その時点で私は、アストロズが勝ち、今日のヒーローはs同点に追いつくヒットを打った、ビスカイーノになるかと、思っていた。ビスカイーノの、ヒットを打った後の守備に着く時、帽子を被るのを忘れて、飛び出した姿も、とても他人事には思えず、共感をもった。しかし、、、
                 。。。ホワイトソックスは今日も強かった。。。

ワールドシリーズでの、地元で連勝スタートを切ったチームの優勝確率は、約85%だそうだ。過去の記録上では、地元での初戦と2戦目を連勝しながら優勝できなかったのは、1981年のニューヨーク・ヤンキースが最後。その後は、昨年のレッドソックスを含め、10回連続でシリーズ制覇を成し遂げている。 アストロズは地元ミニッツメイド・パークに帰省して、その確率を覆す事ができるだろうか?。。

因みに、ホワイトソックスの名前は、レッドソックスレッドストッキングスだった頃、その名前に対抗して、ホワイトストッキングスと呼ばれていた事が由来し、リーグ加盟時に短縮してホワイトソックスになったという。父の「赤組・白組説」も、当たらずとも遠からずで、まんざらではないよう?だ。。
0

2005/10/24

電磁波人命探査装置「シリウス」  日記(今日思うこと)

昨日で、新潟中越地震が起きてから、一年が経過した。間も無く2度目の冬を迎えようとしている今も、2800世帯、9100人の方々が仮設住宅暮らしのままだそうだ。豪雪地帯の山間地域で、住宅の再建、道路、農地の復旧は難航しているのである。51名の死者を出した破壊力、倒壊した家屋がTVに映し出される度に、悲しい憤りを感じていた。しかし、地震から4日後の10月27日、行方不明になっていた親子が4日ぶりに見つかった。土砂の中から、小さな命を見つけたのは電磁波人命探査装置「シリウス」だった。

私の弟は、昨年、役所の広報部にいた。休日にはボランティアとして新潟まで出向き、微力ながらも、何とかお役に立って来れたようだ。弟は消防団にも属しており、そのシリウスに興味を持ち、役所から国内販売店の東京・桜護謨(製造元はドイツ)まで、出向き、見学してきたそうだ。弟の記録して来た事や、他の情報をまとめてみた。  「シリウス」取り扱い会社「桜護謨」のホームページは以下の通り
              http://public.sakura-rubber.co.jp/fire/chapter04/4-10-01.htm

シリウスを国内で初に導入したのは、1996年、東京消防庁であった。以来1999年のトルコ西部地震台湾地震で、日本から派遣された救助隊員はシリウスを使い、救助活動に活躍した。このシステムは、人の心臓の鼓動や肺の拡大、縮小の動きを捉えることで生存者のみを発見できるのが特徴である。装置から電磁波を放射し、地中の人間の心臓や肺に当たって反射されると、これを受信してコンピュータ処理。心臓の鼓動の周波数と呼吸の周波数のピークを画面に表示する。そのピークを確認することで生存者を探知できるという。探査距離は最大約90メートルから、20メートルだそうである。

従来、生き埋めになった生存者の捜索には、地中音響探知機も使われて来ているが、木造家屋の中に、泥が入り込んだような被災現場では音が伝わり難くく、探査が難しいケースもある。その点、電磁波探査装置は生存者の心臓の鼓動を探知するので、生存者に意識がなくても探知可能。周囲の騒音にも影響されないのだ。因みに1台3000万円だそうである。1台如何?と言いたい所だが、個人向けには販売されていないようだ。そして現在シリウスは、日本全国、北は札幌市から南は福岡市まで、20台以上が消防局や特別救助隊などに配備されている。

話は、その開発した会社の開発過程・ポリシーが、大変興味深い。何と、世界唯一というこの装置を製造したのは、社員10人のドイツのベンチャー企業なのだ。日本で、小さな命を奇跡的に救った活躍は、世界中に報道され、問い合わせが殺到しているそうだが、当初は、失敗もあったそうだ。ベルリンでのガス爆発時には、12才の少年が、自宅のがれきの下に取り残されている情報を受け探索したが、初期のシリウスが鼓動をキャッチしたのは、少年の飼い犬。犬と子どもの呼吸の仕方が似ていて、判断がつかなかったのだ。残念ながら少年は後で遺体で見つかった。その後、改良を重ね、波形データも蓄積、人と動物も区別可能になり、欧州各国や韓国、米国、ブラジルなどでも導入されている。その名前もシリウス=>おおいぬ座=>探査犬からの由来とされる。

あくまでも、人命救助が、同社の開発ポリシーだが、軍事・治安や情報活動の分野でも、威力を発揮している。社長は「話せない事は多い」としながらも、「最大の顧客は北大西洋条約機構(NATO)」だと明かしている。ドイツの特殊部隊や情報機関、国境警備隊、米沿岸警備隊も名を連ねる。しかし「武器は作らない。あくまで人命救助が中心不動の開発ポリシーである。また、国境でトラックを検査し不法移民の有無を調べたり、誘拐された人質の捜索やテロ実行犯追跡などの、ハイテク機器も製造している。

社長は、各マスコミの取材人に向かい、「米軍が、買っていてくれれば、ビン・ラディンや、フセイン元大統領を、地下から、すぐに見つけられたのに」と笑って、語ったそうだ。

弟は、阪神淡路大震災の時も、当時学生だった為、まだ、交通網さえ遮断されていた地震直後、行ける所まで電車で行き、後は歩いて現地に辿り着いて、ボランティア活動をした。辿り着いた直後は、お手伝いに来たはずが、反対に、炊き出しをご馳走になったり、地元の方々に面倒を見て貰ったと言っていた。幼い頃、弱かった弟とは、思えない逞しさを、大人になってからは、時々感じる。しかし、何と言っても私の弟である。珍事件も多々あるのだが、それはまた、別の日記で・・・
1

2005/10/24

ジョシュ・グローバン国家斉唱  日記(今日思うこと)

ワールドシリーズの試合を遅刻して?TV観戦した私が、まず、驚き、自分の情報収集の足りなさに、嘆きを覚えたのは、今日の試合の国家斉唱がジョシュ・グローバンだった事であった。ジョシュ・グローバンは、知る人ぞ知る、クラッシック界の貴公子。そのテノールヴォイスは「神が授けた、癒しのスーパーボイス」と言われている。デビューアルバム、その名も「ジョシュ・グローバン」の中に収録された、シャルロットチャーチとのデュエット曲を、ソルトレイクシティ・冬季オリンピックの閉会式でパフォーマンスし、全米から注目された。更に、人気ドラマ「アリー・マイ・ラブ」に「歌の上手い青年」として出演し、その甘いマスクで、若い女性からも人気を集めたのである。

2002年ノーベル平和賞授与式にも呼ばれて熱唱し、2003年11月に発売されたアルバム「クローサー」は、ラップやヘビーロック全盛の中、クリッシック界から初めての全米ヒットチャートNo1を記録した。(日本では翌年2月発売)第38回スーパーボウルで、80人の地元の高校生によるクワイアをバックに「ユー・レイズ・ミー・アップ」を熱唱した他、映画『トロイ』のエンドロールに「リメンバー」が流されていた。いつもなら、観られる事の無いエンドロールも、ジョシュの声聴きたさに映画館から出られなくなった人も多かったと言う。アニメーション映画『ポーラ・エキスプレス』の主題歌「ビリーブ」は、グラミー賞にもノミネートされた。しかも、セカンドアルバム「クローサー」は、発売後2年経った現在でも、全米チャート30位から下がることがなく、売れ続けているのである。
クリックすると元のサイズで表示します←ファーストアルバム   クリックすると元のサイズで表示します←セカンドアルバム「クローサー」
私は、ジョシュの声を初めてTVで聴いた時、3大テノールと呼ばれているカレーラス、ドミンゴ、パヴァロッティの声に、負けじとも劣らぬ声に圧倒された。24才(現在)とは思えない程の大人の声。こんな若い人が歌っているとは、まったくをもって、信じがたかった。以来その声のファンになり、CDを買い、聴いて来た。日本では、余り知る人も無く、一部友人との間で盛り上がっていたのだが、今年8月には、ボストン近郊の、タングルウッドコンサート会場で、ジョシュの生の声を聴く事も出来た。会場では、クラッシック界では考えられかった、ペンライトが揺れ、黄色い歓声がこだましていた。そのジョシュが、アメリカ国歌を歌った…深夜録画再放送があると安心し、リアルタイムで聞き逃した自分に、後悔し、落ち込んでしまったのである。

NHKさんへ、今日の再放送では、国歌斉唱部分は、カットしないで放映して下さい。。(多分、無理?)

因みに、しっかり聴いたはずの父に、「凄い綺麗な声だったでしょう、どうだった?」と興奮して尋ねたら「英語だったぞ」と答えた。益々私は、萎えてしまった。

追伸
深夜、1時10分からの再放送を観た。ジョシュの歌が堪能できた。アメリカ国歌も違う曲に聞こえ、受信料、払っていて良かったと思った。とりあえず、目出度し、目出度し…で、今から安眠する私である。
0

2005/10/23

ボストン ホワイトソックス?  Boston Red Sox・MLB

忙しい1日だった。今日は大安吉日、早朝から仕事も忙しい上に、野球も気になる。深夜に再放送すると言えども、実況も気になる。でも仕事が第一。私の心は揺れていた。朝から結婚式に列席なさる方の着付を終り、手が空いたので3Fの自分の部屋へ確認に来れたのは、9時30分を回っていた。父は「ワールドカップやで、誰がやっとるか知らんが、見なきゃいかんな」と、能天気にTVの前に座っていた。ワールドシリーズと訂正するのも面倒だったので、無死して急いでTV画面に目をやった。すると既にホワイトソックスには1点が入っているではないか。。クレメンス、大丈夫かなぁ、と心配した。今日のシカゴは摂氏7℃。熟年?ピッチャーには堪えるのではないか?と、懸念した。すると2回表にアストロズも、ホームランで1点を返した。更に2回裏、クレメンスがホワイトソックスの起動野球で2点を失った。何かおかしい気がしていた。

3回表になってアストロズも2点を追加し、クレメンスを助けるように思えた。ところが3回裏にクレメンスはマウンドを降りてしまった。9月に痛めた左腿に不具合が出たようだ。一塁のベースカバーに入れなくなると、ますますホワイトソックスの機動力に翻弄されてしまう。クレメンスは自ら申し出たようだった。代わったロドリゲスも1点は取られたものの好投。試合はホワイトソックスが1点リードのまま、8回まで進んだ。コントレラスが、ノーアウト、2塁にされたところ、ギーエン監督はプルペンピッチャーを登板させる。そう、この光景は久しぶりに見る。ホワイトソックスはここ4試合、先発投手が完投していた為、救援陣は久々の登板となったのである。代わったばかりの若い救援ピッチャー、コッツは初のワールドシリーズ登板で緊張したのかヒットを許したが、ノーアウト1、3塁から、本来の迫力ある投球をして、2者連続三振として、2アウトまでとった。ギーエン監督は、そこでルーキーのクローザー、ジェンクスをマウンドに上げた。160キロを超える速球にアストロズの打者のバットは、空を切り続けた。第一戦は、ホワイトソックスが5対3で制した。
   クリックすると元のサイズで表示します   ガッツポーズのジェンクス
しかし、試合を観れば観る程、レッドソックスが勝てなかった事を納得してしまう。残念だが、敵ながらあっぱれ!! であった。ギーエン監督が目指した、スモールベースボールとはその機動力と、固い守備。今日駄目押しのホームランを打ったクリーディ三塁手。彼の2度に渡る好守備は、2本のホームランに匹敵すると、NHKの解説者(小早川毅彦氏)も言っていた。ホワイトソックスの強さを見せ付けられた第一戦であった。

因みに、父は途中から用事を思い出し、TVの前からいなくなったが、ホワイトソックスの事をボストン所属のチームで、ボストンには紅白両チームが揃っていると思い込んでいる。「今日は、白が出とるなぁ」と何気に言っていた。運動会じゃないんだからと、思いつつ、正しく説明をするべきだったか、悩んでしまった。

0

2005/10/23

レッドソックスのOB ?ロジャー・ クレメンス  Boston Red Sox・MLB

いよいよ、ワールドシリーズの開幕だ。1年前の思い出は尽きないが、また新しいドラマが生まれるのを楽しみに、TV観戦しようと思う。ホワイトソックスVSアストロズ、両チーム共に、先発投手が充実している事は周知の通りだが、今日の先発予定のクレメンスと、コントレラス。両ピッチャーとも、近年、ヤンキースに席を置いていたピッチャー同士であるが、クレメンスはご周知のとおり、レットソックスから、メジャーデビューし12年間、在籍している。その後ブルージェイズ、ヤンキースへと移り、引退をほのめかしながらも、地元に戻り、アストロズと契約、現役を続けてきた。ヤンキースへ移籍した当時は、ボストンファンから激しい怒りをかった事実があるのも、それだけ偉大な大投手だったからであろう。

彼が引退を、ほのめかした理由は、母親への想いがあったからだと言われている。10年前から病を患っていた母親に、殿堂入りを見せたかった。殿堂入りは引退後5年経過しないと実現できない。彼は母の病状を気遣いながら、引退の時期を悩んでいたようであった。しかし、その引退を止めさせたのも母の言葉だったという。『お前が登板する日は必ず観に行くから』クレメンスは、再び、現役続行を決意した。そして昨年度は自身7度目の「サイヤング賞」を受賞、今年4月の授与式には、車椅子に乗った母の姿もあった。43才を迎えた今シーズンも、先発投手として32試合登板し、13勝2敗。サイヤング賞こそ逃したが、怪我に泣かされながらも、防御率を1点台に保った事は見事としか言いようが無い。

そして、9月14日の午前4時30分、最愛の母が他界した。その日、皮肉にも、クレメンスは先発登板の日だった。臨終を見届けた後、夜も明けないうちに自宅からヒューストンに舞い戻り、夜明けを待ってエージェントに先発決行を告げた。そして、マウンドに立ったのである。しかし、通算669回目のマウンドは、過去に例の無い状態になった。ルーキーのように地に足がつかず、初回、四球を与え、ヒットを浴び、内野ゴロで生還させてしまった。クレメンスはこの日、何と、僅か10球で1点を献上してしまったのだ。だがこの1点を与えた事により、我に返れたという。チームメイトの声援も聞こえるようになり、冷静さを取り戻した。チームは3対1と逆転し、結局7回ワンナウトを投げ、観客3万人強のスタンディングオベーションに見守られながら、マウンドを降りた。亡き母に捧げる勝利だった。

話は変って、クレメンスが、あくまでも三振にこだわり続け、自分の4人子供の名前は全て頭文字が、Kから始まっている話は有名だ。そして、今年、長男のコビーが、ドラフト8巡目で、アストロズから指名を受けた。息子コビーがメジャー昇格するまで現役を続け、是非、同じユニフォームを着て、史上初、親子で、プレイして欲しいと願う。更に、クレメンスが尊敬しているという、44才で自身7度目のノーヒットノーランを達成したノーラン・ライアン。彼の引退年齢46才を、超えて欲しいものだと願っているのである。。今日の、クレメンスのピッチングぶりも、非常に楽しみにしている。
クリックすると元のサイズで表示します 43才にして防御率トップの迫力ある投球
0

2005/10/22

とみちゃん 現在進行形  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

とみちゃんとの中学時代の思い出については、過去のブログで2件書いた。本当は、まだまだ、数え切れないくらい、笑える?話があるのだが、私自身の品位にも(今更遅いが)関る可能性があるので、ネタが尽きるまで?、控えておく事にする。今日は、生放送とまでは、行かないが、近い時間に起きた、とみちゃんとの出来事を書こうと思う。

さて、今夜の私は久しぶりに仕事がオフで、友達と車で20分くらい離れたパスタ屋さんに行った。とても美味しい(と私は思う)パスタ屋さんで、友達も私もご満悦だった。外に出たら息が白い。天気予報が言っていた通り、12月上旬並の気温になっていたのである。しかし空は雲ひとつ無くて、そのパスタ屋さんが街並みから外れた場所にある為、周囲の灯りが少なく、星が満天に見えた。私と友達は、「週末に 女2人で 星を見る」「俳句にしては季語が無いね」等と言いながら、例の地球と近づいて大きくなっている火星を見上げていた。月も煌々と輝いて綺麗だった。

そこへタイミングよく、とみちゃんから携帯メールが入った。そのメールには

「ほたるが、言っていた火星を、家族揃って今見てます。近所に住んでる親戚の人も来ました。火星について聞いた事を皆に話したら、子供に『お母さん頭いいー』と、誉められました(^_^)v。親族の中で鼻高高でした。サンキュ。火星南の空で、とっても綺麗に光ってますよ。ほたるも見てチョーダイ!」

と書かれていた。読んだ私は『ん???』と、思った。南の空?火星はこの時間、東に見えている。。。まさか、150キロ北でも、南には見えないだろう…もしかして…それは…金星?私は一緒にいる友達に承諾を得て、電話をかけた。とみちゃんは相変わらずの大声で「メールでいいのに、私の声が聞きたかったん?」と言った。「あのさ、言い難いけど火星は東にあるよ。南に光っているのは、金星だと思うけど…」何故か、私は遠慮気味に言った。すると、携帯電話を持ったまま、外に出た、とみちゃんは、「あれ?あ、あるある、あるわ。東に」「ま、いいわ、子供にだけ話しとく、あとの大人は、火でも金でも、わからん、わからん。あはははっー」と笑い飛ばされてしまった。私も「変っていない」と、よく言われるけれど、とみちゃんは、もっと変わっていなかった。。傍に居た友達は、「お腹が苦しい」と、うずくまって笑っていた。とみちゃんの親族の知り合いに、星に詳しい人が居ない事を、ただひたすら、祈りたい。
0

2005/10/22

20才の彼女の晴れの日  着物の着付関係(和服)

今日も、朝から晴天で、さわやかな涼しい日となった。また、今日は、天気とは関係ないが、ブログを書き始めて1ヶ月記念日?である。仕事の合間に書き綴って来たのだが、よく毎日続けられたものだ。と感心?している。私は、一応自営で、お客様相手の仕事をしている。その日その日に出会う、お客様の笑顔を見せて頂く事が毎日の楽しみである。お客様にとっての特別の日のお支度を、させて頂く事も多く(これを書くと職業が判ってしまうが)そういう日は、特に光栄に思って、心を込めて仕事をさせて頂いている。
クリックすると元のサイズで表示します
今日は、暦の上で言うと仏滅、結婚式等のお目出度い行事は、なさらない方が殆どである。しかし今日、20才のお嬢様の振袖姿をお支度させて頂いた。2日前の事だ。1人のお嬢様が、私を訪ねて来てくれた。「今年20才で来年成人式だけど…」とお聞きした時には、成人の日のご予約かと思ったが、彼女の話は違っていた。現在、彼女のお父さんが肺癌のステージ4で、肺炎を併発、前日にお医者様に呼ばれ「覚悟をして置きなさい」と言われたのだと話してくれた。私は彼女の話を固唾を飲んで聞き入った。「成人の日までは、待っていられないので、どうしてもお父さんに見せたいから、此方の都合の良い日に、振袖もレンタルし、着付をして欲しい」という相談だった。更に彼女は昨年12月、お母さんを『ミトコンドリア脳筋症』という原因不明の病で亡くしていた。昨年は、御両親共に入院されていて、彼女が一家の生計を担っていたそうだ。何という運命なんだろう。神様がいるとしたら残酷だ、と私は思った。しかし彼女は、とても明るく、笑顔が素敵で、前向だった。
クリックすると元のサイズで表示します
私は、彼女の話をお聞きしている内に、彼女のその綺麗な瞳に、引き込まれるようだった。思わず「私の持っている振袖で良かったら、着て頂けないですか?」と言っていた。箪笥から出してお見せした所、その中の一枚を気に入って頂いた。自分の振袖姿を、病床のお父さんに見せたい…そう思われた時に、このお店を選んで下さったのだ。感謝して、着付させて頂かなければと、光栄に思った。昨夜、帯や小物も、組み合わせを、私自らが楽しんで、コーディネイトした置いた。彼女の今の輝きを、もっと輝かせるよう、着付させて貰うように心がけた。今日、彼女は、初めての振袖姿になった。とても可愛く、(お着せした私が言うのも変だが)よく似合っていた。他のお客様も誉めて下さっていた。彼女は少し恥ずかしそうだった。迎に来たスーツ姿の彼氏は、目を見張っていた。そして呟いた。「もう飲み物しか駄目だから、りんごジュースを持って、挨拶に行くんだ」と。彼女のお父さんと会うのは、初めてなのだそうだ。2人の姿が眩しかった。2人は「ありがとうございました」と何度も何度も、頭を下げ、お店を出て、そしてお父さんの入院されている病院へ向かって行った。私は見送りながら、一生懸命、生きている彼女の、お役に立てた…それだけで、お金では買えないものを、私の方が、頂いた気がした。振袖も、箪笥の中で眠っているより、こんな素敵な親孝行のお役に立てて幸せだろう、と、涙が止まらなかった。
クリックすると元のサイズで表示します
私の友達にも20代にして、同じ一年間に、両親を癌で亡くした子が居る。思い出が多すぎて辛いからと、自宅には住まず、近い所にマンションを買って生活している。今年で13回忌を向かえ、ようやく母親の和服を着たい、という気持になったと話してくれた。そして、「虫干しも兼ねて母親の和服を出すので、寸法とか見て欲しい」と言っている。この秋、休みを合わせて、和服姿で一緒に出かけられたら…とも2人で考えている。私の手元にも、祖母や伯母達の形見の和服がある。このように和服は、何代も受け継いで着る事が出来るのだ。しかし、最近では、箪笥から出して小物を合わせたり、後で沁み抜きをしたり、「手入れが面倒だ」と言う人も多い。でも私は考える。箪笥から出し、小物を合わせ、そして着た後は手入れをして、また箪笥に返す。この流れこそが「心のゆとり」であり、日本人が大切にして来た「雅の文化」なのだと。。。
クリックすると元のサイズで表示します
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ