2005/10/21

ブラックソックス事件  Boston Red Sox・MLB

22日からワールドシリーズが始まる。今のところ、野球観戦は暫し休憩である。ホワイトソックス、アストロズの選手も、ここ数日だが、休養できるだろう。双方チーム共に先発投手は充実している。今からどんなドラマが隠されているか?非常に楽しみである。審判団も、プレイオフの失態を糧にして、観ていて気持ちの良い判断をして欲しいと願っている。今からワールドシリーズに向けて応援しようとされているホワイトソックスのファンの方(井口もいるので)には失礼だが、野球史に残る八百長事件。ブラックソックス事件について書いておこうと思う。

1919年というから、今より86年前だから、レッドソックスが前回ワールドシリーズを制した時の翌年ということになる。史上最強、優勢を予想されたいたホワイトソックスが、シンシナティ・レッズに3勝5敗と敗退した(この年だけ9試合制だった)ワールドシリーズ前から、噂されていた賭博がらみの八百長疑惑が真実味を帯び、調査の結果、八百長に加担したとされるジョー・ジャクソンら8名は、球界から永久追放された。裁判所を出てきたジャクソンに、少年ファンが泣きながら「(八百長は)嘘だと言って!ジョー」叫んだという逸話はあまりにも有名である。

この八百長の舞台裏には、当時、ホワイトソックスのオーナー、チャールズ・コミスキーが、考えられない程のけちであり、選手たちは、他のどのチームの選手より低賃金でプレイさせられていた事実があった。遂にはクリーニング代も、惜しんだ為、彼らのユニフォームは、トレードマークのはずの白ソックスまで常に黒ずんでいた。そのために、選手達は、この事件以前から「ブラックソックス」というあだ名で呼ばれていたのであった。

これらの待遇に耐えかねていた選手達の内、まず賭博師の誘いに乗ったのは正2塁手のチック・ガンディルだったと言われている。彼から直に誘われた者、自ら話を聞きつけて仲間に加わった者、計7選手が、問題のシリーズで八百長を働いたとされている。他に八百長の全貌を知りながら、それを球団に報告しなかったとして処罰された3塁手のバック・ウィーバーを加えた8人が、所謂「悲運の8人」(アンラッキー・エイト)と呼ばれた。メジャーリーグでは、この事件をきっかけにコミッショナー制度が導入された。

私は詳しい事は知らないが、野球にしろ、アメフトにしろ、賭博の対象になっている事実は、今も変らないようだ。野球などのスポーツを、そういう楽しみ方でしか、観る事ができない人達がいるのは、選手にとっては甚だ迷惑な話である。当時のホワイトソックスの選手達が、洗濯もして貰えず、トレードマークの白い靴下が黒ずんでいた話も気の毒であった。私がフェンウェイ球場で初めて観た試合は、レッドソックスVSホワイトソックス戦で、両者のハイソックスの色のコントラストが印象的だったと、記憶している。

さて、レッドソックスで、その名の如く、靴下を赤く染め、本物の赤い靴下にしたのが、昨年のシリングであった。その滲み出る赤い血には、涙が出そうな感動すら覚えた。しかし、私の知る限り、彼の手術後の予後は芳しくなかった。原因の1つには、オフの過し方に問題があったように感じる。私も怪我をして手術をした事があるが、術後、いかに安静にするかで快復の期間が決まると言われていた。オフを好きに過すのは自由だが、術後すぐ、松葉杖をついてまで、誰かさんの選挙演説の応援に行ったり、動きすぎだと思った。スポーツのプロなんだから体と言う道具大切にして欲しかった。今シーズン終了間際、復活したようにも見えたのだが、レギュラーシーズンを、棒に振ってしまった責任は重いと思う。10M$の高額な契約金は、昨年の功績には充分な金額だと思う…せめて来シーズンは例え(有りえないと思うが)半額以下の年棒であっても、チームに貢献し、一から出直すつもりでプレイをして、妙な疑惑も、吹き飛ばして欲しいものである。
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2005/10/21

中学の思い出(陸上) その1  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

空が高い。今日の愛知県は、雲こそあるが晴天で、空気も澄んでいる。正に秋たけなわである。10月も半ばを過ぎると、運動会も終わった学校が多いが、明日から岡山県で、国民体育大会、所謂、国体の秋季大会が、開催される。22日から27日まで一週間の開催となる。プロ野球の日本シリーズ・私の中ではワールドシリーズが脚光を浴びる中、地味ではあるが、公式種目37競技、公開競技3種目が実地される。国体には必ず愛称がつくものだが(S21年の第一回京都大会は、あすなろ国体と呼ばれた)今回の大会は、岡山県の気候をイメージして『晴れの国おかやま国体』というのだそうだ。

国体といえば、私が中学に入学した年、新しく赴任して来た先生がいらしゃった。そのM先生は陸上ハードルで国体で優勝なさった経験があった。その後、怪我をされ引退を余儀なくされたそうだが、体育教師の免許をとられ、指導の道を選ばれた。そして、当時弱体であった我が中学の陸上部の顧問の先生となられたのである。私は、小学校の頃から、秋の運動会シーズンになると、胸が躍る程、足だけは早かった。リレー以外、前に人が走っていた記憶が無い程だ。その要因には、遺伝的要素と、後天的要素の2つがあった。

1、両親共に、走るのが速く、陸上部であった。<遺伝的>
2、悪戯ばかりして、いつも追い駆けられ、逃げ足が速くなった。<後天的>

私は当然のように、陸上部に入部した。M先生は悲しいかな、クラスの担任でもあった。更に悲しかったのは、陸上部入部希望者の女子は2名。そしてもっと、悲しかったのは、もう1人の彼女は、走り幅跳び希望で、トラック希望者は私1人、先輩も、走り高跳びの選手で、トラック競技を練習する女子は、私だけだった。当時身長も小さかった私は、M先生が、最も教えたかったハードル競技には、不適格とされたが、100メートル・200メートルの短距離選手として、男子達と同じメニューをこなす事になった。これは、今振り返っても、かなり、きついものだった。

更に、運が良いのか、悪いのか、その年、どっかの教育委員会のオバサンが、男子には、体操ズボン、女子にはブルマを寄付してくれた。教室の後の箱に入ったブルマ達、休み時間に、その中から自分でサイズを選ぶセルフ方式だった。私は何も考えず男子達に混じって遊び呆けていた。教室に戻ると残っていたブルマは布製で「L」しかなく、当り前だが、私には、大きかったので母に詰めてもらって履く事になった。それが問題だった。ウエストと腿周りのサイズを詰めて履くと、まるで「ほおずき」のように膨らむ。これには参った。しかし履かなければならなかった。別のブルマを買って貰えるはずも無い。私はブルマをウエストの所で折り曲げ、その上から体操シャツを被せて、隠すように履いていた。まあ、それで何とか、校内では、目立たずに済んでいたのだ。                       ……その2へと続く。
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2005/10/21

中学の思い出(陸上) その2  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

男子と一緒に、ハードな練習メニューをこなしていた私の足は、みるみる早くなり、当時の学校内で1番の俊足になった。3年生の部長も、追い付かない程の逃げ足の速さだった。各地区大会を1位で通過し、その夏開催の通信陸上県大会の、標準記録も突破していた為、エントリー出来る事となった。父は喜んでスパイクを買ってくれた。M先生が新調してくれた赤いランニングには、私の学校の番号108番とゼッケンもつけられた。通信陸上では、現在はどうか知らないが、学年関係無しで走るのであった。練習を重ね、遂にその日が来た。晴天に恵まれた県営グランド、今までの大会とは空気が違っていた。普段、あまり緊張しない私だったが、流石に上がりそうだったので、友達がおまじないにと、教えてくれた手に「人」と3回書いて、飲み込んだ。

ピンと張詰めた緊張感が、気持ちいいとも思われた中、第一次予選のスタートに立った。周りは身長が高い人ばかり。でも前に向いて走ればいいのだ。そう自分に言い聞かせた途端、スターターの人がスパイクの紐が解けていないかとか、チェックし始めた。そして運命の?声が…「108番、ランニングを(ブルマの)中に入れなさい」「なぬ?、そんなのルールにあったのか?」当時の私には聞き返せる余裕は無く、言われた通り、さっさとランニングをブルマの中に入れた。きっとブルマは、南瓜のように膨らんでいたと想像できる。格好悪いそのものだったが、何と1位で第一次予選は通過してしまった。二次予選、しつこい事に、また同じスターターだった。また、ランニングを入れるように、指示された。全く、余計なお世話である。更に拡声器を通して言ってくれるから会場中の注目を浴びてしまった。私は、恥ずかしく、もう走りたくない気分だった。でもM先生や部員の人達は、大きな声で声援を送ってくれている。思い直して精一杯走る事にした。

私は、遂に準決勝まで進出した。トラックに立つ度に恥ずかしかったが、観戦している人達も「ちょうちんブルマ頑張れーー」と声援してくれるようになった。160cmを超える選手の中、150cmそこそこの1年生が、ちょうちんブルマ姿の短い足?で懸命に走っているのである。今の私だって応援すると思う。そして私は決勝まで辿り着いた。そのファイナリスト6人の中で、1年生は唯1人であった。声援は更に大きくなっていた。しかし結局ブービー賞。ビリから2番目だったのだ。ここで終了して、静かにして置いてくれれば良かった。ところが、ブービーでも一応5位入賞。最後に表彰されるという事であった。ここからが、私のさらなる悲劇(喜劇?)の始まりだった。

M先生は、「1年生で入賞は大したものだ。胸張って受け取って来い」と言ってくれた。そして付け加えた。「いいか、壇上では3歩進んで、賞状を受け取り、礼をしたら2歩下がって、帰って来い」と…。私はやっぱり膨らんだブルマを恥ずかしく思い、ランニングをブルマから出して隠し、表彰式に臨んだ。いつ注意されるか、はらはらしながらだった。そして……何と、私は、緊張し過ぎ、間違えて、2歩前に出て、3歩下がってしまった、ゆえに、表彰台から落ちてしまったのである。しかも、何故か、そのまま立っていた。一番驚いたのは、賞状を渡した県陸連のお偉い人だったろう。突然目の前から消えたのだから。。また私は笑いの渦に包まれた。でも、もう開き直るしかない、回れ右をして、手を振ってしまった。100メートル13秒2(別の大会での記録)。この中学1年生での校内記録は、10年間破られなかったそうだが、このブルマ事件は、今も語り継がれているらしい(近年、仕事で中学校を訪れた弟が、聞きつけてきた)その通信陸上の日、一部始終を観ていた、父は言った。
      「将来、人を笑わす人になっても、笑われる人には、なるなよ

しかし、残念ながら、その素材は廃る事無く、健在のようだ。以後、落ちる事は得意?だし、よく笑われる。まあ、いいか…と、この際、思い切り開き直るしかない。今も、運動会シーズンになると、思い出す私の暗い過去?であった。それから、高校に進んだ私には、学校指定のピチッとしたブルマが、与えられた。だが、私は「ピチブルマが、無くなってしまう夢」を見続けた。どうやら、人並みに、トラウマだったらしい。そして、この「ちょうちんブルマ事件」は、高校時代の私の生活へも、多大なる?影響を及ぼす事になるのである。                               その話は、また別の日の日記で……

因みに、国体は、戦後の混乱期の中で、国民に明日への希望と勇気を与える為、昭和21年に京都府を中心とする京阪神地区でその第一歩を踏み出した。以来各県持ち回りにより開催され、スポーツの普及とスポーツ精神の高揚、国民の健康増進と体力の向上を図るとともに、地域スポーツの振興と地方文化の発展に、大きく寄与してきたのである。(岡山国民体育大会、公式サイト参考)
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2005/10/20

審判に???と、マイク・ティムリン  Boston Red Sox・MLB

今年のプレイオフでは、審判の判定ミスが多かった気がする。微妙な判定が勝敗に大きく左右しただけに、とても残念である。今日のカーディナルスVSアストロズ戦でも、5回ワンナウト、内野ゴロで一塁から二塁を走塁したモリーナに対して、二塁塁審は、一旦セーフのアクションをとったものの、即アウトに訂正した。呆然とするモリーナ。抗議するラルーサ監督。結局アウトのままだった。恐らくタッチのポーズを重視したのだろうが、VTRで見ると、明らかにタッチされて居らず完全なセーフであった。つい、タッチするポーズが得意のジターを思い出してしまった。審判も人間、死角があるはずだ。きりが無いかもしれないが、大相撲や競馬のように審議とし、様々な角度からVTRで確認して欲しいくらいの試合が多かった。

結局、アストロズが5対1で勝利し、球団創設以来初めてのワールドシリーズへのチケットを手にした。レギュラーシーズンで11ゲーム差をつけていた首位のカーディナルスは敗れ去った。短期決戦ゆえの結果である。ヤンキースから高額な契約金で入団したクレメンスも、ペティットもとりあえず、肩の荷が降りた事だろう。それにしてもクレメンス、最後まで防御率1点台をキープした迫力ある投球は43才とは思えない。引退をほのめかした時期もあったが、まだまだ衰えは感じられない。アストロズにはもう1本の先発の柱である20勝投手、生え抜きのオズワルドも居る。守護神としてはブラッド・リッジがいて、70回2/3を投げて103奪三振、42セーブ。何と、救援失敗は4度しかないのだ。やはり;野球は、投手・守備が大切だと痛感したプレイオフであった。

さて、早くもストーブリーグに向けて、様々なニュースが飛び交い始めた。個人的に嬉しかったのは、Boston Herald誌で報道された、マイク・ティムリンが、レッドソックスのFA契約の第1号になるだろう、というニュースだ。心あられる方がボストンからメールにてお知らせ下さったのだが、2006年は1年契約の3M$近くで、2007年のオプション付きで、契約するのでは、と予測されているそうだ。ティムリンはブルージェイズ時代に、プルペンピッチャーに変更後、マリナーズ、オリオールズ、カーディナルスとクローザーとして活躍したものの、徐々に契約金が沸騰しそしてフィリーズに身を投じていた契約2年目、37才となった彼に高額な契約金5M$を支払うチームは無くなってしまった。そこに目をつけたのがも当時レッドソックスに就任したばかりの、エプスタインGMだった。1.85M$という安い価格でレッドソックスが買い取ったのである。
クリックすると元のサイズで表示しますマウンドに集まる選手達ゼッケン50番が際立っている

一昨年はワンポイント、セットアップとして活躍。私はその年、フェンウェイ球場で初めて彼の冷静で職人的なピッチングを見て以来、大ファンになった。それからは、球場へ行く度に、「50番のTシャツはないか」としつこい位に、聞きまくって来た。当時、ボストンでタクシーに乗った時に、ラジオで野球中継が流れていた。運転手さんに野球は好きか?と尋ねられ「Yes, I love Timlin」と答えたら、「本物のファン」だと握手まで求められ、ティムリンの名前を出すのは「マニアだ」とも言われた。昨年は右投げのセットアップとしてワールドシリーズ優勝に貢献。そして今年はセットアップからクローザーへと、81登板、14セーブ、防御率2.24という記録を残す。しかし、数字での貢献だけでなくプルベンピッチャーの要として活躍した。フェンウェイ球場でも、ティムリンの名前のコールがあると、大歓声が上がるようになったのだ。大歓声に迎えられ、赤いジャンバーを持って走ってくる姿は、鳥肌物であった。一旦、もう限界かと思われた37才の投手が、復活し活躍するのには、並大抵の努力ではなかっただろう。苦労人だけにチームメイトからの信頼もあつい。そして「50番のTシャツ」は今シーズンの終り頃から発売されたのだが、あっという間に完売してしまっていた。来季こそ、40才を向かえるティムリンの「50番のTシャツ」を身につけて応援したいと思っている。
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2005/10/20

怒ってます!!(えひめ丸衝突事件について)  日記(今日思うこと)

メジャーリーグ、カーディナルスVSアストロズの試合放映の途中、BS NHKニュースを観た。すると、4年前のえひめ丸衝突事故に対して、米国家運輸安全委員会(NTSB)が事故調査報告書を発表したと放送された。当時、森首相が賭け?ゴルフをしていて対応が遅れた事が問題にもなった事件である。この事件は、平成14年2月10日、ハワイ沖で起きた愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」へ、米原子力潜水艦「グリーンビル」が衝突し、未来を海に託した若い高校生達4名を含む、乗組員9人が行方不明になった。当時も全ての対応に対し、解せない事故だった。米国家運輸安全委員会は(今更だが)「艦長が安全確認をしていれば避けられた事故」と公式発表したそうだ。私は「はぁ?」と思った。安全確認していれば、ってそんな「たら、れば」当り前の事だろう。更に報告書には「体験航海で搭乗していた民間人の管理が、不適切で航行作業を妨げた」とも書かれているそうだ。乗せている民間人の為のデモンストレーションで急浮上し、何とその操作には民間人も加わらせていたとも言うのだ。何と言う愚かな失態。遊び半分で急浮上し、尊い命を奪ってしまったのだ。治外法権だか何だか知らないが、これは過失致死では片付けられないはずだ。しかし、それどころか、この事件、アメリカでは、既にさっさと、解決されてしまっているのだ。ワイズ艦長は4月に艦長職を解任され、懲戒処分になるものの、軍法会議にはかけられず、刑事責任を執らないまま退役しているから、びっくり!である。艦長であり、上に立つ者は、責任を執るのが仕事ではないのか?!そんな事、万国共通の常識だろう。もしもこの事故の立場が反対だったら、アメリカはどうしただろうか?ブッシュさんも胸に手を当ててよく考えて貰いたいものだ。それに、日本の舵を執る方達、国会で幼稚園児の喧嘩のような野次の中、罵り合っている場合ではない。TVで昨日国会中継を観、心の中に鬱積していた何かが噴出しそうで、強い憤りを感じざるを得なかった。
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2005/10/20

常滑焼・人間国宝・山田常山さん逝去  日記(今日思うこと)

愛知県で唯1人の人間国宝常滑焼の陶芸家の山田常山さんが、肝臓癌でお亡くなりなった。81才だった。亡くなったのは、昨日(19日)の夕方だったそうだ。偶然だが、丁度ブログで焼き物についてを書いていた時間だった。今年1月には、瀬戸市加藤卓男さんがお亡くなりになっており、これで愛知県には人間国宝の方は、ついに不在になってしまった。

山田常山さんは、朱泥の急須造りで、平成10年、重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に指定された後も、「わしは名人ではない、職人じゃ」と、奢られる事無く、気さくな気質のまま、ご自宅を訪ねて行けば、誰でもに、「近頃はペットボトルやらで茶を飲むのが流行っとるそうじゃが、こうして飲むと上手いじゃろ」と必ずご自分の急須からお茶を入れ、持て成して下さっていたそうだ。傘寿を迎えられた昨年、年齢と同じ数の「急須80点」の個展前に、私の知人が地方紙の取材で伺った時も、「よくも、80までもったものじゃ。自分でもびっくりしとるわ」と、笑いながら答えて下さったと教えてくれた。
     クリックすると元のサイズで表示します 2004年 新作工芸展出品作品 <朱泥急須>
また、愛知万博の開幕寸前に、長久手会場迎賓館へ、県陶磁資料館から貸し出された常山さん作の急須が盗まれた時も、入院中の病室から「盗られるようなものを作ってこそ本物」と笑い飛ばし、「(関係者が)困るじゃろ」と代わりの急須を改めて寄贈された。幼い頃から、おもちゃで遊ぶ代わりに、粘土細工をし、小学校6年の時には、「日本一の陶工になる」と作文に書かれていた。急須造りは、その技法課程が非常に難しい上に、地味である、日本茶を急須で出して飲む習慣も減り、後継者も少なく死活問題にもなっている。そんな現状の中、ご自分の夢を全とうされた常山さん。惜しい方が逝ってしまわれた。。ところで常滑焼の朱泥は、急須お茶を美味しくするというだけでなく、その徳利は、2級酒を1級酒に変えてしまう程に美味しくなると言われている。今頃は、お体を患われてから飲まれなかった御酒を、先に逝かれた加藤卓男さんと御二人で、朱泥の徳利から、唐三彩の杯に注いで、一杯飲んで居られる事だろうか。。。ご冥福をお祈りします。

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2005/10/19

今日、思うこと  日記(今日思うこと)

一応?交通事故の被害者になってから一週間が過ぎた。昨日病院へ行ったら一応痣はまだ残っているが、このまま何も症状が出来なかったら「もう来なくても良い」と言われた。ご心配頂いた皆様、ありがとうございました。この場でもお礼を言いたい。今日職場でも、予後を聞かれたのでそのように話した。その方に聞いた所、交通事故の被害者で此方に比が認められない場合、自賠責保険から、医療費全額の他に、通院1日に対して、慰謝料として8000円支払われるそうだ。(接骨院・鍼灸院は、4000円)その上、自分がかけている障害保険からも1日辺り、定額が支払われると聞いた。痛みの値段と言うわけだ。…などと、悠長な事を言っていられるのも、今元気で仕事をして居られるからである。不幸中の幸いに感謝し、自分も運転する時は、しっかり気持ちを引き締めたい。

それから、昨日の『お蚕様』について、「何故、蚕は、日光に当たって死んだのだろろうか?」というご質問を、メールにて頂いた。科学的な答えを求めるべく、ネットで調べたが、直射日光の下で、天然の蚕が生きていられて、養蚕の蚕が生きていられない真相が、書かれているサイトは見つけられなかった。ただ言える事は蚕は変温動物で、飼育温度は22度〜28度であり、沢山生糸を生産させる為に、品種改良されたその課程において、体温の限界の温度が下がったと、思われる。夏の直射日光の下、気温の変化に耐えられなかったのが一因だと憶測されるのである。(ご質問をありがとうこざいました。勉強になりました。)
○参考 JA全農のHPより
http://www.zennoh.or.jp/bu/nousan/silk/05/05-0.htm

それから、2年2ヶ月ぶりの「火星大接近」の件について、補足がある。接近した火星の見える位置は、東方の空、おうし座の右上付近で、10月下旬には午後9時頃、11月下旬になると午後7時ごろに、見えるそうだ。また、この現象は、厳密に言うと、火星が近づくのではなく、地球が近づいているのである。本日の中日新聞にも掲載されていたが、この現象に合わせて、各地区、科学館・プラネタリウム等では、鑑賞会が催されるそうだ。外は雲ひとつ無い晴天の空だ。今宵、遥かなる星に思いを馳せてみたい。
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2005/10/19

焼き物(食器)その1  日記(今日思うこと)

愛知万博も無事に終り、2月の新空港開港と共に、賑やかであったこの地方も、平生さを取り戻した気がする。繁栄をもたらしたのは一部特定の企業だけであったような気もするが、愛知博開催の瀬戸市と、新空港の出来た常滑市とには、共通の焼き物という産物があり、少しは改めて見直されたようだ。今日は、この2種類の焼き物について書いてみる。常滑焼も、瀬戸焼も、信楽・備前・丹波・越前と並び、日本の六古窯と呼ばれている。時代は平安時代まで遡る、歴史のある陶土に恵まれた焼き物の産地なのだ。
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焼き物は、まず日常で使用されている種類として(土器は別に考える)大きく2つに、分類される。石物(磁器)と、土物(陶器)である。各家庭にも双方必ずや、あると思うが、白くて、表面がつるつるしており、固い感じがする焼き物が磁器。(洋食器は、殆どが磁器である)どっしりしていて、土っぽい素材に、絵が書いてあったりして、釉薬という上薬が、かかっている物が陶器である。磁器は石を砕いた粉から作られ1300〜1400度の温度で焼かれる。陶器は粘土から作られ1100〜1200度と、比較的低い温度で焼かれている。強度は勿論、磁器が陶器より強い。そして、常滑焼は、その製造過程等からその陶器と磁器の中間に位置する、せっ器(せつは、火に石と書く)と呼ばれる焼き物である。
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常滑焼は、器として急須が有名である。せっ器と聞くと土管のイメージがあるのだが、この焼き物は、上薬をかけておらず(無釉)焼き締めという製法で作られる。常滑焼の急須は、赤い粘土を使用しているから朱泥と呼ばれているが、他の土焼の急須と同じく、無釉なので、直にきめ細かい土がお茶に触れ、アクなど、不必要な物を吸着してくれる為、お茶本来の味、色、香りを充分に楽しませてくれる。緑茶にかぎらず紅茶、中国茶などの場合にも同様に美味しく頂けるのである。特にお茶でも、玉露に於いては、湯冷ましを使い、搾り出し急須で出して飲むと、最後の一搾りが、正に「露の如く」甘くて美味しい。但し、常滑焼の茶碗は朱色の為、お茶の色が分かり難いという欠点がある。ゆえに、私の手持ちの朱泥の茶碗には、中に白い万寿菊の花が書かれていて、その白い所で、お茶の色を楽しむように工夫がなされている。最近は、時間に追われてばかりの生活で、常滑焼の茶器でお茶を飲んでいないが、今夜辺り、朱泥の茶器セットを出して飲んでみたいと、思う。
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また、瀬戸焼は、焼き物の代名詞になる程有名だが、土の焼き物に、鉄の色素で絵を書いて、上薬をつけて焼いたのが、始まりと言われている。この瀬戸焼には、様々な上薬(釉薬)が開発され、安土桃山時代の茶の湯を華やかに彩った。その釉薬の種類、絵付けの方法による種類は、織部焼を始め、志野、黄瀬戸、瀬戸黒、などがあり、歴史上の舞台にも多々登場する。信長が美濃地方を平定すると同時に、瀬戸の陶工たちを、岐阜の多治見、土岐、瑞浪に移し、美濃でも盛んにした。(瀬戸山離散)ところが、江戸時代になると、有田で磁石鉱が、朝鮮陶工(李参平)によって発見され、硬くて丈夫な磁器が流行した為、一旦は、廃れてしまう。当時、藩を出るのは犯罪であったが、密かに、有田に渡った加藤民吉が、磁器の製法を学び、瀬戸に持ち帰ってからは、磁器も盛んに焼かれるようになった。そして、焼物のことを瀬戸物という程に焼き物の産地として有名なったのである。現在も、瀬戸、美濃では、土物・陶器のことを、「本業」と、石物・磁器のことを「新製焼」と呼び、盛んに、電気、ガスの窯で、焼かれている。
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私も、伯母の紹介で、瀬戸の作家さんの元で、陶芸をかじった事がある、どちらかと言うと、器を作る前の菊練という、土を混ぜて、粘土をこねる事が得意であった。周りの人に「うどん屋さんにいたのか?」と、言われた程だ(何故か、パスタを作っていたとは、誰も言わなかった)自分の手で、抹茶茶碗が出来ていく課程は、楽しみでもあった。まず素焼きにして、絵付けする。どういう訳か、上手に形が出来たと誉められた茶碗に限って、絵を描かないように言われ、全部に釉薬をかけられた。「椿」のつもりで描いた絵も、作家さんは「梅」だと仰った。誉めて下さったようだが、私は今でもその作家さんが、椿と梅の違いを解って居られなかったと、信じている。。
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このように、愛知県内には、全国、世界に誇れる焼き物がある。万博では、各パビリオンが、新しい技術、製品で凌ぎを削りあっていた。しかし、新しい物に目を向けるばかりでなく、この環境の良さに感謝して、古くから伝わる物の良さも、今一度、味わってみたいと思っている。
また、「焼き物その 2」とし、次は幼い頃に馴染みのある?磁器・有田焼きの一部について、触れる予定である。
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○参照 「陶器と磁器の違い」 
http://www.oodate.or.jp/user/kitchinhouse/mame/toki-jiki.html

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2005/10/18

野球はツーアウトから  Boston Red Sox・MLB

野球は本当に、ドラマティックだ。今日も9回ツーアウトの崖っぷちから1つのドラマが生まれた。1勝3敗と後の無い、カーディナルス。バッターはプーホルズ。眠っていた大砲が火を吹いた。逆転のスリーランホームランを打ったのだ。カーディナルスは昨年、ワールドシリーズでレッドソックスと相対した事から、私も、ある程度の選手名は耳慣れていた。昨年のワールドシリーズ第4戦では、全く当たりの無かったローレンが、内野ゴロを打って、一塁まで、必死で走り、スライディングを見せた姿も記憶に新しい。(関係ないが、映画俳優のケビン・スペイシーに似ていると思った)
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そのローレンは怪我をして今期戦線を離脱していた。後は田口。国内ではイチローと共に脚光を浴びていながら、カーディナルスでは先発メンバーになれずとも、全く腐る事も無く、守備固めに、代打にと指名をうければ一生懸命プレイしている。その真摯な姿には共感が持てていた。また、対戦した時の観客も、ヤンキースのベーブルースの呪いと写真を掲げていたり、当時いたペドロ・マルチネスを「あなたのお父さんは誰?」とダースベーダー姿で皮肉ったりするような嫌味でなく、ラミレス、デーモン、マルチネスのロングヘアーの写真を掲げ「あなたの床屋は誰ですか?」と書かれていたのも、ジョークが効いて微笑ましく好感が持てた。
        クリックすると元のサイズで表示します似顔絵としては今一だが
今日の試合は生中継で放送されなかった為、私はネットで追いかけていたが、試合途中からボストンに電話して、実況を聞いた。「9回ツーアウト、もう終りだね。でも去年のレッドソックスは9回ツーアウトから大逆転したね。」とか話していた。すると隙の無かった守護神リッジから、エクスタインのヒットが生まれた。その後リッジは、あと1人でワールドシリーズという焦りか、それとも、内角を攻めすぎたのか、四球を出してしまった。お膳立てが揃って、プーホルズ。「オルティースだったらホームランだね」そう話した途端、「打ったぁーー」と電話の向こうから叫び声が聞こえた。昨年のワールドシリーズで、レッドソックスにスイープされ悔しい思いをしたカーディナルス、険しい道のりも、そう簡単には引き下がらない。

ところで、レッドソックストロット・ニクソン選手が、14日に痛めていた左膝を手術したそうだ。手術は成功し、これからリハビリなのだそうだが、レッドソックス生え抜きのニクソンには、是非完治して復活して欲しい。フェンウェイ球場のライト側で観戦した際には、彼の勇気ある衝突を恐れぬ守備に感動した事もしばしばで、彼の赤いソックス姿は、ひときわ、グリーンの芝に際立っていた。
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2005/10/18


確か、小学校に入学する頃位までだったが、私の育った家では2階の一室で蚕を飼っていた。既に家業としては閉業していたらしいのだが、何でも父の大学の後輩達の「家蚕に於ける、恒温明暗飼育」なんて小難しい研究の為に、そのまま一室を提供していたらしい。世話は家業から続けて祖母が担当していたようだ。そんな事は露知らず、私も桑の葉を畑から採ってきて与えたり、蚕を手に乗せてひっくり返しても、なかなか落ちないので、そのまま手を振ったりして遊んでいた。今振り返るとよくもまあ、あんな虫を素手で触っていたものである。慣れとは恐ろしいものだ。
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確か季節は夏だった。父と一緒に自分の家の山に登った事があった。父は山の下刈りをしていたのだが、私はそこら辺の葉っぱを採って飯事をしたりして遊んでいた。朴(ほう)の葉っぱは、大きいのでお皿代わりにするのに適していた。一生懸命探し朴の葉を手にした時、家で飼われている蚕とよく似た虫がいるのを見つけた。私は葉ごと採取して父に見せる為に走っていった。父は「それは天然の蚕さんだ」と言い、絶えてしまいつつあるので元に戻してくるように言った。私は「蚕と似ている」虫を発見し、認められたのが得意で、素直に元の朴の木へと返した。だけど天然の蚕は、家で飼われている蚕の白色と違い、緑色だった。その色が何故か目に付いて離れなかった。
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いつもの事ながら、父には「何々娘」ぶりを発揮して、何故緑なのか聞いたのだが、当時は「外に居るから日焼けした」と答えられ、それで納得していたと思われる。後になって思うのだが、天然の蚕は葉っぱを食べ太陽に当たっていたのだから、自分の体の中でも光合成をしていたに違いない。さて、そこで私の私たる威力?はここから発揮された。翌日、家で飼っていた蚕を10頭(蚕は虫でも○匹でなく○頭と数えていた)自分の家の桑畑に持ち出した。蚕の散歩のつもりだった。桑の葉を採って来て与えるより昨日見た蚕のように、蚕を外に連れ出して自由に桑の葉を食べさせれば良いと、思ったのである。
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予測通り蚕達は、食欲旺盛で桑の葉を食べ始めていた。いい感じ。きっと私はご満悦だったに違いない。私は調子に乗っていたのだ。1時間近く位経った時だったろうか、桑の木の戻ると、蚕が1頭もいなくなっていた。おかしい、飛べるはずがないのに何故?と思ったその瞬間、足元に落ちて、死んでしまっている蚕達を発見した。私は涙をこらえて、蚕の遺骸を集め、桑の葉っぱと一緒に箱に入れた。
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祖母に見せたら「何てことを!」と怒るというより嘆いていた。父が帰宅して私に言った「家の中の薄暗い電気の下ばかりにいる蚕さんが、いきなりお日様に当たったから、火傷してしまったんだ」と…。父は私を叱らなかった。反対に「蚕の為に良かれと思ってやったことだから」…と怒っている祖母を鎮めてくれた。天然の蚕と違い、もやしのような家の中の蚕達は、直射日光には耐えられかったのだろう。さぞかし熱かった事だろうと私は、泣きながら蚕達のお墓を作った。
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中学になった頃、山本茂美の「ああ野麦峠」を読んだ。読む前は何となく強制労働的に雇われたいた女工さん達の暗いイメージであったが、読んでみるといささか、印象が変った。当時、劣悪な労働環境の中で、夜も明けないうちから深夜まで、糸を繰る少女達。しかし、当時はそれでも、実家より食事も環境も良かったという社会背景があった。そして優秀な女工さんは、男性よりも多く稼ぎ、家を建てたり、田畑を買えたりしたというのだ。確かに飛騨の貧しい農村の少女達が、雪の野麦峠を命がけで越えて諏訪の製糸工場まで行く様は「哀史」として語り継がれているようだが、可哀想なイメージとは、違う面が描かれていた。その物語を読み進む内に、祖母が「お蚕様」と崇めていた理由も解って来た。上質な絹糸を作り出してくれる蚕は、生計の柱でも有り一家の経済を握る働き手であったのだ。
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話は戻って、あの時私が山で見つけた蚕は、天蚕(てんさん)と呼ばれその絹糸は「繊維のダイアモンド」と珍重されているそうだ。その糸は直射日光にも、風雨にも耐えたその姿の如く、強伸力に優れ、優美な光沢を持ち、皺になりにくいと言う。長野県安曇野にある天蚕センターを訪ねてみたいと思っている。養蚕が家業だった頃、家の蚕が造った糸で織り、紅葉模様に染め上げられ、仕立てられている祖母の形見の羽織を着て行こうと思っている。
因みに養蚕業は、シルクロードを通りヨーロッパでも産業として栄えて行った。しかし19世紀半ば蚕の伝染病(微粒子病)が流行り、養蚕業は壊滅状態。生糸が不足した為、開国したばかりの日本は世界最大の蚕糸国としての地位を築く事ができたのである。そしてその微粒子病を解明したのが、あのコッホと並んで『近代細菌学の開祖』と呼ばれた、フランスの科学者、パスツールであった。
○参考 「蚕のミステリー:パスツール物語」
パスツールを手伝った幼い娘の視点で、書かれた絵本。時代は日本開国前夜、フランスとイタリアの養蚕は病気(微粒子病)が蔓延し壊滅状態となる。パスツールは、病原体と病気感染した親蛾から生まれた卵が汚染されていることを解明、親蛾を顕微鏡で調べて、卵の汚染を特定する方法を確立した。その始終を児童向き絵本として描かれている。
クリックすると元のサイズで表示します天蚕は緑でも光合成はしないそうだ。Mustdy様、有難う御座いました。
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