2005/10/21

ブラックソックス事件  Boston Red Sox・MLB

22日からワールドシリーズが始まる。今のところ、野球観戦は暫し休憩である。ホワイトソックス、アストロズの選手も、ここ数日だが、休養できるだろう。双方チーム共に先発投手は充実している。今からどんなドラマが隠されているか?非常に楽しみである。審判団も、プレイオフの失態を糧にして、観ていて気持ちの良い判断をして欲しいと願っている。今からワールドシリーズに向けて応援しようとされているホワイトソックスのファンの方(井口もいるので)には失礼だが、野球史に残る八百長事件。ブラックソックス事件について書いておこうと思う。

1919年というから、今より86年前だから、レッドソックスが前回ワールドシリーズを制した時の翌年ということになる。史上最強、優勢を予想されたいたホワイトソックスが、シンシナティ・レッズに3勝5敗と敗退した(この年だけ9試合制だった)ワールドシリーズ前から、噂されていた賭博がらみの八百長疑惑が真実味を帯び、調査の結果、八百長に加担したとされるジョー・ジャクソンら8名は、球界から永久追放された。裁判所を出てきたジャクソンに、少年ファンが泣きながら「(八百長は)嘘だと言って!ジョー」叫んだという逸話はあまりにも有名である。

この八百長の舞台裏には、当時、ホワイトソックスのオーナー、チャールズ・コミスキーが、考えられない程のけちであり、選手たちは、他のどのチームの選手より低賃金でプレイさせられていた事実があった。遂にはクリーニング代も、惜しんだ為、彼らのユニフォームは、トレードマークのはずの白ソックスまで常に黒ずんでいた。そのために、選手達は、この事件以前から「ブラックソックス」というあだ名で呼ばれていたのであった。

これらの待遇に耐えかねていた選手達の内、まず賭博師の誘いに乗ったのは正2塁手のチック・ガンディルだったと言われている。彼から直に誘われた者、自ら話を聞きつけて仲間に加わった者、計7選手が、問題のシリーズで八百長を働いたとされている。他に八百長の全貌を知りながら、それを球団に報告しなかったとして処罰された3塁手のバック・ウィーバーを加えた8人が、所謂「悲運の8人」(アンラッキー・エイト)と呼ばれた。メジャーリーグでは、この事件をきっかけにコミッショナー制度が導入された。

私は詳しい事は知らないが、野球にしろ、アメフトにしろ、賭博の対象になっている事実は、今も変らないようだ。野球などのスポーツを、そういう楽しみ方でしか、観る事ができない人達がいるのは、選手にとっては甚だ迷惑な話である。当時のホワイトソックスの選手達が、洗濯もして貰えず、トレードマークの白い靴下が黒ずんでいた話も気の毒であった。私がフェンウェイ球場で初めて観た試合は、レッドソックスVSホワイトソックス戦で、両者のハイソックスの色のコントラストが印象的だったと、記憶している。

さて、レッドソックスで、その名の如く、靴下を赤く染め、本物の赤い靴下にしたのが、昨年のシリングであった。その滲み出る赤い血には、涙が出そうな感動すら覚えた。しかし、私の知る限り、彼の手術後の予後は芳しくなかった。原因の1つには、オフの過し方に問題があったように感じる。私も怪我をして手術をした事があるが、術後、いかに安静にするかで快復の期間が決まると言われていた。オフを好きに過すのは自由だが、術後すぐ、松葉杖をついてまで、誰かさんの選挙演説の応援に行ったり、動きすぎだと思った。スポーツのプロなんだから体と言う道具大切にして欲しかった。今シーズン終了間際、復活したようにも見えたのだが、レギュラーシーズンを、棒に振ってしまった責任は重いと思う。10M$の高額な契約金は、昨年の功績には充分な金額だと思う…せめて来シーズンは例え(有りえないと思うが)半額以下の年棒であっても、チームに貢献し、一から出直すつもりでプレイをして、妙な疑惑も、吹き飛ばして欲しいものである。
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2005/10/21

中学の思い出(陸上) その1  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

空が高い。今日の愛知県は、雲こそあるが晴天で、空気も澄んでいる。正に秋たけなわである。10月も半ばを過ぎると、運動会も終わった学校が多いが、明日から岡山県で、国民体育大会、所謂、国体の秋季大会が、開催される。22日から27日まで一週間の開催となる。プロ野球の日本シリーズ・私の中ではワールドシリーズが脚光を浴びる中、地味ではあるが、公式種目37競技、公開競技3種目が実地される。国体には必ず愛称がつくものだが(S21年の第一回京都大会は、あすなろ国体と呼ばれた)今回の大会は、岡山県の気候をイメージして『晴れの国おかやま国体』というのだそうだ。

国体といえば、私が中学に入学した年、新しく赴任して来た先生がいらしゃった。そのM先生は陸上ハードルで国体で優勝なさった経験があった。その後、怪我をされ引退を余儀なくされたそうだが、体育教師の免許をとられ、指導の道を選ばれた。そして、当時弱体であった我が中学の陸上部の顧問の先生となられたのである。私は、小学校の頃から、秋の運動会シーズンになると、胸が躍る程、足だけは早かった。リレー以外、前に人が走っていた記憶が無い程だ。その要因には、遺伝的要素と、後天的要素の2つがあった。

1、両親共に、走るのが速く、陸上部であった。<遺伝的>
2、悪戯ばかりして、いつも追い駆けられ、逃げ足が速くなった。<後天的>

私は当然のように、陸上部に入部した。M先生は悲しいかな、クラスの担任でもあった。更に悲しかったのは、陸上部入部希望者の女子は2名。そしてもっと、悲しかったのは、もう1人の彼女は、走り幅跳び希望で、トラック希望者は私1人、先輩も、走り高跳びの選手で、トラック競技を練習する女子は、私だけだった。当時身長も小さかった私は、M先生が、最も教えたかったハードル競技には、不適格とされたが、100メートル・200メートルの短距離選手として、男子達と同じメニューをこなす事になった。これは、今振り返っても、かなり、きついものだった。

更に、運が良いのか、悪いのか、その年、どっかの教育委員会のオバサンが、男子には、体操ズボン、女子にはブルマを寄付してくれた。教室の後の箱に入ったブルマ達、休み時間に、その中から自分でサイズを選ぶセルフ方式だった。私は何も考えず男子達に混じって遊び呆けていた。教室に戻ると残っていたブルマは布製で「L」しかなく、当り前だが、私には、大きかったので母に詰めてもらって履く事になった。それが問題だった。ウエストと腿周りのサイズを詰めて履くと、まるで「ほおずき」のように膨らむ。これには参った。しかし履かなければならなかった。別のブルマを買って貰えるはずも無い。私はブルマをウエストの所で折り曲げ、その上から体操シャツを被せて、隠すように履いていた。まあ、それで何とか、校内では、目立たずに済んでいたのだ。                       ……その2へと続く。
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2005/10/21

中学の思い出(陸上) その2  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

男子と一緒に、ハードな練習メニューをこなしていた私の足は、みるみる早くなり、当時の学校内で1番の俊足になった。3年生の部長も、追い付かない程の逃げ足の速さだった。各地区大会を1位で通過し、その夏開催の通信陸上県大会の、標準記録も突破していた為、エントリー出来る事となった。父は喜んでスパイクを買ってくれた。M先生が新調してくれた赤いランニングには、私の学校の番号108番とゼッケンもつけられた。通信陸上では、現在はどうか知らないが、学年関係無しで走るのであった。練習を重ね、遂にその日が来た。晴天に恵まれた県営グランド、今までの大会とは空気が違っていた。普段、あまり緊張しない私だったが、流石に上がりそうだったので、友達がおまじないにと、教えてくれた手に「人」と3回書いて、飲み込んだ。

ピンと張詰めた緊張感が、気持ちいいとも思われた中、第一次予選のスタートに立った。周りは身長が高い人ばかり。でも前に向いて走ればいいのだ。そう自分に言い聞かせた途端、スターターの人がスパイクの紐が解けていないかとか、チェックし始めた。そして運命の?声が…「108番、ランニングを(ブルマの)中に入れなさい」「なぬ?、そんなのルールにあったのか?」当時の私には聞き返せる余裕は無く、言われた通り、さっさとランニングをブルマの中に入れた。きっとブルマは、南瓜のように膨らんでいたと想像できる。格好悪いそのものだったが、何と1位で第一次予選は通過してしまった。二次予選、しつこい事に、また同じスターターだった。また、ランニングを入れるように、指示された。全く、余計なお世話である。更に拡声器を通して言ってくれるから会場中の注目を浴びてしまった。私は、恥ずかしく、もう走りたくない気分だった。でもM先生や部員の人達は、大きな声で声援を送ってくれている。思い直して精一杯走る事にした。

私は、遂に準決勝まで進出した。トラックに立つ度に恥ずかしかったが、観戦している人達も「ちょうちんブルマ頑張れーー」と声援してくれるようになった。160cmを超える選手の中、150cmそこそこの1年生が、ちょうちんブルマ姿の短い足?で懸命に走っているのである。今の私だって応援すると思う。そして私は決勝まで辿り着いた。そのファイナリスト6人の中で、1年生は唯1人であった。声援は更に大きくなっていた。しかし結局ブービー賞。ビリから2番目だったのだ。ここで終了して、静かにして置いてくれれば良かった。ところが、ブービーでも一応5位入賞。最後に表彰されるという事であった。ここからが、私のさらなる悲劇(喜劇?)の始まりだった。

M先生は、「1年生で入賞は大したものだ。胸張って受け取って来い」と言ってくれた。そして付け加えた。「いいか、壇上では3歩進んで、賞状を受け取り、礼をしたら2歩下がって、帰って来い」と…。私はやっぱり膨らんだブルマを恥ずかしく思い、ランニングをブルマから出して隠し、表彰式に臨んだ。いつ注意されるか、はらはらしながらだった。そして……何と、私は、緊張し過ぎ、間違えて、2歩前に出て、3歩下がってしまった、ゆえに、表彰台から落ちてしまったのである。しかも、何故か、そのまま立っていた。一番驚いたのは、賞状を渡した県陸連のお偉い人だったろう。突然目の前から消えたのだから。。また私は笑いの渦に包まれた。でも、もう開き直るしかない、回れ右をして、手を振ってしまった。100メートル13秒2(別の大会での記録)。この中学1年生での校内記録は、10年間破られなかったそうだが、このブルマ事件は、今も語り継がれているらしい(近年、仕事で中学校を訪れた弟が、聞きつけてきた)その通信陸上の日、一部始終を観ていた、父は言った。
      「将来、人を笑わす人になっても、笑われる人には、なるなよ

しかし、残念ながら、その素材は廃る事無く、健在のようだ。以後、落ちる事は得意?だし、よく笑われる。まあ、いいか…と、この際、思い切り開き直るしかない。今も、運動会シーズンになると、思い出す私の暗い過去?であった。それから、高校に進んだ私には、学校指定のピチッとしたブルマが、与えられた。だが、私は「ピチブルマが、無くなってしまう夢」を見続けた。どうやら、人並みに、トラウマだったらしい。そして、この「ちょうちんブルマ事件」は、高校時代の私の生活へも、多大なる?影響を及ぼす事になるのである。                               その話は、また別の日の日記で……

因みに、国体は、戦後の混乱期の中で、国民に明日への希望と勇気を与える為、昭和21年に京都府を中心とする京阪神地区でその第一歩を踏み出した。以来各県持ち回りにより開催され、スポーツの普及とスポーツ精神の高揚、国民の健康増進と体力の向上を図るとともに、地域スポーツの振興と地方文化の発展に、大きく寄与してきたのである。(岡山国民体育大会、公式サイト参考)
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