2005/11/30

Sushi Net テイクアウトのお寿司屋さん  ボストンでのお薦めのお店

ボストンのロングウッドにあるギャラリア内に、「Sushi Net」というTakeout専用の御寿司屋さんがある。日本人は元より、アメリカ人に好評のこのお店は、私も利用しているが、アメリカ(ボストン?)ならではの、創作寿司がお値打ちに食べられて、とても美味しく嬉しい限りである。メニューには、他のお店でも食べられる「スパイシーツナ」や「ネギハマ」以外に、このお店のオリジナル寿司も色何種類かあって、選ぶ時に、迷うのもまた楽しみの一つだ。

クリックすると元のサイズで表示します ギャラリアの一角にあるお店。      昼食の時間帯は、かなりのお客さんが並んでいる

以下、お気に入りメニュー。
☆CRISPY MAG MAG
マグロ、ハマチ、ネギ、飛び子、天かす等、をスパイシーソースでアレンジしてある。
天かすの香ばしさとマグロの味が微妙にマッチして、美味しい。 8ピース 9ドル

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☆LONGWOOD ROLL
ロブスター、飛び子、アボガド、海老、トマトを醤油で味付けし、パルメザンチーズをまぶしてある。素材も豪華でその贅沢感が嬉しい。 8ピース 9ドル50セント

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また、このお店は、様々なパーティ用にも、予算に合わせて作ってくれるので、詳しくはSusumuさん宛へ、電話するといい。とても親切な方なので、色々と相談に乗って頂けると思う。
Tel 617-731-0046 営業時間 10:00AM〜6:30PM(土・日定休)
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2005/11/30

万次郎暮らした街を訪ねて 第4章 その1  敬愛する「ジョン・万次郎」

ホイットフィールド船長に別れの手紙を書き、サンフランシスコから帰国の途についた万次郎は、アメリカの商船、サラボイド号で、一路ハワイへ向った。ハワイで暮らしている同じ漂流仲間も、出来れば一緒に帰国する気持ちだった。当時のハワイは捕鯨船の休息地であり、様々な情報が集まっていた。ハワイに着いた万次郎が耳にしたのは、まず幕府が「異国船打ち払い令」は解いて居り、捕鯨船に蒔き水くらいは援助するようになっていた事、ロナウド・マグドナルドというアメリカ人が、漂流を装い、北海道から日本に入っていた事、だった。ロナウドは、インディアンの母とスコットランド人の父を持ち、インデアンの祖先は日本人だと信じ、日本に憧れを持っていた。そして父がハドソン湾会社に勤めて居た事から、あの音吉達の漂流話を知る事となり、漂流民を装って日本人の情けにすがろうと、計画を立てたのだ。(当然捕えられ長崎に送られた後、アメリカへ送り返されるのだが、長崎では牢屋越しで、森山栄之助[→注]らに、英語を教えている)

クリックすると元のサイズで表示します 万次郎直筆の美しい英文字
(土佐清水市・ジョン万ハウス)


◎注 森山栄之助
幼い頃よりオランダ語を学ぶ事が、当たり前のように育った。それは森山の家は代々通詞(つうじ)の家系で、父・源左衛門は通詞としては最高位の大通詞になった人でもあったからである。1843(天保14)年3月、24才という若さで、長崎から浦賀奉行所に派遣され、ペリー来航時の通訳として活躍した。

万次郎は、日本への入国する先を琉球(沖縄)と決めた。ハワイからは、3人の内、2人が同行した。既に妻を娶り大工をしていた寅右衛門は、「何処で暮らすも同じ」と帰国しなかった。ハワイを出航後、30余日にて琉球が見える付近に到達した。万次郎達3人は、サラボイド号の船長に別れを告げ、自ら購入し名付けた「アドベンチャー号」という捕鯨ボートで琉球へと向った。翌日の朝、3人は上陸を果たしたが、やはり捕えられ、ボートも持ち帰った品も全て没収されてしまった。(後に万次郎は、咸臨丸で渡米した際も、日本産業への刺激的影響を意識して選び、様々な品を持ち帰ったとされている。ミシン・洋傘・写真の現像機器・薬品等)。

クリックすると元のサイズで表示します 万次郎の写真(捕鯨博物館)

万次郎達は、7ヶ月の取調べの後、薩摩での48日間の取調べを受け、やがて長崎へと送られる。特に琉球での投獄中は簡易な檻であり、外に出て散歩なども楽しんでいたようだが、ひたすら日本詞(日本ことば)を勉強し、脱走する気持ちは無かったようだ。薩摩では、造船・捕鯨・航海術についても、藩主、島津斉彰から質問を受けた。長崎では白州に引き出され、「漂流の次第」の吟味を受ける。万次郎は死罪にならなければ、何にでも耐えうる覚悟が出来ていたようで、堂々としていたという。そして何処でも共通して万次郎が「アメリカについて」語った事は、「亜米利加(メリケ)は大国ゆへ、取るに及ばず」と領土的野心が無い事だった。「英吉利(イギリス)は小国にて」と対外姿勢をイギリスと比較して、執拗に繰り返し続けた。

長崎での10ヶ月の拘留生活の後、土佐に入る事が許される。しかし、また更に50日、取調べの白州に引き出され、「生涯海上の業を禁じ、外国の様子を話すな」と命じられた上、11月12日に、ようやく生まれ育った故郷、宇佐浦に戻る事が出来た。万次郎は10年ぶりに年老いた母と対面できたのだ。しかし、鎖国令を破ったとされた3人への幕府の仕打ちは、情報を得るだけの冷たいものであった。意思の強い万次郎以外の1人、五右衛門は白州での取調べが祟り、33才で狂死したとも言われている。数日後、万次郎だけが土佐藩に呼び出され「定小者」と武士の末端に加えられるが、万次郎の「将軍に直訴してでも開国を…」という夢は叶えられなかった。
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2005/11/29

万次郎が暮らした街を訪ねて 第4章 その2  敬愛する「ジョン・万次郎」

万次郎やホイットフィールド船長が望んだ、捕鯨船による開国の夢は叶わなかったが、アメリカは、黒船でペリーを送り開国を迫る。世の中は大騒ぎとなり、幕府は、万次郎の知識と経験を必要とし出した。万次郎は土佐に於いて、外国事情、アメリカンデモクラシーを語り、坂本龍馬・後藤象二郎・岩崎弥太郎らに多大な影響を与えて行った。1853年ペリーが浦賀に姿を見せ開港を求めるや、幕府は万次郎を呼び出し、米国の諸事情や、開国を求める真意を聞き出そうとする。万次郎は、まるで水を得た魚のように、米国の地理・政治体制・民主主義に於ける大統領選挙の話等を語ったと記録されている。

万次郎は旗本の地位を得るが、水戸藩から「アメリカのスパイ容疑」をかけられ、直接ペリーと話す事は出来なかった。しかし、日米和親条約終結後、咸臨丸に通訳として乗船した。その咸臨丸の船中では、「万次郎学校」と言われるほど、勝海舟・福沢諭吉らにとって、造船・航海・測量・英学の勉強の場であった。また、咸臨丸は途中、嵐に遭い、遭難しそうになるが船酔いで苦しむ勝海舟らを横目に、万次郎が持ち前の航海術の腕で乗り切り、事実上の船長となって働いた。捕鯨船での船上生活6年の経験が、生かされる事になったのであった。この時、万次郎が、福沢諭吉を促して、お互いにウェブスターの英語辞書を1冊ずつ購入して帰国したエピソードは、有名である。

◎万次郎の影響を受けた人物
勝海舟・福沢諭吉・後藤象二郎・坂本龍馬・佐久間象山・新渡戸稲造・大山巌・岩崎弥太郎…等

クリックすると元のサイズで表示します 咸臨丸(オランダキンデルダイク造船所製作)

更に万次郎の功績は、小笠原の開拓調査、捕鯨活動、薩摩藩開成所の教授就任、上海渡航、明治政府の開成学校(東京大学の前身)教授就任、アメリカ・ヨーロッパ渡航と、輝かしく、そして日本の為に働き続けた。しかし、何故か万次郎の功績は、歴史の中に埋もれさせられてしまった。それは、万次郎が漁民出身だっただけでなく、当時の日本自体が、国際社会で正しく生き、役割を果たすという自覚がなく、もっぱら一国繁栄主義だったからだと思う。開かれた国を訴える万次郎の考え方に、誰一人ついていけなかったのかもしれない。

また、万次郎は14才まで、日本語の読み書きを習得して居らず、会話は得意であったが、文章として残す事が苦手であったと推察される。そして、44才で脳梗塞となり、得意だった会話にも不自由を来す事になったとも思われる。脳梗塞以後の万次郎は、政治の舞台には姿を出さず、波乱万丈の半生に比べて、静かな晩年を送った。その間、故郷の土佐、中浜にも数度程帰省し、老母(明治12年に86才で病死)を見舞っている。そして、東京京橋弓町の長男・中浜東一郎医博(当時岡山医学校教授)宅で、71才の生涯を静かに終えた。

クリックすると元のサイズで表示します 2年毎に開催された万次郎祭りの際の寄せ書き/中浜博 氏(4代目)の名前がある (ミリセント図書館)

万次郎の事が、日本では、「万次郎漂流記」等の発刊により、幸運な漂流民としてのみ語り継がれる中、アメリカでは、その後も、中浜家とホイットフィールド家の交流は続いて行った。万次郎の存在は、フェアヘヴンでは英雄のままだった。その証拠に、第二次大戦中も、息子、東一郎氏が送った刀は、陳列台から降ろされる事無く飾り続けられたのだ。万次郎は、明治3年、普仏戦争視察の為、渡欧する途中に寄ったニューヨークからも、一晩でフェアヘヴンに駆けつけ、ホイットフィールド船長に会いに行っている。フェアヘヴンの人達は、人間愛に満ち溢れ、義理と礼を尽くした万次郎と敵国の日本とを、切り離して考えていたのだろう。そして現在でも、中浜家とホイットフィールド家、そして、姉妹都市として、フェアヘヴンと土佐清水市も、交換留学生を送りあったりし、その親交を深め続けているのである。

クリックすると元のサイズで表示します2003年、万次郎祭りにて。タウンホールの前でスピーチをするスコット・フィールド氏(ホイットフィールド船長から6代目)

◎参考 
○土佐清水市HP
http://www.city.tosashimizu.kochi.jp/john/

○川澄哲夫 編著 「ジョン万次郎とその時代」
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2005/11/28

七五三の着付を承って  ボストンの思い出

今日は、七五三のセットと着付をさせて頂いた。勿論、千歳飴も神社のお参りも無いのだが、お母様が7才で着られた御着物がご実家には、保管されているそうで、私がBさん宅に電話した時、記念にお着せしましょうという話になった。Bさんのお宅のCちゃんは、満7才で、少しシャイだけど、とても可愛いお嬢さんである。私は楽しみにしていた。

お昼過ぎに、車で迎えに来て頂き、Bさん宅に向った。到着して御着物を見せて頂き、驚いた。本格的な四つ身の振袖、そして帯は、失礼ながら子供さん用には、勿体無い程の本格的な丸帯(舞妓さんが使用するような)だった。また、帯締めや帯揚げ、しごきに至るまで、全てお品が揃っていた。更に保管状態が最高で、新品同様だった。私は「これは日本髪を結うしかない」と、思い立った。

クリックすると元のサイズで表示します 髪を結って前髪をカットし、今から着付。

Cちゃんは、恥ずかしそうだったが、やる気満々で、大人しくしていてくれた。持って来た髪飾り等をアレンジして、何とか日本髪に結い上げた。また、着付する時に至っては、Cちゃん自ら助手をしてくれて、これがまた、よく間に合って助かった。1時間と少しで仕上がった。Cちゃんは、着物がとてもよく似合っていた。何か日本に居るような錯覚をしてしまう程だった。

クリックすると元のサイズで表示します 写真スタジオで。。。代々受け継がれる四つ身(七歳用)の振袖

モールにある写真館へと向った。Cちゃんは、草履では歩きにくいのでとりあえずサンダルを履いていた。Cちゃんの着物姿は、4Fの写真館に着くまでのエレベーター内でも注目の的だった。写真館へ入った。更に注目の的になった。アメリカの写真館が、どんな撮影をしてくれるのか、私にとって大変興味深いものだった。まず、背景にと白い布が降りて来た。デジカメなので修正してくれるのかな?と思いつつ、かなりのラフさに驚いた。飾ってある写真を見ても、表情や雰囲気を重視してある感じだ。カメラマンは女性。その写真館には5人程、カメラマンがいたし、助手も大勢いたが全員女性だった。

担当のカメラマンは、和服姿を撮るのは、初めてらしく、興奮気味でシャッターを押していた。距離が近いのが少し気になったが、背景も黒にしたりして、色々なポーズで撮ってくれていた。暫くしてそのカメラマンから提案があった。「黄色(着物)なので、背景を赤にしたい」と。。Bさんと私は目を見合わせて、「アメリカらしいけど、ちょっと派手過ぎる」とブルーにして貰った。撮り終わったらコンピューターに取り込んで編集し、そこから選択する事になった。Cちゃんも緊張せず表情作りが上手かったが、写真も良い表情で撮影されていた。ただ全身写真になると大伸ばしにした場合、どうしても足か頭が切れてしまった。折角お草履も履いているのだから、「全身写っている写真が良い」と言っていたら、スタジオが空いたら撮り直しをしてくれると言ってくれた。日米問わず、やはりプロだなぁと感心した。Cちゃんは、待ち疲れてしまっていたが、頑張って再度カメラの前に立ってくれた。私は髪と着物を手直しをして、カメラマンに撮影の角度とか指示をした。

クリックすると元のサイズで表示します このようにコンピューターに取り込んで編集してくれる。その中で好きな画像を選ぶシステム。

ボストンでも、日本のような写真が撮れるものだなと感心しながら、プリントされるのを待っていた。すると「写真を飾りたい」と申し出があった。そして肖像権について署名する用紙を持って来られた。「店内ディスプレイ、パンフレット等の印刷物、ウェブサイト、何処まで使っていいのか?」という質問形式になっていた。こういう所は、「さすが、アメリカだ」と思った。出来上がった写真を受け取りBさんのご自宅で夕食を頂いた、お疲れの所、作って頂いて恐縮だったが、全てがとても美味しかった。何はともあれ、主役のCちゃん、お疲れ様でした。そして4ケ月の弟のD君、眠かったのに頑張ったね。私にとって貴重な経験をする事が出来、充実した1日だった。
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2005/11/27

After Thanksgiving  ボストンの思い出

今日は、今回ボストンに来てから初めて、市内の繁華街へ買い物に行った。その前にケンブリッジという所にある日本食材の店へバスで向った。そのお店は配達してくれるので、車を持っていない者にとって、とても助かり重宝している。いつもなら遅れがちのバスも空いているのか、早めに到着した。それにしても、さすが4連休だけあって人が歩いていない、バスも貸切状態だった。また今日のボストンは風も強く、日差しの無い寒い一日となった。時折雪も舞っていた。

クリックすると元のサイズで表示します 貸切状態のバスの車内

ケンブリッジでは、6.95ドル+チップの値段で、ランチをバイキング形式にて、食べさせてくれるインド料理屋さん「Shalimar of India」へ寄った。このお店は、ケンブリッジに在住のYさんから「お値打ちで美味しい」と教えて頂いて以来、何度も足を運んでいる。激辛な料理はひとつも無く、何を食べてもマイルドで美味しい。私は「サモサ」という三角錐のコロッケみたいな揚げ物も大好きだ。サラダ、果物、そして少し甘いが「ライスプリン」というデザートも食べ放題だ。マグドナルドも休んだ「サンクスギビング」も営業していたとYさんからお聞きしていたので、今日も大丈夫と確信を持って出かけた。

クリックすると元のサイズで表示します インド料理店の外観  クリックすると元のサイズで表示します 三角錐の形の物が「サモサ」

インド料理でお腹一杯になった私は、地下鉄を使って、ボストンの高級路面店が立ち並ぶ、ニューベリーストリートへ向った。バナナリパブリックの店へ行く為だ。コプレイという駅を降りた途端、人が多くて驚いた。今日からバーゲンを開催するブテックを目指して、買い物に来ている人達で賑わっていたのだ。すれ違う人の殆どが、買い物をしたブティックの紙袋を、何個も下げていた。私はバナナリパブリックで、スーツとカシミアのセーターを買い、今度はコプレイプレイスというモールへと向った。そのモールの中には、お気に入りの「アンテイラー」があるからだ。モールの中も凄い人で、彼方此方の飾りつけは完全なクリスマスモードだった。アンテイラーでは、トップスを数枚と、帽子・マフラーを買って帰路についた。気に入った品が見つかって嬉しかった。

クリックすると元のサイズで表示します マリオットホテルのクリスマスツリー

そして、今夜の夕食は……なんと、鰻丼。地元愛知県の鰻の養殖屋さんに頼んで、真空パックにしてもらい、ボストンまで持って来ていた物に手を加えた。「鰻の養殖」と聞くと、以前は「浜名湖」が有名だったが、今では愛知県幡豆郡一色町の鰻が、一番と言われている。特に名古屋では、「ひつまぶし」という鰻茶漬けをしたりする食べ方がある為か、適度な脂ののりとあっさり感が求められるのだと思う。お陰様で、友達が一色町へ嫁いで居り、毎年の土用の丑の日には、一色町でも、また「特別美味しい」と言われている「藤や」さんの鰻を届けて貰っている。白焼きにして、山葵醤油で食べても一段と美味しいが、やはり蒲焼にして、鰻丼にするのが一番だと、私は思っている
「ひつまぶし」の元祖と言われている「熱田 蓬莱軒」
http://www.nandakana.com/gourmet/atsuta/index.shtml


養殖業、鰻卸の「藤や」さんは、飼料に、こだわりがあり(企業秘密だそうだが)1年を越さない鰻(新子)だけを、市場に出している。新子の鰻は、その1年目の夏しか紫外線を浴びていない為、皮も柔らかく、くどさが全く無い。いつもボストンに来る時は、友達にお願いして手に入れて貰い、持って来ているが、疲れた時のエネルギー源にもなる気がする。「藤や」さんの鰻を食べると、とても、冷凍で売っている鰻には手を出そうと思えないのだ。「藤や」さんの鰻は、素人の私が焼いても、まあまあ行ける(と、思っている)のである。今日も、炭火ではなかったが、オーブンを使って、何とか香ばしく焼けたので、美味しく食べる事が出来た。満足した。

クリックすると元のサイズで表示します お手製鰻丼(ピンボケで失礼します)

○注「新子とは去年の秋に生まれた白子(しらす)で、今年大きくなったもの」
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2005/11/26

Thanksgiving Day(感謝祭)  ボストンの思い出

サンクスギビングの昨日(アメリカ時間の24日)知人のWさん宅に招いて頂いた。本来なら七面鳥を食べるのだが、今ひとつ美味しくないとの事で、グースの丸焼きを用意して頂いた。オーブンで2時間半焼きこまれたグースの皮はとても美味しく、お肉も淡白な味で、ニューイングランド名物「クランベリー」のソースをつけて食べるととても美味しかった。そして更に用意して頂いた鶉も、お肉が柔らかく日本の焼き鳥を思い出させる味だった。

クリックすると元のサイズで表示しますWさんご夫婦の手間隙と、愛情の篭った手料理グースの丸焼きとシャンパン(私はアップルタイザー)で感謝祭を祝った。
クリックすると元のサイズで表示します 柔らかくて、とても美味しい鶉の肉

☆サンクスギビングとは……
宗教革命の嵐の吹き荒れていたイギリスから、分離派のピューリタンが、国教会の弾圧を逃れてオランダに亡命。しかし生活苦に悩まされ、信仰に基づいて自由な新天地を求め、1620年、冬、メイフラワー号(Mayflower)でマサチューセッツ州のプリマスに到着した。102人のピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)と呼ばれた彼らだったが、寒さと食料不足に為、半数以上が命を落としてしまう。生き残った者達は、先住民のインディアンから、狩猟や農耕を学び、翌春と夏は必死で働いた。そして収穫の秋を迎えた。収穫を喜び、神に感謝をする為、彼らは集って会食を催した。その席に、彼らの恩人でもあるインディアンも招かれ、七面鳥やかぼちゃなどを食べ、神に感謝を捧げた。これが、現在のThanksgivingの始まりである。○参考 アメリカの祝日より


クリックすると元のサイズで表示します 66日かかり、大西洋4400キロを渡った  メイフラワー号

アメリカでは11月の第4木曜日のThanksgiving Dayと、翌日のAfter Thanksgiving Day、そして土日を合わせた4連休は、学校、会社、公共機関等の殆どが休日となる。水曜の夜には、故郷に帰るため、大移動を開始する。ゆえにこの日は、1年で1番、高速道路や交通機関は大混雑する日らしい。そしてThanksgiving Day当日は、七面鳥やパンプキンパイなど、Thanksgivingに因んだ料理や、それぞれの家庭での定番料理等のご馳走を家族や親戚で囲み、食べ物を与えてくれた神に感謝し、アメリカンフットボールや、各地で行われるパレードの中継をテレビで見ながら楽しく語らう、というのが一般的な過ごし方である。また、Thanksgiving 当日は、殆どのお店が閉店。24時間営業しているコンビニやファーストフード店も、完全休業か半日営業になってしまうから要注意でもある。しかし翌日の金曜日から、約1ヶ月後のクリスマスに向けての正式なショッピングデーの始まりになり、金曜日は、After Thanksgiving Day限りの大安売りが、彼方此方のお店で展開されるそうだ。
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2005/11/25

体操世界選手権 個人総合31年ぶり金メダル  日記(今日思うこと)

体操の世界選手権第3日目の24日、オーストラリア、メルボルンのロッド・レーバー・アリーナで男子個人総合決勝が行われた。そんな中、冨田洋之(セントラルスポーツ)が56.698点で日本勢31年ぶりの優勝を果たした。富田洋之といえば、アテネオリンピック、男子体操団体の鉄棒の最後の演技者で、「新月面の描く放物線は栄光への…」と解説者が興奮して叫んだ記憶が新しい。最終演技者のプレッシャーも跳ね除け、気がつけば、鉄棒演技者の最高得点。2位のアメリカに1.0近い差をつけ圧倒的強さでの金メダルだった。そんな英雄になっても、彼は朴訥として、はにかむような笑顔しか見せなかった。

クリックすると元のサイズで表示します水鳥寿も大健闘し2位になり金・銀と日本選手が独占した。

種目別、力技の吊り輪の演技でも、苦しい顔を全く見せず、解説者曰く「まるで自分の部屋で寛いでいるかのような」演技だった。跳馬も着地をぴったり決めた。審査員の点数には恵まれず、メダルには届かなかったが、彼の美しい演技に、眠るのも忘れてTVに釘付けになったものだった。鹿島、米田、塚原の陰で、目立つ存在ではなかったが、地道に、体操の基礎を重視し、努力を重ねて来た富田が、今回の世界大会で、1974年の笠松茂氏以来、31年ぶりに、個人総合の金メダルを取った事は、私にとっても、とても喜ばしい事であった。

クリックすると元のサイズで表示します 唯一得意でない床運動も克服しつつある。

以下、富田洋之の体操感と、アテネオリンピックまでの経過と戦績?を書いて置きたい。
冨田洋之の演技には、体操競技の基本とも言える「美しさ」が集約されている。指先から足先にまで全神経を集中させ、体線を真っ直ぐに保ち、技の正確さを追求する。とかく難易度の高い技に走りがちな現在の体操界において、冨田は常に体操の本質を忘れる事無く、練習を続けてきた。 美しさより、正確さに重きを置くというシドニー五輪後のルール改正も、冨田を後押しした。更に正確な演技をする事は、美しい演技になるという事を富田は実証する。2001年11月の全日本選手権(高知)では個人総合で初優勝。翌年3月のアメリカンカップ(米国・フロリダ州オーランド)で同3位に入った時には、地元のメディアが「これぞ、体操だ!」と冨田の演技の美しさを絶賛したという。

クリックすると元のサイズで表示します 足先まで神経が行き届き美しいと定評があるあん馬

2003年8月の世界選手権(米国・カリフォルニア州アナハイム)は、各国の体操関係者やファンに、「富田」の名を知らしめる大会となった。最初の床でミスが出て、出遅れたものの、あん馬で9.737、平行棒で9.687とそれぞれ出場選手中最高の得点をマーク。個人総合で合計57.435点をたたき出し、銅メダルに輝いた。また、同じく銅メダルの団体でも日本チームのエースとして終始安定した演技を行い、8年ぶりのメダル獲得に大きく貢献する。しかし、冨田は満足していなかった。「自分のふがいなさを痛感する大会になってしまった」とコメントした。その言葉から、あくまでも完璧を求める冨田の美学が垣間見えた。

富田は、1992年バルセロナ五輪で6個の金メダルを獲得した旧ソ連合同チームのビタリー・シェルボ(現ベラルーシ)を見た時、そのあまりに美しい演技に魅了されたことがその後の冨田の方向性を決めたという。「体操は相手と戦うスポーツではない。自分の演技が完ぺきにできるかどうかです」。そんな風に語る冨田にとって、美しい体操は、永遠のテーマだという。。全6種目に苦手のない冨田が自分の演技に満足した時、世界の舞台で、個人総合優勝は着いてくると、信じていた。

クリックすると元のサイズで表示します 富田の鍛えられた体と対照的なはにかんだ笑顔

日本に居たら、多かれ少なかれ、TV放映もあっただろうと、日本に居ない自分がとても悔やまれる。
それにしても、全種目を通じて高得点を取る事は、肉体的は勿論、精神的にも、相当な強さが必要だと思う。練習の虫、努力の人、富田が、世界一となった事は、少し遅すぎる気もするが、とても、嬉しく、お目出度い事だと思った。「富田君、個人総合、金メダル、おめでとうございます」


◎冨田洋之選手の最新記事は、2006年11月8日の
「体操を芸術に…冨田洋之…「情熱大陸」を観て。」に書いています。
宜しければ、カレンダーの日にちをクリックしてご覧下さい。
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2005/11/24

寿司懐石 お任せコース in Boston 「Misono」  ボストンでのお薦めのお店

昨夜11月23日、ボストン市内から車で20分程のチェスナットヒルという所にある「Misono」という和食のお店へ4人で行った。その店にOさんという寿司シェフが就職なさったからだ。Oさんは、ボストンでは貴重な日本で修行なさった本格的な寿司食人さんである。以前ケープコッドのお店においでになり、私はOさんの御寿司を食べたさに、出向いていたくらいだった。私はグルメとは程遠いが、日本の寿司職人の腕と、アメリカの食材の良い所を融合させたOさんの御寿司は、日本で食べられない味で、ボストンに来ると食べられると、とても楽しみにしていた。

お店は、テナントの中に有り、駐車場も広く、開放的な雰囲気だった。経営者は韓国の方だそうだ。中に入ると、一番奥の寿司バーでOさんが、手を振って出迎えてくれた。私はぺリエ(アルコールは飲めない為)を注文し「お任せコース、寿司懐石」を注文した。Oさんの御寿司を食べるのは1年ぶりだった。何だかわくわくしていた。まず、前菜としてサラダがでた。Oさんオリジナルのドレッシングが、さっぱりしている。アメリカで食べるサラダは、こってり系が多く、また野菜もシャリシャリ感が少ない。この前菜としてのサラダは、レタス、パプリカ、きゅうり、全て歯ごたえがあってとても美味しく、更に上に乗った青紫蘇が、良い香りを放っていて食欲をそそった。

以下、出して貰った料理。

1 サラダ
2 あん肝
3 平目のお刺身
4 サーモンの皮巻き(蒸した物)
5 マグロ、ハマチ、アボガドを和えたもの

以下 御寿司
6 ぼたん海老(握り)
7 マグロのとろ イカ(握り)
8 うに(軍艦巻き)
9 あん肝(巻き物) 
10 海老とホタテの飛び子巻き

☆主な料理の写真(御寿司は2人前)

クリックすると元のサイズで表示します あん肝 ランプフィッシュの卵乗せ     特製ソース

クリックすると元のサイズで表示します サーモンの皮を巻いた蒸し物

クリックすると元のサイズで表示します 握り寿司 ぼたん海老

クリックすると元のサイズで表示します マグロのとろ イカ(湯引済み)      (青紫蘇と梅肉挟み) 

クリックすると元のサイズで表示します うに軍艦巻き

クリックすると元のサイズで表示します 巻物あん肝
         食紅で染めた大豆ペーパーで巻いてある

クリックすると元のサイズで表示します極上に美味しかった。生きていて良かったと、大満足で帰宅し眠りについた。
尚、近々Oさんの提案で、器も有田焼(香蘭社)に変更されるという。白磁の器に変わり、Oさんの料理が、更に引き立つのを、とても楽しみにしている。
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2005/11/23

万次郎が暮らした街を訪ねて 番外編 万次郎とRedSox  敬愛する「ジョン・万次郎」

去る11月19日土曜日、知人・Yさんのご好意で車に乗せて頂き、万次郎の縁の地を訪ねた。過去にも2度程、訪れてはいるが、肝腎の万次郎の部屋が設けられているミリセント図書館が閉館日ばかりに当たってしまい、入れてはいなかった。今回、3度目の正直となり、ようやく入館する事が出来たのだ。ボストンを訪れる以前、万次郎に関しては、井伏鱒二の「万次郎漂流記」を読んでいたものの、アメリカに於ける万次郎の活躍ぶりを知る事はなく、フェアへプンに行き地元の人々から聞いた、革新的で才能に溢れ人々に愛された万次郎像は、目から鱗状態だった。今回、初めて万次郎の部屋を訪ね、ブログに記録していく為に、彼方此方の記録を調べて行くにあたり、万次郎とベースボールとの結びつきを見つけた。

メジャーリーグ、遡っては、近代野球の生みの親とも言われているアレキサンダー・カートライトは、1845年頃、ニューヨークのマンハッタンで銀行員をしていた。当時のニューヨークでは、火事が多かった為、ボランティアの消防団を組織し、団員の団結を図り、運動不足を解消する為に、リクリエーションとして「タウンボール」というスポーツを導入した。タウンボールとは、ヨーロッパでは、18世紀からプレーされ、イギリスではラウンダースと呼ばれていた球技が、アメリカで名を変えたものであった。カートライト達はタウンボールのルールを、自分たちに合うように細部を変えてプレーして行った。これがベースボールの起こりとなった。  

カートライトが設定した「基本ルール」例
1、 塁間を90フィートとする。
2、 1チーム9人編成。
3、 ファウルとフェヤーの区別をするラインを引く。
4、 アウト3個で攻守交代とする。
5、 アンパイヤーは「ストライク」とコールする権限を持つ。
6、 ボールを帽子で捕球してはならない。


クリックすると元のサイズで表示します 近代野球ルール生みの親、アレキサンダー・カートライト(消防団の服装)

実は、そのカートライトが、何と、その若き時代、フランクリン号に乗船し、捕鯨船の仲間として万次郎と、同じ時間を過していた事が判った。副船長に選ばれる程、人望のあった『万次郎とカートライトは友人でもあった』との記載だった。☆「ジョン万次郎とその時代」より引用。
捕鯨船フランクリン号は、万次郎と変らず、カートライトにとっても「エール大学であり、ハーバード大学」でもあったのだ。私には、捕鯨船に乗った若き船員達が、世界各地を観て周り、自分達の将来の夢を語り合っている情景が目に浮かんで来るように思えた。当時捕鯨船に乗る事は、命がけではあったが、正にアメリカの若者達の壮大なる浪漫でもあった。やがてカートライトは船を降り、ニューヨークに行き、銀行マンとなる。その傍ら、自分の会社も設立し大成して行くであった。

このカートライトが作ったルールに則ったベースボールは、アメリカ北部と東部を中心に人気を博し始め、1858年には最初の野球協会が発足する。そして1861年から1865年に起こった南北戦争では、南軍の兵士の間でも余暇にベースボールが行われた。カートライトが作ったルールは、アメリカの立法・行政・司法の三権分立のデモクラシーをスポーツに移し変えたようなものであった。ゆえに、兵士達の士気高揚と団結を促すのに役立ったという。戦争の後、このベースボールを経験した兵士達は、故郷に帰り、ベースボールをそれぞれの町で伝えた。これが元で一気に全米へとベースボールが伝授され、各地で野球チームが生まれた。これがプロ野球発生の下地となって行った。

クリックすると元のサイズで表示します 1945年頃・野球を楽しむ風景の絵

尚、カートライトが所属していたニューヨークの消防団チーム「ニッカボッカーズ」には、ハリー・ライト、ジョージ・ライト兄弟も属しており、彼らは、1869年、初めてのプロ野球チーム、「シンシナティ・レッドストッキングス」を発足した。このチームは、経営難で、一旦は潰れてしまうが、ハリー・ライト達は懲りる事無く、本拠地をボストンに移し、現在の「レッドソックス」の祖となるチームを創設したのだった。また、この頃選手の給料は、ポジション別に始めから設定されていたそうだ。

◎以下、MSNニュース・メジャーリーグコラム
http://inews.sports.msn.co.jp/columns/MLB_970.html

クリックすると元のサイズで表示します 足摺岬に立つ万次郎の銅像 手にはコンパスと定規を持ち、遥か遠いフェアヘヴンを見つめている

私の中で、ボストン・マサチューセッツという地名以外、殆ど関りの無かった、「万次郎」と「レッドソックス」の点と点が、捕鯨船・カートライトというキーワードで結ばれ、1つの線となり、繋がっていった。160年の時を超えて、万次郎が、カートライトと共に、ベースボールを楽しんでいる姿が、目に浮かんで来るようで、思わず涙汲んでしまった。

○参考文献
西東  玄 著  「ジョン・万次郎」
永国 純哉 著  「雄飛の海」
川澄 哲夫 編集 「ジョン万次郎とその時代」
佐山  和夫 著  「メジャー・リーグを100年分楽しむ」

○参考サイト
ボストン・レッドソックス公式ページ
MSN-MAINICHI INTERACTIVE ホームページ
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2005/11/22

万次郎が暮らした街を訪ねて 第3章  敬愛する「ジョン・万次郎」

万次郎が降り立った異郷の地は、「ノフスメリケ」Nouth America 「マセツーセッツ」Massschusetts 「ヌーベッホー」New Bedford という港であった。恐らく土佐訛りの万次郎の耳には、こう聞こえただろう当時のニューベッドフォードは、捕鯨とそれに属する産業―蝋燭などの鯨製品、造船、銛、大包丁、油桶等の製造で栄えていた。また、世界の隅々から捕鯨船に乗って、風習、言語を異にする人々が集まり、国際社会の縮図でもあった。ゆえに遥か遠い東洋の国から来た万次郎が、ジョン・マンとして街に受け入れられた事も納得できる。万次郎はホイットフィールド船長の家に住み、農場を手伝いながら、『写字(スペリング)』の勉強に励んだ。更に日本では武士以外許されていなかった馬に乗る事も教えられた。後に明治政府が「平民へ苗字・乗馬を許した事」のも帰国後の万次郎の助言に拠る所が大きいと推察される。

クリックすると元のサイズで表示します万次郎が3年間暮らした家。フェアヘヴン

ホイットフィールド船長は、万次郎の、これまでの捕鯨に於ける勇気と技術をかっていた為、捕鯨専門学校に入学させようと考えていた。まず、オックスホードスクールに入れ、小学生に混じって「横文字、算術学」を修行させ、農事の暇をみては、毎日写字、スペリングの練習に励ませた。そして10ヶ月後、「ハアツレイアカデミー」への入学を許される事となる。アカデミーで、万次郎は、航海術、測量術、高等数学を学び、ジョン・ハヲラン号での捕鯨実地訓練の甲斐も手伝って、優秀な成績で卒業した。万次郎は、フェアヘヴンに住んだ3年間で今の学校教育になぞらえると、高校を卒業し、専門学校をも卒業した事になったのである。然るに封建時代の土佐では、その才能を発揮する事は不可能だったに違いなかった。

クリックすると元のサイズで表示します      万次郎直筆のアルファベット文字

万次郎はフェアヘブンで、人間は平等である事を学び、自由な青春時代を過ごしてはいたが、やはり、土佐の母親の事を忘れた事はなかった。母親の縫ってくれた着物を取り出し涙ぐむ事も、しばしばあったという。フェアヘヴンに住んで3年、無人島で救出されて5年が過ぎた時、ニューベッドホードから出港するフランクリン号という捕鯨船に、乗り込む機会が与えられる。万次郎を乗せたフランクリン号は鯨を追いながら、大西洋を渡り、ケープタウンからインド洋を抜けて太平洋に出た。そして日本近海で仙台の漁船と出会うが言葉が通じず、上陸は諦めた。更にそのまま太平洋を東を向い、ホノルル港へと寄港する。そして万次郎は、一緒に漂流した仲間達3人と再会を果たした。(その内の1人、重之助は既に死亡していた)

そして、フランクリン号は、今度は進路を西にとり、マニラに寄港する。その頃、船長のデービスが精神に異常を来たしていた為、船上では新しい船長を選挙にて選ぶ事になり、一等航海士のエーキンと万次郎が同点を獲得する。結局年上のエーキンが船長となるが、万次郎は一等航海士兼、副船長に選ばれた。後に万次郎は「大統領も入れ札にて選ばれ、上下に隔たり無し」とその身分差別の無い実力主義を述べている。万次郎の航海士としての凄腕ぶりは、通訳として乗り込んだ咸臨丸でも発揮され、勝海舟らも平伏していたのだが、万次郎にとってフランクリン号の船上での3年余りの生活は、正に「私にとってのエール大学であり、ハーバード大学でもあった」(白鯨より)如く、言葉、捕鯨術、航海術全てに於いての学び舎だったに違いない。

クリックすると元のサイズで表示します       万次郎壮年時代の貴重な写真

万次郎は、ホイットフィールド船長の農場に帰り着いた。船長は万次郎の成長振りを大いに喜び、このままフェアヘヴンに留まり、鯨捕りとして大成する事を望んだ。しかし万次郎には夢があった。当時西海岸では、砂金が発見されゴールドラッシュに沸いて居り、船長を説得して、西海岸、カリフォルニアのサクラメントへ単独にて渡る。万次郎は砂金でお金を貯め、日本へ帰国する事を考えたのだ。フランクリン号で世界の海を旅する間、日本が鎖国しているゆえに各国の船が寄港できないという悪評を聞き続けていた。万次郎は命をかけて帰国し、琉球辺りにアメリカの捕鯨船が自由に入稿できる港を開くよう、直訴する事を決意していた。そうする事がホイットフィールド船長への恩に報いる事であり、日本の為にもなると信じていたのである。ホイットフィールド船長宛てに手紙を書き『世運循循(まわりまわり)再謁の時無かるべからず』世の中が変わり、再会出来る事を誓ったのだった。この時、万次郎は23才になっていた。
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