2005/11/6

「前例がない。だからやる」樋口廣太郎氏の言葉 その1  日記(今日思うこと)

名古屋市内に、アサヒビールの工場がある。最近は、ワイナリーにしても、酒蔵にしても、工場を見学出来るようになっているが、バス以外で、個人で行くとすると、そのお楽しみである試飲をする為には、お酒を飲まない運転手が必要となる。そういう時、アルコールは、全く飲めない下戸の私に、白羽の矢が立つ事が多く、私も休日と重なっていれば、誘われるままに出かけたものだった。だから、私はアルコールは一滴も飲めないくせに、妙にアルコール類に詳しかったりする。実際にアサヒビールの工場見学には、違うメンバーで3回、行っている。余談になるが、2003年6月1日に改正道路交通法が施行された時には、偶々ボストンへ行っていて、法律が変った事に気付いていなく、帰国した途端、彼方此方から「食事に行こう」とお誘いがあったのを、「私って、急に人気者になった?」と、勘違いしてしまった位であった。まあ運転する事も嫌いでは無いし、飲める人達からは、便利な運転手として珍重されて?いたのだ。
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アサヒビールといえば『スーパードライ』を思い浮かべる程、今でこそ、そのブランドの代名詞のようになっているのだが、このビールが生まれるまでには、ビール業界では素人だったある人が、社長に抜擢?され、その柔軟な発想と行動力とで、茨の道を歩んだ道のりの結果があった。そのある人とは、樋口廣太郎氏。。。現在はアサヒビールの会長を務めながら、経団連副会長、日経連常任理事等を兼任されている。私は、幸運にも樋口氏の講演を聞く機会があった。その時、買い求めた著書『前例がない、だからやる』を、何かある度に広げて読んでいるが、いつ読んでも新鮮で、心が洗われるように感じるのは、その本の中の言葉全てが、ノンフィクションであり、樋口氏自身の血の滲むような体験から生まれた魂の言葉『言霊』だからだと、思っている。
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樋口氏が、住友銀行開設以来の最年少記録を更新して、副頭取になり、そして、その手腕を買われて、アサヒビール社長に就任した1986年、当時、アサヒは「夕日ビール」とまで嘲笑われ、シェアは10%を割り込み、業績は最悪の状態にあった。樋口氏は、街の酒屋に足を運び、自社製品を探して歩いた。どの酒屋も置いてある事が少なく、例え置いてあったとしても、冷蔵庫の隅に数本だったそうだ。樋口氏は、その数字だけでなく、現実に厳しさと向き合い、対策を考えた。樋口氏が何をしようかと、まず思いついた事は、取締役会から猛反対にあってしまう。何故なら、それはビール業界では、ライバルであったキリンビールの小西会長(故人)や、サッポロビールの河合会長に会う事だったからである。取り締まり役達は「そんな事は馬鹿げていて、恥さらしだ」と批判したが、樋口氏は、「私はビール業界では素人なので、その道のプロの方に、お話を聞いて来るのです」と謙虚な気持ちで、出向いたそうだある。その時、快く対面されたキリンビールの小西会長とのやりとりが、とても面白い。樋口氏…「どうして、アサヒは売れないのでしょう?」小西会長…「まずいからです」……当り前の言葉だったが、樋口氏にとっては、目から鱗だったという。更に「美味しいビールを造るのには、良い材料を使った方がいい」と、小西会長は、アドバイスされたのだそうだ。
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樋口氏は、即行動を起こした。開発部に行き「良い材料を使う事」を徹底した。世界の原材料をつぶさに調べ、良い「麦芽とホップ」に、こだわった。そして、店頭に出ている自社製品の回収に取り掛かり、3ヶ月以上経過したビールは全て撤退させた。これは、サッポロビールの河合会長のアドバイスに従った行動だ。(撤退費用・総額15億円)更に工場では、製造から出荷までの期間を短縮することを目指した。この鮮度の追求(フレッシュローテーション)は後に酒販店から高く評価された。(1996年の時点で、工場製造から販売店まで、5日を要さない実績を残す)
   参照・アサヒビール名古屋工場HP→http://www.asahibeer.co.jp/quality/
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2005/11/6

「前例がない、だからやる」樋口廣太郎氏の言葉 その2  日記(今日思うこと)

そして遂に1987年3月17日。開発に関った松井康雄氏らの不眠不休の努力の結果、日本初の辛口ビール「スーパードライ」が発売される。試飲した樋口氏は、営業利益がゼロに、なるまで、広告費と販促費を投入することを宣言した。全国を縦断するキャラバンが編成され、百万人にサンプルが配られた。その結果、スーパードライはブームを起こし、当初見込みの100万ケースを遥かに上回る1350万ケースという空前のヒットとなり、ビール業界に衝撃を与えた。
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樋口氏の配下、アサヒは営業・生産・物流の各部門が一体となり目標達成に向かって邁進した。スーパードライは翌1988年に7500万ケースを出荷し、1989年には1億ケースの大台に乗った。彼の社長在任の6年間に、アサヒは売上高を3.1倍に伸ばし、シェアは9.6%から25%となり、一気に業界第2位に浮上したのである。このように、前例の無い『タブー』に挑戦し、ユウヒ(夕日)と陰口を言われていたアサヒ(朝日)を本当の意味で、暗闇から、登らせたのであった。樋口氏は、尚も語っている。「逆境こそがチャンスだ」逆境に遭遇して初めて、自分の弱点が見え、自分が育つ事が出来るチャンスなのだと。。著書の最後に樋口氏は、チャップリンの晩年の言葉で締めくくっている。「自分にとっての最高傑作な作品は、次の作品だ」
……樋口氏の烈々たる気力と、何処までも前向きな生き方を、語っているかのようだった。
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◎箸休め
樋口氏を私と同様?(と言っては大変失礼だが)敬愛されている方に、某大病院の院長先生がおいでになる。その先生が、新年の訓示として、病院スタッフの方々に樋口氏の話をされたそうだ。スタッフの方達が、固唾を飲んで聞き入る最後に『逆境こそ、ピンチ』と、のたまわった。隣で秘書さんが「先生、チャンス」と囁き続けた甲斐もなく、『逆境こそ、ピンチ』と何度も繰り返されたそうである。秘書さんは、大変嘆いて私に話して下さったが「文脈はどうあれ、間違ってはいない」と思ってしまった。その先生も、自ら先陣を切られるタイプの経営者様で、それでいて、大変心の暖かいお医者様である。
 ◎参考 「前例がない、だからやる!」樋口廣太郎著 実業之日本社
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2005/11/6

鈴子と名乗るオーストラリア人(高校時代)その1  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

高校2年の春、オーストラリアからの交換留学生とやらで、リン・ハドウという子が私達の学校にやって来た。リンちゃんは自分の家に、日本人をホームステイさせた事もあり、日本が大好きで、既に2年間、日本語を学んでの来日だった。リンちゃんが転校?してきて間がないある日、いきなり校長先生から私は呼び出された。この校長先生のFシスターは、日本人だったが、生徒を呼び出す時は、放送室へ行って、ピンポンポポーンとか言うイントロの音を使わず、いきなり「2年1組○○、校長室まで」と言うから、いつもドッキリとさせられる。しかも、私の場合、殆どが、ドッキリするような内容ばかりで呼び出されていたので、この時も、まりものように毛が生えている、と言われていた心臓も、円形脱毛症になりそうだった。
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するとFシスターは、「リンちゃんの面倒を見てあげて」と私に依頼した。一瞬何かの間違いではないかと、思った程だ。という訳で東海道中膝栗毛(ヤジキタ道中)と名付けられていた私とゆうちゃんに、リンちゃんが加わり、かしましトリオが誕生した。私はリンちゃんに鈴子と名前をつけた。リンちゃんは、とても気に入ってくれたは良かったが、公式な書類にも書くようになってしまい、困ったりした。リンちゃんは、日本語がとっても上手だったが、人真似も上手かったので、例えば私達が友達同士で「オハヨッ」と言ったり、更に「チワーッス」と言ったりすると「カンタンガ イイネー」とか言って忽ち覚えてしまい、それをシスター達に堂々と言ってしまったりするから困ったものだった。そして、「そんな言葉を、誰から教わったのですか?」と聞かれると、100%私の名前を言うものだから、半分は濡れ衣だったりしたのにも関らず、全て私が呼び出され叱られてしまっていた。そうこうする内に、修学旅行の時期が来た。
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修学旅行の班分けは、クラスを取り払って、くじ引きで行われた。修学旅行先は北海道。私は広大な大地というイメージもあり、とても楽しみにしていた。リンちゃんは、当然のようにシードされて私の班と決まっていた。後2人、4人で一班とされていたのである。くじを引いて暫くすると、ゆうちゃんがやたら嬉しそうに「ほたるー、一緒」と叫んで来た。これでは、いつもと変らないではないか。何の為に、くじを引いたのか意味が無いと、私は、うな垂れてしまった。ゆうちゃんとは、夏休み等に教会のボランティアで、泊まりで彼方此方行った事があったが、まず部屋を出る時の荷造りにしても、ぶつぶつ言いながら、あれやこれやと、動かしているだけで、私から見ると、出しているのか、入れているのか分からない感じだった。結局、ジタバタした挙句に入りきらず、2人して押さえ込んで閉める、そんな経験を何度もして来ていた。9泊10日の先行きが、思いやられる嫌な予感がしていたのだった。
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北海道に入り、私の予想に反して手がかかったのは、ゆうちゃんではなく、リンちゃんだった。まず北海道は寒い。私達の服装は、制服のブラウスにジャンバースカート、そしてカーディガンだったが、体操用や作業用にと紺色のジャージもあって(勿論、ピチブルマもあったが)滞在先ホテルの部屋着となっていた。リンちゃんは、そのジャージを寒いからと、ジャンバースカートの下に履いて、行動していた。札幌の繁華街でも平気だった。私が「その組み合わせは可笑しい」と言っても、「ユニファームダ」と言い張ってジャンバースカートは脱がないし、だったら「ジャージは止めてタイツにしたら?」と言えば「サムイカラ」と履いたままであり、思いの外、頑固者だった。私達は一緒に居るのが恥ずかしかった。
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ゆうちゃんも私も、何処かでリンちゃんをギャフンと言わせたいと、思っていたに違いない。層雲峡のホテルでの夕食時、フランス料理のコースの中に「北海道のお雑煮」のサービスが着いて来た。リンちゃんは私に「ホタル、ドウシテタベル」と聞いて来たので、箸が置いてあったが、ここぞとばかりに閃いて「ナイフとホークで食べるんだよ」と教えてあげた。リンちゃんは、ナイフとフォークを手に持って、お椀の中のお餅と格闘していた。お餅とは、思った以上に切れにくいものだった。そして、リンちゃんが必死でお椀に向かって格闘している間に、私達はさっさと、お餅を食べてしまい、そ知らぬ顔をしていた。しかし、やはり悪い事は出来ないものである、当り前だがFシスターに見つかり、私達は大目玉をくらってしまった。
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2005/11/6

鈴子と名乗るオーストラリア人(高校時代)その2  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

更にである。根室では民宿風の旅館だった。何と其処はトイレが外にあり、汲み取り式だった。夕食の前だった。リンちゃんは「コワイ、ハイレナイ」と言い続けて入らなかった。ゆうちゃんと私は、困り果てたが、リンちゃんも我慢が限界だったのだろう。「ドアヲ アケテスル」とか言い出した。それもまた困るので、ゆうちゃんが「ここに掴まって、こうすればいい」と、実践さながら丁寧に教えこんだ。それでやっと1人で入ってくれる事になった。私達は安心して、部屋に戻り食卓を前にお祈りをしようと、リンちゃんを待っていた。しかし、リンちゃんは、なかなか帰って来なかった。私達はトイレまで様子を見に行った。すると、トイレの中から「Oh ーーaaaQQQuuu」(英語で意味不明)とリンちゃんの叫び声が聞こえていた。耳をすませてよく聞くと、何と、靴を落としたと言っていたのだ。そして窓から手を伸ばし、朝顔とかに使うつるべ取りの棒を取り、靴を取ろうとしていた。(汚い話で、大変申し訳ございません)
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私達は「もう汚いから」と説得したが、リンちゃんは「ユニフォーム、アタラシイ」と言って譲らなかった。仕方がないので、一緒に取るのを手伝った。旅館の番頭さんもやって来た。シスターも来た。しかし誰が何と言っても「トル」と言って聞かなかった。結局、ゆうちゃんと私が拾い上げ、外の水道を借りて洗う事にした。その惨憺たる光景は今でも、思い出したくない程だった。しかも結局、革靴なので水に浸けると縮んで固くなってしまい、履く事は不可能だった。リンちゃんは、そこでやっと、落とした靴を使用する事を諦めた。その日の私達の夕食は遅くなっただけでなく、けっして美味しくは食べられなかった。更に、リンちゃんは翌日、片方は革靴、片方は、とりあえず買ったスニーカーとの、不揃いの格好で歩くと言うのだ。それも「ユニフォームダカラ」と片方の革靴を指差して、両方スニーカーにすると「ワタシハ ルールイハンネ」と、校則を破る事になると屁理屈を捏ねる。結局そのままの格好で、北海道の街を歩き続けた。
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リンちゃんは、身長も高く、美人であった。だから余計目立った。私達の学校の制服は白いブラウス、グレーのチェックのジャンバースカート、ブルーのベルト。足元はコインローファーの靴、頭にはグレーのフェルトのベレー帽と、当時にしては、なかなかお洒落であったと思っていたが、その服装にジャージのズボンを履き、靴は革靴とスニーカー。傍にいるだけで恥ずかしい格好だった。更にりんちゃんは恥ずかしがるどころか、堂々としていたのだ。今、振り返ると、私の開き直りに拍車がかかったのは、リンちゃんの影響もあったのかと、思ったりする。私の姓を名乗り、自称「鈴子」と言って何処へ行くにも着いて来たがり、彼女の1年間の留学期間、学校での時間の殆どを一緒に過したが、本当は、私が、一寸ばかり迷惑だったりした事を、当時の彼女は知る由もなかった。
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今になっても、毎年、クリスマスの時期には「○○鈴子より」と書かれたクリスマスカードが届く。そのカードには丁寧な日本語で、色々とメッセージが書かれている。今年「愛知万博に来る」と言いきっていたが、お母さんが病気(子宮筋腫)になられて手術された為、断念した。リンちゃんは、久しぶりの日本だと、とても張り切っていて、私達の家に、交代で泊まると決めていたので、実は、お母さんには申し訳ないが、私は、中止になって、ほっとしていたりしたのだった。ゆうちゃんも、かだし同感だった。
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