2005/11/21

万次郎が暮らした街を訪ねて 第2章  敬愛する「ジョン・万次郎」

万次郎とホイットフィールド船長との出会いには、アメリカに於ける捕鯨の歴史が大きく関っている。その捕鯨の歴史はニューイングランドへの殖民と共に始まる。既に座礁する鯨を先住民のインディアンは捕って、その肉を食料とし、また鯨髭は装飾品や鋤や鍬の材料としても使用していた。カヌーで漕ぎ出し、鯨を取り囲み銛を打ち込む原始的な捕鯨術で「背美鯨(セミ鯨)」という繁殖能力の低い鯨を捕っていた(現在では絶滅の危機にある)そのインディアンの技術と、殖民者達の資本力が結びつき、マサチューセッツ州、ナンタケット島を中心に生活資源となって行った。

クリックすると元のサイズで表示します ニューベッドフォード・捕鯨博物館

そして、このナンタケットの一艘の捕鯨ボートが『抹香鯨(マッコウクジラ)』に遭遇する。ハセーという漁師が銛で仕留め、ナンタケットへ持ち帰る。そのマッコウ鯨の頭部からとれる鯨蝋は、万能薬として重んじられ「抹香油一升=金一升」の価値が上がって行く。更に技術が進み、捕獲した鯨を陸に持ち込んで処理していたのが、海上及び船中で処理出来るようになった。この為、船も大型化して行き、更に過剰捕獲の為、沿岸や近海に鯨が少なくなり、やがて遠海へと漁場を広げる事となった。ニューベッドホードが、捕鯨競争に乗り出す頃には、その捕鯨船数は、ナンタケット、ニューベッドフォード合わせて170隻を超えていた。更にアメリカの捕鯨船は、マッコウ鯨を求めて、その漁場を大西洋から、太平洋の日本近郊へと広げて来る事になるのであった。

クリックすると元のサイズで表示します 捕鯨に使用された銛(捕鯨博物館撮影)

当時、マッコウ鯨の頭から採れる鯨蝋は、万能薬と良質の蝋燭の材料になり、鯨髭は縄・女性用のコルセット・乗馬用の鞭・傘の骨等に利用された。また、竜涎香と呼ばれるマッコウ鯨の腸内に出来る結石みたいな物は、香水・薬品・媚薬として珍重された。(捕鯨が禁止されている現在では、過去に採れた物として竜涎香300グラム程の物に100万円の価格がつけられた事もある)更に、元々採り続けていた、セミ鯨から採れる鯨油は、一般の照明や機械油として利用され、石油発掘までのアメリカの産業を支え続けていたのである。その黄金期、1847年には、世界の捕鯨船数が900隻の内、722隻がアメリカの保有であった。正に圧倒的数である。

1841年、ハワイ沿岸を通り、日本近海にその漁場を広げていた、ホイットフィールド船長率いるアメリカの捕鯨船ジョン・ハヲラン号は、無人島に漂着していた、5人の土佐漁民(143日間、鳥や貝で飢えを偲んでいた)を救う事となる。万次郎達5人は、「手招き致し、ここへ参れと申すをカメ(Come here)。手招きは手の裏を上向きにして、上へ招き候。」と手招きの仕方が違う事にも気付き、初めて見るアメリカ人に「見慣れ申さぬ人ゆえ、気味悪しく」と思いつつも、船中で言葉を少しずつ学び、やがては、捕鯨の手伝いもするようになっていく。◎言葉引用=ジョン・万次郎著「亜米利加詞」より

クリックすると元のサイズで表示します ジョン・ハヲラン号の絵                              (ミリセント図書館にて撮影)

5人の中で1番年も若かった万次郎は、英語の覚えも早く、利発であった為、捕鯨術にも逸早く慣れ親しんで行ったらしい。ハワイ・ホノルル港に一旦寄航したジョン・ハヲラン号は、漂流民の筆之丞始め4人を、ハワイの牧師に預け出航する。ホイットフィールド船長の熱い要望と、万次郎の意思により、ただ一人万次郎だけが、アメリカへと連れて帰られる事になった。ここに船の名前を貰った「ジョン・万次郎」が誕生する。やがて、万次郎の未来を乗せた、ジョン・ハヲラン号は、南太平洋で捕鯨を続け、ホーン岬を経由して、マサチューセッツ州、ニューベッドホードに到着した。こうして万次郎は、アメリカの地にその一歩を踏み出した。それは鳥島で救出されてから2年後の初夏の事であった。
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2005/11/21

万次郎が暮らした街を訪ねて 序章  敬愛する「ジョン・万次郎」

19日のボストンは冷え込んだ。朝8時にボストン在住の方々と待ち合わせをして、車でフェアヘブン、そしてニューベットフォードへ連れて行っていただい た。この地方では今でもなお、Manjiroは英雄である。今年10月5日にも、姉妹都市・土佐の市民を招いて、万次郎フェスティバルが、行われていた。(2年に1度の開催)☆以下添付写真は、ミリセント図書館内・万次郎の部屋にて撮影
クリックすると元のサイズで表示します 土佐市を始め日本から贈られた品々                         真ん中の刀は、万次郎の長男・中浜東一郎氏(東京大学医学部卒・森鴎外と同期)が寄贈した品

土佐の漁民であった当時14歳の彼は、仲間5人と共に、無人島に漂着して143日目、ホイットフィールド船長の船に助けられ、ハワイへと渡る。その後、自ら希望して、アメリカの東海岸、ボストンの南、当時捕鯨で栄える街フェアヘブンで、船長の家 に住まわせてもらった。若い彼は短い間に、鎖国中の日本では学び得ない多くの知識を身につけた。鎖国中の日本に危機感を覚えた彼は、国や家族を思う気持 ちが募り、命がけで帰国し、その後、明治維新から開国、そして新しい政府の樹立へと進む日本に、多くの貢献をすることになる。明治時代に活躍して名を残 している多くの政治家、思想家が、万次郎の伝える新鮮で新しい考え方に影響を受けている。

アメリカ開国200年の歴史の中で、最も貢献した外国人29傑にジョン・万次郎こと中浜万次郎は、列挙されている。しかし、漁民という身分が低かったからなのか、開国して日米和親条約終結後の日本では、その貢献度を度外視し、漂流民と して冒険的な物語の方で、その知名度が高いようである。彼の扱い方、インパクトにおいて、日米の間で随分な温度差がある。これは、どうも明治維新前後の日本の混乱に あるようだが、この話は、また後程述べようと思う。

クリックすると元のサイズで表示します ホイットフィールド船長と万次郎の絵

日米開戦時の米国大統領ルーズベルトは、親族であるホイットフィールド船長から、万次郎の素晴らしい人となりを知らされて居り、日本人を、かなり信頼していたようである。第二次世界大戦で、アメリカ側からの開戦が遅れ、日本軍からの奇襲という形で始まったのは、万次郎が築き上げた日本人に対する信頼の高さの影響を受け、ルーズベルトは開戦に踏み切れなかった…とする説もある程である。

クリックすると元のサイズで表示します万次郎の部屋が設けられている図書館
                              天皇皇后両陛下を始め、多くの著名人が訪れている。

ボストンに縁があり、数多く行く機会のある中で、私は万次郎の人となりに非常に興味を惹かれるようになった。知られていないだけで、実は日本開国の陰のヒーローでもある彼が住んでいた街に行き、彼の歴史や記録に、実体験として触れる事は、ここ数年来、私が切に願っていたことの1つであった。
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