2005/11/22

万次郎が暮らした街を訪ねて 第3章  敬愛する「ジョン・万次郎」

万次郎が降り立った異郷の地は、「ノフスメリケ」Nouth America 「マセツーセッツ」Massschusetts 「ヌーベッホー」New Bedford という港であった。恐らく土佐訛りの万次郎の耳には、こう聞こえただろう当時のニューベッドフォードは、捕鯨とそれに属する産業―蝋燭などの鯨製品、造船、銛、大包丁、油桶等の製造で栄えていた。また、世界の隅々から捕鯨船に乗って、風習、言語を異にする人々が集まり、国際社会の縮図でもあった。ゆえに遥か遠い東洋の国から来た万次郎が、ジョン・マンとして街に受け入れられた事も納得できる。万次郎はホイットフィールド船長の家に住み、農場を手伝いながら、『写字(スペリング)』の勉強に励んだ。更に日本では武士以外許されていなかった馬に乗る事も教えられた。後に明治政府が「平民へ苗字・乗馬を許した事」のも帰国後の万次郎の助言に拠る所が大きいと推察される。

クリックすると元のサイズで表示します万次郎が3年間暮らした家。フェアヘヴン

ホイットフィールド船長は、万次郎の、これまでの捕鯨に於ける勇気と技術をかっていた為、捕鯨専門学校に入学させようと考えていた。まず、オックスホードスクールに入れ、小学生に混じって「横文字、算術学」を修行させ、農事の暇をみては、毎日写字、スペリングの練習に励ませた。そして10ヶ月後、「ハアツレイアカデミー」への入学を許される事となる。アカデミーで、万次郎は、航海術、測量術、高等数学を学び、ジョン・ハヲラン号での捕鯨実地訓練の甲斐も手伝って、優秀な成績で卒業した。万次郎は、フェアヘヴンに住んだ3年間で今の学校教育になぞらえると、高校を卒業し、専門学校をも卒業した事になったのである。然るに封建時代の土佐では、その才能を発揮する事は不可能だったに違いなかった。

クリックすると元のサイズで表示します      万次郎直筆のアルファベット文字

万次郎はフェアヘブンで、人間は平等である事を学び、自由な青春時代を過ごしてはいたが、やはり、土佐の母親の事を忘れた事はなかった。母親の縫ってくれた着物を取り出し涙ぐむ事も、しばしばあったという。フェアヘヴンに住んで3年、無人島で救出されて5年が過ぎた時、ニューベッドホードから出港するフランクリン号という捕鯨船に、乗り込む機会が与えられる。万次郎を乗せたフランクリン号は鯨を追いながら、大西洋を渡り、ケープタウンからインド洋を抜けて太平洋に出た。そして日本近海で仙台の漁船と出会うが言葉が通じず、上陸は諦めた。更にそのまま太平洋を東を向い、ホノルル港へと寄港する。そして万次郎は、一緒に漂流した仲間達3人と再会を果たした。(その内の1人、重之助は既に死亡していた)

そして、フランクリン号は、今度は進路を西にとり、マニラに寄港する。その頃、船長のデービスが精神に異常を来たしていた為、船上では新しい船長を選挙にて選ぶ事になり、一等航海士のエーキンと万次郎が同点を獲得する。結局年上のエーキンが船長となるが、万次郎は一等航海士兼、副船長に選ばれた。後に万次郎は「大統領も入れ札にて選ばれ、上下に隔たり無し」とその身分差別の無い実力主義を述べている。万次郎の航海士としての凄腕ぶりは、通訳として乗り込んだ咸臨丸でも発揮され、勝海舟らも平伏していたのだが、万次郎にとってフランクリン号の船上での3年余りの生活は、正に「私にとってのエール大学であり、ハーバード大学でもあった」(白鯨より)如く、言葉、捕鯨術、航海術全てに於いての学び舎だったに違いない。

クリックすると元のサイズで表示します       万次郎壮年時代の貴重な写真

万次郎は、ホイットフィールド船長の農場に帰り着いた。船長は万次郎の成長振りを大いに喜び、このままフェアヘヴンに留まり、鯨捕りとして大成する事を望んだ。しかし万次郎には夢があった。当時西海岸では、砂金が発見されゴールドラッシュに沸いて居り、船長を説得して、西海岸、カリフォルニアのサクラメントへ単独にて渡る。万次郎は砂金でお金を貯め、日本へ帰国する事を考えたのだ。フランクリン号で世界の海を旅する間、日本が鎖国しているゆえに各国の船が寄港できないという悪評を聞き続けていた。万次郎は命をかけて帰国し、琉球辺りにアメリカの捕鯨船が自由に入稿できる港を開くよう、直訴する事を決意していた。そうする事がホイットフィールド船長への恩に報いる事であり、日本の為にもなると信じていたのである。ホイットフィールド船長宛てに手紙を書き『世運循循(まわりまわり)再謁の時無かるべからず』世の中が変わり、再会出来る事を誓ったのだった。この時、万次郎は23才になっていた。
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