2005/11/30

Sushi Net テイクアウトのお寿司屋さん  ボストンでのお薦めのお店

ボストンのロングウッドにあるギャラリア内に、「Sushi Net」というTakeout専用の御寿司屋さんがある。日本人は元より、アメリカ人に好評のこのお店は、私も利用しているが、アメリカ(ボストン?)ならではの、創作寿司がお値打ちに食べられて、とても美味しく嬉しい限りである。メニューには、他のお店でも食べられる「スパイシーツナ」や「ネギハマ」以外に、このお店のオリジナル寿司も色何種類かあって、選ぶ時に、迷うのもまた楽しみの一つだ。

クリックすると元のサイズで表示します ギャラリアの一角にあるお店。      昼食の時間帯は、かなりのお客さんが並んでいる

以下、お気に入りメニュー。
☆CRISPY MAG MAG
マグロ、ハマチ、ネギ、飛び子、天かす等、をスパイシーソースでアレンジしてある。
天かすの香ばしさとマグロの味が微妙にマッチして、美味しい。 8ピース 9ドル

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☆LONGWOOD ROLL
ロブスター、飛び子、アボガド、海老、トマトを醤油で味付けし、パルメザンチーズをまぶしてある。素材も豪華でその贅沢感が嬉しい。 8ピース 9ドル50セント

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また、このお店は、様々なパーティ用にも、予算に合わせて作ってくれるので、詳しくはSusumuさん宛へ、電話するといい。とても親切な方なので、色々と相談に乗って頂けると思う。
Tel 617-731-0046 営業時間 10:00AM〜6:30PM(土・日定休)
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2005/11/30

万次郎暮らした街を訪ねて 第4章 その1  敬愛する「ジョン・万次郎」

ホイットフィールド船長に別れの手紙を書き、サンフランシスコから帰国の途についた万次郎は、アメリカの商船、サラボイド号で、一路ハワイへ向った。ハワイで暮らしている同じ漂流仲間も、出来れば一緒に帰国する気持ちだった。当時のハワイは捕鯨船の休息地であり、様々な情報が集まっていた。ハワイに着いた万次郎が耳にしたのは、まず幕府が「異国船打ち払い令」は解いて居り、捕鯨船に蒔き水くらいは援助するようになっていた事、ロナウド・マグドナルドというアメリカ人が、漂流を装い、北海道から日本に入っていた事、だった。ロナウドは、インディアンの母とスコットランド人の父を持ち、インデアンの祖先は日本人だと信じ、日本に憧れを持っていた。そして父がハドソン湾会社に勤めて居た事から、あの音吉達の漂流話を知る事となり、漂流民を装って日本人の情けにすがろうと、計画を立てたのだ。(当然捕えられ長崎に送られた後、アメリカへ送り返されるのだが、長崎では牢屋越しで、森山栄之助[→注]らに、英語を教えている)

クリックすると元のサイズで表示します 万次郎直筆の美しい英文字
(土佐清水市・ジョン万ハウス)


◎注 森山栄之助
幼い頃よりオランダ語を学ぶ事が、当たり前のように育った。それは森山の家は代々通詞(つうじ)の家系で、父・源左衛門は通詞としては最高位の大通詞になった人でもあったからである。1843(天保14)年3月、24才という若さで、長崎から浦賀奉行所に派遣され、ペリー来航時の通訳として活躍した。

万次郎は、日本への入国する先を琉球(沖縄)と決めた。ハワイからは、3人の内、2人が同行した。既に妻を娶り大工をしていた寅右衛門は、「何処で暮らすも同じ」と帰国しなかった。ハワイを出航後、30余日にて琉球が見える付近に到達した。万次郎達3人は、サラボイド号の船長に別れを告げ、自ら購入し名付けた「アドベンチャー号」という捕鯨ボートで琉球へと向った。翌日の朝、3人は上陸を果たしたが、やはり捕えられ、ボートも持ち帰った品も全て没収されてしまった。(後に万次郎は、咸臨丸で渡米した際も、日本産業への刺激的影響を意識して選び、様々な品を持ち帰ったとされている。ミシン・洋傘・写真の現像機器・薬品等)。

クリックすると元のサイズで表示します 万次郎の写真(捕鯨博物館)

万次郎達は、7ヶ月の取調べの後、薩摩での48日間の取調べを受け、やがて長崎へと送られる。特に琉球での投獄中は簡易な檻であり、外に出て散歩なども楽しんでいたようだが、ひたすら日本詞(日本ことば)を勉強し、脱走する気持ちは無かったようだ。薩摩では、造船・捕鯨・航海術についても、藩主、島津斉彰から質問を受けた。長崎では白州に引き出され、「漂流の次第」の吟味を受ける。万次郎は死罪にならなければ、何にでも耐えうる覚悟が出来ていたようで、堂々としていたという。そして何処でも共通して万次郎が「アメリカについて」語った事は、「亜米利加(メリケ)は大国ゆへ、取るに及ばず」と領土的野心が無い事だった。「英吉利(イギリス)は小国にて」と対外姿勢をイギリスと比較して、執拗に繰り返し続けた。

長崎での10ヶ月の拘留生活の後、土佐に入る事が許される。しかし、また更に50日、取調べの白州に引き出され、「生涯海上の業を禁じ、外国の様子を話すな」と命じられた上、11月12日に、ようやく生まれ育った故郷、宇佐浦に戻る事が出来た。万次郎は10年ぶりに年老いた母と対面できたのだ。しかし、鎖国令を破ったとされた3人への幕府の仕打ちは、情報を得るだけの冷たいものであった。意思の強い万次郎以外の1人、五右衛門は白州での取調べが祟り、33才で狂死したとも言われている。数日後、万次郎だけが土佐藩に呼び出され「定小者」と武士の末端に加えられるが、万次郎の「将軍に直訴してでも開国を…」という夢は叶えられなかった。
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