2005/12/31

亡き友に捧げる鎮魂歌・・・  日記(今日思うこと)

もやもや病から復帰した徳永英明(以下敬称略)は、2006年で20周年を迎える。その徳永が今年9月に女性歌手だけのカバーアルバム「VOCALIST」を発売した。収録曲は、後に列挙するが、中島みゆき「時代」、竹内まりや「駅」、山口百恵「秋桜」、夏川りみ「涙そうそう」一青窈「ハナミズキ」等である。これまでの曲は殆ど自分で書き下ろしてきたが「音楽生活の区切りにボーカリストに徹したアルバムを出すのも面白いと思った」と、初のカバーアルバムを決意したという。

徳永英明/カバーアルバム「VOCALIST」のCDジャケット   クリックすると元のサイズで表示します

徳永は、2001年の5月頃から体調不良を訴え入院した。検査の結果、病名は「もやもや病」と診断された。もやもや病の正式名は、ウイリス(Willis)動脈輪閉塞症と言い、脳の働きを支える栄養動脈が、閉鎖することから起こる病気である。突然半身麻痺になったり、呂律が回らなくなったりする。原因は不明で予防治療も確立されていないとされ、幼児に多いが30代〜40代で発症するケースもある。脳をレントゲン撮影すると血管がたばこの煙のようにもやもや写ることから病名がついた。東洋人、特に日本人に多く、欧米ではまれな疾患で、難病と認定されている。
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以後、徳永は、壮絶な闘病生活の送り、2002年11月14日に復帰会見を行った。2003年1月22日に新曲「君をつれて」発売、と同時に名前を旧漢字に改名して心機一転した。その時の記者会見で徳永は、五分刈りのすっきりした髪型とセーターとジーンズという普段着で登場し。「病気を経験して格好つけずに楽しく歌いたいと思うようになった。過去はしかめっ面で歌っていましたからね」と取材陣を笑わせていた。
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私の元に30日の昼間、Amazonに注文した徳永のアルバム「VOCALIST」が届いた。早速聴いてみた。まずは中島みゆきの「時代」。『名曲』と呼ばれる楽曲をカバーするのには、徳永の声の伸びの無さが気になった。それは発病以前の透き通るような声とは、少し違う印象だった。しかし、聴きこんで行くと伴奏のピアノの音色と共に、徳永の空間すべてを包むような声に、暖かさが伝わって来た感じがした。以前のような声の通る状態では無いが、今回の楽曲に対する姿勢のようなものが伝わってきた。そう、女性ボーカリストの曲を、男性である徳永がカバーすることで、曲との間に程よい距離感が生まれているのだ。有名過ぎる曲達が、どれも新鮮に、初めて出会う物語として聴くことができた。女性が歌うにはリアル過ぎたり、距離が近すぎるが為に見えなかった作品の良さが見えてくる気がした。収録曲の中で特に「秋桜」は、作品の持つ『やさしさ』の部分が際立っていた。

★アルバム「VOCALIST」収録曲

 @ 時代 (作詞・作曲 中島みゆき)
 A ハナミズキ (作詞 一青窈、作曲 マシコタツロウ)
 B 駅 (作詞・作曲 竹内まりや)
 C 異邦人 (作詞・作曲 久保田早紀)
 D シルエット・ロマンス (作詞 来生えつこ、作曲 来生たかお)
 E LOVE LOVE LOVE (作詞 吉田美和、作曲 中村正人)
 F 秋桜 (作詞・作曲 さだまさし)
 G 涙そうそう (作詞 森山良子、作曲 BEGIN)
 H オリビアを聴きながら (作詞・作曲 尾崎亜美)
 I ダンスはうまく踊れない (作詞・作曲 井上陽水)
 J 会いたい (作詞 沢ちひろ、作曲 財津和夫)
 K 翼をください (作詞 山上路夫、作曲 村井邦彦)
 L 卒業写真 (作詞・作曲 荒井由実)

<徳永英明公式サイト>

http://www.tokunagaandtonys.com/index.html/
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30日の夜、仕事を終え、徳永のCDを聴いていた私の元に、高校の同級生、Kちゃんから、友達の訃報が届いた。亡くなった彼女は、6年前、母親から引き継ぎいだ岐阜市内の洋品店を、全面的に新装開店させた。友達として、また、同じ自営でお客様相手の仕事をする仲間として、開店時には、お祝いの花を持って駆けつけた。彼女も遠いので頻回ではないが、遥々来店してくれていた。最後に会ったのは7月だった。偶然ではあるが、彼女は徳永をとても好きだった為、アルバムを聴きながら、「年が明けてお店が落ち着いたら、来てくれるかな」…と思っていた矢先の事だった。Kちゃんの話だと銀行の貸し渋りで資金繰りが追いつかず、思い詰めて自分の命を絶ってしまったのだそうだ。
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絶句してしまった私に、Kちゃんは、「本当に辛い時って誰にも話せないんだね。人に話せる悩みなんて悩みのうちに入らないのかもね」と泣きながらつぶやいた。更に「一週間前に電話で話したけど、『年賀状は、もう書いて出しちゃったよ』と笑いながら言っていたよ」とも話してくれた。Kちゃんと亡くなった彼女は、大学も同じで親友だった。私以上に「どうして、何も話してくれなかったの」と言いたかっただろう。亡くなった彼女は、意志が強くてしっかり者だった。それゆえに、全部独りで背負い込んでしまったのかもしれない。元旦には亡くなった彼女からの年賀状が私にも届くはずだ。徳永英明の優しい声が彼女への「鎮魂歌」のように聞こえた。受けたショックがあまりに大きく、まだ心の整理は出来ていないが、せめて明日は、彼女の傍で年越しをしようと思っている。

★新年まで悲しみを持ち越さないように、というご遺族のご意向で帰宅しました。安らかにお眠り下さい。ご冥福をお祈り致します。
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2005/12/30

イチロー選手の初挑戦・古畑任三郎に初出演とWBC出場  WBC・ワールドベースボールクラッシック

近代五輪(オリンピック)は、1896年アテネで始まったが、第2回パリ大会と3回のセントルイス大会が、同じ年に開催された万国博覧会の付属大会として開かれることになってしまったり、また、セントルイス大会では、40キロのコースで開催されたマラソン競技で、アメリカのフレッド・ローツ選手が、20キロ過ぎで倒れ込み、乗せて貰った車からそのままゴールするという不名誉な事件が発覚し、イメージダウンした。そしてワールドカップも、1930年、ウルグアイ建国100周年を記念した第1回大会が開始されるも、遥か海の向こうの南米への渡航に、欧州からの参加は、フランスを始めとした4ヶ国に留まってしまった。4年後は、ムッソリーニの要請でイタリアで開催されたが、第二次世界大戦後は、長い間中断されてしまっていたという事実があった。
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このように、今では世界のビッグイベントとして、定着している2つの大会も、スタート時は困難の連続であった。メジャーリーグ機構とメジャーリーグ選手会主催で、2006年3月に開幕するワールド・ベースボール・クラシック(WBC)も例外ではないようだ。一昨日正式に不参加を発表した松井を始め、ヤンキースのA・ロットなど、一流選手の辞退が続き、キューバ不参加問題等を抱え、茨の道を歩んでいる。私の知る範囲ではあるが、ここに試合日程・ルールを限定して問題点を挙げて考えてみようと思う。
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1、レギュラーシーズン開幕直前の3月開催。
メジャーリーグが、レギュラーシーズン、162試合を大前提とする以上、選択肢がない。例えば夏にリーグを中断して開催すれば、ワールドシリーズが11月中旬までずれ込み、チームによっては、雪の中で開催する可能性も出てくる。シーズンを継続したまま、WBCを開催すれば、肝心の公式戦が、主力選手不在となり、観客の興味を削ぐ事になってしまう。

2、開幕前の選手を保護する為の、投球制限などの特別ルール。
高額年俸のメジャー選手が怪我をした場合に備える保険の問題が背景にある。もし、投球制限などを設けなければ、莫大な保険金額を支払う事になる為、特別ルールを設けると言われている。

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以上の2点の明らかな問題を背負ったまま、次回のWBCは、2009年の開催が決まっている。問題点を抱えながらも、オリンピックでの野球種目は、メジャー選手が参加しない限り、08年北京を最後に競技から姿を消すのは確実である為、世界のトップ選手が出場する国際大会は、WBCだけとなってしまうのが現実なのだ。国際大会の存続を念頭におく以上、初めての開催となる2006年のWBCに於いて、野球に携わる選手、関係者が担っている使命は大きいと思う。

      クリックすると元のサイズで表示します  WBCに日本代表として参加するイチロー選手

さて、このWBCに、開催について疑問点はあるとしながらも、逸早く出場を表明したのが、イチロー選手であった。イチロー選手は、『プロ野球界に於いて、ワールドシリーズ優勝がトップと思われている現状で、サッカーのワールドカップのように、大会に出るのが選手としての最高の栄誉だといえる大会があるべきだ』と、述べている。さらに『最初からは無理としても、30年か50年先にでも、最高の栄誉と言えるような大会になる為に積み重ねていって欲しい。今回の開催がその切っ掛けになればいい。』と語っている。メジャーに渡り、その経験と実績を積んできた選手ならではの余裕の発言だと、感じた。

    古畑任三郎お馴染みのポーズ クリックすると元のサイズで表示します 

そんなイチロー選手がこのお正月、ドラマに登場してくる。新春1月3日から、5日まで3夜連続で放映される「古畑任三郎ファイナル」シリーズの第2夜目だ。スマップに次いで実名で登場するイチロー選手は、元々この古畑任三郎シリーズの全てを、VTRで何度も観る程のファンだったらしい。その事を聞きつけた、同番組の石原隆プロデューサーが、思い切ってオファー してみた所、イチロー選手は快諾したという。イチロー選手は、古畑史上最もフェアな殺人者として完全犯罪に挑む。また脇を固めるレギュラー陣として、今泉役の西村雅彦もこのシリーズでは再登場する。最近渋い演技が多い西村が演じる今泉役にも、私は注目したい。話が逸れたが、2006年は、新春早々、イチロー選手の、TVドラマ出演、そして3月には開幕前のWBC出場と、更なる活躍が楽しみな年になりそうである。名古屋市近郊にあるイチロー邸をよく見かける名古屋人の一人としても、来年もイチロー選手の大活躍を期待したい。

◎以下、古畑任三郎公式HP
http://www.fujitv.co.jp/furuhata/index2.html
○当ブログ内での「WBC」についての記事
http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/20051211/archive
○参考 中日新聞・中日スポーツ各紙面
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2005/12/29

私の心に響く言葉・・・  日記(今日思うこと)

「星野富弘さん」、「相田みつをさん」、「ひろはまかずとしさん」、私の机の上には、常にこの3人の方の本がある。自分の心の中が、少し重くなったらこの3冊を必ず開く。心が明るくなったり、元気が出たり、そして何より素直になれて、自分を省みる事ができる。年末も押し迫って、猛烈に忙しくなって来た。有り難いことであるが、今日するべき事が多すぎたりする日は心に余裕もなく、自分は勿論、接する人に思いやりの気持ちが欠けて来る気がする。恐らく誰も気付いていないと思うのだが、自分は一番解っている事だ。私の28日も、そんな1日だった。
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夜の9時半過ぎ、体の疲れを取ろうと早めに入浴し、その後は事務仕事をしようと思っていた。体はほぐれた気がしたが、心がほぐれていない気がしたので、例によって1冊の本を手にした。昨夜は「ひろはまかずとし」さんの本であった。ひろはまさんは、愛知県蒲郡市出身の詩画作家である。元々は服飾デザイナーをなっていて、その後生まれ育った同市に帰省し、心の風景を綴る言葉『言の葉』を描く墨彩画家として活動を始められた。私は当時ひろはまさんの出来たばかりのアトリエを訪れた。初期の絵は水墨画で淡彩だったが、やがて色がつき、カラフルになって行った。しかし、ひろはまさんの作品には、全てに共通して、小さな天使が描かれている。蜂のように飛んでいる天使の絵。これはひろはまさんが作家活動を始められて、18年経った今も変わっていない。
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ひろはまさんの作品は、地味ではあったが少しずつ評価されて行った。やがて、1996年に小学館「小学一年生」に作品連載、2000年には、三重県公立高校の入試問題に、ひろはまさんの『言の葉』(澄んだ心でみつめれば何もかもがきれいに見えます)が出題された。2001年からは、「月刊PHP」に言の葉を連載。4月には、アトリエ開設10周年を記念し、蒲郡市内の小・中学校、蒲郡高校、市立図書館、市役所に著書(24冊)を寄贈された。以降雑誌等にエッセイを寄稿するとか活動範囲は幅広く著書多数。心地よい風のような作品作りをめざされている。ひろはまさんの絵と言葉には、暖かさがあり、心の中で日々、忘れかけているものを思い出させてくれる。昨夜の私も同様で、その本を繰りながら眠ってしまった。お陰で、今朝の目覚めは爽やかだった。早朝事務仕事を済ませ、私はいつもの仕事の準備にかかる事が出来た。作品の一部を(ひろはまさん肉筆の絵も文字もなく、暖かさを伝え難いが)ここに掲載させて頂く。
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不自由の中の自由を うまく楽しめないような人間は
   本当に自由になった時 何ひとつできません


どんな事をしても「よかった」と思うことにしています
   そうすると本当に「よかった」という結果になるから不思議です


一人でしか 出来ないこと
二人でなくては 出来ないこと
皆して 初めて出来ること
色々あるから
まちがわないようにね


いというのは
  その字のとおり
    相手を まず先に考えることですよ


って 見つめている
    という字の意味を わかってください

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 「僕」は宇宙中探しても、たった一人しか存在しない「僕」として
おもいっきり「僕」らしく「僕」を表現して、生かされてみようと思い
 今日もそして命与えられている限り、
  言の葉を画き続けさせていただいています。

もし、その言の葉たちの一葉をあなたが、
 そのまんまるな心で、受けとめていただけたとしたら、その時点で
  それを育むも、枯れさせるも、あなたの自由です。

できることなら、僕の言の葉の一葉一葉が
 なるべくたくさんの方々の心の中に芽生え
  やがて美しい花々を咲かせていただけたらうれしいな

                      −ひろはまかずとし−
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◎以下 ひろはまかずとし 彗星倶楽部公式HP
 ↓ここに行くと、ひろはまさんの肉筆を拝見する事が出来る。
 
    http://www.kajel.com/
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2005/12/28

12才でオリンピツクに参加したフィギュア・日本女子選手  フィギュアスケートと浅田真央選手

一昨日までの私の職場での話題の主流は、日曜日まで開催されていた全日本フィギュアスケートの事だった。TV放映された時間だけでも、名古屋からは、浅田選手姉妹、安藤選手、中野選手、恩田選手と、5人が出場していたのだから、止むをえないだろう。例外なく私も、お客様のスケート談義を聞いていた。私は、ずっと浅田真央選手を応援して来ていたので、彼女の話題になるとつい舌が滑らかになってしまった。やはり、何人かの方が、試合を限定しての年齢制限について、疑問に思って居られた。
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1人のお客様が「昔は、12才でも、行けたのですよ」と、何気なく仰った。その場にいたほぼ全員が、その方の話に耳を傾けてしまった。そのお客様Fさんのお姉さんが、通っていらした「梅花学園」という中高一貫校出身の方で、1936年にドイツ、ガルミッシュ・パルテンキルヘンで開催された、冬季オリンピックに、12才(開催中13才になる)で参加されたという選手がいる…というお話だった。お客様のFさんは、その事を書き綴った『わたしたちのオリンピック』(ベースボールマガジン社)という本を持って来て貸して下さると仰った。恐らく私の目から、好奇心という光線が出ていたのが判られたのだと思った。
クリックすると元のサイズで表示します 開会式時の稲田悦子さんと直筆サイン
その本によると、稲田悦子さんは、全選手中、最年少であり、また、開催当時の身長が127センチと、とても小柄だった。1936年開催の冬季オリンピックは、結果的に、第二次世界大戦前の最後のオリンピックとなり、開催時のドイツは、当然ながらヒトラーの政権だった為、開会式の貴賓席にはヒトラーが現れた。その席から稲田さんを見たヒトラーは、「あの子供は、一体何をしに来たのかね?」と側近に尋ね、それが大きな話題となり、新聞記事でも報じられたという。稲田さんのこの時の成績は、参加者26名中、10位と大活躍だった。このように12才のフィギュアスケート選手は、日本人女子初の冬季オリンピック参加選手として、その歴史に名を残した。
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残念ながら稲田さんは、2003年7月、胃癌の為79才でお亡くなりになっているが、フィギュアスケート女子選手の草分けとして晩年まで、神宮スケート場等で子供達にフィギュアスケートを教えられる等、多くの後継者を育てられて来た。また、歯に衣着せぬ発言でも有名で「フィギュアスケートでは、スタイルも表現力も違うから、日本人は勝てない」。とか、はっきりと仰っていたそうである。しかし、1998年のパリ世界大会で、伊藤みどり選手が優勝した時は「やっばり、あのジャンプ。本当によくぞ…」と感極まって涙され、伊藤選手の健闘ぶりを讃えられたそうだ。
当時のユニフォーム(秩父宮博物館蔵)クリックすると元のサイズで表示します

私は本を読んで、もしも稲田さんが、今もご健在だったなら、浅田選手の年齢制限問題にも、異議を申し立てられ、強く推して下さっただろうと思った。稲田さんが気になさっていた「スタイルも、表現力も」兼ね備えた浅田真央選手。そして、妬みとか嫌味等の、心の濁りを微塵も感じさせられない、浅田選手の純真さに、オリンピックに参加された当時の、ご自分の姿を重ねられたに違いない。浅田選手は、TV局のインタビューで、「トリノには行きたかったですか?」という意地悪なレポーターの質問にも真顔で、「是非、観戦に行って、応援したいです」と答えていた。心が伸びやかで澄んでいるからこそ、人を魅了する表現力が生まれるのであろう。稲田さんに、浅田選手の今の滑りを見て欲しかったと、切に思ってしまった。
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また日本は、冬季オリンピックとして、第2回1928年サンモリッツ大会から参加しているが、女子選手が参加したのは、稲田さんの参加した、第4回ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会からであった。その後日本は、第2次世界大戦を巻き起こした戦犯国として、1948年開催の第5回サンモリッツ冬季大会には、ドイツと共に参加を許されなかった。やがて日本が、再び冬季大会に参加出来るようになったのは、1952年の第6回オスロ冬季大会からであり、稲田さんは、既に28才になっていて、現役選手を引退していた。よって稲田さんは、12才という若さで初参加したにも関らず、戦争という国と国の争いの犠牲となり、結局は、ガルミッシュ・パルテンキルヘン大会が、最初で最後のオリンピックとなってしまったのだ。
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クリックすると元のサイズで表示します ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会 (スケートリンク)
そのガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会は、4競技17種目が実施され28の国と地域から、668名の代表選手を迎えた。日本からは、48名(役員14名、男子選手33名、女子選手1名)が参加した。勿論、1名の女子選手は、稲田悦子選手であった。尚、稲田選手が着用した、当時のデレゲーションユニフォームや、競技に着用したコスチューム(写真、参照)は、秩父宮スポーツ博物館に展示されているそうだ。写真で見る限りでも、高級なシルク(恐らく?)で出来た競技用コスチュームは、デザインも可愛く趣がある。今度上京したら、是非、訪れてみたいと思っている。

◎参考 「わたしたちのオリンピック」 TOL会(オリンピックに出場した女子選手の会)編集 ベースボールマガジン社
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2005/12/27

スマトラ沖地震から1年…半年後に帰国したパスポート  日記(今日思うこと)

1年前の12月26日は、スマトラ沖地震が起きた日であった。震源地が海中であった為、周辺の国と地域は恐ろしい大津波に襲われた。日本では10月23日に新潟中越地方で地震があったばかりで、お店にもささやかではあるが、募金箱を置いていた。スマトラ沖地震の後、スタッフと相談した結果、もう1つ募金箱を用意した。その翌日、知り合いの高校生の子、B君から電話があった。内容は自分の叔父さん夫婦と、従弟2人が、ピピ島へ旅行に行っていて、巻き込まれたらしいというものだった。
クリックすると元のサイズで表示しますピピ島(Koh Phi Phi)は、切り立った崖と透明な海の水のコントラストが美しく、砂浜の砂が真っ白なのが特徴である。レオナルド・デカプリオ主演の「THE BEACH」の撮影も行われた。自然が美しいこの島を、1年前の12月26日、大津波が襲った。
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私は絶句するしかなかった。そして発生から3日後だった、当時小学校6年生だった長男のA君が、保護されたとの連絡をB君から貰った。家族揃って泳ごうとした矢先の惨事だったそうだ。その後はニュース等で知ったのだが、A君の記憶を頼りに、ご両親と8才の弟さんの捜索が開始された。何処かで無事にいて欲しいと、ずっと祈っていた。しかし、1月1日にお父さんと弟さんが変わり果てた姿で発見され、更にお母さんは2月5日に確認された。A君は、お母さんの亡骸の確認が終わるとすぐ、合流した伯父さんと帰国し、伯父さんの家に身を寄せていた。お父さんを発見した国際緊急援助隊の一員、呉海上保安部の巡視船機関士らの話によると、A君は「ありがとうございます」と繰り返しお礼を言い、常に気丈に振る舞っていたそうだ。
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4月になって、A君は中学に入学した。少しずつ新しい環境に馴染みつつある様子だったと聞いていた。そして6月、A君の元に、土砂にまみれた4冊のパスポートが届けられた。津波の直前に、ダイビングの申し込みをした際、お父さんが現地のダイビングショップに預けた品だった。ショップの関係者が、外務省を通して送ってくれたのだそうだ。パスポートは、くっ付いて空かないページもあったらしいが、それでも家族の顔写真は、確認出来たという。A君は、伯父さんやその家族、そして福祉ボランティアの人達、入学した学校の人達の暖かい励ましにより、少しずつ元気は取り戻していたように見えていたらしいが、まだ、恐怖だけが残って居り、家族を亡くしたという現実を、受け入れていなかったらしい。しかし、そのパスポートを見てから、現実として受け入れようと、努力して行ったように見えたそうだ。
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2学期に入って、B君の薦めで入っていた野球部の練習に、打ち込むようになった。体育祭や合唱コンクール等、学校行事にも精力的に参加し、笑顔も見えるようになったと聞いた。「野球をしている時が、一番楽しい」とB君にも電話して来たそうだ。体を動かし、汗を流し打ち込めるものが見つかって良かったと、ささやかで、そして、遠くからではあるが、見守っていた者の一員として、少し安堵した。私も事故ではないが、実の父を急に亡くした。既に実の母は、いなかったので、その死は、当時悲しかったはずなのだが、とにかく暫くは実感が沸かなかった。A君の惨事とは、とても対比にはならないが、現実を受け入れにくい気持ちは、少しでも解る気がした。B君は「いつか、お姉さん(私)も会ってあげてよ。お姉さんならA君を、腹の底から笑わせられる」と言っていた。いつもなら「失礼な」と思うのだが、この時は光栄に思った。
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A君は10月下旬に、タイ政府が行った慰霊祭には行かなかった。やっと自分の足が地に着き始めたばかりで、とても、現地には行きたくない心境だったのだろう。そして今月23日には、伯父さんの自宅で一周忌の法要が営まれた。A君はパスポートが届いて以来、毎日、日課にしているのと同じように、その法要の朝も、仏壇に備えられたパスポートに、炊きたてのご飯を供えたそうだ。そして、A君はいつか必ず、そのパスポートを送ってくれた人の所に、お礼に行きたいと言っているという。その話を聞いた私は、パスポートと共に、亡くなったご家族のA君への想いが、A君の心に届いたような気がしている。
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★スマトラ沖地震、15万人の犠牲者の方々のご冥福をお祈りします。

◎資料参考 個人所有ファイル(中日新聞)
○公的に、ニュース、新聞各紙でも報じられてはいるが、一部、直接ご親族の方にお聞した話もある為、あえて匿名で記載した。
○尚、当ブログ内の、他の記事に登場している現在の私の父は、伯父で、成人してから養子縁組をした義理の父である。
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2005/12/26

浅田真央選手、エキシビションの滑走(日本フィギュア選手権)  フィギュアスケートと浅田真央選手

25日深夜の新聞各紙(電子版)によると、日本スケート連盟の藤森光三副会長は、年齢制限により五輪出場権のない浅田真央選手について、特例での出場を認められるように、国際スケート連盟(ISU)に打診を行っていたと、明らかにした。この問題で、同連盟が働きかけを認めたのは初めての事であった。同連盟によると、ISUのチンクワンタ会長宛てに、書簡で特例を求めた。その時期はGPファイナル(16〜18日)の後だった。大会期間中は、同会長が「日本からの働きかけは何もない」と発言したが、その後、小泉首相などが、年齢制限を疑問視する声を挙げた事などを伝え、特例での出場を打診した。同会長からは後日、「認められない」との返事が届いたそうだ。
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25日、2位につけた浅田選手は、オリンピック代表選考ポイントも、2451点にとなり、ポイントだけで言うならばトップに躍り出た。昨季の持ちポイントが最高で、今季と合わせて2215点となった安藤選手や他の選手からも、一段と抜きん出ている。日本スケート連盟が、例えばという条件付で…でも、もっと早く働きかけていてくれれば…と返す返すも悔いが残る。因みに安藤選手以外の代表選手に選ばれた選手のポイントは、村主選手が2150点、荒川選手が2060点であった。次点は、中野選手の2043点になって居り、僅か17点の僅差で、涙を飲んだ。昨日、中野選手は5位に入賞したが、もし4位に入っていれば、トリノへの切符を、楽々手にする事が出来た。スポーツの世界にも「たら・れば」は無用だが、採点競技の厳しさも痛感した夜だった。
クリックすると元のサイズで表示します クリスマスの夜、氷上に妖精が舞い降りた。(photo by Asahi.com)
そんな状況下、25日の深夜、放映権を得ているTV局(Fiji tv)で、全日本フィギュアのエキシビションが放映された。浅田選手は、(虹の彼方へ)オーバー・ザ・レインボーの曲に乗り、華麗な演技を披露した。会場総立ちのアンコールにも応え、今度は、ワンダフル・ワールドが流れる中、また氷上へと飛び出した。最後に4回転ジャンプにトライして転倒したが、緊張の糸が切れて伸びやかに滑っていた。観ているだけで幸せ気分にしてくれる可愛い妖精、浅田真央選手は、年が明けて、2006年3月に開催される世界ジュニアフィギュアスケート選手権へ向け、再び舞い続けて行くのだろう。
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2005/12/25

全日本フィギュア選手権を観て(浅田真央選手をトリノへ!Part3)  フィギュアスケートと浅田真央選手

私達が望んでいた浅田真央選手をトリノへ…という望みは残念ながら、届かなかった。しかし、25日、今日開催された全日本フィギュア選手権フリーの演技には、日本女子フィギュア史上で、最も美しく、最も強い6人が終結し、私達を魅了してくれた。優勝は、右股関節の怪我から復活した、村主(すぐり)選手(24才)だった。磨ぎすまされた表現力が、審査員はもとより、観客を釘付けにした。2位の浅田真央選手も村主選手の点数が掲示された時には、「凄いねー」と心から賛辞していたようだった。3位にはSPで首位に立った荒川選手が決まり嬉しそうだった。
表彰式のスポット(荒川・村主・浅田クリックすると元のサイズで表示します
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オリンピック代表選手の特例は、認められないまま、今日のフリーを迎えた浅田真央選手は、GPファイナルと同じ衣装で、最終グループ6人の2番めに滑走した。曲目はクリスマスに相応しい「くるみ割り人形」。氷上の妖精がバレーリーナのように滑り、舞い始めた。「くるみ割り人形」の中の最初のフレーズは、「花のワルツ」。ワルツの調べに乗った伸び伸びとした演技だった。そして前半の山場、彼女が公約した世界で初の「トリプルアクセル×2」の連続技、見事に成功してくれた。高い高いジャンプだった。浅田真央選手のスケート人生に、1つの歴史を刻んだ瞬間だった。

クリックすると元のサイズで表示します 輝きが零れるような笑顔の浅田真央選手
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やがて曲は、「こんぺいとうの歌」のフレーズへと移行した。可愛い仕草を織り込みながらも、スピードに乗り多種に渡るスピンを織り込んでくれた。彼女独自の片手によるビールマンスピン、そしてTVカメラには上から写して欲しかったが、ドーナツスピンも見せてくれた。こぼれるような笑顔が輝き続けた4分間の演技だった。また、その他の選手で、私の印象に残ったのは、中野選手だった。点数が伸びず観客からは、ブーイングが起きたが、高さのある連続ジャンプ、そして最速スピードで回転していると思われるドーナツスピン。TVカメラは、この時は流石に、上からの映像だったが、そのまま、氷の中に埋もれてしまうような美しいスピンだった。
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そして、磨き抜かれた熟練の技を披露してくれた荒川選手、女王ここにありきの演技だった。力強いジャンプで印象付けた恩田選手。4回転ジャンプは見せてくれなかったものの、不調を吹き飛ばす演技だった安藤選手、素晴らしい6人が全力を出し切った。更に、最終グループではなかったが、地味ながら、とてもしなやかな演技だった浅田真央選手のお姉さんの浅田舞選手。1度は天才少女の姉としてのプレッシャーから逃れ、スケート靴を脱いだそうだが、やはり「滑るのが好き」と氷上へ帰って来た。今日は「アメジスト」の曲に合わせたバイオレットの衣装に身を包み、その長い手足と優しい表情で、美しく幻想的な世界へと誘ってくれた。
互いに励ましあった浅田姉妹(舞・真央) クリックすると元のサイズで表示します
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全日本フィギュア女子フリーの演技は、銀板の上の美女達が、私達視聴者の心に「感動」という素晴らしいクリスマスプレゼントを与えてくれた。そして、トリノオリンピック代表3名は、フリー演技の後に発表された。村主選手、荒川選手、安藤選手と、結局は、ロッテのCMに、シンボルアスリートとして出ている3人に決定した。終わってみればこの結果ではあったが、浅田真央選手には、GPファイナルからの一週間、フィギュアを観るという楽しみと、夢を馳せる喜びを、与えて貰った気がしている。浅田真央選手…15才…「天才が練習を積むと脅威のスケーターになる」と解説の先人スケーターも絶賛していた。今後も彼女を応援し続けたいと思った。
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○以下は、フィギュアスケートのジャンプの種類を説明したHP
http://www2.asahi.com/torino2006/flash/flash_figure.html
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2005/12/25

速報!全日本フィギュア選手権(浅田真央選手をトリノへ!号外)  フィギュアスケートと浅田真央選手

全日本女子フィギュア選手権は、25日午後4時30分頃、フリー演技全てが終り、村主選手が逆転優勝した。GPファイナルで強豪選手を押え、圧倒的強さで優勝した浅田選手は2位になり、昨日SPで1位となった荒川選手が3位と続いた。TV放映は、今夜7時(Fuji TV系列)からなので、その演技ぶりを観戦できると、今から楽しみにしている。

○以下は、朝日新聞速報記事
http://www.asahi.com/sports/update/1225/092.html

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SPで2位につけ、フリーで逆転優勝した村主選手(SPの演技)
(photo by Asahi.com)
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2005/12/25

浅田真央選手をトリノへ!part 2(全日本フィギュア選手権)  フィギュアスケートと浅田真央選手

24日の夜、「カルメン」の曲に乗って空から舞い降りた妖精が、氷上で軽やかに舞った。柔らかな肢体は、まるでバレーリーナのようだった。指先から足先まで神経が行き届き、しなやかそのものだった。クリスマスイブに開催された全日本フィギュアのショートプログラム(SP)。一番滑走である姉の舞選手の採点が、コンピューターのトラブルで15分間表示されないというアクシデントがあった。浅田選手はその後に登場した。微妙にリズムが狂った為か、珍しく最後のジャンプが、ダブルアクセルからシングルになってしまったものの、得意のビールマンスピンは、左右軸足を変えて魅せてくれた。流れるようなスパイラルシークエンス、一糸乱れる事無くリンク一杯に滑走した。時に髪をかき上げる大人っぽい仕草も見せたり、コケティッシュでもあり、おちゃめで可愛い振り付けもあったりで、観ている私達を魅了した。観ている者を、「御伽の世界に誘う」そんな魔法にかかってしまうような、人間の姿を超越した美しさだった。
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クリックすると元のサイズで表示します 舞(姉)さんの衣装で可憐に滑った浅田真央選手
(photo by Asahi.com)
国際スケート連盟(ISU)のチンクアンタ会長は「個人的には浅田選手に出て欲しい」と明言している。しかし「日本からの働きかけが無い以上はどうする事も出来ない」と付け加えた。更に世界各国からも「浅田選手はトリノに出るべきだ」という声が届いている。だが、日本スケート連盟の城田会長は、マスコミに向かい「どうせルールだから駄目だと言われる」と、働きかける前から否定していた。全くをもって情けない話だと思う。結局SPは、荒川選手が貫禄の演技で1位。2位には村主選手が着いた。浅田選手は3位につけている。しかし、上位6人全員がノーミスで演技を終えるという素晴らしい戦いぶりだった。このように全力で戦った選手達の為にも、また後で「○○が居れば…」と世論に言わせない為にも、真の実力者がトリノへ行くべきだと改めて痛感した。
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◎閑話休題
SP時の浅田真央選手の衣装は、元々は、お姉さんに誂えた品だそうだ。TVスタジオへゲストで解説に来ていた伊藤みどりさんの話だと、伊藤さんのお古の衣装を試合で着る事も、しばしばあるそうだ。そういう点でも、アマチュアらしくて「可愛いな」と、妖精が人間に戻ったような話だった。聞いていて、益々心情的に応援したくなってしまった。
◎追記
一方、男子は、24日フリー演技が行われた。23日のSPとの合計点で、織田信成選手が優勝し表彰式まで行ったが、後で採点の人為的ミスというお粗末な理由で、高橋大輔選手と入れ替わってしまった。何とも後味の悪い審判の失態であった。通知を受けて織田選手は泣き崩れ、高橋選手も「素直には喜べない」と語ったという。こんな言語道断な審判達では、日夜努力し、精一杯滑っている選手が余りにも気の毒だ。25日女子フリー演技に向けて、どうも釈然としないが、25日は、真央ちゃん始め、女子選手達の滑りを充分堪能したいと思っている。(25日付けの中日新聞朝刊によると、この混乱の原因はコンピューターの集計ミスだそうだ。どちらにしても入力するは人間…お粗末劇であった)
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2005/12/25

スタントウーマン大河ドラマ出演の巻 その4  乗馬と馬について

ボスからの依頼でスタントを引き受けたものの、一体どう乗るのか心配だった。私はボスに電話をかけた。ボスは「あー、台本を送るよ」と軽くあしらった。数日後に送られて来た台本には、私の役どころ…なんて何処にも書いてなかった。隅から隅へと探していると、当り前だが、台詞ではなく、ト書きの所に赤鉛筆で印が書いてあった。『密書を持ち、早馬に乗り走るが途中で矢に打たれてしまう』→『少年兵士役』。
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『しょ、少年兵士?』せめて、矢に打たれたお姫様役にして欲しかった。いや、『くの一』でもいい。そう思って、ボスに電話して抗議するも、取りあってももらえず、台本が変えられる事はなかった。「準備するものは、度胸だけ」とも、ボスには言われた。何だか嫌な予感がして来た。そんな不安を他所に家族は、知人に「ほたるが、大河ドラマに出るよ」と自慢して話し歩いていた。私は、とうとう引くに引けなくなってしまった。不安に包まれながらも、当日を迎えた。ロケにはぴったりの雲一つ無い晴天だった。
クリックすると元のサイズで表示します「信長」のDVD…この映像から私を探すのは至難の業だ

ロケは長良川河川敷で行われた。しかしその前に、市内から30分程の『信長』の舞台セットの場所へ連れていかれた。見学の人だかりが出来ていた。ボスと一緒に「スタッフ」のIDを下げて入っていった。すると『信長』役の緒方直人の姿が見えた。的場浩司やマイケル富岡もいた。ボスは、すたこらと歩いて行き、鎧を着たある武将に話しかけている。いたく親しげだった。私もボスに呼ばれて近づいて行くと、秀吉役の仲村トオルだった。驚いた。仲村トオルもボスに乗馬を習った1人だったのだ。私は、すっかりミーハー気分で、今から自分が何をするのか?忘れてしまった程だった。
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暫くすると、長良川方面へ移動する事になった。その時、衣装係りの人が鎧と兜を持って来た。どうするんだろう?よく見ると『矢』が刺さったように接着されてあった。私はその鎧のガチャガチャという音が、やたら気になっていた。車は河川敷に到着した。既にカメラはセットされていた。車を降りると衣装係りの女性が寄って来て、「(鎧)着けられないよねー。自分では」と言った。当り前である。当時から着付も習っていたが、鎧なんて着た事がない。衣装係りの人は私服の上から着せてくれた。「えっ?これでいいのですか?」と聞いた私に「遠いから見えないよ。メイクも無しね」と彼女はさり気なく答えた。
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助監督らしき人が、私の傍に来て説明をし始めた。話が進む度に、恐らく私は後ずさりをしたと思う。矢に打たれるシーンは、役者さんで撮影済みだから、打たれて走るシーンから撮影する、そして馬は落ちそうになった少年を乗せたまま走り去る…『なんですって?落ちそうになったままですと?』私は、また声にならなかった。そして用意された馬にまたがった。ガチャガチャというプラスチックの触れ合う音に、馬は既に興奮して鼻を鳴らしている。私は武者震いか、はたまた、本当に震えて来たのか分からないが、震えてきた。ボスが「大丈夫、保険はちゃんとかけてるから」と言いに来た。冗談じゃなかった。
有名な役者さんが乗った大人しい馬達 クリックすると元のサイズで表示します

私が馬にまたがったら、馬の首に掴まり、左に寄り気味になるよう指示された。手を回し、半身落ちそうな体位になった途端。ボスが馬を鞭で強く叩いた。馬は、いなないて、走り始めた。全力疾走である。地面が物凄い速さで過ぎて行った。無茶無茶恐かった。それに私がいつも乗るのは、駆け足までで、全力疾走する馬のモンキー乗りは、競馬の騎手でもあるまいに、した事がなかった。きっと500メートルはあっという間だったのだろうが、とても長く感じた。1回でOKが出て終わったものの、『もう2度とするものか!』と心に誓った。(↓こらっアニメの馬達、踊ってる場合じゃないよ)
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そして、待ちに待った放映日がやって来た。TVの前で家族一同、固唾を飲んで見入っていた。親戚や知人も観ているとの電話もあった。中には「サインして」という者もいた。ところが、ところがである。実際に写ってみると「あれ、あれが私!」と指刺さないと誰も判らない状態だった。スタント(代役)なのだから当り前なのだが、淋しいものがあった。ボスに電話した。「あんな危ない目に遭って、あれだけですか?」と。。ボスは「危なくて役者さんにさせられないから、ほたるちゃんに頼んだんだ。あんなもんだよ」と笑いながら答えられてしまった。確かに!、ごもっともである。私は返す言葉がなかった。その後、ギャラの3万円は藻屑と消えたが、NHKがエキストラの人用に配布した『手ぬぐい』は今も残っている。良い思い出ではないので、そろそろ布巾にでも使おうかと思っている。
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以上が、私の聞くも涙、語るも涙のスタント体験の話である。実は私…もう1度だけ、TVに出た事がある。それは民放の天気予報のバックで、馬に乗って障害を越えているシーンだった。私の名誉挽回の為に書くが、これは格好良かった。どこかにVTRも残っているはずだ。そのテープは、彼方此方回覧したので、何処にあるか?ちゃんと探して置かなければと言い聞かせた。この天気予報の撮影については、また後日、別の日記で……。
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