2005/12/10

「サマワ便り」発刊に寄せて  日記(今日思うこと)

中日新聞に連載されていた「サマワ便り」が、一冊の本となり、近く出版される。第五次イラク復興支援部隊として、名古屋市の守山駐屯地から派遣された、陸自第10師団の団員65名に、中日新聞記者が電話等で直接取材し、現地での声を聞いて書いて来た特集だった。初の海外派遣で、イラク南部のサマワに向かった陸上自衛隊員達の心境。そして、復興支援はどのように行われ、隊員達の日常について書かれていた。私は、全てを読んだ訳ではなかったが、隊員達を通して見たイラクの人達の生活ぶりや、遠く離れた隊員の家族への思いが伝わって来た。その記事を日本で帰りを待つ、隊員の家族の方々こそ、楽しみにして読んて居られたのだろう。
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イラクは、選挙を前に、少しずつだが、政治的にも経済的にも、自立へと向っているという。復興は未完全とは言え、元来イラクは石油資源にも恵まれた国で、選挙が終り、政治プロセスさえ整えば、復興の展望は見えて来ているらしい。明るい兆しだ。サマワ便りに記載されていた、過去の新聞記事から引用すると、派遣された自衛隊員の一人は、毎日銃の弾を数えながら「一発も減るなよ」と願ったという。けだし同感、今この時もそう願っていたい。帰国して1日が過ぎ、日本語のニュースを聞きながら、そんな事を思った。
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○「サマワ便り」紹介文HP
http://www.ban-news.jp/book.htm

○「サマワ便り」 陸自第10師団のイラク派遣
著者:中日新聞社/出版社:中日新聞社/発行年月:2005年 12月
本体価格:1,600円(税込:1,680円)

○イエローリボンキャンペーン
「サマワからこんにちは」
http://www.yellow-ribbon.net/jsdf/

○自爆テロが続く中も、臓器移植を通して平和を願う…話
http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/20051113/archive
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2005/12/9

ロジャークレメンスの行方と日米間の選手寿命の差  Boston Red Sox・MLB

メジャーリーグでは、12月7日が、FA申請した選手に対して、再契約の意思を示す「年棒調停申し入れ」の期限日だった。この日までに申請を受けなかった選手は、前の所属球団と、5月1日まで、再契約を結ぶ事が出来ないシステムになっており、事実上退団…という事になる。レッドソックスでは、ケビンミラー一塁手が調停申請をされず、退団が決定した。申請を受けなかった選手は121名いて、中にはロジャー・クレメンス(アストロズ)やマイク・ピアザ(メッツ)らの大物選手も名を連ねていた。
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クレメンスは、今季13勝8敗。防御率はメジャートップの1.87を記録し、チームをワールドシリーズに導く原動力となったが、代理人のランディ・ヘンドリックス氏の提示額は、今季の21億6000万円以上だった為、アストロズのティム・パープラGMは「43才の選手に、そこまでは出せない」と決裂したそうだ。クレメンスは来春のワールドベースボールクラッシック(WBC)には、出場表明をしているが、腰痛と太腿痛を抱えて居り、WBC以降現役を続けるかは未定である。もし、現役続行なら、ヤンキースへの、3年ぶりの復帰の可能性も出ている。
○以下、クレメンスについて書いた10月23日の投稿
http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/20051023/archive
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それにしても、大リーグでは、40才以上の選手が現役で大勢プレイしている。今年の最高年齢プレーヤーは、47才を迎えたブレーブスのフリオ・フランコ内野手で、今年6月には自身の持つ「メジャー最年長本塁打」の記録を更新した。そしてトータル108試合に出場し、64安打を放った。他に40才以上の選手は、ランディ・ジョンソン(42才 ヤンキース)、ラファエル・パルメイロ(41才 オリオールズ)らを含む21人がいるそうだ。過去の例では、最高年齢が、元レッズのジャック・レイン投手で、1928年45才で18勝し、その引退試合は、50才の誕生日の2日後だった。そして48才までリリーフ投手として活躍した、ホイト・ウィルヘルム。44才で、7度目のノーヒットノーランを達成した、ノーラン・ライアンは、46才まで現役で投げていた。このように現役を続けていただけでなく、スター選手でも有り続けていたのだ。
クリックすると元のサイズで表示します 47才で現役を続けるフリオ・フランコ内野手

それに比べ、日本では、現役続行する選手は、40才を過ぎると急に減ってしまう。今季は42才の工藤(巨人)や41才の川相(中日) を始め、40才では、小山(千葉ロッテ) 紀藤(楽天) 山本昌(中日) 古田、佐藤(ヤクルト)と、7人いたが、既に紀藤と佐藤は引退を表明している。過去を調べても、45才までプレイしたのは、若林忠志(毎日)と野村克也(西武)の2名しかいない。この違いは何だろうか?人種によって筋肉等体が違う…という偏見から離れて考えてみた。まず、日本の選手は、(特に投手)学生時代に肩を酷使してい上に、完投する事が美徳のように思われている気がする。しかし、それだけではない。もしメジャーを解雇されても、アメリカの環境では、プレイする場所が多い事が要因としてあげられるのだろうと思った。
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アメリカでは、メジャー配下のマイナーリーグが駄目でも、独立リーグもあるし、メキシカンリーグや、カリブ海諸国のウインターリーグでプレイする道もある。フリオ・フランコも1999年にはメキシコへ行き、そして、2000年には韓国、2001年には再びメキシコに戻り、そのシーズン終盤にメジャー復帰を果たしていた。このように、自分の意思さえあれば、ユニフォームを脱がされる事無く、続けられる…という希望があるからではないか?とも思ったのだ。実際新人でも35才でプロテストを受け、マイナーリーグからメジャーへとデビューを果たしたルーキー、デニス・クエイドもいたりする(映画「オールドルーキー」より)

○オールド・ルーキー公式ページ http://www.movies.co.jp/oldrookie/
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日本人の選手も、戦力外通知を受けた後、アメリカに渡り、続けようとする動きも出て来てはいるが、ビザの発行など厳しくなり、容易ではなくなった。しかし、国内でも、四国アイランドリーグのような、独立系リーグの組織が動き始めている。若い選手を育てる場としては勿論だが、一度挫折したベテラン選手にも、復活の場を与え、納得が行くまで、プレーを続けられる場所になったら良いなと願っている。
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閑話休題
今日、友達が折れたバットから作ったお箸、「かっとばし」を買って来てくれた。地元ドラゴンズのロゴ入りだった。早速使ってみたが、非常に使いやすい。そして、このお箸も、ボールをかっ飛ばしていたのか…と思うと、元気にもなれそうな気がした。

クリックすると元のサイズで表示します 中日ドラゴンズのロゴ入り「かっとばし」

以下、松井の折れたバットが長島監督のリハビリ用箸になった…話
http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/20051110/archive
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2005/12/8

無事帰国、しかし、夢遊病者のように…  日記(今日思うこと)

飛行機は、カナダからアラスカ上空にかけて大揺れに揺れた。デトロイトから乗り継いだ便は、中部国際空港へ降り、マニラまで飛ぶ為、乗客の70%はフィリピンの人達だ。飛行機が揺れ始めた途端、機内はタガログ語が溢れた。私には「パコパコ」を繰り返しているようにしか聞こえなかった。客室乗務員の人達も機内サービスを止めてシートベルトを締めた。機内放送が流れた。「気流が悪いだけで心配ないとの事…」揺れは暫く続いたが、私は本を再び開き読み始めた。もっとひどい揺れを体験しているので、飛行機の揺れはあまり恐くなかった。
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私が初めて飛行機に乗ったのは、ロンドンとパリへ短期留学に行った時であった。その復路、ロシア上空で、何と飛行機がエンジントラブルを起こした。あの時の揺れ方は凄かった。アップダウンが激しく、気分を悪くする人も何人か居た程だった。中には「もう駄目だ」と、お土産にと買ったコニャックを、開封して飲み始める小父さんも居た。あの時も私は、体が、すうーっとなったりするのは、気分良くはなかったが、もし何かあっても「帰りだから、もういいや」と妙に冷静で、「保険も入ってるし」なんて能天気に思っていた。今考えると、入っていた保険も自分が受け取れた訳ではなかったな、と、いささか笑える。
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結局、一旦ロシア国内へ不時着し、無事に帰国できたのだが、当時の名古屋空港は夜間閉鎖してしまう為、大阪に着き、新幹線の最終で帰って来た。JR名古屋駅から家族に電話をしたら、母は「生きていたのね。無事で…」と泣いてしまった。どうやら旅行代理店から「エンジントラブルで不時着し、定刻より遅れる」と、ご親切に連絡が入っていたらしかった。家族は「エンジントラブル」と聞いただけで、「もう駄目だ」と思い込み、ニュースを観る為、TVの前に釘付けになっていたそうだ。早く無事の連絡をしなかった事を、逆に叱られてしまった。
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あの時も、冬だったなぁ。と思い出しつつ、飛行機が遅れなければいいなと、願っていた。飛行機は、30分遅れで中部国際空港に着陸した。眠かった。このまま眠らせて欲しいと思うくらいの眠気だった。ゲートを出て、迎えに来てくれているスタッフの子に電話をしたら、「おかえりなさーい」と元気な声が返ってきた。空港内で美味しいお蕎麦を食べ、駐車場へ向った。家に着き、郵便物等をチェックしたまでは良かったが、その後の記憶が、何だかおかしい。。スーツケースを開き、荷物を整理し、明日からの仕事の準備をし、お風呂に入った。はずだった。しかしそれは夢だったのだ。どうやら、ベッドに倒れこんで眠ってしまったらしい。目が覚めて起き上がると、スーツケースはベルトが、かかったまま、明日の準備も何も手をつけていなかった。気持ちだけは「やらなくちゃ!」と意識はしていたんだな…とまた、笑えてきてしまった。
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閑話休題
クリックすると元のサイズで表示します 「MIND GAME」の表紙。考える人もレッドソックスファン?

ボストンからデトロイトまでの便は、順調だった。隣の席の親子連れのお父さんが、スティーブン・ゴールドマンの「MIND GAME」を読んでいた。レッドソックスがどのようにして優勝できたかを、書かれた本らしい。「レッドソックスのファンなんだ」と思ったら、子供さんは、ジャケットの下にレッドソックスのロゴの入ったトレーナーを着ていた。ボストンから飛立つ飛行機だから、当り前なのだろうが、何だか嬉しかった。
・・・という事で、着いてからの私は、朦朧としているが、何とか無事名古屋に到着した。スタッフの子は「今日は寒いです」と言っていたが、ボストンと比べてか、そうでもなく感じる。眠気覚ましの為に外へ出た。空気が澄んでいて、星がとても綺麗だ。ボストンも名古屋も同じ北半球なので、見える星は同じだなと思いつつ。。
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2005/12/7

レッドソックスと小児癌基金(監督達のサンタさん)  Boston Red Sox・MLB

本日早朝、帰国の途につきます。24時間後の今頃も、まだ機内。。偏西風の逆風を受けて往路より時間がかかる上に、タイミングが悪く、乗継時間も長いのです。ふぅーっ。結局、20時間以上かかってしまいます。乗継地点のデトロイトでは、4時間待ちです。。ジタバタしても仕方ないので、この際は、本でも読んで過します。ボストン滞在中、お世話になった皆様、ありがとうございました。そしてブログ内のコメントやメールで、励まし続けて下さった方々、本当にありがとうございました。今後共も、どうぞ宜しくお願い致します。

感謝の気持と、少し早いクリスマスのお祝いの気持ちをこめて、ダナ・ファーバー癌研究所、ジミーファンド・ギャラリー訪問時の取っておき写真?を添付します。レッドソックス、フランコナー監督が、クリスマスの時期、コーチ陣達と一緒に、ダナ・ファーバー入院中の子供を見舞った時の写真です。とびっきりの笑顔と、サンタの帽子が、やたらとお似合いのフランコナー監督。。。寒い冬のボストンでは、帽子が欠かせないですね。

クリックすると元のサイズで表示します 患者さんを訪問したフランコーナ監督(中央)とジャクソン打撃コーチの写真
臨場感溢れる観客席の写真 クリックすると元のサイズで表示します
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2005/12/6

レッドソックスと小児癌基金(ジミー・ファンド)  Boston Red Sox・MLB

フェンウェイ球場のグリーンモンスターに描かれている野球少年の絵。これはジミーファンドという小児癌への基金を意味している。試合観戦に行くと、知らず知らず目にしているのだが、その意味は、知られていない事が多い。メジャーもオフに入り、ストーブリーグは燃えている最中のようだが、メジャーの選手達はクリスマスシーズンのこの時期、それぞれが、彼方此方の病院を慰問をしたりしている。私は今日、ボストンレッドソックスと繋がりが深い、ジミーファンドギャラリーのあるダナ・ファーバー癌研究所を訪問した。

クリックすると元のサイズで表示します Dana Buildingの地下にあるギャラリー

入場者シールを貼って…クリックすると元のサイズで表示します

ジミーファンドの始まりは、1948年にラジオの人気番組の司会者エドワードが、チルドレンズ・ホスピタルで白血病の治療中のジミーの部屋へインタビューに行き、「君は何が好き?野球?だったらボストン・ブレーブスは好きでしょう?誰が好きなの?」と問いかけた。それに応えジミーが好きな人気選手や監督等チーム一同がジミーを見舞った…というエピソードが切っ掛けであった。ジミーの病室からラジオを通し、「テイク・ミー・アウト・トゥ・ザ・ボールゲーム(野球に連れていって)」を歌う選手達と、ジミーの歌声が全米に流れたのだ。

その放送が終わるや否や、チルドレンズ・ホスピタルには募金を持った人々が殺到した。その夜は、直接持参された現金だけで、2万ドルの目標を超える2万6千ドルの募金が集まった。最終的に寄せられた手紙・電報が4万通、募金額は23万ドルを超えた。そして、「ニューイングランド・バラエティ・クラブ・小児癌研究基金」は、やがて膨大な資金となり、1952年、シドニー・ファーバー博士の元、1952年にダナ・ファーバー癌研究所(DFCI)が建てられた。これがダナ・ファーバー癌研究所の臨床、及び基礎研究を支える「ジミー・ファンド」の始まりである。

クリックすると元のサイズで表示しますグリーンモンスターと同じマーク

ユニフォームや記念写真の展示 クリックすると元のサイズで表示します

その後、ジミーファンドは、1953年に、ブレーブスからレッドソックスへと受け継がれ、今現在に至るまで子供達のヒーローである、レッドソックスの野球選手達が大きな支えとなってきた。ジミーファンドが始まった当時は、アメリカでも子供への癌告知は行われて居らず、勿論「ジミー」は偽名だった。更に白血病が治る事は、非常に稀な時代だった為、ジミーも亡くなったのだろうと噂されていたが、1998年、放送から50年目に、元気で生きていた本物の「ジミー」が名乗り出て、病床で受け取ったブレーブスのTシャツをフェンウェイで公開した。これは感動的な出来事だった。その後も、ジミーファンドへの寄付は、毎年一般へも募集され、時期になると映画館内でも基金を募る帽子を回したりしているという。

ダナ・ファーバー癌研究所は、ボストン市内のハーバード系列の病院がひしめき合って立ち並ぶ、メディカルエリア内にある。私は知人に連れて行って頂き、IDの代わりにビジター用のシールを貼って中に入った。ダナ・ファーバー癌研究所は、何棟かに分かれて立って居り、最新設備が整っている。その中の1つの建物の地下にジミーファンドギャラリーは作られていた。階段を降りると、そこは、フェンウェイ球場さながらの柄の壁紙になっていた。

クリックすると元のサイズで表示します デッドの写真と406個のボール

↓フェンウェイにあるテッドと子供の銅像の写真クリックすると元のサイズで表示します

その部屋に入って、まず目についたのは、ジミーファンドの立役者となったテッドウィリアムズの姿だった。彼の功績を讃えた打率分406個のボールが、テッドから子供達へ贈られ、そしてこのギャラリーに寄付として返されて展示されていた。80才の時、テッドウィリアムズは、65才になった本物のジミーと対面した。2人は、そのままダナ・ファーバーの癌と闘う子供達を励ましに向った。それは癌の子供達にとって、大きな励みとなった。ジミーは3人の孫にも恵まれ、幸せな生活を送っていた。子供達と握手する手からは「早くよくなるんだよ」という熱いメッセージが伝わっているようにさえ見えた。このように、ジミーファンドは、50余年に渡って、小児癌研究の中心とも言われているダナ・ファーバー癌研究所を支え続け、不治の病であった小児白血病を、治癒率80%の病気へと変える過程に、大きく貢献してきたのである。

ジミーファンド・ギャラリーには、癌で入院している子供達、レッドソックスの選手、球団関係者の素晴らしい笑顔が一杯だった。野球を楽しめるという幸せを、全ての人々があらゆる形で分け合っているのだな…と感動した。選手達の移籍とギャラだけが話題の中心になりがちなこの時期、メジャーリーグが果たしてきた球場外での様々な貢献にも、目を向けたいと思った。

クリックすると元のサイズで表示します 病院を訪問するテッドとジミー(中央)

↓ウェイク・フィールドやペドロ・マルチネス、テオ・エプスタイン元GMの笑顔も見られるクリックすると元のサイズで表示します

○参考
李啓充著 「奇跡の歴史−小児白血病の50年」

○週刊医学会新聞 ハーバード・レクチャーノート
 浦島充佳 「白血病の子どもを救ったヒーローたち」
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2000dir/n2412dir/n2412_10.htm
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2005/12/6

レッドソックスと小児癌基金(ジミー・ファンド) 追記  Boston Red Sox・MLB

 ☆ダナ・ファーバー研究所 (一部引用:週刊医学会新聞)
1962年、当研究所にチャールズ・ダナから莫大な金額の寄付があり、ファーバー博士の死後1976年に新たに癌総合センターとして生まれ変わり、1983年ダナ・ファーバー癌研究所と名前を改めて現在に至っている。…中略… 1980年には、ダナ・ファーバー癌研究所の所長であったベナセラフ博士が、「免疫細胞の遺伝子構造」を決定したことによりノーベル賞を受賞した。その後ダナ・ファーバー癌研究所は免疫学や分子生物学を通じ、骨髄移植を含む小児白血病やリンパ腫の治療や病態解明に大きく貢献している。また最近は血液悪性腫瘍だけでなく、他の癌種やエイズの基礎研究も盛んである。更にファーバー博士は「治癒しないと思われる病気も、最良の臨床医と研究者がチームを作って一緒に働きさえすれば治り得る」として共同研究の重要性を強調している。ダナ・ファーバー癌研究所は、臨床部門の床面積が全体の約10%以下であり、残りの殆どは研究のためのフロアになっている。“Bench to Bedside"つま り「弛みない研究を患者治療に活かす」というのが基本理念であり、ダナ・ファーバー癌研究所は、昼夜週末を問わず日々実践している。

クリックすると元のサイズで表示します 創始者、シドニー・ファーバー博士

少年とテッド・ウィリアムズ クリックすると元のサイズで表示します
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2005/12/5

アイリッシュダンスのパフォーマンスを観て  ボストンの思い出

コプリープレイスは、ボストンの代表的なショッピングスポットで、ホテルやデパートも併設された巨大モールである。その中心近くにあるフードコートは、チャウダースープの美味しいお店や、美味しいがちょっと怪しい?照り焼きチキン等のお店が多く、お値打ちに食事が摂れる。そのフードコートに仮設された舞台で、少女達によるアイリッシュ・ダンスショーが行われていた。

クリックすると元のサイズで表示します 煌びやかな衣装で踊っていた少女達

アイリッシュ・ダンスの歴史は、イングランド支配と深い関わりがある。16世紀にイングランドの支配が始まると、アイルランドの伝統的文化活動が一切禁じられてしまった。この厳しい統制は約400年も続いたが、皮肉にも逆境の中でアイリッシュ・ダンスの原型が生まれ、発展する事となった。民族楽器の演奏が禁止されてから伝統的なアイルランド音楽の旋律は家の中で密かに歌い継がれ、またそのリズムは暖炉の火が静かに燃える前で足を踏み鳴らす事(タップ)によって、親から子へと伝えられて来た。最初は1つのステップに対して2つのステップで応えるシンプルな踊りから始まったが、年を経て、複雑なリズムパターンを伴う芸術性を有した舞踊へと進化して行った。

1800年代後半、イングランドからの支配が解かれると、アイルランド復興運動が起こりアイルランド人は彼ら独自の文化の建て直しを図った。長きに渡る抑圧から解放され、その反動からステップ・ダンスは爆発的な進化と広がりを見せて行く。国内では数多くの競技会が開かれる一方、1900年代の初頭にアメリカに渡ったアイルランド移民により、アイリッシュ・ダンスは国境を越えて普及するに至った(映画「タイタニック」では、アイルランド系移民の役を務めたジャック(レオナルド・ディカプリオ)が、1等船室からローズを連れ出し、3等客船でタップダンスを踊っていた)。

クリックすると元のサイズで表示しますタップ用に石を装着した専用の靴 (Diana DG撮影)

しかし、新大陸に夢を馳せ、渡米したものの、移民の多くは雇用に恵まれず、貧しい生活をった。多くのオフィスの軒先には「アイルランド系移民の応募はお断り」と看板がかけられ、民族的な差別を受けた。だが、その結果、彼らは当時アイルランド人にも門戸が広かったショー・ビジネスの世界を目指すようになった。多くの移民がダンサーとして各地の劇場で才能を発揮し、活躍し始めると共に、優れたアイリッシュ・ダンサーが次々とブロードウェイに進出し、脚光を浴びるようになって行ったのだ。

ショーとして人々の注目を集めるようになるに従い、その衣装も煌びやかなものへと変遷した。当初ドレスのデザインは伝統的なアイルランドのシンボルであるタラ・ブローチやケルト柄をワンポイントとして刺繍したものが多かったが、のちにはケルトの幾何学的文様を大きく前面に押し出してその民族性をより強調したり、女性ダンサーの場合は華やかなティアラやウィッグ(カーリーヘアーのかつら)によって、その美しさをアピールしている。

クリックすると元のサイズで表示します 幾何学模様が美しい衣装

また競技会に於いては舞踊の技術のみならず、ドレスの跳ね具合や襟元、袖、アクセサリー、化粧や表情、そして脚の色(健康的かどうか)さえも評価の対象となった。ステップやそこから生まれるリズムの美しさに加え、高度なファッション感覚、そして内面から出る人間的な健康美が高いレベルで融合し、芸術として表現できるダンサーにのみ、最高の評価が与えられるようになった。地方の一舞踊に過ぎなかったアイリッシュ・ダンスがこのような歴史とともに、広く普及したのも、彼らの背負ってきた歴史やメンタリティと無関係では語れない。

クリックすると元のサイズで表示します 本格的に足が上がった姿勢

上半身の無駄な動きを一切廃し、ストイックなまでに足のステップで全てを表現しようとするその動きは、イングランドによる長い支配やアメリカで受けた民族差別に対する辛抱強さや、また強靭な精神力を想像させる。地面に対して常に垂直に踊り、大地と対話しながらリズムを紡ぎだすそのスタイルは、大自然の中で生きてきた彼らの、地球に対する誠実さを想起させる。

クリックすると元のサイズで表示します 地元アイルランドでの路上ダンス

一つ一つのステップの音から、アイルランドの忍耐強く実直な精神が、力強く伝わって来た。アイリッシュダンスの歴史は、彼らがそのアイデンティティを守るための地道な抵抗運動の歴史と言っても良いだろう。ステップの音は、広いコプリーのモールに響き渡っていた。それは崇高な魂の響きにも思えた。

○参考 アメリカの中のアイルランド
http://www.inj.or.jp/seanachai/ireland/05america.html

○参考 日本アイリッシュダンス協会
     アイリッシュダンスの基礎知識
http://www.roisindubh.jp/rincejapan/rinceoir/

○補足
ボストンは、アイルランド系アメリカ人が多く、"Irish America"の首都と呼ばれている。マサチューセッツ州のデータを参照すると、人口の4分の1以上がアイルランド系移民で占めている。
☆アイルランド系アメリカ人の著名人
大統領  ・ケネディ(32代)・ニクソン(37代)・レーガン(40代)・クリントン(42代) 
俳優/作家 ・ハリソンフォード ・グレースケリー ・マーガレットミッチェル
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2005/12/4

ボストンは雪……  ボストンの思い出

昨日一日休んだら、熱も下がり、随分と体が楽になった。でもここで無理をすると、こじらせてしまうので、ボストン滞在最後の週末だが、予定をキャンセルして今日も一日ゆっくり過ごす事にした。今朝は、目が覚めたら辺りが暗かった。カーテンを開けると、外は雪……普段なら雪を見ると、庭を駆け回る犬のようになる私であるが、流石に今日は、自粛した。

クリックすると元のサイズで表示します 部屋の窓から。モノトーンの街景色

朝食を買う為に、マックへ行った。アメリカのマックのメニューには、照り焼きマックがない。仕方ないのでフィレオフィッシュとフレンチフライを頼んで、外の雪景色を撮影した後、近くの庭の「ホーリー(ひいらぎ)」を撮影し、帰宅した。

クリックすると元のサイズで表示します 静かな街の雪景色

白い雪に映える「ホーリー」の赤い実 クリックすると元のサイズで表示します

ボストンは、西海岸に面していて、風が強い為、温度の低さに比べて、雪は積もりにくいそうである。それでも、年に数回は大雪が積もると言う。私はボストンの冬を4度体験しているが、その間、2度程大雪に遭った。その時は、みるみる30cm、40cmと積もって行って驚いた。しかし、走っている車がチェーンを着けているのを1度も見たことが無い。ボストンでは主要幹線道路の除雪行き届いているからだと思うが、その早さには、いつもながら感心させられる。

クリックすると元のサイズで表示します 新聞の自動販売機にも雪積が…

歩道を除雪するおじさん(今日は大活躍)クリックすると元のサイズで表示します
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2005/12/3

発熱してしまい・・・  日記(今日思うこと)

朝、悪寒がして目が覚めたら、咽頭痛もあり、
ついに、発熱してしまいました。
それから、寒い、暑いを繰り返し、今に至ります。

今日は、しんどくて、コンピューターを立ち上げる事も、できなかったです。
今更ながらですが、健康の有難味を、痛感してしまいました。

何をするにも、何が出来るかにも、健康が第一ですね。

ブログに来て下さった方へ、

『帰国が近いので、大事をとって、お休みします。
   新規投稿が、できていなくて、ごめんなさい。』


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2005/12/2

ニューベットフォードのアートグラス(万次郎番外編)  敬愛する「ジョン・万次郎」

ニューベッドフォードの捕鯨博物館には、捕鯨産業によって生産された様々な製品も展示されていた。中でも「スクリムショウ(Scrimshaw)」は抹香鯨の歯に彫刻を施した高度な芸術品だった。博物館を2階へ上がって行くと、南北戦争の後、ニューベッドフォードで、捕鯨に代わって栄えた産業の工芸品等の展示があった。その中で、私の目が惹きつけられたのは、現在サンドイッチガラスの代表ブランドとも言われているPairpoint社の前身、マウントワシントングラス社のartglass作品だった。因みにPairpointのクリスタルガラスは、この地方の名産品、クランベリーに因んだクランベリー色のガラスが有名で、私もケープコッド半島を訪れた際に、1つずつ買い求めていた。
○Pairpoint社、HP  http://www.pairpoint.com/

クリックすると元のサイズで表示します鯨の歯に彫刻されたスクリムショウ。鯨の歯その物という高価な品から、お土産用キーホルダーまで多種作られている。

マウントワシントングラス社では、19世紀半ばから19世紀後半にかけて、技術的に難しい技法を開発し、優れたアート・ガラスを次々に生み出した。Burmese というタイプは、つや消しで、ピーチスキンのような表面に、色のグラデーションがかかっている。これらに様々な技法で柄付けした物で、マウントワシントングラス社が最も成功した作品であった。1893年のシカゴ万博には、ルビーグラスカンパニーとの契約で、白からピンクに窯変(ようへん)した作品を展示したとされている。

クリックすると元のサイズで表示します 窯変し色が変化した生地に、手描きされた花鳥の絵

レモンイエローからサーモンピンクに陰影がつくこのBurmeseタイプは、熱に敏感で、その窯の熱の加わり具合によって窯変する。(窯変とは、窯〔かま〕の温度が作り出す自然にできる色の柄) Burmeseタイプは、1881年、病欠のガラス職人の代わりに働いていた、フレディリック・シャーリー氏によって作られた。 シャーリー氏は、ガラスを作る為の原石を、色々と工夫する職人で、吹きガラス職人ではなかった。彼はルビーガラスカンパニーで働いていた時に、金色を定着させる為に苦労した経験が有り、その経験を元に原材料の混合物に、いくらかの酸化ウランを加えたのだ。その結果Burmeseタイプ は誕生した。Burmeseタイプは、偶然と経験が生み出した傑作だったのであった。 これは陶器の備前焼の「火襷(ヒダスキ)牡丹餅(ボタモチ))、瀬戸の「瀬戸黒」の誕生と似ている。実はこれら日本古来の焼き物も、偶然が重なり出来たとされているのだ。

クリックすると元のサイズで表示します 貴重なBurmeseタイプQueen's pattern

シャーリー氏が、造った作品の中で、最も有名なデコレーションは「Queen's pattern 」であった。宝石で飾られたドットと金を使用し、渦巻の花のパターンを作成している。このタイプは、英国のビクトリア女王に献上された。しかし、このガラス産業も石炭の値段の高騰とともに衰退の一途を辿り、遂に、大恐慌時には造られなくなってしまった。
現在、黄色或いは、白からピンクへのグラデーションに、窯変しただけの作品は、アンティークのオークションでも見つけられるが、このBurmeseのように飾り付けられたタイプを探すのは、容易ではないそうだ。あの柔らかな色のグラデーションと細かい絵付けを、実際に自分の目で見る事が出来て良かったと、改めて感謝した。

クリックすると元のサイズで表示しますマウントワシントングラス社のアートガラス(捕鯨博物館にて撮影)

○以下、ニューベッドホード、捕鯨博物館HP
http://www.whalingmuseum.org/
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