2006/4/30

春の褒章・荒川静香さん、WBC日本チームに紫綬褒章  日記(今日思うこと)

今日は緑の日、言わずと知れた昭和天皇の誕生日である。この4月29日と、明治天皇の誕生日で文化の日である11月3日に毎年、勲章及び、褒章者が発令されている。今回、スポーツ・芸術・学問で、功績を残した人が対象の紫綬褒章は、25人と1団体で、その中に俳優の片岡仁左衛門さんや女優の吉永小百合さん、そしてスポーツの功労者として、フィギュアスケート・トリノオリンピック、金メダリストの荒川静香さんと、WBCで世界一に輝いた王監督率いる日本チームのメンバーが受賞した。荒川さんは、感想を聞かれて「メダルに対して天皇陛下から頂けるので、すごく栄誉。ますます精進して行かないという気持になります」と答え、王監督は「選手達の頑張りに、ただただ感謝している」と述べた。結果、荒川さん、王監督率いる日本代表チームは、「金」のメダルの後に、名誉ある「紫」の褒章を手にする事となった。
クリックすると元のサイズで表示します 紫綬褒章の褒章とバッジ

今回、団体として初の紫綬褒章の対象となったWBC時の日本チーム。そのチームを率いた王監督は、野球への強い情熱を胸に、ソフトバンク監督と兼任の代表監督という異例の激務を引き受け、北京オリンピックを最後に五輪種目から野球が除外された危機感から、世界大会の必要性を繰り返し強調して来た。「サッカーのワールドカップも長い歴史があったから盛り上がっている。まずは、やってみなければ始まらない」。野球人気の低迷や選手全体のメジャー志向への危機感もあり、「日本野球の魅力を伝えたい」。と願った。その願いは、的確なさい配と勝利への執念に繋がり、選手達を奮起させ、初の栄冠に結びついたのだ。「この栄誉を胸に、全野球人が野球振興に携わっていかねばならない」。王監督の優勝時の言葉が再び過ぎった。

☆紫綬褒章受章者は以下の通り(敬称略)

▽スポーツ振興 
・フィギュアスケート選手、荒川静香(24)
・元日本レスリング協会理事、中田茂男(60)
・元自転車競技者、中野浩一(50)
・野球競技団体、ワールド・ベースボール・クラシック日本代表チーム

▽発明改良 
・防災科学技術研究所理事長、岡田義光(61)
・日立製作所システム開発研究所情報プラットフォーム研究センタ長、山本彰(51)
・元旭化成工業特別主席研究員、正本順三(68)

▽芸術文化 
・グラフィックデザイナー、青葉益輝(66)
・能楽師(シテ方・観世流)、梅若六郎(58)
・俳優、吉永小百合(61)
・歌舞伎俳優、片岡仁左衛門(62)
・映画監督、澤井信一郎(67)
・声楽家、松本美和子(64)
・漆芸作家、小森邦衛(61)
・染織作家、二塚長生(59)
・陶芸作家、森陶岳(69)

▽研究
・マイクロシステム学研究 東北大教授、江刺正喜(57)
・有機化学研究 東北大教授、山本嘉則(63)
・ロボット工学研究 東京工業大教授、廣瀬茂男(58)
・地球惑星科学研究 東京工業大教授、丸山茂徳(56)
・イスラム地域研究・国際関係史研究 東京大教授、山内昌之(58)
・獣医公衆衛生学研究 元農業・生物系特定産業技術研究機構動物衛生研究所
            プリオン病研究センター長、品川森一(65)
・発生生物学・ゲノム科学研究 京都大教授、佐藤矩行(60)
・モンゴル時代史・中央ユーラシア史研究 京都大教授、杉山正明(54)
・高分子化学研究 大阪大教授、原田明(56)
・免疫学研究 大阪大教授、平野俊夫(59)

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以上の紫綬褒章は、スポーツ・芸術文化部門があり、私達にとって著名な人が多い為、どうしても注目されやすいが、この褒章授与とは、憲法7条で以下のように定められ、その功績の内容によって種分けがされている。

『日本国憲法(抄)
(昭和21年11月3日発行)
 第七條 
天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
七栄典を授与すること。

 第十四條 
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する』


褒賞とは………>顕著な一つの功績に着目して称えるもの。以下の7つの褒章がある。

・紅綬褒章    自己の危難を顧みず人命の救助に尽力した人
・緑綬褒章    自ら進んで社会に奉仕する活動に従事し徳行顕著なる人
・黄綬褒章    業務に精励し衆民の模範となる人
・紫綬褒章    学術・芸術上の発明、改良、創作に関して事績の著しい人
・藍綬褒章    公衆の利益を興した方又は公同の事務に尽力した人
・紺綬褒章    公益のため私財を寄附した人等
・遺族追賞    褒章(紺綬褒章を除く)の授章対象者が死亡した場合に遺族へ贈られる賞                   
        (銀杯か木杯と褒状)


以上の中でも、紅綬褒章として2005年春には、落水した車から人命救助した功労で、史上最年少の15歳の少年に贈られて居り、2005年秋には、今月25日で1年を迎えたJR福知山線脱線事故で救助活動に当たった地元企業や、二次災害を防いだ主婦に贈られている。このように(勲章については詳しく記していないが)勲章が長年にわたる功績を対象とする側面が強く現役を退いた方々が多いのに対し、褒章は、人命救助のように一過性であっても功績顕著な場合は褒章の対象となる為、比較的若年者も多くなるのである。GWの始まりの日、様々な分野での功労者と、その人を陰で支えた人達に思いを馳せ、しばし敬意を込め、感謝の手を合わせたい。

◎参考
中日新聞28日/29日朝刊紙面・ウキペディアより
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2006/4/28

耐震強度偽装事件8人逮捕・「センターワンホテル」に思うこと  日記(今日思うこと)

お客様が、駐車場でインロックをされてしまった。ご自宅の鍵とは別にされていて、ご自宅に行けば、スペアキーがあるとお聞きした。私はちょうど手が空いたので、その方のご自宅前までお送りする事にした。車を走らせていて、この方面に来るのは久しぶりだ…と思いながら、ふと景色が変わっている事に気がついた。名古屋鉄道、半田駅前…耐震偽装事件の犠牲となった10階建て、客室数126のビジネスホテル「センターワンホテル半田」が遂に取り壊されていた。
クリックすると元のサイズで表示します 在りし日のセンターワンホテルの姿。

「センターワンホテル半田」の中川社長は、元は金属加工業を営んでいた。半田駅前再開発に絡み、「人の流れができ活性化になる」と、ビジネスホテルの経営に事業を変更する決意をした。55年間続いた製造業からサービス業へ…大きな決意であったに違いない。中川社長は、地元建設業のS工務店を通じて、総研の内河健氏に会った。内河氏は、「私どもにお任せして頂ければ、設計建築から、ホテル経営まで全てコンサルタント致します」と分厚い市場調査書と事業計画書を出した。そして、総研がコンサルタントし手がけた物件を、内河氏自ら案内したという。総研は当時既に、200棟のホテルを建てており、他の業者より建設期間が6ヵ月も短く、金額も2億円程安かった。その理由は、「成功しているからだ」と言われた。何もかもが初めてで素人同然だった中川社長はすっかり信じてしまったそうだ。「ホテル建設から経営コンサルタントまで、総研を信じて全てを任せていました。設計も、総研が指定した平成設計が全てを行っているものと思っていましたよ。姉歯が関っているとは、思いもしませんでした」。中川社長の言葉である。
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明治初期に来日し大森貝塚を発見した、アメリカの動物学者モース氏は、その著書『日本人の住まい』の中で、「アメリカの大工よりも日本の大工が優れている」と褒め称えている。モース氏の目から見た、当時の大工さん達の、新しい物を苦心して仕上げる様と、それが何代もその技術が引き継がれて居る事は、感嘆以外の言葉では示せなかった。「文明とか最新の器機とかは、そこに頭脳及び幾分の眼差しと機知が伴わなければ意味を成さない」と、アメリカの建設器機開発を皮肉った。また、モース氏は、日本に滞在中、旅館を使用していた。その旅館を1週間留守しなければならない時、財布を部屋の机上のお盆の上に忘れてきてしまった。部屋に鍵がある訳ではない。モース氏は、殆ど諦めていたが、1週間後、部屋に戻ると中味もそのままで無事だった。アメリカでは考えられないと、「日本人は生得正直である」と評し、自分が見てきた大工さん達の眼識や実直な仕事ぶりと結びつけた。

私のお店を建てている時も、様々な職種の建築関係の人達に関って貰ったが、その仕事ぶりを眺めていて、誤魔化すという事をせず、一つ一つの技術を積み重ね、根気よく設計士さんの描いた形に作っていく、大工さんや左官屋さんの姿に感動した。彼らは、けっして他の職人さんの仕事の跡を傷つけなかった。専門用語では「養生する」と言うらしいが、自分の仕事の部分に取り掛かる前に、その周囲にある他の職人さんの残した仕事の部分に保護シートをつけてから始めていた。反対に、それをしない職人もいた。名指しして申し訳ないがコーキング屋さんだった。左官屋さんが苦労して塗った石の洗い出し面に脚立を立てて作業する場所があった。左官屋さんが「今養生するから少し待ってくれ」と頼んだにも関らず、「時間が無い」と脚立を立て傷つけた。双方で口論になりコーキング屋さんが左官屋さんを殴った。その時、近くにいた私は、若さゆえか「お店の敷地内での暴力は許さない」…かなりきつくコーキング屋さんに言い帰って貰った。後で現場監督に言ってコーキング担当の会社を変えて頂いた。修行を積んだ人こそ、他の職人さんの苦労を知っている…お互いを敬いあい相手の仕事も大切にする…私がお店を建てた時、学んだ事だった。
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家にしても、店舗にしても建物を建てる時、持ち主は設計士さんは勿論、その職人さん達に自分の夢を託す。家作りに於いては、モース氏が讃えた大工さん達の仕事の延長線に、設計・施工する大手の建築会社があり、基本的には同じ気持で実直であるべきだ。昨年発覚した、耐震強度の偽装事件も、ようやくその関係者8人が逮捕された。「同じ穴のムジナ」の如く、互いに責任を擦り付け合ってきた8人。やっと全容を解明できる扉が開いた気がするが、疑惑の汚泥は隅から隅まで浚い切って頂きたい。また偽装の背景には、規制緩和や、検査の甘さ問題も指摘されている。モース氏の言葉を借りれば、新しい技術や制度があっても、眼識や実直さが伴わなければ意味も無く、むしろ大きな害が引き起こされてしまった。中川社長始め、多くの人を泣かせ、住まいへの信頼を揺るがせた「名義貸し」「粉飾決算」「架空増資」。この三つの虚飾に取調べのメスが入る。逮捕された人達…もう嘘はつかないと約束して貰えないだろうか。モース氏の言葉…「日本人は生得正直である」。逮捕された人達に贈りたい。

◎中川社長は、国の援助が得られないまま再建を決意し、ホテルは平成19年4月に同じ名前でオープンされる予定だ。

http://www.centreone-handa.com/

◎お詫び
文中に、職業としてコーキング屋さん全てが良くないと、誤解を招くような表現がありました。大変申し訳ありませんでした。
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2006/4/27

「水がしたたってもいいパソコン発売!」…panasonicから。  日記(今日思うこと)

松下電器産業が、25日に発表したノートパソコン「レッツノート・Y5シリーズ」は、コップ一杯の水を溢しても壊れないという全面防滴と、1490グラム(14.1型液晶)の軽さが売りのボディとなった。発売は来月19日とされている。既に同社は、土砂降りでも使用できるという「タフブックシリーズ」を開発、販売しているが、新商品は、その「タフブック」の道具箱のような頑強なイメージから、ボディもスタイリッシュに変更され、人気が出そうだと思っている。防滴システムの秘訣は、キーボードの上に水を溢した場合、パソコン内部に設計された排水路を通り抜け、ハードディスクや回路の基板は保護される仕組みだという。車に例えると「タフブック」が、クロスカントリー型四輪駆動車・ジープタイプとしたら、今度の「レッツノート」は、4WDのステーションワゴンタイプと言えようか。

強さとスマートさを兼ね備えたY5シリーズ。
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☆主な特徴としては
Let’s note Y5シリーズ(松下電器産業HPより)

(1) 頑丈(タフ)設計の進化
・キーボード全面防滴の実現
天面全体で100kgf加圧振動試験及び、「30cm落下試験」をクリア。

(2) 長時間駆動の実現:標準バッテリーで約9時間の長時間駆動を実現。
(前モデル比 約28%増)

(3) 世界最軽量の実現
・スーパーマルチドライブ内蔵
14.1型SXGA+液晶で世界最軽量 約1490グラム

(4) 基本性能の向上
・低消費電力、高性能の新Centrinoを採用。
<Intel Core Duoプロセッサー搭載>


以上の仕様となっている。価格帯は、オープン価格ではあるが、予想として26万5000円前後の見込みらしい。けっして、お値段は可愛くないが、持ち運ぶという用途を重視すれば、やはり丈夫で、更にスタイリッシュであるゆえに、人気が出る事は間違いなさそうだ。

そう! 『水も滴るいい男(女)のあなた…にぴったり!』 なのである。

私も現行のノートパソコンを使用して3年半、そろそろ変え時かな?と思いつつ、せっかく使い易くしたこのパソコンから、乗り換えるのはどうも…と、まるで愛車を買い換える時のように悩んでしまう今日この頃である。

◎松下電気産業公式サイト⇒ニューリリース欄から、
モバイルノートパソコン「レッツノート 4シリーズ」発売へ
http://www.panasonic.co.jp/index3.html

◎同、頑丈さが売りの「タフブック」HP
http://panasonic.co.jp/ism/tough/index.html


★お断り
以上は、あくまでも私個人の私見であり、松下電気産業から宣伝費等は一切頂いていません。
悪しからずご了承下さい。
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2006/4/26

「手袋を買いに」・高校英語の教科書に載る…に思うこと  日記(今日思うこと)

岐阜県中津川の15才の高校生の少年が、後輩の13才のNさんを殺害した事件で、Nさんが持っていたブログが、心無い人達によって事件後、誰でも辿り着けるように編集されインターネット上に曝されていたという。Nさんは友達同士とブログを交換日記のように使用しており、その中に、容疑者の少年の顔写真も掲載していた。普段はその社会性の低さから、多くの人に見られることはなかったが、一旦事件の加害者・被害者として注目を集めると、ネット検索技術に長けた人達によって辿り着かれ、意図的にアドレスを表示されて、多くの人の目に曝されてしまった。24日になって法務省人権擁護局からの要請により岐阜法務局は、そのサイトの管理者2名にメールにて、削除要請を行ったと報道されているが、時既に遅しの気がした。
クリックすると元のサイズで表示します 愛知県半田市にある新美南吉記念館
芝生の緑が映える『童話の森公園』の地下にある。


以前から思っていた事だが、携帯電話によるインターネットアクセスは、安易に情報収集できるがゆえに、危険も伴いすぎる。ここに来て増え続ける少年犯罪には、必ずといって良い程、出会い系サイト然り、携帯電話によるインターネットサービスが絡んでいる。携帯電話各社も、その過当競争に拍車がかかり、新しいサービスの開発・その普及宣伝に余念がなく、家族割りなど家族で持って使用すれば格安にしたりしている。確かに携帯を子供に持たせるのは便利ではあるが、キー操作に優れている子供達の方が、大人より使い方を熟知し、想像以上に利用している事実がある。もう少し、携帯会社も青少年のアクセスには規制をかけても良いのではないかと感じている。それにしても、切れ易い青少年の犯罪は、私達の記憶が追い付かない程、後を絶たない。
絵本『手袋を買いに』小学館文庫 クリックすると元のサイズで表示します

そんな中、来年度からの高校の英語の教科書に、新美南吉の童話『手袋を買いに』が掲載されることになったという。『手袋を買いに』は、寒さで手が凍えた子狐が母狐から「人間は恐いから」と片方の手を人間の手に変身させられて、街へ手袋を買いに行くのだが、ライトの光が眩しくて慌てた子狐は間違えて狐の手を出してしまう。「このお手々にちょうどいい手袋下さい」。幸いにしてそのお店の店主は、狐と判っても、手袋を売ってあげた…という誰もが子供の頃読んだであろう、心温まるストーリーである。私も、大好きな童話の中の1つだ。英訳を担当されたのは、静岡県の板村泰代さんだが、童話の中で最も訳が難しかったのは、童話の最後に母狐がつぶやく言葉、 「ほんとうに人間はいいものかしら」だったそうだ。「Maybe people aren't really so bad」⇒「人間は、それほど悪いわけではないかもしれない」という意味合いになるそうで、図らずも半田市にある南吉記念館に展示されている、推敲前の原作に近い文章になったようだ。

クリックすると元のサイズで表示します 南吉記念館庭の「手袋を買いに」記念碑

南吉が『手袋を買いに』を書いたのは、昭和8年の事である。そんな時代から考えると、人間は優れた能力と技術で新しいものを開発し世の中を便利にして、我々の視野や行動の世界を広げて来た。私が今書いているブログでも、WWW.(ワールド・ワイド・ウェブ)によって世界の何処からでも読んで貰える事が可能だ。しかし、その便利になるスピードが早過ぎるのか、程々に…というラインが引かれにくくなり、常識の範囲が何処までなのか、判断でき難くなって来ている。子供達はそんな背景の中、新しいコミュニュケーションの方法で、行動範囲を広めつつ、大人の想像の枠を超えて行動していく。前記した事件の背景にも大人の困惑ばかりが見え隠れする。また事件を起した少年の弁護士は「(少年は)携帯電話の操作に詳しくなく、着信などの履歴を消すことは出来ない」と言っているらしいが、実際は自分の携帯電話の履歴だけでなく、亡くなったNさんの携帯電話の履歴まで操作した疑いが持たれているという。

『手袋を買いに』の母狐が70余年の時を超えて語りかける……

                  「ほんとうに人間はいいものかしら」

新美南吉の推敲前の原稿には……
     「人間はそんなに悪くないのかも」と言う書き方がされている。


◎新美南吉記念館 HP
http://www.nankichi.gr.jp/

◎新美南吉記念館へは、時々出かけます。南吉については、また改めて書かせて頂きます。
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2006/4/25

藤井フミヤ・平安神宮でのライブ…同級生からの電話に思うこと  日記(今日思うこと)

京都で保育師をしている同級生から、久しぶりに電話があった。「ほたる、元気?今日はお休みだと思って」。懐かしい声だった。彼女は高校時代、チェッカーズの大ファンで、自宅へ遊びに行くと、カーテンもベットカバーもチェックだらけだった事を思い出した。その彼女が23日、藤井フミヤさんが開催した平安神宮でのファンクラブ限定ライブ、「FUMIYA FUSII LIVE 2006」を観て来たと話してくれた。かがり火が焚かれ、幻想的な雰囲気の中で行われた今回のライブは、フミヤさんが歌った全19曲中、8曲が他のアーティストのカバー曲で、それもフミヤさん自身が「自分が聴いて育った曲」というテーマだったそうだ。
クリックすると元のサイズで表示します フミヤさん「平安神宮ライブ」のパンフレット。

今回のライブで、フミヤさんが選んだカバー曲を列挙すると、・井上陽水「東へ西へ」、・フィンガー5「恋のダイアル6700」、・沢田研二「時の過ぎ行くままに」、・エルビス・プレスリー「Can't help falling love」、・坂本九「見上げてごらん夜の星を」、・チューリップ「さぼてんの花」、・松田聖子「Sweet Memories」、・ベイ・シティ・ローラーズ「Sturday Night」だったそうで、私にとっても懐かしい曲ばかりだった。しかし、むしろ私にとっては、チェッカーズの曲そのものが、懐かしい曲である。新聞のCM欄に「懐かしのニューミュージック」というCD集の宣伝が載っていて、働き盛りの40代、50代の客層を中心に、よく売れているそうだが、フミヤさんも、自分の音楽のルーツを辿る年齢になったんだなと、友達と話していた。それにしても、その友達は、チェッカーズ時代からずっとフミヤさんのファンクラブに入り続けていたのだ。それもいささか驚きだった。

フミヤさんといえば、昨年は「愛・地球博」の名古屋市パビリオン『大地の塔』のプロデューサーとして活躍し、一昨年は、フミヤさんの名に因み開催238日前に、名古屋市栄のオアシス21「銀河の広場」で、市民が『大地の塔』の制作への参加と体験ができるイベントを開催した。そして、世界最大の万華鏡作りの様子や、プロデューサーとしてのフミヤ自らが切り絵作品制作のコツを解説した映像を上映した。そんな前宣伝も手伝ってか、『大地の塔』は、万博会場でも大人気で、連日長陀の列が出来ていたそうだ。実際私が出かけた時も、90分待ちで、入場してからは万華鏡を夢中で見上げて首が痛くなった記憶がある。フミヤファンの友達は、実家に帰って来て1泊し「ナイターで、出かけて入った」とも話してくれた。尚、この「大地の塔」の映像やその仕組みなど、現在、名古屋市市政資料館で再現されているという。友達の話によると、フミヤさんも、同会場で行われた万博一周年の記念式典には訪れ『大地の塔』製作等の思い出を楽しんだのだそうだ。
ナイター撮影の『大地の塔』 クリックすると元のサイズで表示します

そんなフミヤさんが、「今年は、音楽活動に専念し、同年代のメンバーでバンドを組んでライブを行い、レコーディングもしたい」と語ったらしい。「同世代と一緒に過すのは、時間を忘れる程に話が合っていいものだなぁ」と、友達と話しつつ「偶にはのんびりお寺巡りでもしたいね」と、沙羅の花の咲く頃に京都で会おうと約束した。電話を切ったそのすぐ後に、岐阜の母から携帯メールが届いた。(私が先々週訪れた)「寺尾ヶ原は、桜吹雪です。短歌の会の仲間と行ってきました」。と書かれていた。母達は散り行く桜を観ながらどんな歌を詠んだのだろう…と思いを馳せてみた。
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ひさかたの 光のどけけき 春の日に しず心なく 花の散るらむ 
                             -紀 友則-


『こんな のどかな春の日に、どうして(桜は)こんなに忙(せわ)しげに、散り急ぐのだろう』

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古今和歌集の選者で紀貫之の従兄、紀友則の歌が浮かんだ。電話をくれた友達も高校時代は、私と同じく古典の授業が大好きで、お互い競って百人一首を覚えたものだった。春は何かと忙しいが、偶にはのんびりと過す時間を作らなければいけないな…としみじみ思った。
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2006/4/24

サッカー・W杯まで1ケ月半…「ベルリンの奇跡」から70年後に。  サッカー&ワールドカップ・ドイツ大会

クリックすると元のサイズで表示しますサッカーのワールドカップまで、後約1ヶ月半となった。サッカーが日本に伝来したのは、明治維新後で、当時日本の海軍兵学寮に、教官として来日したイギリス人将校ダグラス少佐が、日本海軍の軍人たちにサッカーを教えたという記録が残っている。その後、全国に教師養成の為に作られた、師範学校を中心に、サッカーのクラブが設立されるようになった。そして、師範学校を卒業したサッカー選手が、全国各地で学校の先生となってサッカーが広く全国に広まった。その結果、1918年(大正7年)に、現在の高校選手権日本最初のサッカー大会が大阪でスタート。また1921年(大正10年)には、現在の日本サッカー協会のもととなる「全日本蹴球協会」が設立された。そして第1回の「全国優勝競技大会」(現在元旦に決勝戦が行われる天皇杯全日本選手権大会の前身)が行われた。

1936年、ドイツ・ベルリンで行われたオリンピックに日本サッカーチームは参加する事となるが、この経緯には、次の開催地として東京が決まっており、ドイツとの繋がりの政治的背景もあって急遽参加が決定、申し込むという、かなり無理なシチュエーションがあった。結局、大学生の選抜チームとして、当時関東大学リーグ3連勝中の早大から10人と、東大からOBも含めて3人、慶応と東京高師と京城普成専門から各1人ずつ選ばれた16人だった。その中には、左のMFとして戦後長い間、韓国サッカー界の神格的な存在となった金容植選手もいた。当時は朝鮮半島も日本であった為であるが、強烈なフリーキックを持ち、ボールをヘディングしながら、また頭に乗せたままピッチを一周出来る等、力強さと器用さを兼ね備えた選手だったようだ。
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1936年8月1日、第11回オリンピックが開幕した。サッカーの種目に参加申請した国は16カ国だった。現在では各大陸予選を経て、本大会出場の16カ国を決定しているが、当然ながら参加する全ての国が本大会に出場する事となった。そして8月4日、日本は初めて国際大会のピッチの上に立った。場所はベルリンのヘルタープラッツ・スタジアム。観衆は約6000人を集め、記念すべき日本の初戦の相手はスウェーデンだった。スウェーデンは、優勝候補に挙げられていた強豪で、下馬評ではドイツよりも強いとされていた。現地での予想はスウェーデンを圧倒的有利とし、東の果てから初めて世界の舞台に登場した日本チームは、勝てるはずがないと予想されていた。この模様は、私もTVの「その時歴史が動いた」で再現フイルムを観たが、新聞もラジオも、スウェーデンの勝利を確信したように報道されていた。

試合は、予想通りスウェーデンの2点リードとなった。しかし2点のビハインドを背負った後は、GK佐野選手がスーパーセーブを連発して防ぎ、日本チームは、豊富な運動量にものを言わせ、決してスウェーデンにペースを握らせなかった。スウェーデンのラジオ放送のアナウンサーは「ヤパーナ、ヤパーナ」(そこにも日本人、ここにも日本人の意)を連呼した。そして、後半、風上に立った日本が反撃を開始。同4分、FW川本選手が追撃の右足でゴールを決めると、同18分にはFW右近選手がこぼれ球を押し込んで同点とし、更に終了5分前には、カウンター攻撃からFW松永選手が決めて、3―2と逆転。やがて試合終了のホイッスル…それは初めて世界の舞台に立った日本が優勝候補を破った瞬間だった。コーチを務めていた竹腰茂丸氏は「潜水艦が戦闘機に勝ったようなものだ」と言って涙を流した。
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その模様を東京報知新聞は「日本蹴球軍の快勝に全観衆沸き立つ 警官隊出動して漸く整理」と題して以下のように報じた。

「大会4日目の話題を独占した胸のすく日本蹴球軍の快勝-- 日本蹴球軍が優勝候補の呼び声が高かった強豪スウェーデン軍を3-2で破ったのは、誰も予想していなかっただけに大きなセンセーションを巻き起こした。慣習約2000、黄と紺のスウェーデン軍、紺と白の日本軍、しかも敵軍に比べて子供のような日本軍が、前半敵軍リードのまま後半に入って猛然と立ち上がった姿に、観衆は呆然となった。たちまち3点を奪って1点のリード、ホイッスルが戦いの終了を告げた瞬間、我が選手はグラウンドの真中でうれし泣きに泣いた。観衆はものにつかれたようにスタンドを飛び降り、「日本、日本」と叫びながら幾重にも幾重にも選手団を取り囲んだ。この興奮は巡査の出動でようやく静まった程だった」(1936年8月6日付)


それから13年後の1949年、日本人として初のノーベル科学賞を受賞した湯川秀樹博士が、ストックホルムで行なわれた授賞式に出席された。そのインタビュー時に、スウェーデンの新聞記者は「1936年にベルリンで、日本チームはスウェーデンチームに勝ちましたね。貴方はその日本から来た方ですから、勿論サッカーをなさるのでしょうね」と言い、サッカーボールを差し出した。ボールを笑顔で受け取った湯川博士は、ポンポンとヘディングをして見せ喝采を浴びた。最早日本ではサッカー関係者の中だけでの伝説となっていたこの「ベルリンの奇跡」は、第二次大戦を経た13年後にもストックホルムでは、まだ忘れられていなかったのだ。

その「ベルリンの奇跡」から70年、同じドイツで行われるワールドカップ…日本チームには、欧州諸国が「ベルリンの奇跡」を思い出す程の戦いぶりを期待したい。

◎2004年5月12日放送「その時歴史が動いた」HP
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/
◎参考サイト
http://www.walkerplus.com/worldcup/japan/
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2006/4/23

包む文化・風呂敷…世界大風呂敷展開催に思うこと  日記(今日思うこと)

名古屋市博物館で『世界・大風呂敷展』が開催されている。今日、親戚から招待券を頂いた。勿論、『だい風呂敷』と読み、決して、出来そうもない大袈裟な事を言い合う展覧会ではない。私は、和服など衣装を運ぶ時に、よく風呂敷を利用する。特に婚礼の仕事に使用する道具を運ぶのには、とても便利で重宝している。風呂敷は40年程前には、どの家庭にも10枚から20枚はあったそうだ。また、商人が売り物を運ぶのにも便利な道具だった。自動車が普及するまでは、比較的重い荷物でも風呂敷に包んで背負うのが、一番効率の良い運搬方法だったのだ。紙袋が普及しだした、昭和40年代から段々衰退の途を辿ったようだが、実際に、私が今の仕事に就いた昭和60年頃も、風呂敷は結婚式の名披露として、また引き出物等を包む道具として、必ずといって良いほどの付き物だった。

クリックすると元のサイズで表示します 『世界大風呂敷展』のチケット

さて、風呂敷と聞くと日本だけの文化だと思いがちだが、この物を包むという布の文化は、韓国や中国からシリア、トルコに至るアジア一帯と、アフリカ、欧州、そして中南米まで、世界中に広がっている。インターネット等で調べてみると、使い方も包む以外に、掛けたり、敷いたり、被ったりと、とても多彩で面白い。そして本来の目的の包むという対象物も、日用品や食品にとどまらず、赤ちゃんや経典、インドネシアでは、何と、亡くなった人を包む習慣もあるという。一枚の布が、その対象物の形に合わせ変幻自在に姿を変え包み込む。無用の時は、折り畳み存在を殆ど無に近くする事も出来る。二次元から三次元へ、この変化の柔らかさが「包む」という風呂敷の神髄とも言えよう。
包み方・最もポピュラーな「お使い包み」 クリックすると元のサイズで表示します

対照的に西欧の「詰める」文化の鞄…入れられる物の大きさを限定し、その代わり、入れれば壁となって外の刺激から中の物を守る事が出来る。そしてその鞄は、例え中身が空でも姿を変えることなく、その存在を主張している…この固さが神髄である。鞄の文化を「西欧近代主義の象徴」とも言う識者もいるようだ。この「詰める」という鞄の文化は、柔軟性に飛んで物を包み込むという風呂敷の文化とは対照的である。そして日本人は特に、この風呂敷で物を包む時に、「祝う」「祈る」「敬う」といった気持も包み込んで歴史を刻んで来た。最近では見かけることも少なくなったが、祝儀・不祝儀袋も、相手に敬意を示し、風呂敷の小型版・袱紗(ふくさ)に包んで持って行ったものだった。前記した「大風呂敷展」では、その代表例として、嫁入り道具を飾った風呂敷も展示されているという。
クリックすると元のサイズで表示します ビン2本を包める「ビンつつみ」

布で包む文化は、世界各地でもあるようだが、日本には、8世紀の世界最古と伝わる風呂敷が正倉院に展示されている。平安から鎌倉時代の鳥獣戯画にも平包みと呼ばれていた包み物を持った猿が描かれているが、「風呂敷」という名前は、室町時代、風呂屋で湯上りに敷き、その上で休んだり着替えた事から付いたとされている。現代風にいうとバスマットとバスタオルの兼用というところだが、その情景を想像すると実に風雅である。現在、資源・ゴミ問題を抱えている私達…「勿体無い」という死語になっていた言葉を復活させ、物を大事にしようという動きも見られている。風呂敷に洋風の柄を取れ入れたり、デザインもお洒落にして、販売するメーカーも増えているようだ。環境にも優しく便利な風呂敷を、買い物に行く時にも持参する等、率先して使うように心がけたいと思った。

ところで「包む」という言葉の語源は、語源由来を辿ると「むき出しの心を包み込んで覆う」という意味で、「つつましい」と同じだそうだ。この言葉の語源には、日本人ならではの、心の文化を感じる気がしたが、風呂敷の衰退と共に失われつつあった「つつましさ」も取り戻せればと願っている。

◎風呂敷の包み方参考。
風呂敷は地球と仲良し-「ふろしき研究会」

http://homepage2.nifty.com/furoshiki_sg/

◎説明が解り易い(開催日は過ぎている)
世界大風呂敷展(大阪国立民族学博物館)個人サイト

http://homepage1.nifty.com/asiantextiles/minpaku.html

◎名古屋市博物館公式サイト・開催日程等
http://www.museum.city.nagoya.jp/tenji18/060408/060408.html

★お詫び
折角、頂きましたコメントへのお返事が、遅れていました。ごめんなさい。
やっと、お返事させて頂きました。今後共、宜しくご指導お願い致します。
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2006/4/22

書家・金峯の親族(ちょうちんブルマ)の武勇伝…柿右衛門の皿  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

昨日のブログで祖父の弟、金峯の事を書かせて頂き、知っていて下さる方や、興味を持って見てみたいとメールして下さった方がいらして感激した。では、私本人の文字は?とのご質問もあり、穴があったら入りたい気分になった。ノーベル物理学賞の朝永振一郎博士でさえ、習字の先生に下手と言われ朝になると腹痛が起きて学校に行きたくなくなったというエピソードも有り、どうやら字の上手下手と賢さは因果関係はないらしい。しかしながら、文字が綺麗だと賢く思われがちで、学生時代の字は一寸綺麗で、随分徳をしたり誤解されたりした。私が習字を習っていたのは中学生までであったが、小学生の頃は、半紙から、はみ出すくらいの元気な文字を書いていて、小さな大会で賞を頂いたりした。それで祖母の期待を担い、金峯に習ったという先生に習字を習いに行くことになった。
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しかし、祖母の期待はいつも裏切られるものだった。どうも学校の習字の時間とは違い、じっと墨を磨るのが苦手であった。私は墨汁を使いたいといつも思っていたのだ。また、偶然だが同じ類の男の子も習いに来ていて、隣に座っては、先生の目を盗み私の半紙に悪戯書きをしたり、墨を顔に飛ばしたりして来た。そこで泣けば女の子らしいのであったが、義理堅い?私はお返しをしたものだから、見つかってしまい、いつも先生からは墨磨りの罰を与えられていた。以来どうも習字は好きになれなかった。でもどうにか、中学1年までは習っていて、書道展で「女郎花」(おみなえし)という字を書いて文部大臣賞を貰った事もあった。それは安い表装だが一応表装して貰って掛け軸になっている。習字を習って良かった事は、どうでも良い事だが書き順を覚える事が出来た事と、墨磨りで少しは根気が身に付いた事と思っている。

また、習字と普段書く字は違うものである。最近は文字を書く事がめっきり減って、慌ててメモした時等は、後で自分の字が読めなかったりして困る事も多々ある。お正月に娘さんの和服の着付でこのブログにも登場した、私の幼少時のお守のお姉さんとは、高校時代文通をしていた。5年前、東京へ行った時、彼女の家に泊めてもらったが、彼女が大きな箱を出して来て、蓋を開けて驚いた。私が送った手紙の全てがそこに保管してあった。懐かしさのあまり手紙を開いて更に私は驚いた。「これ、私の字?」。それは今現在書く文字とは、別物だった。それも草書で書いていた。文字とは、書かないと退化するものだとよく解りかなりショックだった。10代の自分に負けてしまったのだ。いやしかし、負けているのは文字だけではないかもしれない。ここで例を挙げると空しくなって気力を失くしそうだ。
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さて、金峯の書だが、通常は育った家の蔵に保管してあった。私は腕白だったので小学生の低学年くらいまでは、祖母によく蔵の中に入れられた。始めは暗くて恐いので泣いているのだが、そのうちに目が慣れて来ると、その蔵の中は私にとって興味深々の場所になった。実は金峯の掛け軸も開いて見たりしていた。巻き方やしまい方が違う為、すぐに祖母に判ってしまい、余計叱られたりしたが、懲りずに蔵の2階まで探検したりした。その経験は、祖母が亡くなった時に、育ての母は物の位置を知らない事が多く、結構役に立ったりした。蔵の中には、焼き物も多く、飯事遊びもしていた。祖母が気にして蔵の前に来ると、「お帰りなさい。ご飯にする?」なんて飯事の会話が聞こえていて、呆れたと言っていた。

柿右衛門皿の内の1つ。 クリックすると元のサイズで表示します

そういえば、こんな事もあった。小学生の時、親戚で結納式があり、柿右衛門一式の器を貸し返って来て内縁に干してあった。その日は公民館で子供会の集いがあり、カレーライスが出る日だったが、私の家にはレストランで出てくるようなカレー皿がなく、私は、干してある皿の中から楕円の気に入った柄の物を選んで持って行った。私なりに気を使いキルトの布で包み、自転車の荷台に丁寧にくくり付けて持って行った。帰宅して祖母がお皿が「1つ足りない」と騒いでいたので、「今借りて行ったよ」と答えたら、祖母は怒りながら慌ててそのキルトを持った為、お皿が滑り落ちて2つに割れた。
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祖母は憤りを何処にぶつけていいのか解らず帰宅した父に唾を飛ばして怒っていた。父は「おふくろ、割ったのはおふくろだからな。金継ぎに出せばいいさ」と言い、私にはお咎めが無かった。そして「前代未聞だ、柿右衛門の皿でカレーか。皿もびっくりしたわなぁ」と高笑いしていた。まったくもって寛大だった父に感謝している。数年前、弟の結納の時、その一式(昔は家で挙式をした為、20客ずつ揃っている)が出された。金で継いだ楕円のお皿…私がその家で育った証拠だと親族から笑われた。今振り返ると、柿右衛門の柿色にカレーの黄色はよく似合っていたと覚えている。良い器は料理を引き立てるとは、本当の事だ。このようなほたる武勇伝は、祖母からは目くじらを立てられ通しで「巴御前のように戦国時代に生まれて来て欲しかった」と言われていた。金峯の話を書いたからには、子孫の恥とならぬよう、今後はしとやかに努めたいと思っているが、はてさて…である。

◎閑話休題
朝永博士は「習字が苦手だったから色紙は勘弁してもらっていた」と『回想の朝永振一郎』に書かれているが、実は色紙にこんな言葉を残して居られる。
「ふしぎだと思うこと これが科学の芽です よく観察してたしかめ そして考えること これが科学の茎です そうして最後になぞがとける これが科学の花です」

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2006/4/21

昭和天皇の代筆を勤めた書家「金峯」について…思うこと  日記(今日思うこと)

私の祖父の弟、安太郎は、幼い頃から文字を書くのが好きだったそうだ。祖父は長男だからと兄弟の学資の為に家業に精を出していたが、傍で「文字ばかり書いていた」と祖母に愚痴っていたらしい。当時家業は和紙を作る紙すきをして居り、紙が豊富だったのも、恵まれた環境だったと言える。安太郎は旧性中学を卒業して、他の兄弟と同じく岐阜師範(現岐阜大)に入学し教員を目指した。書の才能を見出され、当時の文部省「書道科検定」を受け合格した。そして岐阜県立武儀高等女学校の教諭となったが、書家への道を志し、既に安太郎の書を認めていた山口半峯氏を頼り上京した。その後、泰東書道院展での受賞を繰り返し、遂に44才の時、閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王殿下のご用命を受け、書道の指導をさせて頂く事となった。この頃より半峯氏から金峯の称号を頂き使用するようになった。

クリックすると元のサイズで表示します 町の博物館にある金峯の書

因みに閑院宮家とは、皇室直系の断絶を危惧した新井白石が、江戸時代の徳川家に御三家があったように、皇室にも補完する新たな宮家を必要との建言をし、享保3年(1718年)、霊元上皇から、直仁親王に閑院宮の称号と千石の所領を下賜され生まれた宮家であった。 1988年(昭和63年)閑院純仁親王の死によって、後継者がなくなり現在は断絶しているが、安太郎(以下金峯と記す)が書の指導としての用命を受けた載仁親王は、閑院宮家としては6代目に当たり、フランス留学の経験を持ち、日露戦争にも従軍された。祖母達が伝え聞いた話では、聡明で暖かい人柄、そして稀に見る美男子だったそうだ。

クリックすると元のサイズで表示します 顔法のお手本

金峯は44才にして泰東書道院理事となる傍ら、半峯氏の遺命によりその後を継ぎ、第二代会長として日本書道研究会を主宰、顔法(唐時代の能書・顔真卿の書風)の維持と次代にその書風を残すことに尽力した。翌年、45才で枢密院嘱託となり院内で書の指導にあたった。そして金峯が50才の時、昭和天皇から勅命を受けた。これはその年、京都の妙心寺の開山堂に、昭和天皇が勅額「無相」の文字を下賜される際、指導の任を命ぜられたという事であった。

私の家は禅宗の臨済宗妙心寺派だった事も有り、私は中学時代、父と伯母と一緒に妙心寺を訪れた。何となく賑々しい雰囲気の中、奥の院へ案内され、住職さんが来るのを待っていた。その時正座してかなりの時間待ち続けた為、情けない事に私の中では「足が痺れた」という記憶が鮮明に残っている。痺れた足でよたよたしながら父達の後をついて開山堂に案内され、「無相」の額を見せて頂いた。私は思わず「あっ」と小声を出してしまった。祖母が虫干しにと出していた掛け軸の文字と、殆ど同じ書体だったからである。しかし隣にいた父に「しっ」と口を塞がれ、また足が痺れるなあと思いつつ、住職さんのお話を聞いていた。

妙心寺を出ると、父が説明してくれた。あれは「安叔父さんが書いたんだよ」と。私は意味がよく解らず「だって天皇陛下が書いたって仰ってたよ」と言い返した。父は「まあ、そういうことにして置こう」と誤魔化した。しかしそもそも習字とは、手本があってその字の近づけるという習い方なので、私は金峯の指導で、天皇陛下も同じ書体になったんだな、とそれ以上深くは考えず、納得していたものだった。私が5才の時、金峯こと安太郎は脳梗塞で亡くなった。私が高校生の時の祖父の法要の時だったが、またあの妙心寺で見た「無相」と同じ文字の掛け軸が床の間に掛けられていたので、私はその前にじっと座って眺めていた。「天皇陛下の字も立派だけど、金峯さんの字もいいなぁ」と偉そうに隣に来ていた金峯の息子・達夫氏に言った。「ほたるちゃんは見る目ある」と言われ、親族中で大笑いになった。その時初めて父から、代筆で書いたと説明を受けた。

晴れて金峯の書として展示された無相の文字
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平成になって、町に博物館ができた。有り難い事に金峯の書も展示して頂ける事となった。金峯が友人に宛てた手紙や掛け軸などが展示されたが、あの「無相」の文字は、残念ながら展示されなかった。しかし平成16年、昭和天皇崩御から15年が過ぎ、宮内庁からご許可が降り「無相」の文字は『金峯書』として博物館に飾られる事になった。私は偶然だが、その年親しい人と博物館を訪れた。名前を名乗ると館長さんが案内して説明してくれた。役所に勤めている弟も来て金峯が師範時代に書いた「千字文」も見せてもらった。私は、見事な楷書体の活字のような千文字を見ながら、亡き祖母が虫干ししていた光景を思い浮かべていた。

無相=仏教用語で、全ての執着を離れた境地という意味があるという。

金峯は、日展等には出品せず名を売っていない。しかし昭和20年敗戦の大変革時に、動揺する人々の心を鎮める為には書が必要だと書道人の有志の方々と協力し、書道の復興に尽力した。特に学校教育の中へ書道を組み入れる事に力を注いだ。私が小学校で習った書き方の文字は、金峯が書いた文字と聞いた。このように殆ど名は出てないが、あくまでも陰となり顔法を基礎とし、常に精神溌溂たる書風を以て後進を指導した金峯…彼の人生そのものが「無相」の言葉だったように思う。私は子孫の1人として、尊敬する金峯の事を語り継いで行きたいと思っている。

尚、金峯は町の第二次大戦・戦没者慰霊碑の文字を無償で書き使用して頂いている。

◎金峯にご興味を持たれご質問等のある方は、コメント欄にメールアドレスを記して下さい。詳しくはメールにて答えさせて頂きます。
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2006/4/18

荒川選手を励みに、抗癌剤と戦うSちゃんより届いた便り…  日記(今日思うこと)

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18日の午前に、去る4月1日、開催された
「名古屋スケートフェスティバル」
のチケットを譲らせて頂いたSちゃんのお父様が、
TV放映された画像を、DVDに焼いて持って来て下さった。
Sちゃんは、外出後は熱を出したようだが、
荒川選手の演技を励みにして、
今も抗癌剤と戦っているそうだ。
DVDを出したら、その中に短い手紙があった。


「親切なお姉さんたちへ
お姉さん達のおかげで、楽しい時間をすごせました。
本当に、本当に、ありがとうございました。
Sも今度は、お姉さんたちといっしょに、
スケートを見にいけるようにがんばります」。


嬉しくて、そして切なくて涙が止まらなかった。

ここ数日で、
私の知人、お2人の方が癌の為、天国へ旅立たれた。
きっと、そのお2人も、Sちゃんの快復を
一緒に願っていて下さると信じている。
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