2006/7/31

和太鼓「こころ会」の岡谷市救済チャリティコンサートに行って  和太鼓くらぶ「こころ会」

梅雨が明けた夏の夕方は、爽やかな風が吹いていた。場所は「日本福祉大学」構内、ラグービー用のHポールが立つグランドで、和太鼓くらぶ「こころ会」の岡谷市水害チャリティコンサートが行われた。同コンサートは、福祉大の平和祭(ライブショー、盆踊りなど)の催事として織り込まれていた。福祉大学には、和太鼓くらぶ「楽鼓の会」があり、「こころ会」の子供達の一部が高校を卒業後、進学して入部している。そんな先輩達の協力もあって、ビールの箱を伏せて設置された舞台には、様々な太鼓が並んでいた。大学のキャンパス構内という目立たない場所+平日という条件のせいか、外部から訪れていたのは私だけのようだった。4才のお孫さんが「こころ会」に参加して半年という、お祖母ちゃんが客席にいらして「よく来て下さった」と丁寧に頭を下げられた。更に、「一番前に座って下さい」と促されて恥ずかしかったが「こころ会」の子供達に最も近い位置で聴く事が出来るのも、光栄だと前の席に座りなおした。

隣には車椅子の学生さんが来て「何学部ですか?」と尋ねて来た。「何浪して何年留年したら私の年になるのだろう?」と考えつつ、「学生をしている年ではないですよ。『こころ会』のファンなので来たのです」と答えたら、「ここ(福祉大)は、一旦社会に出てから入学してくる人もいますよ。如何ですか?」と言われた。「勉強が好きではなくて…」と笑って誤魔化したが、生涯を通して勉強をするという前向きな気持は大事だなと痛感した。そうこうしているうちに太鼓ショーが始まった。福祉大の学生さん達の中には、初めて聴く…という人も多く、感嘆の声と拍手が起きていた。4曲の演奏後、募金箱を持った『マサキ君(5才)』が居たので、ささやかだったが、募金させて頂いた。福祉大学の「平和祭」の催しは、まだまだ続くようであったが、私は会場を後にした。車の窓を開けると、真夏とは思えない程の爽やかな風が頬をなで、太鼓の調べの余韻に浸りながら心地よい気持で家路を急いだ。
クリックすると元のサイズで表示します 福祉大グランドに設置された太鼓。

曲目「若鯱(しゃち)太鼓」演奏開始。 クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します 小さい子供達も次々参加。

5才のマサキ君、身丈程の太鼓を叩く。クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します 若鯱のように跳ねながら叩く。

最年少の子(2才)の紹介。 クリックすると元のサイズで表示します
真ん中がマサキ君(昨年最年少)左が4才の子。マサキ君は1・5才からバチを持った。

クリックすると元のサイズで表示します 斜めに打ち下ろす姿が凛々しい。

舞台から降りて…。クリックすると元のサイズで表示します 

クリックすると元のサイズで表示します曲目「千賀水軍攻め太鼓」開始。

荒波を越え行く水軍が浮かぶ演奏。クリックすると元のサイズで表示します 

※以上の写真は、クリックで拡大します。

演奏後、募金活動開始。 クリックすると元のサイズで表示します
 
 クリックすると元のサイズで表示します 募金箱を持ったマサキ君。一寸照れ屋さん。

★お知らせ。
先日のAOLテンプレートの重さについて、以下のようにAOLからご回答頂きましたので掲載します。

『AOLダイアリーをご利用いただきありがとうございます。本サービスの運営事務局でございます。
ご質問の件でございますが、テンプレートのデザインによっては、ファイルサイズが大きな画像を使用していたり、画像を多数使用しているものがあります。そのようなデザインが適用されたダイアリーを回線速度が遅い環境からアクセスしたり、アクセスの集中する時間帯には表示に時間がかかる場合がございますので、何卒ご理解下さいませ。』

やはり、テンプレートの重さに差があるとの事でした。ご迷惑をお掛けしました。今後もテンプレート変更後に、このような不具合が生じる場合は、私の方でも友達と連絡を取り合い確認致しますが、メール(アドレスはブログ内のMailをクリック)にて、ご一報頂けると嬉しいです。
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2006/7/31

岡谷市水害支援コンサートを開催する、和太鼓くらぶ「こころ会」  和太鼓くらぶ「こころ会」

昨年7月、結婚式のお支度の仕事で訪れた能舞台のある高級旅館・「花乃丸」…。披露宴も無事終わり控え室で片付けをしていた所へ、支配人さんが「今から、太鼓のショーがあります。良かったら観ていって下さい」と知らせて下さった。私はスタッフと一緒に、ロビーへ行った。「こんばんはーっ」。今から太鼓を叩くと思われる子供達がすれ違い様に、大きな声で挨拶をしてくれた。彼らは、南知多の和太鼓くらぶ 「こころ会 正楽太心 輪太鼓 純」というチームだった。私達は階段に座って太鼓ショーを観た。威勢の良い掛け声と共に始まったそのショーは、迫力満点で感動的だった。宿泊客の人達からも、拍手喝采!パートで着てくれているスタッフの1人は、感極まって涙を流してしまった程に素晴らしかった。
クリックすると元のサイズで表示します南知多町にある高級旅館「花乃丸」。

花乃丸では、毎週、土・日に「こころ会」のメンバーが訪れて、太鼓のショーを行っている。以降、私は友達やスタッフと何度か訪れ、太鼓ショーに酔いしれた。「こころ会」は、9年前の1998年「地元の子供達が夢中になれる何かを…」という発案で始まった。そしてその努力が実り、2004年、2005年と、長野県岡谷市で開催されている「世界和太鼓打ち比べコンテスト」で文部大臣賞などを受賞、昨年は愛地球博にも出演、各地の老人ホームや福祉施設への慰問など、太鼓によって人々を勇気付けて来た。現在2才から18才まで40人のメンバーがいるが、「こころ会」では、上の子が下の子を助けて導いていくという姿勢が自然に作られている。ここに至るまでの関係者の方の努力は並大抵ではなかっただろうが、そこには、虐めや引き篭もりなどと全く関係の無い、明るくて、礼儀正しい子供達ばかりがいた。
威勢の良い掛け声と迫力のある演奏。クリックすると元のサイズで表示します

昨年披露してくれた新曲は、楽譜から起したという「千賀水軍攻め太鼓」…これは地元の水軍が、海から攻めて来た敵を相手に、武器を使うのではなく、太鼓を叩いて「我々は戦う気はない、我々の村を戦場にしないで欲しい」と訴え、敵を追い払ったという史実に基づいた曲だった。武力に対して武力でなく対し、意思を貫いたとは、現代の世界世情にも生かして欲しいような話である。その「千賀水軍」の曲が完成し、2006年も例年の如く、予選を通過、8月13日14日と、岡谷市で開かれる予定だった「世界和太鼓打ち比べコンテスト」に出場が決まっていた。しかし、先日の豪雨で被害が大きかった岡谷市は、やむなく大会の中止を決定…。この報告を受けた「こころ会」では、開催予定日だったその日に、お世話になった町の人達の為に何か出来れば…と岡谷市入りをし、ボランティア活動をするそうだ。更に、被災地の人達の心を「雨の後の虹のように温めたい」と「虹」をテーマにチャリティコンサートを彼方此方の会場で開き、募金箱を設置するという。私はそのニュースを聞いて、日曜日の仕事の後、久しぶりに「こころ会」の演奏を花乃丸へ聴きに行く事を決めた。昨年聴いた事がなかった友達も誘った。
クリックすると元のサイズで表示します演奏終了後の挨拶…丁寧で気持がいい。

花乃丸のロビーに着くと、準備をしていた「こころ会」の子供達が、元気よく「こんぱんは」と声をかけ迎えてくれた。相変わらず、皆の笑顔が爽やかで眩しかった。演奏は昨年よりもより一層、迫力を増していた気がした。何より昨年居た同じ子達の心技体共に成長している姿を観られて、とても嬉しかった。売り上げを活動資金にすると「こころ会」の子供達のお母さん方が作成したストラップ型のお守り…。通行手形のようで味わいがあった。私は昨年から何度も聞かせてもらっているので、少しはお役に立てたらと、ホテルのお客様が買った後、何個か買わせて頂いた。「ありがとうございます」。子供達の丁寧なお辞儀とお礼…。忘れかけていた何か温かいものが、心の中に甦ったような気持になった。被災地、岡谷市では、まだまだ壊れた家や建物の解体作業もままならず、復興への道程は険しいようだ。しかし、子供達の心が、虹のかけはしとなって、岡谷市の人達の心に届くよう…街の人達に勇気と希望となりますように…と祈りたい。31日は、知多半島にある日本福祉大学構内で夕方5時からチャリティコンサートが開かれる。幸運にも、私は休みなので是非訪れたいと思っている。
クリックすると元のサイズで表示します心の底に希望があれば、努力は苦でなく喜びとなる」…と書かれた栞と手形調のお守り。

笑顔が素敵なこころの会の子供達。 クリックすると元のサイズで表示します 
★写真はクリックで拡大します。

◎花乃丸 公式HP
(スタッフ日記の昨年7/3には、白無垢の花嫁さんの事が記してあります)
http://www.hananomaru.jp/
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2006/7/29

夏本番!全国選抜長良川中日花火大会・ネットでライブ配信。  日記(今日思うこと)

いよいよ夏本番!!
クリックすると元のサイズで表示します

中日新聞によると、7月29日の「第50回全国選抜長良川中日花火大会」開催に於いて、当日来場できない方のために、中日新聞本ページでインターネットライブ中継を実施するとの事だ…。1000人の人へ同時に、花火大会の模様が生中継されるのだそうだ。ライブ中継時間は、午後7時15分から同8時45分までの予定。その中継閲覧には、特別な申し込みなどは不要だが、閲覧側で高速のインターネット環境とWindows Media Player(バージョン9以上)という動画再生ソフトが必要となるという。

鵜飼で有名な清流・長良川を舞台に繰り広られる約3万発の花火の競演…大空のキャンパスに描かれる音・光・煙の美しさをお楽しみ下さい。(小雨決行・雨天の場合8月19日へと順延)
クリックすると元のサイズで表示します以下、中日新聞HP⇒花火ライブ中継画面へ
           http://www.chunichi.co.jp/

昭和32年から開催されて来た全国選抜長良川中日花火大会は、今年で120周年を迎える中日新聞主催のもと、全国選りすぐりの花火職人さん達が、腕を競いあう大会でもあり、毎年、新作も発表され正に、百花繚乱の美しさである。花火大会は午前9時に音花火から打ち上げ開始され、夕暮れに近づくにつれて打ち上げ間隔も短くなるそうだ。そして午後6時55分、珍しい「彩煙スターマイン」の打ち上げがあり、午後7時には、日本煙火芸術協会会員の特別銘品集(100発)が打ち上がり、夜の部へと続く。

夜の部は、花をテーマとしたスターマイン「夜桜吹雪」の2ヶ所同時打ち上げで開幕、打ち上げ花火、仕掛花火、スターマインを交互に盛り込み次々と打ち上げて行く。そして午後7時22分から日本煙火芸術協会会員の特別銘品集(200発)、午後7時40分には12の業者が競い合う「創作花火コンクール」が開催され、午後8時1分からは、同じ業者よる「スターマインコンクール」が行われる。終演も近づく午後8時31分には、特大スターマイン「祝50回長良川清流を彩る慶びの花束」が上げられる。

そして毎年、美しく荘厳な仕掛け花火だが、今年は、中日新聞社創業120周年の仕掛花火が設置され、8時37分に点火、同時に日本煙火芸術協会特別作品のスターマイン「ときめきの満開花壇」が打ち上がる。そして午後8時40分にクライマックスを迎え、音と花火をマッチさせた「メロディー花火」が約3分間、音に合わせて打ち上がる。今年はどんなメロディーだろうか?フィナーレは全長約500メートルのナイアガラの滝と特大スターマイン「勇壮花壇の煌(かがやき)」が3ヶ所で同時に打ち上げられ、午後8時45分終演のプログラムだそうだ。(一部中日新聞より引用)
クリックすると元のサイズで表示します ◎お詫び
7月28日、当ブログが、AOLの紫陽花テンプレートの重さが原因と見られる不具合か?(特に電話回線では)「ブログの頁が開き難かった、開かない」…という内容のメールを頂きました。ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。深夜になってテンプレートを変更し、AOLには、問い合わせた上、対処して頂きます。ご容赦下さい。


また、御丁寧なコメントを頂いた皆様へ
いつも、ありがとうございます。
ようやく、お返事を書かせて頂きました。
また、懲りずにコメントを書いて下さいね。
お持ちしています。
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2006/7/28

文化庁、国語世論調査の発表記事を読んで…慣用句の誤用に思う事  日記(今日思うこと)

2006年2月から3月にかけて、全国で16才以上の3652人を対象に(個別面接調査で、回答があったのは2107人)、文化庁が行った『国語に対する世論調査』によると、慣用句の誤用が目立ち、私達も当り前のように使っている…「ねぎらいの言葉」の使用法も誤って使用されているケースが多いと、今月26日、発表された。このような調査は、国語教育の各種施策に生かす事を目的として、文化庁は、1995年から毎年行って来たのだそうだ。

まず、慣用句の使い方についての回答例から(○の中に入れる言葉)

1. ○○を振りまく ⇒愛嬌(43・9%)  愛想(48・3%)
   ※意味 周囲に明るく振舞う事
   正⇒   愛想を振りまく。

2. 怒り心頭に○する⇒発する(14・0%) 達する(74・2%)
   ※意味 激しく怒る
   正⇒    怒り心頭に発する。

3. ○に据えかねる ⇒腹(74・4%) 肝(18・2%)
   ※意味 我慢できない思い
   正⇒    肝に据えかねる。

4. ○○を濁す   ⇒言葉(66・9%) 口(27・6%)
※意味  あいまいな言い方
   正⇒    口(くち)を濁す。 


クリックすると元のサイズで表示します
自分も正しい使い方を知っていたのか?と、問いかけてみたが、情けない事に、全く自信がなかった。文化庁はこの現象について、一番間違った使い方をされていた…「怒り心頭に発する」を「……達する」と言ってしまうのは、心頭の「頭」の本来「その辺り」の意で、心の辺りから…となるのだが、普段そのような意味では殆ど使わない為、単純に「頭」の意味と判断し、「頭に来る」という言葉に、引き出された「達する」としてしまった可能性が高いと分析した。

また、本来の使い方を殆ど意識される事なく、使われてしまっているのが、「ねぎらいの言葉」だそうだ。ねぎらいの言葉とは、本来、職階の上の人が、下の人にかける言葉であって、目上の人にかけるのは、失礼なはずで、本来なら、感謝の気持をこめて「ありがとうございました」とか、「失礼します」と言うのが正しい日本語の伝統とされて来たらしい。ただ、この言葉は昨今になって「確かに伝統的な使い方ではその通りだが、部下から上司に言っても失礼ではない…という考え方に変ってきた」という見解もあった。

このように言葉は、時代に合わせて淘汰され、変化して行くものではあるのだが、「食べられる」を「食べれる」と言ったりする『ら抜き言葉』も、定着してしまっている帰来がある。更に「歌わせて頂きます」を「歌わさせて頂きます」と言う、『さ入れ言葉』も、特に若者の間では、違和感なく敬語として使用されている。言葉が変りつつあるのは、各テレビ局のアナウンサー達にも言える事でも、「…しています」を「…してます」と言ったり、「…したので、」も「…したんで、」と言ったりする例もあって、気になってしまう時が多い。特にスポーツ選手やタレント達は、マイクに向って「…んで」を多用していると思う。W杯の時も、インタビューを受けた殆どの選手が例えば「ボールを蹴ったんで…」とか言っていて、「蹴ったので」という選手は、いなかったと思った。

また、話す言葉はもとより、書く(打ち込む)言葉も、文語体ではなく、話し言葉の延長で、口語体のまま書く傾向にあって、卒業論文などにも表れているらしい。これは、メールの発達の影響が大きいと推察される。私は自分なりに、メールの文章=話言葉より丁寧で重みがあり、手紙等の文書よりはラフな感じと、位置づけているが、最近では、論文等も、電子文書での提出が殆どになり、それに伴うメールも正式な物であると、認識されて来ているようだ。しかし携帯メールでは特に、まるっと会話のような言葉が交わされ、それも親しい友達同士なら楽しいが、挨拶も無しに「ため口」の言葉で、いきなり用件が書かれていたりして、驚く事もしばしばある。文化庁は、調査の結果を受けて、国語教育の充実を図るべきだと結論を出したようだが、実際には「読み・書き」…そして、一番効果的な教科書の「朗読」(声高く読み上げる事)や、新聞等を音読して、言葉の使い方を見直したらどうか…?と感じた。
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◎箸休め
先日放送された「トリビアの泉」で、面白いトリビア(trivia)…くだらない事、瑣末(さまつ)な事…の種を見つけ出していた。その年、アナウンサーが言い辛かった言葉のフジテレビのアンケートによるトリビアの種だった。以下、そのベスト10…。これらの言葉は、2006年上半期のニュースで取上げられた話題とシンクロしていて、とても興味深かった。

1.摘出手術 72人
2.腹腔鏡手術 53人
3.低所得者層 45人
4.六カ国協議 22人
5.貨客船万景峰号 17人
6.マサチューセッツ州 15人
7.偽札造り 11人
8.老若男女 10人
9.高速増殖炉もんじゅ 8人
10.トリニダード・トバゴ 7人


『今日未明、トリニダード・トバゴの高速増殖炉もんじゅで、低所得者層の老若男女が、偽札造りをしていた事が判明。マサチューセッツ州より、貨客船万景峰号で六カ国協議に向け、腹腔鏡手術により、摘出手術を受けた』

番組では、以上のように、この言葉達を繋げて文章?にしていた。声に出して読んでみた。因みに私はまず「低所得者層の…」の所で躓いた。何度か言い続けているうちに言えるようにはなったが、言い難い言葉が多いものだと痛感…。子供の頃、むきになって練習していた、色々な早口言葉を思い出した。
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2006/7/27

M:I:V(ミッション・インポシブルV)を観て。(一部ネタバレ)  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

映画の招待券を2枚頂いたので、「M:I:V」⇒「ミッション・インポシプルV」を観た。前作から6年…、ストーリー的には、一旦現役を引退して後任の指導にあたっているイーサン・ハントが、最も不可能なミッションで、フィアンセの命と引き換えに手に入れる品物…コードネーム「ラビットフット」は、やはり2作目同様、細菌兵器だったのか…?。今作品では、最後までその正体は、明らかにされなかった。しかし、映画開始早々の入部にクライマックスシーンが登場し、観客を一気に映画の中に引き込み、そこからアクションに次ぐアクションに終始し、あっという間に時間が過ぎ、私達観客を飽きさせる事はなかった。
クリックすると元のサイズで表示します シネマの入り口、扉の向こうは別世界。

トム・クルーズが、肋骨を6本痛めてまで臨んだアクションは、人間の限界を遥かに超えるスリリングさを感じたが、少々、無理があった感も否めなかった。トムが、スタントマンばりにアクションをこなすシーンを観ながら、その名前に、はっきりとした確信はないが、トムの影武者として前作のオーストラリアでのロッククライミングシーンや、バイクアクションシーン等で、代役を務めたスタントマンの名前はスコット・ウィートリー氏だったような記憶が甦った。そのウィリー氏が、本作品を撮影中の昨年6月、爆発を操作する為の花火が、仕掛けられた車の側で撮影を待っていた際に、突然、車が爆破し、全身の60%に第2級のヤケドを負う怪我をしてしまった。当時、ウィーリー氏には、防火服も支給されて居らず、その上、側に消火器や消火係もスタンバイしていなかった為に、火傷が進んでしまったと、過失致傷を主張し、トムのプロダクションであるクルーズ・ワグナーとパラマウント映画を相手に訴訟を起している。
映画館入り口付近にある「M:I:V」の看板。クリックすると元のサイズで表示します

制作発表で、トムは「全てスタント無しで撮影した」とコメントしていたが、スタント無しの代償として特写があったように感じた。特に上海の回廊を走り抜けるシーンは、人間の走る限界スピードより早かった感じがし、不自然に思った。また、能の中に小型時限爆弾を仕掛けられてしまい、爆破前に一旦電気ショックによって死んだイーサンが、フィアンセの救命措置によって息を吹き返すシーンがあるのだが、蘇生して直ぐに活発に動けたのも、鍛え抜かれたスパイの体とはいえ、不思議だった。このように若干のリアリティに欠けるシーンもあったが、イーサンがIMF(Impossible Mission Force・極秘スパイ組織)チームのメンバーとチームワークをキーに、ミッションを決行して行く様子は、非常に小気味良かった。
クリックすると元のサイズで表示します 今作品クールな演技のマギー・Q
ランボルギニーを運転し、バチカンに登場するシーン。


よって、この作品を引き立てるべく、トムを取り巻いているIMFの脇役達の演技が素晴らしい。1作目からイーサンのチームメンバーとして登場している、ルーサー役のヴィング・レイムス…。NYの舞台出身だけあって、その存在感ある演技力が光っていた。チーム紅一点でスリリングなシーンに挑むゼーン役のマギー・Qは、かつて中田英寿選手と熱愛報道されたモデル兼女優で、アメリカ人の父とベトナム人の母を持つハワイ生まれ。アジア各国でスーパーモデルとして活躍した、その美しい肢体で魅了させてくれた。また、IMFのボス、ブラッセル役として、マトリックス3部作全てに出演したローレンス・フィッシュバーンも、クールな演技で花を添えている。更にサスペンス・アクション映画には、不可欠な悪役(オーウェン役)として、フィリップ・シーモア・ホフマンが、最高にふてぶてしい悪役ぶりを見せてくれて居り、悪役が光ってこそ、主人公が映えるという手本のような演技だと思った。
モデルとして別の顔を見せるマギー・Q。 クリックすると元のサイズで表示します

スパイ大作戦のリメイクとしてスタートした、M:Iシリーズだが、スパイのミッションそのものは、国や組織の為にそのミッション=任務を遂行するのではなく、自分の部下や仲間、そして愛する人の為に命を張るという、人間愛に満ち溢れている作品に変化して来たと感じた。ドイツやバチカンの風景の美しさも体感でき、臨場感を味わう為にも、一度は映画館に足を運ぶ価値のある作品だとは思うが、私個人的には、前作、2作目の相手役、ナイヤが、細菌兵器・キメラウィルスを、自らに注射器で打ち込んで、敵から守り抜くという発想に衝撃的な驚きもあって、どちらかと言うと好きである。
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2006/7/26

加賀の美…「青九谷」華麗なる吉田屋展に足を運んで。  日記(今日思うこと)

幼い頃、悪戯をして祖母に蔵へ入れられたが、時間が経ち目が暗がりにも慣れて来ると、彼方此方の箱や引き出しを開け、飯事をし始めたりした事は、既に書いたが、蔵の中にあった器の中で、私の目から見ても、他の物とは一線を画しているように見え、気になっていた器があった。それは、赤や金彩を一切使用せず、緑、黄、紫、紺青で描かれた一見地味な酒器…徳利だった。その徳利は、来客があった時、祖母の手によって座敷の卓上に並べられて、揃いの盃もあった。お茶を運んだ私は、活動的だった私にしては珍しく、大人しく隣の部屋に控えて聞き耳を立てていた。家を訪れた来客は、伯母の知り合いで、多治見という所の陶芸家さんだった。「青九谷」…私はその焼き物の種類の名前を初めて耳にし、忘れられなくなった。
松坂屋美術館で開催された吉田屋展。 クリックすると元のサイズで表示します

お客様が帰られた後、祖母からその焼き物についての説明を聞いた。裏には「福」の漢字の落款。江戸時代の後期、石川県の吉田窯で焼かれた品だという事だった。当時その希少価値に気付く術もなく、ただ、いい色だなぁ…と思い続けていた。成人した後、友達と、そしてお店を出した後は、スタッフと、何度も石川県へ足を運び、石川県九谷焼美術館を訪れた。そこには、私が憧れ続けたその色合いの器が、ガラスのケースに中に飾られて居り、金沢市内の陶器店には、吉田屋風、青九谷の器が並んでいた。私は、吉田窯の器は無理でも、いつか青九谷の器を手に入れたいと思うようになっていた。お店を出して暫くした頃、私はエステティック・「CIDESCO」の国際試験を受け、合格した。そのディプロマ授与式の後、私の師である先生とエステティシャン協会のある方が、お祝いに何か欲しい物は?と聞いてくれた時、私は空かさず、「青九谷のお皿」と答えた。
クリックすると元のサイズで表示します ディプロマ授与式の会場・ホテルロビーで…と、生家の玄関で…スタッフと。(真ん中が育ての母)

青九谷について、私の師に対しては、常々語っていたので、師は直ぐピンと来たらしいが、エステティシャン協会の方には怪訝そうな顔をされてしまった。それから数ヶ月後、私の師は、わざわざ金沢まで足を運び買って来て下さった。私の元へ届いた青九谷は、江戸時代の作風を残す、九谷春祥窯の皿だった。一目で気に入り、その中の一枚を和室に飾った。また、私は吉田窯の椿の絵の器が好きだった。それから数年後、金沢・兼六園内の成巽閣を訪れた際、鏑木商輔で椿の柄の青九谷の鉢を購入した。その器は、価格はそんなに高価ではないが、私はとても気に入っている。
お祝いに頂いた九谷・春祥窯の皿 クリックすると元のサイズで表示します

さて話を吉田窯に戻す事にする。近年になってその色と大胆な図柄で世界的に評価を得た古九谷は、江戸時代前期に制作され、後世に残る名品を生み出しながらも、多くの謎を残したまま途絶していた。100数十年の時を経た1824年(文政7年)、72才にして私財を投じ古九谷再興に夢をはせ残りの人生を賭けた人がいた。その人とは、石川県加賀市の豪商、4代目豊田伝衛門であった。豊田家は藩に火薬等を納める御用商人で屋号を「吉田屋」と読んでいた事から、この再興九谷は「吉田屋」と呼ばれている。伝衛門は、博学、多趣味で、和歌・書・絵等も嗜んでおり、古九谷再興だけでなく、独自の作風を作り上げて行った。伝衛門は同じく古九谷の魅力にとり付かれ、釉薬を密かに研究していた粟生屋源衛門と出会い、更に絵師、鍋屋丈助が加わった事により、卓越した鮮やかな色と、繊細で巧妙な絵によって様々な器を作成した。それは釉薬の色・鼠生地・丈助の筆遣い共に「吉田屋の偽物は作れない」とまで言われ、昨今になって、その作品は、古九谷を超え、色絵磁器の最高峰に位置づけされるようになったという。
クリックすると元のサイズで表示します 名品・吉田屋の大皿(江戸時代後期)
石川県九谷焼美術館・所蔵


残念な事に、伝衛門亡き後、当時華やかな色とりどりの色絵で焼かれた有田焼の作風に押されて、需要が少なくなり、開窯後僅か7年で閉窯してしまうが、その色彩と優れた技は、分散した職人達によって受け継がれ、後に北大路魯山人や富本憲吉らに大きな影響を与える事になった。また青九谷の作風は、もし伝衛門らが再興していなかったら、途絶えたままだったとも言われている。その再興九谷…吉田屋の作品達が、九谷焼美術館、出光美術館等から集められ、先日、名古屋の松坂屋美術館で一気に公開された。私はその170点にも登る作品と、その歴史的資料などを目にする為、出かけて行った。平日にしては、多くの人が足を運んでいた。吉田屋の青九谷の四彩に魅入られた人達が、180年前へタイムスリップしたかのように一つ一つの作品を食い入るように見つめていた。帰宅した私は、師から頂いた青九谷のお皿に、初めて食材を盛ってみた。青九谷の器には、シンプルな料理がよく似合う…私の包丁さばきでは、とても無理だが、白身魚の薄造りなどがぴったりだと思った。
吉田屋風・九谷、椿模様の鉢と小皿クリックすると元のサイズで表示します
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2006/7/25

タイガー・ウッズ…天国の父に捧げる全英オープン連覇  全英オープン・ゴルフ他

全英オープン、4日間のツアーの終焉、18ホール目のカップにボールが沈んだ瞬間、タイガー・ウッズは、雄叫びを上げ、両手を天に向って突き上げた。その後だった、ウッズと共にツアーを周ってきたキャディのスティーブと抱き合った時、スティーブが耳元で「5月に亡くなったお父さんへ捧げる勝利だ」と囁いた。タイガーは、スティーブにしがみつくと、肩を震わせて号泣した。タイガーの目から、大粒の涙が溢れていた。そして、グリーン脇で見守っていた夫人のエリンさんの傍に行くと、その肩に顔をうずめて泣きじゃくった。タイガーが大会最終日には、必ず着用するという赤いシャツも涙で濡れていた。
クリックすると元のサイズで表示します 大粒の涙を流したタイガー・ウッズ。

今大会、タイガーは、初日は、ボギーからスタートしたものの、2日目はタイガー自身が目を見開く程の快進撃だった。イギリスのリバプールと言えば、ビートルズの出身地…。タイガーのその姿は、正に「Get Back」の曲そのものだった。パー72のコースをイーグル2つを含んだ、65のスコアで周り、トーナメント・リーダーに躍り出た。3日目は、スコアを若干落としたが、1位をキープ。そして最終日の4日目は1つのイーグル、4つのバーディを取り、スコア67。合計18アンダーで優勝した。メジャー新記録となる20アンダーこそ逃したが、その内容は解説の青木功氏も唸らせる程の圧勝だった。タイガー・ウッズ本来のショットが帰って来た。それは父の死の悲しみを乗越え、更に強くなったタイガーの姿だった。

タイガーウッズは、1975年12月、アメリカのカリフォルニア州で生まれた。父・アール氏は、黒人で、グリーンベレー(米軍特殊部隊)の元軍人。母、クルティダさんはタイ人で、その運動神経の良さは、父親譲りと言われ、黒人のバネと黄色人種の柔軟性を兼ね備えたプレーヤーとも言われている。天性の素質+努力…。タイガーがゴルフというスポーツに関ったのは、何と9ヶ月からだったそうだ。父・アール氏が短いパターとボールを与え、タイガーはいつもそのパターを担いでいたという。父の指導の下、二人三脚で1991年、16才で全米ジュニア・アマチュア選手権優勝を果たすと、以降3連覇を達成した。更にジュニアからランクを上げて、1994年から1996年にかけ、全米アマチュア選手権に3連覇を達成した。この三連覇は“タイガーズ・トリプル”と語り継がれている。

1994年 スタンフォード大学に入学するも、1996年、2年で中退して、プロに転向。プロ転向後僅か2ヶ月で、いきなり2勝を挙げ、世界ランキング33位に躍進した。そして、1997年4月13日、史上最年少の21歳3ヶ月でマスターズ・トーナメント初優勝。6月には、初の世界ランキング1位に輝いた。この時、黒人ゴルファーとして、初めてマスターズに出場した、チャリー・エルダー氏が、タイガーの初優勝の最終ラウンドに立ち会った逸話は有名である。当時、特に老舗のゴルフ場では、黒人が入場すら出来ないという人種差別意識がまだ残って居り、タイガーの活躍と躍進は、そんな差別意識を実力で持って一蹴した。数々の最年少記録を塗り替え、大躍進して来たタイガーだったが、その傍には常に父・アール氏の存在があった。
アール氏著「トレーニング・ア・タイガー」クリックすると元のサイズで表示します

しかし、アール氏は、前立腺癌に侵されていた。末期症状と告げられたタイガーは、恐らく父に見せる事が出来る最後のメジャーツアー、4月に開催されたマスターズで、1位を逃し3位となってしまった。悔いを残したまま、その後は父の看病の為にツアーから離れ、初めてクラブを握らない日を続けたが、その甲斐もなく、5月3日、父・アール氏は他界した。深い悲しみの中、復帰戦となった6月の全米オープンの予選では、ミスショットが目立ち、88位とプロデビューして初めて、予選落ちしてしまった。タイガーは立ち直れるのか?各メディアはこぞってタイガーの復活には、時間がかかるのでは?と報道した。だが、タイガーは強くなって帰って来た。

海に面したロイヤル・リバプールのコースは、芝の手入れを怠らないイギリスにして、連日の好天と高温で乾燥し固くなっていた。特に4日目はリンクス特有の風も強く、条件が厳しくなり、上位陣はスコアを崩した。そんな中、タイガーは冷静だった。硬いフェアウェイを計算して、2日目以降はドライバーを封印、タイガーのトレードマーク・寅の頭のキャップは、ドライバーに被せられたまま、アイアンとスプーンを使い分け、バンカーを避け手堅くグリーンをとらえる作戦にした。父・アール氏が生きていたら、そう勧めてくれると、タイガーは思ったそうだ。そして最終日の最終の18番ホール。セカンドショットを打ち終えた地点から、勝利を確信して歩いているタイガーの表情には、感極まったものを感じた。テレビ越しに観ているだけで、私も涙が溢れた。後にタイガーは、この時の事をこう語った。「父は、最後のパットを決める、このウィニングパットをもう観てくれる事はないんだと、実感していた。今日は自分の為にベストを尽くそうと思ったが、やはりこの勝利は父に捧げたいと思った」と…。

優勝を決めたタイガーの脳裏には、天国へと旅立った父・アールさんとの思い出が走馬灯のように浮かんでいたに違いない。タイガーの涙は、異例の暑さの為、枯れた芝が多かったロイヤル・リバプールゴルフ場をも、潤すような感動的な涙だった。ゴルフの指針だった父を失ったという逆境を乗越えたタイガー・ウッズ、天国の父親に見守られながら、次に目指すのは、帝王、ジャック・ニコラウスの持つ、プロメジャー通算18勝だ。後7勝…今年30才を迎えたばかりのタイガーにとって、充分な射程距離の範囲である。
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2006/7/24

土用の丑の日…鰻を食べて思う事  日記(今日思うこと)

7月23日は、土用の丑の日、例年なら梅雨明けして、夏真っ盛りという時期だが、まだ雨模様の天候が続き梅雨が明けていない。この土用の時期に、高蛋白で栄養価高い鰻を夏ばて防止目的として食べるという習慣は、諸説あるが、江戸時代、平賀源内が推奨したと言われている。しかし、万葉集の中にも、大伴家持が友の為に鰻を食べるように…と詠んだ歌が選歌されており、古い時代から精力がつくと、珍重されて来たようだ。

石麻呂に 吾もの申す 夏やせに よしといふ物そ むなぎ取り食せ(めせ)
                -大伴家持-
  
   (※「むなぎ」はウナギの古い言い方)


鰻好きといえば、私は二人の著名人を思い出す。まず、当ブログ内でも取上げている、幕末のジョン万次郎。この逸話は、中濱万次郎氏の4代目、中濱博氏著『アメリカを初めて伝えた日本人』から…。(以降敬称略)万次郎は、無類の鰻好きで、行きつけの店は浅草の「やっこ」だった。当時、江戸の土佐藩邸内に居を構えていた万次郎は、その「やっこ」の店で鰻を食べ、残した物を必ず、折に入れて持ち帰り、今で言う「テイク、アウト」していた。お店の店員からは「万次郎はけちだ」と思われていたという。ところが、ある日、お店の仲居が使いの帰り、夕暮れ迫る両国橋で、人力車を停めて橋の下を覗き込んでいる万次郎を見かけたそうだ。一瞬何をするのか?と声をかけようとしたが、暫く様子を見ていたらしい。
クリックすると元のサイズで表示します うな丼…愛知より以西は蒸さずに焼く。

【すると万次郎は、橋の欄干から乗り出して橋の下に向って『おーい、ちょっと上に上がって来いや』と叫んだ。やがて橋の下から、汚い身なりの乞食がふ2人、橋の上に出て来た。『この前はなぁ、やれなかったが、今度はお前達の番だ」と食べ残しの折を乞食に渡したばかりでなく、親しそうに話しているのを見て、仲居は驚いた。…中略…万次郎がこのような事をしたのは、この両国橋だけでなく、彼方此方でもしていたらしい。乞食の親分が、深川の万次郎の自宅に盆暮れに挨拶に来たという。家人は何も知らないので嫌がって「だいたい乞食というのは、怠け者で仕事をしないで、勝手にあのような生活をしているのだから」と言うと万次郎は「それ位の事は分かっている」と言い、「そのような運命に落ちた人が可哀相なのだ」と諭したという】  -原文より-

中濱博氏 著「中濱万次郎」 クリックすると元のサイズで表示します 

当時の激しい身分差から考えると、武士となっていた万次郎と乞食が話をする事自体、考えられない事であった。しかしその時代に、上下の隔てのない付き合い方は、大名や奉行に対してもけっして媚びる事もなく、人間同士として対等の付き合いをしていたそうだ。「万次郎は、不思議な人だ。大名とも話すし、乞食とも話す」人々からはそう言われていたという。乞食達は、万次郎を尊敬し、万次郎が与えてくれた鰻で栄養を摂って野垂れ死にも減った事だったろう。私は鰻…というと、ジョン万次郎こと、中濱万次郎氏のこ逸話を真っ先に思い出す。

また、歌人の斉藤茂吉も、鰻好きだった事で有名だ。特に茂吉の長男、精神科医で作家の斉藤茂太の見合いの席での逸話は、なかなか興味深い。両家の親族を交えた顔合わせは、東京の築地の料亭で行われたそうだが、戦時中で食糧不足の折ながら、親戚が釣って来た鰻の蒲焼が出たそうだ。見合い相手の女性は、緊張のあまり鰻を残した所、すかさず茂吉が「それ、僕に頂戴」と言って食べてしまったのだそうだ。茂吉は殆ど毎日、下手をすると日に何度も、鰻を食していたという。茂吉は、そんな鰻達に成仏して欲しいという意味の歌を残している。

これまでに 吾(われ)に食われし 鰻らは 仏となりて かがようらむか
                          -斉藤茂吉-


私も、毎年、有り難い事に、愛知県幡豆郡一色町の友達が届けてくれている。丑の日は蒲焼にして家族と食べた。一色の養殖鰻は、新子と呼ばれる鰻だけ出荷し、秋に生まれた稚魚が夏までに育ったもので、一年を越していない為、皮も柔らかく身も柔らかい。鰻嫌いの人でも1度は食べて見て欲しいと思う。スタッフの中で鰻嫌いだった子が好きになったというエピソードもある。ところが、鰻の稚魚は、近年、乱獲によって絶対数が減っているという。本来淡水魚の鰻も、降河回遊と言って海で産卵・孵化し川に登ってくる。この鰻の孵化については謎が多く、アジアの鰻は全てがフィリピン沖で産卵し孵化すると言われていたが、今年2月東大・海洋研究所の塚本教授が、産卵場所がグアム島沖だと、ほぼ突き止めたそうだ。しかし、この異常気象では、鰻の生態にも影響が出る気がする。何とか産卵・孵化させる技術も人工で出来るようにならないものか。私もせめて茂吉のように、食べた鰻に感謝して手を合わせる事を忘れないでいたい。
クリックすると元のサイズで表示します 一色町の鰻を使用した「ひつまぶし」
(熱田・蓬莱軒)


因みに、名古屋地方では、鰻料理の老舗として「熱田・蓬莱軒」が有名であるが、栄にある「いば昇」も、その味には、引けを取らないという。この「いば昇」は、稼ぎ時であるべき土用の丑の日は、鰻供養の為に、休業するのだそうだ。その感謝するという心意気に感動した。今度は「いば昇」にも足を運んでみたいと思った。

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2006/7/23

花火大会に思う事…日本に於いての花火の歴史  日記(今日思うこと)

光と音と火薬の煙が演出するページェントは、夏の風物詩…。観賞用の花火は江戸時代から始まり、日本で初めて観たのは、徳川家康だと伝えられている。文献などに載る、花火そのものの起源としては、古代まで遡り、戦いの時に敵の侵入を、味方に知らせるための「烽火(のろし)」だとされているが、やはり花火というイメージは、観賞用と限定した方が趣がある。日本で花火の開発が始まったのは、火薬が伝来したのちで、江戸時代に諸大名の娯楽として観られていた花火に江戸っ子達が感嘆して、庶民にも花火を楽しむ風習が定着したという。それから400年、日本の花火の技術は世界一だと言われている。
クリックすると元のサイズで表示します 川面に写る景色も美しい 長良川花火大会。

以前は、打ち上げ筒の近くに、花火師達が控えていて、一本一本点火し続けていた為に危険も伴い、花火師達は、自分の花火を観るゆとりなどなかったそうだ。しかし、花火の世界も日進月歩に進み、現在は、電気点火装置を使用した遠隔操作で、より安全で緻密な演出がなされるようになった。しかし、花火その物の製造方法は、400年の昔と殆ど変わらず、花火師達の丹念な手作業で行われているという。日本の花火が、その技術面だけでなく、芸術的にも、世界的に評価が高いのは、その美しさの中に、400年の時をかけ、花火を娯楽から芸術へと昇華させた…日本人の感性が息づいているのだと言えよう。

前記したように、花火は江戸時代から楽しまれ、その一玉ずつの花火の開発に、花火師達は腕を振るって来たのだが、江戸時代と製法は、ほぼ同じでも、最も違うのは「色」であった。江戸時代、日本にあった火薬の種類は、硝石(ショウセキ→硝酸カリウム)、硫黄、木炭を主原料とする黒色火薬で、燃焼温度が低く、炭火の火の粉のような色だけった。明治以降、ヨーロッパから化学薬品が輸入されて、燃焼温度を上げる事が出来るようになり、ようやく赤や緑等の艶やかな色の花火が作られるようになった。こうした日本の花火の歴史の中で、厳密に明治以前の花火を「和火」と呼び、明治以降の様々な発色を出せるようになった花火を「洋火」と呼んでいるそうだ。尚、現在でも手筒花火等は、「和火」と呼ばれる火薬の花火が使われている。
火薬に配合された成分によって様々な色が生まれる。クリックすると元のサイズで表示します

私が花火を初めて観たのは、物心ついた頃で長良川の花火だった。伯母の家が長良川の近くにあった為、物干し台から眺める事が出来た。私の目に写った花火は、あくまでも二次元的であり、結構大きく成長するまで、手持ちの花火と違い、打ち上げ花火にはA面とB面(裏・表)があって、横から見ると垂直に見える場所があると信じていた。小学校の時、近所の男の子達が、爆竹を爆ざしていたのを観て、おやっ?と初めて自分の中の「花火二次元説」に疑問を思った事もあったが、自分の中で打ち消してしまった。中学生になった夏休みに、初めて飛行機に乗った時、飛行機の窓から偶然にも花火を観る機会があった。私は周囲の席の人が、振り返る程の大きな声で「花火って、まん丸だぁ」と叫んでいた。私にとって夜空の花火が球形だったと発見した?事は、カルチャーショックだったのだ。喉につかえていた何かが取れたような感じもした。もっとも、それまで自分では勿論、気付く事もなく、誰にも聞く機会がなかったのも、変な思い込みの激しさだったゆえ…だった。
クリックすると元のサイズで表示します

先週は、近所の埠頭での花火大会だった。今夜も少し離れた場所で花火大会が開催され「浴衣を着て観に行こう」…と友達に誘って貰った。週末に最も仕事が忙しい私は、体調の事も考えて自重した。神戸に住む妹からは、浴衣を着て屋形船から花火を観るとメールが届いた。風流だなと思いつつ、花火は我が家からも観る事が出来ると返事を返した。そうなのだ、花火はその観る位置にさえ、こだわらなければ、可能な距離の限り、誰にも平等に観る事が出来る。首が痛くなる程の至近距離で観るのも一興であり、家のベランダや窓から眺めるのもまた楽しい。現在花火の色は、エメラルドグリーンやオレンジ、水色等の鮮やかな色も加わり、その年毎に流行もあり、新色も発表され続けているという。夏の夜空、轟き渡るサウンドに乗って可憐に、そして華やかに咲く光の花達…。観ていると、尺玉の中へ丁寧に丁寧にと、火薬を詰め込んで行く花火師…職人さん達の姿が目に浮かぶ。江戸時代、大川の上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つ事になった両国の花火合戦。「たまやー。かぎやー。」の声が聞こえて来る気がした。

クリックすると元のサイズで表示します◎以下、花火職人「細谷圭二」氏の語り
http://www.tachikawaonline.jp/local/hanabi/hanabishi/index.htm

 ※お知らせ
7月23日PM11時より、TBS系列の「情熱大陸」にて、オシム監督の特集が放映されます。

http://mbs.jp/jounetsu/
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2006/7/21

オシム監督就任に寄せて…イビチャ・オシム氏と故郷、サラエボ  サッカー&ワールドカップ・ドイツ大会

学生時代、世界史・地理で習ったユーゴスラビアは、「7つの隣国。6つの共和国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)。5つの民族(セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人)。4つの言語(スロベニア語、セルビア語、クロアチア語、アルバニア語)。3つの宗教(カトリック、セルビア正教、イスラム教)。2つの文字(ラテン文字、キリル文字)により構成される1つの国」と表現され、多民族国家として混沌とした政治背景があり、掴み所が無かった。1984年にサラエボで冬季オリンピックが開催され、その地名は記憶に刻み込まれたが、1992年に内戦が勃発、4年間続いた戦火の中心となったサラエボでは、多くの犠牲者を出した。その有様は「50万人の市民が世界から切り取られ、肉親を失わない者は誰1人としていなかった」と語り継がれている。ヨーロッパという地域で、第二次大戦後最悪の被害(死者20万)を出す内戦を、平和を謳う世界や隣国が何故止められなかったのか?私には計り知れないが、その悲しい物語はイギリス人記者の実録を元に、1997年映画化された『ウェルカム・トゥ・サラエボ』でも、伺い知る事が出来た。奇しくもサラエボオリンピックのメインスタジアムは、内戦で破壊され、現在は、亡くなった人々の墓地になっているという。
クリックすると元のサイズで表示します 実録の映画化「ウェルカム・トゥ・サラエボ」

イビチャ・オシム(本名、イワン・オシム)氏は、1941年、オリエントとヨーロッパ文明の交わる美しい町、サラエボ(トルコ語で「宮殿のある平地」の意)で生まれた。サッカー選手としては、FWとしてプレーし、1960年、サラエボのゼレズニチャル・サラエボでプロデビュー。1964年の東京オリンピックには、旧ユーゴスラビア、サッカーチームの代表として来日した。1970年から、フランスのストラスブールに籍を移しプレーした後、1978年に引退。1986年にユーゴ代表監督に就任し、1990年のW杯では、ベスト8へと導いた。しかし、1991年、日ソ冷戦後の東欧諸国で民主化運動が進む中、ユーゴスラビア内のスロベニアとクロアチアで独立を宣言、当時のユーゴ政府は、その報復措置として1992年4月6日、サラエボを侵略した。この内戦が、オシム氏の祖国を離れた監督人生の発端となった。
旧ユーゴスラビアの地図クリックすると元のサイズで表示します 

オシム氏は、内戦勃発当時仕事の為、セルビアに出むいて居り、次男と共に戦火を免れる事が出来たが、サラエボに残った夫人と長女は、脱出することが出来なくなってしまった。悲しみにくれるオシム氏は、ユーゴ軍のサラエボ侵攻に対し、抗議する意味を込め、欧州選手権開催直前の5月、「サラエボの為に唯一私に出来る事」という言葉を残して代表監督を辞任した。監督不在のまま、W杯ベスト8のメンバーであり、日本でもプレーした経験のあるストイコビッチら代表選手達は、開催国スウェーデンへと向かったが、国連からユーゴへの制裁の命を受けたFIFAとUEFAは、代表選手の大会参加を認めず、選手達は、到着したばかりの空港で入国を許される事無く、強制帰国させられてしまった。正にスポーツ選手が、戦争や政治に巻き込まれ、国と共に代表チームも解体してしまったという悲しい出来事だった。皮肉な事に、その年の欧州選手権は、ユーゴの代わりに出場したデンマークが制覇している。

オシム氏は、戦火のサラエボに夫人と長女を残したまま、1992年から1993年 ギリシャのパナシナイコスの指揮を取った。更に1993年から2002年 オーストリアのシュトゥルム・グラーツという小さなクラブチームの監督を務め、チームをUEFAチャンピオンズリーグに3度出場させた。夫人と長女には、グラーツに就いてから1年後、ようやく再会を果たせたが、オシム氏は、当時の事を「とてつもなく多くの事が起き、それをサッカーを通じて忘れる事が出来た」と振り返っている。「サッカーだけが、安らぎの場所だった」とも語るオシム氏の事を、欧州のジャーナリスト達は、ただの監督ではなく、『サッカーの哲学者』と評価しているそうだ。日本でも、そのサッカー哲学の評価は高く、実際に2003年 ジェフユナイテッド市原(現・千葉)監督に就任後. チームを2005年 Jリーグ、ヤマザキナビスコカップ初優勝に導き選手からも厚い人望が寄せられている。
クリックすると元のサイズで表示します 既に代表人選に入っているオシム監督。

そんなオシム氏が、いよいよ日本代表監督に就任する日が訪れる。2006年、ワールドカップ・ドイツ大会は、旧・東西ドイツが力を合わせ、大盛況の中、無事に幕を降ろした。多くの感動とドラマを生んだ大会だったが、日本代表チームにとっては、世界との差を見せつけられた苦い大会となった。また、決勝戦では、世界中のサッカーを愛する人々が、後味の悪い思いをした。現地時間の20日、その当事者である2人の選手に、FIFAは処分を下した。その処分が軽いか重いか?は、既にメディアで論点となっているが、むしろ本人達の心には、償えば済むという問題よりも、重い影が落ちている気がしている。戦争の苦しみ、人と人が争う事の醜さを身を持って知っているオシム氏は、きっとその重みを一番知っている監督だと思った。因みにオシム氏は、12年間の選手生活中、イエローカード制が導入された1970年から引退までの8年間、イエローカードの提示は一度もされなかった選手であった。逆境を糧にサッカー哲学を大成させて来たオシム氏…既に19日には、Jリーグ、大宮対磐田戦を選び視察したという。両チームの中でW杯の代表は、川口選手と福西選手のみ…。新しい代表選手の発掘にも期待したい。
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