2006/9/30

ブログ開設1周年のご褒美?RedSox選手のファンサービスNo2  Boston Red Sox・MLB

ツインズ戦、6対0でレッドソックス勝利の試合の後、長い時間に渡って、オルティースの1試合2HRと新記録更新を讃えるインタビューが続いていた。私達はその一部始終を見守った後で階下に降りた。球場は背景に写真を撮った後、帰路につこうとしたが、出口付近でチャーターバスが待機しているのに気付き、翌日はトロント戦だから、空港まで選手はバスで移動なのだと悟った。人ごみに混ざって待つ事30分位。仮装した選手が現れた。この時の私は、何事か解っていなかったが、21日はMLBのイベントで若手選手が仮装して、選手や関係者にサービスする日だったそうだ。するとペドロイヤ、ハンセン、パベルボン、続々と変装した選手が現れ、私達の傍へ来てサインをしてくれた。私は思わず被っていた帽子を差し出し、近頃お気に入りのダスティン・ペドロイヤ選手と、ジョナサン・パベルボン選手のサインを貰った。選手達は集まって報道の人達にも大サービス。写真撮影に応じていた。その姿を観ながら、「君達、メジャーの選手のプライドは?」と、思いながらも、ファンサービスに徹する姿に感動した。
クリックすると元のサイズで表示します クローザーとして活躍、パペルボン。

小柄ながら俊敏な二塁手、ペドロイヤクリックすると元のサイズで表示します

若手選手の騒動が過ぎた頃、悠々とラミレス、バリテック、オルティスがバスに乗車。ティムリンの姿を見つけ大声で名前を呼ぶと手を振ってくれた。そしてチャーターバスは数十人のファンに見送られながら、深夜の街並みに消えて行った。久しぶりに球場観戦をした興奮と、選手達のファンサービスに更に興奮した私は燃え尽きたような感覚になった。いささかミーハーな行動をしてしまったと思いつつ、ふと道の脇を見ると、小学生くらいの男の子がお父さんに向って泣いていた。バリテックのファンのその子は、ボールとペンを用意して一生懸命待っていたが、サインは貰えなかったようだった。自分が(バリテックではないが)サインを貰った事に少し申し訳ない気持になり、「近くに居てくれれば、一緒にバリテックを呼べたかも?」と友人に言うと、「怪しまれただけかも?」と言われた。誘拐の多いアメリカでは、見知らぬ子供に声をかけるのは確かに怪しい…と、夢から覚めた気持になった。ボストンはすっかり秋、深夜の風は冷たかった。
クリックすると元のサイズで表示します昨季ドラフト1位入団のハンセン投手。
今季は、メジャーの洗礼を受けた。来季の活躍に期待したい。

レッドソックスの来季を担う若手選手達。 クリックすると元のサイズで表示します

◎お詫び
10日間も更新を怠り、コメントのお返事も遅れてしまっています。ごめんなさい。その間、拙ブログは開設一周年を迎えました。この1年を振り返りますと、体調管理の未熟な自分に情けなささえ感じます。今後は、充分体調を配慮しつつ、仕事をしながらマイペースで少しずつ書いて行く所存です。今後共、どうぞ宜しくご指導下さい。


クリックすると元のサイズで表示しますダスティン・ペドロイヤのサイン

ジョナサン・パペルボンのサイン クリックすると元のサイズで表示します
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2006/9/30

ブログ開設1周年のご褒美?RedSox選手のファンサービスNo1  Boston Red Sox・MLB

ボストンに来て、情けない事に風邪を引き少し無理をした結果、拗らせてしまった。色々と所用を済ませながら、体調快復に専念して、ようやく元に戻りかけたと思うと、もう帰国する日が迫っている。気がつくとブログ更新も10日以上不精してしまった。(ご心配のメールを下さった方々、ありがとうございました)。ふと気付くと、いつの間にか、ブログ開設一周年記念日も過ぎていた。1年前の日本時間の9月22日(アメリカ東海岸時間では21日)。私は、初めてブログに日記を書き始めた。仕事の後、毎日寝る前の習慣として書いて来たが、正直1年間続けられるとは思っていなかった。振り返ると書きたい事が山積みになって整理がつかない日、睡魔に負けて書きながら眠ってしまった日…等々…。何度も辞めようと思った。しかしブログを通じて出逢った多くの人達に支えて頂いたからこそ!ここまで来られたと、改めて心から感謝したいと思っている。

「一年間、読んで頂き、励まして頂き、
    そしてご指導下さり、本当にありがとうございました!」


クリックすると元のサイズで表示します 1年ぶりにフェンウェイ球場へ

往年の選手名の旗が並び出迎えてくれるクリックすると元のサイズで表示します

さて、1年経ったその日(21日)私は、大好きなフェンウェイパークに行く事が出来た。ボストンに着いてからその日まで、他の日にも誘って頂いたが、熱を出していてお断りしていた。更に今年は日本での仕事が忙しく今回が初渡米であった為、念願叶ってのフェンウェイ初出陣?だった。今回は、レッドソックスのオフィシャルホスピタル職員の方のIDを使用して貰ってチケットを買う事にした。そのIDを持つ人と同伴すれば、試合開始後30分経過後、空席があればどの席でも2名まで5ドルというチケットだった。試合開始30分前、私達は一番前に並んで居た。この日は対ミネソタ・ツインズ戦、最終日。当時、レッドソックスと中地区のツインズとは、アメリカンりーグのポストシーズン進出の勝率を廻って争って来ていたが、これまでレッドソックスは、対ツインズ戦全敗を記し、残り試合数10にして、既に1敗も出来ないという窮地に立たされていた。レッドソックスは、今季、ツインズにスイープされてしまうのか!?厳しい現実を前に、来季への希望を託して、エース・ベケット投手を先発させる事が決まっていた。PM7:05。アメリカ国歌斉唱と共に試合開始、会場からはベケットの一球一球に歓声が上がっていた。立ち上がりの出来は上々の様子だった。そして間も無く試合開始30分になろうとした時、大歓声と共にファンファーレが鳴り響いた。オルティースの51号ホームランだった。オルティースは球団記録を更新しつつあった。
クリックすると元のサイズで表示します 病院スタッフ専用の列に並んで待つ。

チケット(何と1人5ドル!)クリックすると元のサイズで表示します

その後、チケット売り場の集計がやっと終わり、係員の人が此方にやって来た。私達の後、30人程の行列となっていたが、「今日は、席が出ないかもしれない。後方の人は帰ったほうがいい」と係りの人の無情な声がした。暫くすると「一番前の人達は前へ」と言われた。後ろからの痛い視線を浴びながらチケット売り場へと足を進めた。渡されたチケットは、PAVILION BOXシート。3側ではあったが、今年から新設された席だった。秋風が頬を通り抜ける素晴らしい眺めの席だった。試合は既に2回へ入り、ベケットの好投が続いていた。対するツインズもエース・サンタナが好投していたが、ツインズにしては珍しく失策が出て失点、サンタナはその後100球で降板した。そして5回レッドソックスの攻撃時、オルティースの52号HRが飛び出し、球場全体が揺れるような大歓声が沸きあがった。ベケットも今季一番の出来?と思える好投を見せ、8回を無失点(無四球)で終え、9回は6点のビハインドを貰ってフォルクが押えた。レッドソックス、ツインズを完封。最後に意地を見せてくれた試合だった。
クリックすると元のサイズで表示します パビリオンシートからの眺め。
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2006/9/20

野球の聖地「クーパースタウン」殿堂と博物館No2 (Hall of Fame)  Boston Red Sox・MLB

「The Baseball Hall of Fame and Museum」は、その名前の如く、野球殿堂と博物館が1つの建物の中に凝縮されているのだが、やはりメインは、その殿堂とされるフロアである。建物の玄関を入ると、エントランスに係りの人がいて、チケットの半券は切られることなく「記念にして下さい」と言われ、手の甲にスタンプを押される。これが1日出入り自由の印となり、チケットは綺麗なまま持ち帰る事が出来る。ささやかな気配りの気がするが、殿堂のコーナーへ行くと、自分が手にした一枚のチケットにすら神聖さを感じてしまい大切にバックへと納めた。順路としては、2Fの野球の歴史関係の展示から観るらしいが、私は、何かに吸い寄せられるように「Hall of Fame」…殿堂のホールへと足を運んでいた。
クリックすると元のサイズで表示します威厳のある「The First 5」のレリーフ。

往年の名選手のレリーフが飾られ、正面には、「The First 5」と呼ばれる1936年殿堂が建設された当初に殿堂入りした「Babe Ruth」「Walter Johnson」「Christy Mathewson」「Ty Cobb 」「Honus Wanger」の5人のブロンズのレリーフが、誇り高く掲げられている。周囲を取り囲む殿堂入りした名選手達の名前は、250人を超え、名前のスペルを辿って行くと、野球ファンとして日の浅い私でも、見慣れた選手の名前が並んでいて、鳥肌が立つような感覚になり、自分がそこに立っている事自体、勿体無いような気持ちさえしてくる。さて、この殿堂入りの基準だが、説明のプレートには、多くの厳しい条件が連ねられていた。まず絶対不可欠な条件として、「メジャーリーグで10年以上プレーをし、引退後5年経過している事」が挙げられている。よって2006年に殿堂入りするのは、2001年に引退した以前の選手の中から選ばれる事になる。そして選手として「残した記録」「野球技術」、更に「高潔で、スポーツマンシップ、人格的にも優れ、所属チームに貢献した者」という既定の基に、10年以上の経験を持つ野球記者協会の会員が選出、得票数75%以上を得て晴れて殿堂入りとなるそうだ。

条件が記載されたプレート。 クリックすると元のサイズで表示します

また、前記した最低基準の資格を得15年以内に選ばれなければ無効とされる、というルールもある代わりに、ベテランズ委員会と呼ばれる有識者の組織からの選出方法もあり、選手だけでなく、監督、球団フロント、審判、アナウンサーとか、野球に貢献した人が選ばれる他、そのベテランズ委員会には、元選手で基準15年を経過して資格を失った後の殿堂入りをさせる任務が与えられているという。メジャーリーグの歴史130年の中で、その栄誉を得た選手達は、ブロンズのレリーフからでさえも、神々しい何かを感じられた。「Hall of Fame」…野球界の偉人が一同に集まる場所。先に挙げた5人の他に、ルー・ゲーリック、ジョー・デマジオ、テッド・ウィリアムス、ハンク・アーロン、ノーラン・ライアン、オジー・スミス、サイ・ヤング、ロベルト・クレメンテ……。偉大な彼らの笑顔に見守られて、体全体が温かい空気に包まれているような豊かな気持になれた。
クリックすると元のサイズで表示します ベーブ・ルースのレリーフ。
テッド・ウィリアムズのレリーフ。 クリックすると元のサイズで表示します

尚、この「The Baseball Hall of Fame and Museum」は、3階建ての造りになっており、2階には、ベースボールの起源から現在までの歴史を網羅した展示場となり、3階は野球場の変遷を中心に、これまでのオールスター戦やワールドシリーズの展示となっている。2階にあったベーブ・ルースの部屋があり、レッドソックスからヤンキースへ売られた時の小切手の展示もあって、非常に印象深かったが、それはまた、近代野球発祥の地のダブルディ球場や、街並の野球グッズのお店の写真と共にNo3として、改めて書こうと思っている。
クリックすると元のサイズで表示しますベーブ・ルースに支払われた小切手。
(分割で支払われた内の1枚)


◎The Baseball Hall of Fame and Museum公式HP
http://www.baseballhalloffame.org/
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2006/9/16

野球の聖地「クーパースタウン」殿堂と博物館No1(日本選手編)   Boston Red Sox・MLB

ボストンから400キロ、NYからも370キロ離れた人口約2300人の街…クーパースタウン、この小さな田舎町で1839年、ルールに則った最初の野球が行われた。それを記念しこの地は、野球の聖地とされ、野球殿堂と博物館が建てられた。このクーパースタウンという街には、ベースボールというスポーツの栄光の歴史が詰まっていて、野球をプレーした事のある人、野球関係者、そして野球ファンの憧れの地だそうだ。私はボストンから当初ニューヨークを経由して訪れる予定だったが、ボストン⇒クーパースタウン。ニューヨーク⇒クーパースタウン。ボストン⇒ニューヨークの距離が正三角形のように殆ど同じである事から、ボストンからのツアーを組んで貰い足を運んだ。9月15日7時30分、まだ風邪が完治していなかったが、防寒対策はしっかりとして、御迎えの車に乗り込んだ。車が高速を走らせて約4時間、高速を降りて静かな牧場の景色を通り抜けると、そこに野球の聖地、クーパースタウンがあった。
クリックすると元のサイズで表示します 野球殿堂・博物館玄関。

そこは街全体が野球のおとぎの国のようで、僅か1キロ足らずのメインストリートには、野球関係の骨董品屋さんや、バット制作を受注する店などが並んでいた。私は、オツェゴという湖の傍でお弁当を食べ、まず第一目的地の野球殿堂へと向った。(街の創始者、ウィリアムス・クーパーは、映画「ラストオブモヒカン」の原作者の父で、街造りはオツェ湖から始まったとされている)。チケットを受け取って野球殿堂の中に入ると、まず、左手にベー・ブルース、右手にはテッドゥイリアムスの像がバットを持って出迎えてくれた。鳥肌が立つ程の緊張感が走った。野球を愛する人なら誰もが憧れる地、今自分がその場に立っていること自体が夢のような感じがした。1Fには、メイン展示場として、メジャー選手誰もが憧れる、殿堂入りした選手達のレリーフが飾られて居り、往年の名プレーヤー達の顔を観る事が出来る。私にとって名前も知らない選手も多かったが、残した記録の凄さには圧倒された。(殿堂入りについてはまた別の日に書く事とする)
クリックすると元のサイズで表示します
入場チケットと手のスタンプ  クリックすると元のサイズで表示します

さて、まずは、野球博物館として、この館に展示されている日本人関係の品を写真と共に紹介したいと思う。館を2Fに上がるとベーブルースの部屋が設けられており、その奥には、投手の名誉「ノーヒット・ノーラン&完全試合」のボールが展示されているコーナーがある。そのコーナーには、1995年6月3日、モントリオール・エキスポスのペドロ・マルチネスと、1996年9月7日、ニューヨーク・ヤンキースのデビット・ウェルズの間に1996年9月17日、当時ロサンゼルス・ドジャーズだった野茂英雄投手の写真とボールが展示されていた。更に野茂投手は2001年4月4日、ボストン・レッドソックスに移籍し再びノーヒットノーランを記録し、同じ月23日の記録したチームメイト、デレク・ロウ投手の写真・ボールと共に展示されていた。1度の達成でも偉業な事である上に、アメリカンリーグ、ナショナルリーグの両リーグで達成したのはノーラン・ライアンとサイ・ヤング、ジム・バニシング、野茂投手のみで、大変名誉な事だと改めて野茂投手の偉大さに溜息をついた。
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野茂投手の写真と記念ボール クリックすると元のサイズで表示します

3Fに上がると様々な記録の部屋があり、イチロー選手がシスラー選手の年間ヒット総数記録を破った時のバット、ユニフォームが展示されている。入館して歩いていると、他の来場者も係員の人も、私が日本人と判ると「イチローコーナーへ行くように」と指示してくれる場所だった。そしてワールドシリーズチャンピオンリングが並んだコーナーを過ぎて奥へ進むと、いよいよワールドベースボールクラッシックのコーナーがあった。優勝メダル、松坂投手のユニフォーム、イチロー選手が被った帽子、応援の国旗等の展示と、トロフィーを持った松坂投手のポスター、そしてその優勝を報道した日本の新聞も展示されていた。隣には2位となったキューバチームの選手サイン入りユニフォームやボールも飾られていた。ルールはどうあれ、何と言ってもWBCのコーナーに、第1回大会優勝の日本チームの品々が置かれているのは、感動の極みであり、半年前の優勝シーンの瞬間が甦った。
 クリックすると元のサイズで表示します WBCの記念品の品々

このように、ここを訪れた誰もが、野球を通じて過去の思い出に帰る事が出来るのだ。だからこそ老若男女問わず、各々がそれぞれの楽しみ方が出来るのだと思った。因みにイチロー選手はこの殿堂を2度訪れているそうだ。1度目はメジャーに入り、シューレスジョー・ジャクソンの新人安打記録を破った時で、この時は、ジャクソンのバットを特別に出して貰い素振りをして今後の活躍を誓ったという。2度目は2004年、シスラーの年間ヒット記録を破った時…。イチロー選手の活躍ぶりからするとまた近いうちの3度目の訪問がある気がした。尚、2週間程前、日米高校親善野球で、斎藤祐樹投手らもこの地を訪れ、記念のバットを置いていったと報道されていたが、フロントで「何処に展示されているか」と尋ねると、何とまだ展示には至らず倉庫の中だそうだ。斎藤祐樹投手や田中将大投手達が活躍して、そのバットが晴れて展示される日が来る日を願いたいと思った。
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2006/9/16

野球の聖地「クーパースタウン」殿堂と博物館No1( photo;WBC他)  Boston Red Sox・MLB

クリックすると元のサイズで表示します殿堂の玄関先、左のベーブルースの像

右にあるテッド・ウィリアムズの像。クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示しますWBC、松坂投手着用のユニフォームと
イチロー選手の帽子や記念品等


WBSの優勝メダル クリックすると元のサイズで表示します 

クリックすると元のサイズで表示します WBC、準優勝・キューバの記念品。

イチロー選手最多安打記録達成時の品クリックすると元のサイズで表示します

◎日本時間の深夜1:00頃から9:00頃までにかけて、
当ブログが開かない、開き難いというメールを頂いていました。

アメリカ東海岸時間で昼間でしたので、留守にしていまして、
対応が遅れ、大変、ご迷惑をおかけしました。
只今問い合わせ中ですが、過去の例からしますと、
テンプレートの重さの関係もありますので、
暫く時間がかかってしまうのかもしれないです。
どうぞご容赦下さいますよう、お願い致します。

やはり、開かないとのメールを頂きましたので、
テンプレートを元に戻しました。申し訳ありませんでした。
19:35 by hotaru.


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2006/9/15

近況報告?とクーパーズタウン(野球殿堂)へと出発  日記(今日思うこと)

ボストンに来て、流石に貰う事が好きな私…
知人の風邪を貰ってしまい一昨日から発熱しています。
実は、機内で読んできた『僕たちの戦争』について書きたかったのですが、
2日間、ベッドに伏せっていました。
クリックすると元のサイズで表示します 萩原浩著「僕たちの戦争」
でも今日(15日)は、早朝より、
ボストンから、クーパーズタウン(野球殿堂)へのツアーがあります。
野球のお城の街…だそうなので、楽しみにしていました。
片道4時間だそうですが、お弁当を持って、頑張って行って来ます。
記事の投稿及び、頂いたコメントへのお返事、週末以降となります。ご容赦下さい。
お握りといなり寿司、玉子焼き クリックすると元のサイズで表示します
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2006/9/13

2006年9月11日…ボストンの街を歩いて  日記(今日思うこと)

5年前のその日、休日だった私は外出先から帰宅し、その1年前を振り返っていた。2000年の同じ日、私の住む町は低気圧の急激な発達に伴う東海大豪雨に襲われ、知人の家は竜巻で倒壊、1時間に500o近い降水量によって道路が河川と化し、私の会社の建物も浸水。地下室にあったFAX、コピー機、音響設備機器全てが廃棄物となってしまった。それでも幸い地下があったお陰で、1F部分は浸水15cm程度で済み、スタッフ全員の徹夜で泥と格闘の結果、仕事には差し障りが出なかった。お客様の殆どは、会社が水に浸かった事をご存知なく現在に至っている。一方、名古屋市内では、新川という川の堤防が決壊し、多くの方の家が流され避難生活を強いられた。そして、多くの車が廃車となった。あの水害から1年経ったなぁ、今日は何事もなく終わりそうだ…と思った矢先の事だった。ニュースの映像は、まるで映画の世界を彷彿とさせ信じ難かった。私はすぐボストンの知人に電話をかけた。
クリックすると元のサイズで表示します ニューヨークでは、ビル跡地に追悼の意味を込めた
2本の光が、朝まで灯された。


ボストンでは、情報が氾濫し、一時期、ハイジャックされた飛行機は11機にも及ぶのでは?とも言われていたそうだ。「ボストンも狙われる。カナダへと避難するように」…。知人の職場ではそんな通達もあった。深夜になって従姉から電話があった。渉外弁護士のご主人(T氏)がニューヨークに出張していて、「携帯電話が通じない。ほたるちゃんからも電話してみて」という内容だった。T氏の仕事仲間の勤め先は、ワールドトレードセンタービル脇の建物の中にあった。「朝だから、まだ行っていないと思うけど」。従姉の声は震えていた。朝方になって、私がかけた電話が通じた。T氏は、2キロ離れたホテルに滞在していて無事だったが、爆風と共に粉塵が襲ってきて、「ホテルは凄い事になっている」と話してくれた。T氏の元同僚の方も出勤前で無事だったが、その方のオフィスのあった建物はトレードセンターのビルの倒壊に伴い、瓦礫の中に埋まってしまったという。

建物に飛行機が突っ込んだあの衝撃的な映像の後、更に予想を超えてビルが倒壊。その時、建物の中では多くの警官、消防士さん達が、救助活動を行っている最中だった。今秋封切りになる(10月7日公開)の「ワールドトレードセンター」は、その瓦礫の中から、最後に救助された、NY港湾警察のジョン・マクローリン氏と、ウィル・ヒメノ氏を描いた実話に伴う映画だそうだが、真っ先に救助に向った…勇敢な人達の殉職がまったくもって悲しい。私は2003年、ニューヨークを訪れた時、マンハッタンのバッテリーパークにある慰霊塔に手を合わせた。当時NYで売られていた絵葉書には、まだ2つのビルがそびえたままだった。例えようの無い重い気持でNYの街を歩いた記憶がある。あの惨事から5年…。NYから北へ飛行機で1時間のボストンの街は、何事も無かったかのように通常行きかう人達で溢れていた。ただ1つ、街の彼方此方に建てられている国旗掲揚塔は、半旗とされていて、亡くなった方々と遺族の方達への弔意を表していた。
ハーバードメディカルスクールの半旗。クリックすると元のサイズで表示します

NYでは、ビル倒壊の跡地「グランド・ゼロ」へ多くの方々が訪れたそうだ。しかし、更地となったその土地には、まだ、有害な粉塵が残っているという。実際に、マウント・シナイ医療センターが2002年から2004年に行った調査では、「グラウンド・ゼロ」で作業した約9500人の内の約70%の人から、塵肺異常が見つかったそうだ。遺族の方達の深い悲しみの上に、新しく加わった被害。あの人災はいつまで爪痕を残し続けるのだろう。そう考えながら街を歩いていると、ショッピングモールの電気屋さんのTVでは、米大統領の演説が流れ、「テロ組織と戦い続ける」と宣言していた。また同じ日、国際テロ組織からは新たなテロ計画の声明が流され、日本時間の12日夜には、映画「エデンの園」の舞台となったシリアの首都、ダマスカスの米大使館が襲撃されたという。武力に対しての武力行使は、新たな戦いを生み武力の連鎖反応を誘う気がした。

また、1年前の8月末から9月にかけて、アメリカ南東部は、ハリケーンに次々と襲われ、多くの被害を出し、自然の猛威の前に、人間の無力さを痛感させられた。アメリカ国内では、このハリケーンの被害と同時多発テロの被害を比較の対象とされて来たが、ハリケーンの後も救助に向った警官や消防士さんに、その過酷な救助活動ゆえの深刻な被害が出たという。温暖化が進み、ハリケーン(台風)が大型化しやすい状況は、世界規模で更に深刻化している。自然の猛威もまた、情け容赦なく私達人間を襲い続けるのだ。本物の強い国=武力の強い国…なのだろうか…?。改めて考えさせられた1日だった。

◎映画「ワールドトレードセンター」公式サイト
http://www.wtc-movie.jp/top.html
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2006/9/11

イチロー選手初登板か?の報道から、長坂秀樹投手への繋がり  Boston Red Sox・MLB

日本出国直前にスポーツ新聞で、興味深いニュースを読んだ。その見出しは『イチロー、メジャーで登板?』というものだった。これは、解任騒動の話題に揺れるマリナーズの監督、ハーグローブ氏が、チーム関係者に、「私が辞めることが決まったら、最後に一度、イチロー外野手を"投手"としてグランドに立たせてみたい」とチーム関係者に語ったという報道だった。イチロー選手は、愛工大名電時代に、投手として甲子園に出場した経歴がある他、賛否両論はあったものの、1996年には、日本のオールスターの第2戦でマウンドに立った経験がある。スピードガンでは150キロを記録した事もあり、ライトからホームへの返球も、レーザービームと呼ばれており、早くてコントロールも良いという豪腕ぶりは有名である。
クリックすると元のサイズで表示します メジャーの公式戦で、投手イチローが観られるだろうか?

この所のマリナーズは、中継ぎ投手のマテオ、ソリアーノが次々と故障者リスト入りをし、救援投手の台所事情が火の車となっている中、起用されてもおかしくないと識者も語っているらしい。元々ファンサービスも兼ねたイチロー選手の登板構想は、メジャー入りした2001年から、具体的に球団も検討していたようだが、今の所実現には至っていない。イチロー選手も渡米直後には、「投げろと言われればやってみたい」と語っていたそうだが、現実には、完璧主義のイチロー選手が、公式戦で投げるとは、予想されにくい。それでは、メジャーリーグ史上で野手が投手との二刀流を務めた事があるのか?と記録を探してみた。

すると過去に4例程ある事が判明した。まず、1993年に当時レンジャーズのホセ・カンセコ外野手が志願登板し、結果は1回を投げて2被安打3四球3失点と散々な結果を残したが、二刀流の先駆けとなった。その後元デビルレイズのウェード・ボックス三塁手が1999年までに2度登板。元日本のロッテにいたマット・フランコ一塁手もメッツ時代の1999年に2度登板した記録があり、更に2000年には、ロッキーズのブレント・メイン捕手が登板し、勝ち投手となっていた。調べていて、この記録にイチロー選手の名前が載るか否かも興味深い気がしたが、私はホセ・カンセコ外野手の名前が心に残った。この志願登板で肘を痛め、その後、怪我に泣いたカンセコ選手であったが、1988年には、ホームラン王と打点王、そして年間MVPにも輝き、1991年には再び最多本塁打王に君臨するという偉大な記録を残している、しかし私にとっては、その記録よりも、2001年にメジャーを引退した後の2005年、薬物使用に関する自身の暴露本「JUICED」を出版した事が戦慄な記憶として残っていた。その後は、どうしたのだろうと気になっていたが、現在独立リーグでプレーをし今も野球を続けているそうだ。
レッドソックス在籍中のカンセコ選手(1994年〜1996年)クリックすると元のサイズで表示します

カンセコ選手が最近になって独立リーグ、ゴールデンベースボールリーグに属するサンディエゴ・サーフドーグスと契約し、DHとして出場している事を知ったのは、同じ独立リーグで投手としてプレーしているLittle Hidekiこと、長坂秀樹投手のHPを見てだった。長坂投手は、身長166cmと小柄ながら、東海大三高(長野)のエースとして1996年夏に甲子園出場、東海大へ進学後の1998年に神宮大会に出場して準優勝している。一旦野球の道は諦め就職したものの"BASEBALL"をする為に単独渡米、ビザの関係でプロ契約が結べない当初は、アマチュアとしてアラスカやネブラスカ、カンザス でプレーしていた。そして現在、しっかりとした下半身と力強い上半身の振りの無駄の無いフォームから繰り出されるMAX95マイル(152キロ)のストレートと、切れの良いスライダー、カーブを武器にカリフォルニア州のCHICOにあるチコ・アウトローズでプレーしている。(現在はシーズンオフ)その彼が去る8月12日、中学生時代、憧れていたカンセコと対戦、「三振2つ、ダブルプレー1つに切って取ったが、少し悲しかった」と、長坂投手自身の公式サイトの日記に書かれていたのだ。
クリックすると元のサイズで表示します カンセコ選手をノーヒットに抑えたピッチングの長坂投手。2006年8月12日、完投勝利を挙げる。(写真提供・長坂秀樹公式HP)

華やかなイチロー選手のメジャーデビューとその後の活躍、更に投手として登板か?というニュースを契機に調べて行くうち、二刀流をこなしたという史実で繋がったホセ・カンセコ選手が、今も野球を続けている事、そして、紆余曲折の苦労を重ねながらも、本当に心から野球が好きで、アメリカでbaseballライフを送っている長坂秀樹選手の事を、是非書き残したいと思った。長坂投手の公式サイトでの自己紹介欄には、素晴らしい言葉が記されている。「尊敬する人…出会った全ての人」…このように謙虚になって全ての出会いに感謝できる心も、"BASEBALL"の生まれ育った国での苦労によって培われたと言えるのだろうか?!。長坂投手の野球を愛する精神に、心から拍手とエールを贈りたい。尚、カンセコ選手は、今年、同リーグのオールスター・ゲームで、再び投手としてマウンドに立ったそうだ。
長坂投手のベースボールカード。 クリックすると元のサイズで表示します

★「小さな巨人・長坂秀樹投手」オフィシャルサイト
http://www.littlehideki.com/
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2006/9/9

名古屋からボストンへ…機内持ち込み荷物検査に思う  日記(今日思うこと)

9月6日、中部国際空港よりノースウエスト航空にて、ボストンに向った私は、ミシガン州デトロイト空港で乗り継いで、アメリカ東部時間の6日の夜、無事にボストン・ローガン空港へと到着した。中部国際空港からデトロイト行きのノースウエスト072便は満席、マニラから飛んでくるため、乗客はフィリピンの方達が80%だ。ノースウェスト航空は、1年前の2005年9月6日より、1人が、預けるスースーツケースの重さを32キロ×2個から、23キロ×2個までとし(JALは32キロ×2)。24キロを超えた32キロまでの荷物に追加料金3000円を課金するとした。これによって、かなりのジェット燃料の節約になったという。
ボストンの景色(滞在先より撮影)クリックすると元のサイズで表示します

その既定変更から1年。今年は、8月10日に、英国・ヒースロー空港で液体爆弾テロ未遂事件が発覚した。これによって、機内に持ち込む荷物の厳しい制限がされた。8月末に赤ちゃんを連れた人のミルクが持ち込み可となるなど、若干の緩和はされたが、空港の保安検査は、フィジカルの金属探知機が設置されている場所で、荷物はX線による通常の検査を受けた上に、搭乗直前にも係員による手荷物検査が行われるなど、物々しい雰囲気だった。持ち込み付不可な物としては、液体状の形状の物は勿論、ゲル状、クリーム(練)状の物まで、制限されていた。保安検査を受ける為の人が長蛇の列になっていた。

持ち込み不可な品として、ゲル状、クリーム状と定義されると、歯磨き用クリームの他は、化粧品が殆どで、例えばリップグロス・ネイル(除光液は揮発性があるので元々持ち込めない)・マスカラ・日焼け止めクリーム・アイライナー・パレットタイプの口紅類も駄目であった。普段当り前のように化粧ポーチに入っているリップグロス等は、スーツケースを預ける時に忘れがちである。実際私も、リップグロスとマスカラが没収となった。(航空会社のカウンターに預けて、帰国時に受け取れるが、再び長蛇の列に並び保安検査を受けな直さねばならない)。
クリックすると元のサイズで表示します 比重による検査機に代わって、
導入予定の可燃物か否か見分ける機械。


また、万年筆カートリッジもインクカートリッジが入っていたら駄目とか、蛍光ペン、修正ペン、水性ボールペンも不可とされる。また、スーツケースを預けた後、お土産にと購入した、羊羹・ういろう・プリン・ババロア・ゼリーなども、乗る前に食べてしまうか、捨てるかを選択しなければならない。中部国際空港では、丁度その日、イベントプラザにて、北海道フェアを開催していて、夕張メロンゼリーを買って持っていた人がいて、没収されてしまった。その他、検査の時に、長時間、可か否かで揉めていたのは、季節の食べ物『栗きんとん』だった。「ペースト状だから駄目」という検査官もいれば、「ほぼ固まっているから良いのでは」と言う検査官もいて判断出来かねていた。やっと上司らしき人が来るまで待って、ようやく許可が降りた。

このように搭乗前の手荷物検査に長い時間が費やされた。私も事前に空港へ問い合わせてみたが、「飛行機会社に尋ねて下さい」と言われ、ノースウエストに電話しても混雑しているので「またおかけ直し下さい」と、電話は自動に切れて詳しい問い合わせは出来なかった。航空会社のHP、空港のHPにも記載はあるが、羊羹など食べ物に至る記載はなく、不親切だと感じた。いつまでこの現状が続くか解らないが、せめて空港内のお店では、自分の店で売っている商品が可か否か…張り紙でもして置いて欲しいと感じた。昨年のスーツケースの重量限度変更時然り、航空会社の対応は、何故か不親切だと感じている。

空港内にあるDFSでは、お酒類が全く売れず売り上げが激減しているそうだ。いずれにしても、明らかに『液体』と判る物以外の判断が難しそうだ。搭乗待ちの間、隣に座っていた男性と「液晶の中の液体は良いのですね。もし駄目なら、携帯もパソコンも駄目になってしまいますね」と話していたが、その間、お手洗いへ行こうとすると、再び、その検査場を通過しなければならず、お互いに貴重品以外の荷物を預けあっていく事にした。このように安全の為とはいえ何かと不便を感じてしまった。
巡回する警官(ローガン空港にて)クリックすると元のサイズで表示します 

ところが、一旦アメリカに入国してからの乗り継ぎ便は、フリーパスで驚いた。先に搭乗し座席に着いていた私の目に写ったのは、今までのようにハンバーガーとコーラを持った人がそのまま搭乗して来る姿だった。厳しいのは国際線だけ…というのも、何だか不思議な気がしていた。デトロイトからの飛行機は気流の関係でよく揺れたが、定刻どおりボストンのローガン空港に到着した。到着ゲートから出口に向って歩いていると、銃を持った警官とすれ違った。5年前の9月11日に起きた同時多発テロを起した飛行機は、このボストンのローガン空港から飛立った機体だった。心の中に重い物を感じながら、誰もがもっと気軽に快適な空の旅が出来る日が、再び訪れる事を願いたいと思った。

◎以下、各空港HP(機内持ち込み荷物について)
・中部国際空港
http://www.centrair.jp/news/news-article/1177748_840.html
・成田空港
http://www.narita-airport.jp/
・関西空港
http://www.kansai-airport.or.jp/


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2006/9/6

ほたる国外へ旅立つ…こころ会の凱旋演奏を聴いて…  和太鼓くらぶ「こころ会」

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東京国際和太鼓コンテスト・最優秀賞受賞の後で…メンバー達
写真提供・こころ会より



私は所用の為、6日から暫く日本を離れる事になった。出発前で仕事はとても忙しかったが、何とか時間を作って、まず8月25日に花乃丸での、こころ会最優秀賞受賞凱旋?演奏を聴きに行き、そして9月3日、少しの間、聴きに行けないので、再び出向いて来た。近頃の私は、こころ会の子供達のすっかりファンになってしまっている。太鼓の腕前も日本一なら、挨拶や礼儀、笑顔も日本一だと感じている。(しかし、私に教えてくれたユリちゃんのメールアドレスは『宇宙一』だった。(流石 だった。参りました)。こころ会の子達の演奏は、8月24日の東京国際和太鼓コンテストで最優秀賞をとってから、より一層迫力が増した気がしている。経験と実績を積む…とはこういう事なのか!と驚かされた。
8月25日付 中日新聞記事(切り抜き)⇒ クリックすると元のサイズで表示します クリックすると元のサイズで表示します 振り付けも迫力満天!

9月3日は、名古屋市内のキャッスルホテルで太鼓の先生の結婚式があり、演奏出演していたそうで、花乃丸での定時の演奏時間より、30分と少し遅れて21時20分過ぎに始まった。足手まといだったかもしれないが、私も存在に気付いた子から手招きされて、太鼓の搬入をお手伝いした。準備が整い演奏が始まると、疲れていた様子を見せていた子供達も、とっても元気に叩いてくれた。待っていたお客様からも拍手喝采が起きた。素晴らしいエンターティメントショーだった。照明のスポットなどがあると、もっと効果的だなと思いつつ、ヒロキ君やユイちゃんがソロで叩く時は、私も息を止めたりして聞いていた。
全員が揃ってラストポーズ⇒ クリックすると元のサイズで表示します
クリックすると元のサイズで表示します 閉め太鼓…ボルトで両面の皮が締めてある。

演奏が終わった。子供達は翌日学校の授業がある。少しでもお役に立ちたいと、後片付けもお手伝いする事にした。ジーパンにTシャツ姿の私…まるで(役に立たない)大道具さんのようだった。子供達が衣装を脱ぎ始めた。一見忍者のような衣装は、和服を彷彿とさせる。帯枕を使用したりやはり着方も和服によく似ていた。律儀で几帳面のリョウマ君が、私の指南役…。丁寧に畳み方を教えてくれた。「ほたるさん、次に来た時もしっかり覚えててねー」。覚えるのも早いが忘れるのも早い…これが特技で?健忘症の私には耳の痛い言葉だった。また、彼らは締め太鼓の締められたボルトを緩めていた。両側に張られた牛皮(雌牛の皮)を緩めて置かないと、湿気などで伸縮して皮が破れてしまうからだそうだ。この時、中一のヒロキ君の職人技を見た。その横で小三のリョウマ君も体重をかけながら踏ん張って緩めている。私も試して見たがびくともしなかった。私はリョウマ君の締め太鼓の押さえ役に徹したが、一緒になって力を入れてしまうので、血管が切れそうだった。一緒にとてもいい汗を掻いた。

ボルトを締めるリョウマ君達⇒ クリックすると元のサイズで表示します 
クリックすると元のサイズで表示します ヒロキ君は、職人技のように次々と
独りで交互の方向に緩めていく。


子供達との時間に名残は惜しかったが、夜も更けて来たので帰路についた。次はいつ彼らに会えるのだろう?帰国後は結婚式など慌しい毎日が続く。しかし、心のオアシスを求めて、また彼らの演奏を聴きにいこう…と車を走らせながら、私はそう決意した。「こころ会」にはまるで我が家へ帰ったような暖かさがあるから…。
クリックすると元のサイズで表示します
私は3週間弱、日本を離れます。
行先でも時間を見つけて、記事はUPしたいと思っていますので、何卒宜しくお願い致します。


★コメントを頂いた方へ
いつもありがとうございます。

ボストンに無事着きまして、ようやくコメントの返事を書く事が出来ました。
大変遅くなって、ごめんなさい。
ピント外れの返事もあるかと存じますが、読んでやって下さい。
また、これに懲りず?にコメントを頂けたら、とても嬉しいです。
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