2006/9/2

抱きしめるという会話…防災の日に思うこと  日記(今日思うこと)

今日9月1日は、防災の日だった…。東京の晴海埠頭では、米艦隊も初参加して総合防災訓練が行われた。米フリゲート艦は、東京湾北部を震源としたマニチュード7・3クラスの地震が襲い、被災者の中の帰宅困難者を神奈川県、横須賀港へと運ぶ設定。また韓国・ソウル市消防局のレスキュー隊も初参加し、倒壊建物での救助活動訓練をしたそうだ。このように、大規模な訓練から、街や学校単位の訓練まで、全国各地で防災訓練が行われた。阪神淡路大震災の時、妹は大阪の豊中市に居て、地震に遭った。スキー場のニュースで知った私が即座に公衆電話から電話した時には、何とか繋がって、マンションの部屋は悲惨な状態になったが、本人は無事と解った。以降暫くの間、連絡が途絶えた。役所に勤めたばかりだった弟は、翌日に有休を取ってボランティアに向った。電車は勿論走って居らず公共交通機関が麻痺する中、かなりの距離を歩いてやっとの思いで辿り着いたそうだ。
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神戸市内では、消防署の方達に加えて自衛隊の人達もやって来て、二次災害の危険もあるので、「素人は危ないから」と、瓦礫の山には近づけなかったらしいが、その時の隊長らしい人の話を、炊き出しのご飯を頂きながら聞けたという。その時、隊長さんは色々なケースを説明しながら、「小さな笛でも持っていてくれたらなぁ」と呟やかれたそうだ。人を呼ぶ時に使う笛の事を「呼子の笛」(よびこの笛)と言うらしい。瓦礫の下で大声を出していても聞こえ難い事が多く、そのうちに声は枯れて出なくなってしまう。今の世の中だと携帯を身につけている人も多い。しかし、携帯で電話をかけられる出来る体勢なら良いのだが、バッテリー切れも起すし、受ける側も停電になれば携帯は、いつか通じなくなる。その点、笛は電池がなくなる事もないし、首からかけたり、ポケットに入れて置いたりすれば、狭い場所に閉じ込められても吹く事が可能では?とされる。映画「タイタニック」のラストシーンでも、生き残ったローズが助けを呼ぶ小道具に笛が使用されていた。私も以前防犯にと小さな笛を貰って持っている。明日から早速携帯したいと思った。天災は忘れたる頃来る…とは寺田寅彦氏の言葉だが、やはり常に最低限の備えは必要だと改めて感じている。

しかしながら、近頃、新聞・ニュースを賑わしているのは、犯人は人の子だろうか?いや動物だって親子の愛情はある…と考えさせられてしまうような冷酷・且つ理解出来ない犯罪ばかりである。命の重みを感じなくなってしまった子供達が増えたのだろうか?ある子供は、夏休みに飼っていた「カブト虫が死んだ時、両親に「電池を変えてくれ」と言ったそうだ。命の尊さ…防災の日こそ、日常の雑踏の中、ふと立ち止まって考えてみたい。天災…地震も台風の風も、豪雨も、その後には大きな爪痕を残してしまう。阪神淡路大震災の後、何とか無事だった妹も、同じマンションの高層階の人達の水汲みや、子守などボランティア活動をしていたと聞いた。大人達が失意に項垂れる中、最初はショックで笑いも少なかった赤ちゃんは、直に笑顔を取り戻し、極限の環境の中でも逞しく生き抜こうとしていたという。赤ちゃんから元気を貰った…妹はそう話してくれていた。妹は暫くして落ち着いた頃、週末になると震災で親を亡くした子供達の施設も訪れていた。子供達は何のお土産を貰うより、スキンシップを取りたがっていたそうだ。

今日から9月…外では、秋の気配を感じる涼しい風を感じられ、虫の声が聞こえ始めた。平穏無事な幸せが続くといいなぁ…としみじみ思いながら、思い出した言葉があった。以下は、社団法人・日本公共広告機構が雑誌等に掲載したCMの言葉である。

 「抱きしめるという会話」  −母親編-

子どもの頃に
抱きしめられた記憶は、
ひとのこころの、奥のほうの、
大切な場所にずっと残っていく。

そうして、その記憶は、
優しさや思いやりの大切さを教えてくれたり、
ひとりぼっちじゃないんだって思わせてくれたり、
そこから先は行っちゃいけないよって止めてくれたり、
死んじゃいたいくらい切ないときに支えてくれたりする。

子どもをもっと抱きしめてあげてください。
ちっちゃなこころは、いつも手をのばしています。

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 「抱きしめるという会話」  −父親編-

がんばれよ。
ごめんよ。
愛してるよ。

そんな言葉を口にするかわりに
父親たちは 我が子を抱きしめたりする。

父親は母親にはなれない。
二の腕や胸板が、おっぱいよりえらくなる
なんてことは永遠にないだろう。

けれど、子どもたちがその温もりに包まれていた時間は、
きっと子どもたちの未来までも 包み込んでいて
やがて子どもたちを支える 大切な心柱の一本になっていく。

子どもをもっと抱きしめてあげてください。
ちっちゃなこころは
いつも手を伸ばしています。


人の心に、抱きしめられた時の暖かさが、いつまでも残り続けますように。  -防災の日に-

◎「天災は忘れられたる頃来る」・・・寺田寅彦氏の言葉 (1月15日投稿) 
http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/20060115/archive


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2006/9/1

百年前、春海藤次郎を魅了したバカラの器と春海好みの誕生  日記(今日思うこと)

神戸の妹から電話があった。何でも仕事関係で知り合いになった某会社の社長宅へ伺った所、バカラ製の器に「うす露」という和菓子が盛られて出て来たと興奮気味だった。それも「7年前に開催された『永遠のきらめきバカラ展』に展示されていた器ではないか?!」と言う。その器がアンティーク・バカラかどうかは、私には判らないが、昨年「平成の春海好み」として復刻されて発売された事を伝えた。妹は「どちらにしても凄いね」と溜息をついていた。私は7年前、大阪天保山のサントリーミュージアムで開催された『バカラ展』で、春海の器を観た時の衝撃を振り返りながら、パリのバカラ村から生まれた「人造水晶・クリスタルガラス」と日本との関わりについて調べてみたいと思った。
クリックすると元のサイズで表示します 春海好みの鉢(家庭画報より)

バカラと日本との関わりの歴史は、100年近く前の明治34年(1901年)、時計と宝石を扱っていた大店(おおだな)の主人、安田源三郎氏が、欧州土産として、親戚にあたる春海籐次郎氏へ数点のバカラ製品(花器・切子皿等)を贈った事に始まる。当時、美術商・春海商店の三代目であり、茶人として一樹庵とも名乗っていた藤次郎氏は、そのカットと金彩使いに魅せられ、自ら一生懸命調べてその製造元が「バカラ」だと突き止めたという。その後明治37年頃から、バカラ製品の輸入を始め、多くの茶人に提供していたが、広い洋間に合うようにデザインされていたバカラの製品は、日本の狭い茶室や座敷にはそぐわず、やがて藤次郎自身がデザインし、特注するようになった。現在八代目、春海敏氏が経営する春海商店には、当時懐石料理の器として使用する事を念頭に置いての形や、寸法を記したデザイン画が残されているという。
千筋紋の酒器(家庭画報記事を撮影) クリックすると元のサイズで表示します

春海商店から、特別注文された器の中からは、漆の椀を手本にした金縁千筋紋の汁椀や、飯椀。陶器を模した徳利や杯。中国の角鉢をもとにした金縁霰切子枡鉢など、茶人ならではの発想で注文されている様子がうかがえる。その春海商店の美意識を見事に表現したバカラの職人達の腕も見事であった。今もバカラの工場には、春海商店からの注文により、エッチングとしてガラスに千筋紋の筋を描いた機械も、残されているそうだ。

1964年、当時のフランス国王、ルイ15世のの認可を得て創業れたバカラ…。脈々と受け継がれた工法を基に、現在もバカラ村の工場では、3万種に及ぶクリスタル製品が作り続けられている。遥か遠いフランスと日本の文化が融合した美の結晶"春海好み"のバカラ製の器の技法についても少し触れて置きたい。

1,千筋紋
夏の器として涼しさを客人に提供したいとデザインされた千筋紋、これはガラスの表面を酸で腐食させて図案を掘り出すエッチングという技法で、凹凸を作り出す。細かい線が幾重にも引かれ、その繊細な技法に溜息が出る程である。漆器を手本にデザインされた椀は、そのエッチングによって描かれた線が金彩と良くマッチしている。

※エッチング
初めにタール等の防腐剤を器面に塗り、針状の器具で文様を引っ掻いて防腐剤を削り取り、フッ化水溶液を刷毛で塗る。すると文様が凹んで表現されるという加飾技法。多くの科学者や技術者達が試行錯誤の末、現在に至るまでに、機械で文様を描き、浸漬腐食する…など次々と改良が加えられて来ている。

2,切子
既に江戸時代の末期から、日本でもガラスに施されていた技法で、ガラスの表面を研磨機(グラインダー)に押し当てて切り込み(カット)を入れ、模様を掘り出す。現在のバカラでは、熟練したカット職人が、グラインダーだけでも、鉄製、砂岩製、銅製を使い分け、全工程、手を抜かず仕上げられている。

3,被せガラス
ガラスの素地の上に、1〜数種類の異なる色彩のガラスを加熱しながら被せ、重ねて作り上げる。カット技法と組み合わせられている事が多く、バカラ製の物では、銅製のウィール(研磨機)を使ったつや消し状態の小花や、唐草模様などを掘り込むカット、そしてグラヴェールと呼ばれる技法によって、色の被せがより印象的になる器へと仕上がる。


クリックすると元のサイズで表示します 被せガラスの酒器(同記事を撮影)

話を戻して明治37年当時、バカラ社に注文されたクリスタルの鉢1つの価格は、家が一軒建つ程の価格だったという。国内でも群を抜く資本力を備えていた春海商店であったとはいえ、遠く離れた異国へ向けて、特別な発注する事を断行した、藤次郎氏の勇気と先見性には、やはり驚かされてしまう。春海商店の果たしてきた役割として重要視されるべきは、クリスタルガラスを茶事に向くよう制作させ、普及させて行った事だと言えよう。そしてその後の日本のガラス工芸に大きな影響を与えて行った。日本のガラス工芸には、イギリス、ボヘミア、イタリアなど様々なガラスの影響もうかがわれるが、バカラ製の上質な鉛クリスタルガラス素材と洗練された職人のテクニック、そして完成度の高いデザインは、現在に至っても、日本のガラス工芸家の憧れでもあり、目標でもあるようだ。因みに大阪には、昭和の初めから夏懐石にバカラの器を使用している『吉兆・本店』があるという。妹とは「いつか食べに行きたいね」と言いつつも、ランチで3万円を越す価格に、何時になる事やら…と私も溜息をついてしまった。

◎吉兆本店 HP
http://www.kitcho.com/osaka-hon/
◎バカラ社 HP

http://www.baccarat.com/
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