2006/11/30

硫黄島からの手紙Vol 3… 栗林忠道から家族へ、そして部下へ。  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

太郎君ニ 知ラセル御父サンノ様子

余り 暑いから ハーバード大学ノ庭へ行テ 寝ソベッテ居ル所


成績優秀だった栗林は、軍事研究の留学生として、昭和3年3月から昭和5年4月までの2年間、アメリカに滞在した。当時3才(〜5才)でまだ文字が読めなかった太郎(長男)の為に、絵を描きそれに解説文を添えた手紙を送った。届いた手紙は妻の義井が太郎に読んで聞かせた。その絵手紙を見ると、生活に密着した話題が多く、自動車や電車を見れば太郎を乗せてみたいと思い、美しい景色に出会うと太郎にも見せたいと願う、父親の温かさと、そして異国で家族と離れて過す淋しさも伝わってくる。また「猫だけは日本と同じいから、こんなものが非常に懐かしい。猫が本当に味方のような気がする程、外国は淋しいことがある」と書かれている。そんなアメリカ生活の中で、栗林氏が最も愉快な事は、果てしない練兵場を馬に乗って走る事で、最もイヤな事は、週末に開かれるダンスパーティだとも書かれていて、親近感を感じられ、とても微笑ましく読む事が出来る。
クリックすると元のサイズで表示します ハーバードエリアの芝生(2006年)
栗林氏もこの辺で寝そべったのだろうか?


栗林は、昭和3年3月27日横浜港から「太陽丸」に乗って、ハワイを経由し、同年4月13日、サンフランシスコへと到着した。陸路、ロサンゼルスに向かい、ロサンゼルスからグランドキャニオンの見学をし、シカゴ経由でワシントンへと入った。そしてボストン、ニューヨーク州バッファローに滞在…日本人の少ない地に住み、英語力を磨いた。そしてカンザスシティ、エルパソ、とアメリカの中南部も見学し、メキシコにも行った。帰路はワシントンからニューヨークへ周り、イギリスのリバプールからロンドン、パリ、ベルリンを経由して、シベリア鉄道にて帰国した。

アメリカからの絵手紙。 クリックすると元のサイズで表示します

栗林の絵手紙は、今風に言うと「インタクラクティブ」(双方向)があり、手紙を媒体として、それぞれが受け手と送り手になれる…バーチャルな関係が形づけられている。父は遥か遠いアメリカから、息子の目を通して妻に語りかけ、妻は夫の声に耳を傾けながら息子に語り聞かせる。この絵手紙によって息子・太郎は、いないはずの父の存在を強く意識出来ただろう。その絵手紙の中からは、軍人・栗林忠道の姿は全く見えて来ない。

それから10余年経つと、栗林の手紙は、硫黄島から次女(当時9〜10才)のたか子宛てと変り、たかこを始め、家族を思う気持は変らないが、内容はだんだんと「これから先を気強く明るく生きて欲しい」…というような別れの言葉へと変化せざるを得なくなって行き、読み進むうちに胸が締め付けられてくる。

「たこ(たか子)ちゃん、お父さんはたこちゃんが早く大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかり思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言付けをよく守り、お父さんを安心させるようにして下さい」。         昭和19年6月25日 戦地のお父さんより。

一方、栗林の立場は、陸軍将校。それも近衛師団(近衛兵になるには、家柄もよく三親等以内に犯罪者がいてはならない)の団長まで勤めたという将校の中でもエリート中のエリートでありながら、軍属として働く人達にも、思いやりがあって温かい人柄だったようだ。貞岡信喜は、縫工部に属し高級将校の軍服などを新調したり、直したりする部にいて栗林の担当だった。貞岡は例えば「車に乗れ」という言葉も命令口調ではなく「乗りなさい」と優しく声をかけられ、天皇陛下から下賜された鴨鍋での食事会にも招かれた。それは、当時の軍人の階級社会では考えられない事だった。貞岡は栗林中将を慕い続け、硫黄島へも一緒に行きたいと申し出るが、その時は「駄目だ、親孝行しろ」と初めて叱られ、却下されたという。
クリックすると元のサイズで表示します広東にて…中央が栗林氏。その右後方に貞岡氏。(「散るぞ悲しき」より転写)

戦局の悪化に伴い、どうせ死ぬなら閣下の元で…と諦めきれない貞岡は、父島の軍基地まで渡り、藤田副官に栗林中将へと電話をかけてもらう。しかし「こらぁっ、渡島あいならん」と怒鳴られ剣もほろろに返される。硫黄島には縫工作業する人手は要らず、無駄な死は必要なかったのだ。その時の事も栗林は、妻の義井宛の手紙の中で「貞岡がせっかく来たのに、私に会えずに帰還し、結局郷里に帰るのだと思う…後略…東京へ着けば無論立ち寄るだろうからその時は、玄関だけにせず何でもある物をやって下さい」と書いていて、貞岡の気持ちを知りつつ、心を鬼にしたことが覗える。その後、栗林は貞岡宛てに葉書を出した。軍事郵便の文字が印刷された葉書に端正な文字で認められていた栗林中将の温かい言葉…。葉書は、61年経った今でも貞岡家の自宅の金庫に保管されているという。

その貞岡が硫黄島へと渡ることが出来たのは、栗林中将の死から33年を経た昭和53年だった。慰霊巡拝団の一人として渡島した貞岡は、栗林中将が潜んでいたという司令部壕を示されると声を限りに叫びながら駆け出した。「閣下ぁー、貞岡がただいま参りましたーっ!」

親として、夫として、軍人として、そして何より人として、思いやりに溢れた栗林忠道の手紙…日米合わせて3万人近い硫黄島での戦死者の魂へ、そしてその遺族の心へと、言葉の壁も乗越えて届いているように思えた。

◎文中、敬称略
◎参考
「玉砕指揮官の手紙」 栗林忠道著 小学館文庫
別冊宝島「栗林忠道 硫黄島の戦い」 宝島社

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2006/11/29

硫黄島からの手紙Vol 2... 「バロン西」こと西竹一中佐  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

硫黄島で散った将校達の中に、オリンピック馬術競技唯一の金メダリスト…西竹一中佐がいた。彼の事を「バロン(男爵 )西」と名付けたのはアメリカの新聞だった。西氏は、1932年に開催されたロサンゼルスオリンピックに於いて、当時花形競技だった馬術競技で、愛馬ウラヌス号に乗って金メダルを獲得。日本人離れした手足の長さと、紳士的な態度で欧米の社交界に名を馳せていた。西氏は、陸軍軍人でありながら長髪を通し、クライスラー、パッカード社の車を乗り回し、ハーレーまで所有していた豪遊ぶりだった。更に愛馬ウラヌス号もイタリアで出会うと、一目で気に入り、自費で購入していたという。そんな芸当が出来たのも、西氏は、外務大臣を務めた西徳二郎男爵の三男として生まれ、その家は西麻生に1万坪の邸宅を構えていた名家所以だった。
クリックすると元のサイズで表示します ロサンゼルスオリンピック・馬術傷害競技での西竹一氏。

しかし、西竹一氏が名家の嫡男としては例外的に、職業軍人としての道を選んだ事には、理由(わけ)があった。竹一氏は、正妻の子供ではなく、父親が使用人に生ませた子で、母は竹一氏の生後すぐに西家を出され、母親の愛情を知らずに育っていた。父親の亡き後、10才で男爵家の家督を継いだが、学習院時代も問題児として名高く、停学処分も受けていた。名家の名前を背負いながら、心中は孤独だったと推察する…そんな竹一氏にとって馬との関わりあいは、自分を見出せる唯一の時間だったように思う。事実、竹一氏は、硫黄島での最後の時まで、ウラヌス号のタテガミを肌身から離さなかった。そのウラヌス号も西中佐の戦死1週間後、後を追うように逝ったという。

この西中佐と、先に書いた硫黄島指揮官・栗林中将との共通点として、騎兵学校出身であった事、アメリカでの生活を体験し、アメリカという国の国力を知っていた事があげられる。この2人が帰る事はまず無い、とされた硫黄島へと派遣された経緯には、日本軍部内から、知米派の追い出し…と解釈されている説が根強く残っている。硫黄島へ向う際に覚悟を決めた西中佐も、栗林中将と同じく、妻に「今度という今度は戻れないかもしれない」と言い残している。それでも最後まで明るかった西中佐は、米軍上陸の前、硫黄島に一頭だけ残された馬に跨ったり、釣りに興じていたという。しかし米軍上陸後の戦いぶりは、己の肉体をも武器にした壮絶なものだった。修理不能の戦車を砂に埋め、砲台だけを見せて巧みに隠し利用した戦術は、西中佐の軍人としての能力の高さを証している。自身は、米軍が使用した火炎放射器の火で顔半分を焼かれ、総員1000名の連隊も60余名となって尚、栗林中将のいる兵団本部と合流しようと壕を出た所、水際で散弾に倒れたと記録されている。
西竹一氏と、心を通わせた愛馬ウラヌス号。 クリックすると元のサイズで表示します

西中佐については、アメリカ軍が「五輪の英雄、バロン西、出てきなさい。(世界が)君を失うのは惜しい」。と壕に向って投降を呼びかけたが応じなかった…というエピソードも残されている。「死ぬ時は、この宇宙の中に消えて行く」…。そう言い遺した西中佐…最後に栗林中将に一目会いたいという願いは届かなかった。しかし、西中佐が最後まで肌身離さず持っていた、ウラヌス号のたてがみは、1990年にアメリカで発見され、現在は、北海道本別町の軍馬鎮魂碑のある歴史民俗博物館に、収められている。

◎追記
映画「硫黄島からの手紙」では、栗林中将を渡辺謙氏が、西中佐を伊原剛志氏が演じている。もし黒澤明監督が存命なら「メガホンを預けた」と語るクリント・イースト・ウッド氏が描く、初の日本人俳優をメインにした日本映画(イースト・ウッド氏は、ハリウッド映画ではなく日本映画と呼ぶが、アカデミー賞の対象にはなるようだ)。61年の時を越えて届く…「硫黄島からの手紙」…。敵(アメリカという国)を体験した2人の日本人…栗林中将を縦糸に、西中佐を横糸にして織り成す物語は、史実に基づいた戦争映画から何を語りかけてくるのか?今から封切りが待ち遠しい。


◎参考/参照
「別冊宝島・硫黄島での戦い」 宝島社より
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2006/11/28

「硫黄島からの手紙」Vol 1…「散るぞ悲しき」を読んで  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

国の為  重きつとめを果し得で  矢弾尽き果て  散るぞ悲しき
                    -栗林忠道 辞世の句-


梯 久美子著の「散るぞ悲しき」は、日本軍の硫黄島総指揮官であった栗林中将を主人公に、栗林中将が硫黄島から家族へ宛てた手紙を引用しながら、栗林中将の温かい人間愛を描いている。飲み水は涸れ、弾丸尽きる凄惨な戦場と化した硫黄島で、本土防衛の最前線として、兵士達は、国の為というより自分達の家族を守る為に戦った。その総指揮官・栗林中将の命令は、玉砕を許さず最後の1人となってでも、米軍による本土空襲の盾となれというものだった。自らも、それまでの指揮官の死に様…前線の後ろで自決という形を取らず、身分を示す中将の階級章を外して最前線に立った。以下は、3月25日、出撃前夜、栗林中将が述べた当時生き残っていた全将兵に呼びかけた訓示である。(数少ない生還者の一人…大山純軍曹の証言より)
クリックすると元のサイズで表示します 「散るぞ悲しき」…梯 久美子著(新潮社)

「予が諸君よりも先に、敵陣に散る事があっても、諸君の今日まで捧げた偉功は決して消えるものではない。いま日本は戦いに敗れたりと言えども、日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、諸君の勲功を讃え、諸君の霊に対し、涙して黙祷を捧げる日が、いつか来るであろう。安んじて諸君は国に殉ずべし」

この呼びかけの中で「予は常に諸子の先頭に在り」と宣言したとおり、栗林中将は、最後の攻撃時、約400名の師団の先頭に立った。陸上自衛隊幹部学校、硫黄島現地研修用の資料には「師団長(兵団長)自らが突撃した例は、日本軍の戦史・戦例にはない。この総攻撃は極めて異例のものである」と記されているという。栗林中将率いる部隊は、沿岸に沿って擂鉢山方向へ南下、翌26日午前5時過ぎに、米・海兵隊と陸軍航空部隊の野営地を襲撃した。日本軍の組織的抵抗は、とっくに終ったと思い込んでいた米兵達は、パニックに陥り、死傷者170余名を出した。更に生き残った日本兵は、既に米軍の手に落ちていた、千鳥飛行場に突入し、その場所で殆どが戦死を遂げた。
奥に飛行場が見える硫黄島の全景。 クリックすると元のサイズで表示します
別冊宝島掲載写真(小笠原村)写す。

米軍は、勿論この時の攻撃が、栗林中将の指揮とは知らなかったが、これまでの「バンザイ突撃」どころか、物音一つ立てず整然と攻撃して来た兵士達に不意を突かれ思わぬ被害をこおむった事となった。後に「米海兵隊戦史…硫黄島」で、「3月26日早朝に於ける日本軍の攻撃は、万歳攻撃ではなく、最大の混乱と破戒を狙った優秀な計画だった」と評している。この攻撃で栗林中将は、途中で大腿部に重傷を負ったが、司令部曹長に背負われて尚、前進した。その後は、出血多量で死亡したとも、最前線で拳銃を使っての自決…とも伝えられているが、残念な事に、この絶命の時まで部下達と共に戦った栗林指揮官の最後を見届けた者は、誰一人として生還していない。(勿論、栗林中将の遺体は見つかっていない)。そして栗林中将が息耐えたとされるこの朝、硫黄島から西1380キロの沖縄・慶良間列島に米陸軍第77師団が奇襲上陸し、住民をも巻き込み、10万人を超す民間人犠牲者を出した沖縄戦が始まった。

私は、先月、映画「父親達の星条旗」を観て、アメリカ軍を苦しませた日本軍の指揮官の戦略と、その人間性に興味を持った。その指揮官…栗林氏は、第二次大戦が始まる前、陸軍大学校の成績優秀者として、アメリカ留学を経験し、アメリカの大恐慌前の空前の好景気にカルチャーショックを受けた。そしてアメリカと日本との工業力の差=国力の差を、肌で実感し、帰国後妻の義井さんに「米国は、世界の大国だ。日本はなるべくこの国との戦いを避けるべきだ。その工業力は偉大だ。米国の戦力を過小評価してはならない」と語ったという。しかし、その後の日本は、栗林氏が、アメリカ留学の実績を買われ、初代カナダ公使館附武官となった1931年に起きた満州事変を切っ掛けに、日本軍部内でも、統制派と皇道派に分れ、栗林氏の帰国直後には、統制派の永田鉄山氏が暗殺され、更に2.26事件が起き、戦争への道をひた走ることになるのであった。
クリックすると元のサイズで表示します 栗林氏によるハーバード留学中に家族へと送った絵手紙から、硫黄島からの手紙まで収録されている。

「散るぞ悲しき」を読み進むと、愚かで残酷な戦争の歴史とは裏腹に、栗林氏の温かい人間性が浮き彫りになってくる。硫黄島での戦いの中で、日本兵を一番苦しませたのは「渇き」であったが、栗林氏は、騎兵将校でありながも「馬を歩かせると水を沢山飲む」と下級兵士と一緒に自分も歩き、一日一本の水筒の水で済ませたという。地理的に亜熱帯に属する硫黄島で、しかも穴を掘れば火山のマグマによる熱も伝わり40度を越える温度の中、「渇き」との戦いは想像を絶するものであったに違いない。皮肉にも、アメリカ兵が、あの星条旗を掲げたポールは、日本軍が集めた貴重な雨水を供給し、命を繋いで来た貯水槽のパイプであった。尚、栗林氏の人間性などについては、「玉砕総指揮官の絵手紙」(小学館)も参考にしながら、改めて書きたいと思っている。

※文中、栗林忠道氏の地位については、戦死後「大将」となるが、共通して「中将」とした。
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2006/11/22

和装花嫁造りとその歴史  着物の着付関係(和服)

今日は、結婚式の前撮り…写真撮影がある。ここ最近にしては、数少ない和式の結婚式にこだわった新郎新婦で、花嫁は白無垢姿、色打ち掛け姿の他に、写真撮影だけであるが、黒引きと呼ばれる黒地の紋付裾文様の振袖(私の祖母が着用した着物)も着て頂く事となっている。ここで少し、婚礼衣裳と鬘(カツラ)等の歴史について書こうと思う。

クリックすると元のサイズで表示します 祖母が着用した黒振袖。
最近では、黒引きとして黒地の振袖を着られる方もある。
(11月22日撮影)

婚礼の白無垢衣装の始まりは、平安時代と言われていて、花嫁衣裳に純白の衣装が使用されるようになった。古来日本では、白は太陽の光の色(実際白に見えるのは全ての色を反射している為)と考えられ、神聖な色と言われて来た。また、純潔の色ともされ、全て白で他の色を一点たりとも使用しないことから無垢=けがれ、汚れがない…として、その嫁ぎ先の家風に染まるという意味があるとも言われている。しかしながら当時は、まだ一部の身分の高い人達の仕来たりであった。室町時代になり、足利幕府が礼道教育を始め、小笠原流、伊勢流などの礼道が確立し、婚礼の法式などが生まれた。これによって婚礼の衣裳も定められた。当時、幸菱文様(さいわいびしもんよう=小花で型どった菱形の幾何学的な文様)の表着に白い打掛が着用されるようになり、これが「白無垢」と言われる打ち掛けで、今日にも伝わっている。

クリックすると元のサイズで表示します 和装花嫁は古式ゆかしく上半身の姿が最も美しい。
メイク、鬘、着付の胸元…技術を要するが光栄な仕事だと思う。


また、鬘に被せる綿帽子と角隠しの由来は、室町時代、外出の際に婦人は、小袖を頭から被くようになっていた為、この風習が婚礼の仕来たりにも定められて白の小袖を被く事とされた説が有力である。次第に、江戸時代の綿帽子(わたぼうし)【真綿で作られた品】、練帽子(ねりぼうし)【練絹という精練した絹で作られた品】、幕末頃からの揚帽子(あげぼうし)【角隠し】へと変化して行ったとされる。この綿帽子にも角隠しにも、婚礼が済むまで新郎以外に顔を見せないという意味もあり、挙式が済むと外すとされている。また角隠しには「角を隠し従順になる」という意味があるとも言われているが、これは俗説だそうだ。

江戸時代後期になると、現代のような白一色ではなく、下着を紅梅色としたり、打掛の裏や下着の裏に紅絹(もみ)をつけて、吉事の証しと姿が流行した。当時は自宅で挙式される事が多く、婚礼を終えた宴会で「色直し」をし、今までの白無垢を脱ぎ、婿から贈られた色物(赤地)の衣服に着替えたという。しかし、まだまだ、打ち掛け花嫁姿は裕福な家庭の子女に限られていた。明治時代になり、一般的には、黒縮緬の紋付裾文様の振袖に白羽二重の下着を着て、角隠しを着けるという花嫁姿が定着するようになり、その振袖の袖を切り、袖を留めて、「留袖」とし、既婚の女性の第一礼装とした。この衣装は昭和の始めまで受け継がれたが、第二次大戦中は「贅沢」とされ、物資の不足も影響して、新郎は国民服に戦闘帽、新婦は上っ張りにもんぺ、防空頭巾携帯という衣服での挙式も行われたという。

ウェディングドレス姿は女性の憧れ…。 クリックすると元のサイズで表示します

戦後、日本の高度成長に伴って神前結婚式が主流となり、自宅結婚式は減少した。祝宴を料亭やホテル、専門式場等で行なうケースが増え、それに伴って洋式の宴会も徐々に進出した。また、キリスト教式や人前結婚式が増える等、結婚式のスタイルも多様になり、花嫁衣裳も和装、洋装ともに華やかさを増したが、今日では、和装・鬘離れは進み、洋装のみで挙式、披露宴を済ませる方も多くなった。この和装離れには、「鬘が似合わない、和装メイクは白塗りで不自然」という理由が原因と思われるが、実際に、鬘は新婦の頭の大きさの合わせてサイズを決め、お顔の輪郭、造りに合わせて結い上げれば、似合わない人はいないと思う。またメイクも近頃では、水化粧は施すが、肌に合わせてファンデーションの色を調合するので、白塗りにはならない。今後も、勿論、新郎新婦のご希望が第一だが、日本の伝統文化の大事な一つとして和装花嫁造りも、受け継いで行きたいと思っている。
クリックすると元のサイズで表示します 自然色の鬘…新婦に合わせて結う
…色打ち掛け用のかんざしに交換後。
鬘の結い上げ師さんは力を要する為男性が多い。


◎以下鬘の「文金高島田」について。
現在では花嫁の髪として知られているが、江戸時代には、一般の武家の 若い女性や遊女の一部に結われていた。江戸時代中期(18世紀)に結い 始められた文金風の男髷が、女髷へと移り、現在のような形に発展した。 針や楊枝(ようじ)などを髷に入れて高くしたので、針打ちとも呼ばれ た。高島田の中でも、特に髷(まげ)の根が高く、華やかな髪型である。(美容学習事典より)

恵雅さんに絵を書いて頂いた扇 クリックすると元のサイズで表示します 
新婦の好きな秋桜の絵と…花言葉(秩序と調和)が書かれている。(11月22日撮影)

◎恵雅さんのブログ「癒しの書と絵」 ⇒http://sky.ap.teacup.com/keiga/

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2006/11/21

私の非日常的な1週間と松坂大輔投手の落札額に思う(斎藤緑雨)  日記(今日思うこと)

今月11日の深夜に、突然くも膜下出血で倒れた叔母は、延命措置を望んだ家族の祈りも届かず、その3日後、60才という若さで天国へ召された。倒れた日も叔父と2人で谷汲山へ紅葉を愛でるドライブをしたばかり…明るくて優しい人だった。叔母の入院していた病院、そして自宅、葬儀場へと近県の親族を車に乗せて走り回っていた私は、すっかり世間のニュースから遠ざかっていた。勿論、自分が贔屓にしているレッドソックスが、松坂大輔投手との交渉権を、約60憶という高額で落札した事も、スポーツ新聞の見出しで見て知る程度だった。一昨日からほぼ日常の生活へと戻り、テレビのニュースを観ていると、様々な番組が松坂投手の動きを追っていた。60憶という数字…その破格さゆえ、想像する事も出来ないが、何と高速道路の建設費に充てると1キロしか造れないという。私はこの1週間、高速道路を何往復もしたが、そんな高額を費した道路の上を走っていたとは夢にも思わなかった。道路交通網を便利にするのには、随分とお金がかかるものだと痛感した。
クリックすると元のサイズで表示します谷汲山、華厳寺の紅葉(岐阜県) 

また、私の留守中に、岐阜県本巣市に住む高校時代の同級生から「富有柿」が届いていた。「ここの所、急に冷え込んで来て霜が降りたので甘さがが増したはずだ」と、その箱の中には手紙が添えられていた。富有柿は、完全甘柿の一種で、完全甘柿は、渋柿からの突然変異とも言われ日本独自の品種である。柿にはこの他に、熟しても渋みが残る不完全甘柿…筆柿等、乾燥させる等して渋を抜き食する渋柿…市田柿などがある。渋柿も、未熟時は渋いが、色づいて更に熟し柔らかくなると渋が抜け、甘みが出て来る。私の育った家にも、柿の木が沢山あったが、「柿」と聞くと必ず「柿は渋きより甘きに入り、人は甘きより渋きに入る」という明治文壇の鬼才、アフォリスト(警句家)として有名な斎藤緑雨の言葉を思い出す。渋柿は熟すと甘くなるが、逆に人間は年月を経て熟すと渋みが出てくる…この言葉を亡き実の父から聞いて「成る程」と納得させられたものだった。
図書館内、斎藤緑雨のコーナー。 クリックすると元のサイズで表示します

その斎藤緑雨の作品は、三重県津市にある県立図書館に常設されているが、私は過去1度行った事があり、結局無理だったが、予定では14日に三重県伊勢市出身の友達と再訪するはずだった。先月10月16日には、同県鈴鹿市で、斎藤緑雨を顕彰した「アフォリズム(警句)作品」を募集し公開審査が行われ、最優秀賞、優秀賞が発表になっていた。残念ながら、その作品は「一筆啓上」の作品のようにインターネットでは公開されていないが、今年の秀作を数点紹介しておきたい。「時により悪人の悪意よりも善人の好意により追いつめられることがある」。「俗に言う毒にも薬にもならない人は、ガラスケースの中のランチメニューに似て、いくら時間をかけても、何の味もしない」。「人格を売れば金持ちになれる。だが後に人格を取り戻そうとしても金では買えない」。この1週間、普段疎遠になっている親族とも顔を合わせ、色々な話を聞いたが、様々な人間模様を凝縮しているような警句ばかりだった。
クリックすると元のサイズで表示します 交渉に向けて渡米前の松坂投手。

さて、松坂大輔投手の移籍については、レッドソックスが松坂投手との30日間の独占交渉権を得た結果となり、今後は、レッドソックス側と松坂投手側が年棒、契約年数などの交渉が行われ、それが合意に達すると、メジャーリーグ選手会が契約内容を確認した後、5日以内に西武へと落札額が入金されて、移籍が成立する経緯となるそうだ。この60憶という金額…レッドソックス側は、松坂投手に期待をするからこその算出である事は間違いないが、その背景には、日本をターゲットとするテレビ放映権、グッズの売り上げ等、スポーツビジネスの冷静な計算が見え隠れする。レッドソックスファンの私としては少々複雑な思いであるが、斉藤緑雨が今も存命なら、どんな警句を詠んだだろうか…と思いを馳せた。

◎斉藤緑雨
本名・賢。1867年(慶応3年)12月30日、現在の鈴鹿市に、伊勢神戸本多侯の典医であった父・利光の長男として生まれた。明治9年、9歳で上京後、其角堂永機に師事して俳句の手引きを受け、幼友・上田万年(国語学者)と回覧雑誌を発行した。 明治17年、17歳の時、仮名垣魯文の弟子となり、『今日新聞』に入社して、文学活動を本格的に始める。戯作風の続き物や、パロディ批評で文壇に登場。やがて花柳小説「油地獄」、「かくれんぼ」で作家的地位を確立し、「門三味線」では、樋口一葉の「たけくらべ」と競った。 明治30年以降は、「おぼえ帳」以下のアフォリズム(警句)やエッセイを主に書いた。職は新聞社を転々とし、貧窮のうちに肺疾患の為、明治37年4月13日、「僕本月本日を以て目出度死去仕候間此段広告仕候也」という自分の新聞死亡広告を載せ、本所横網町にて没。享年37歳。
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2006/11/21

文字と写真で紹介する私…(そしてお願い等)  わたし(自己紹介)

◎お知らせ

色々と、ご心配をおかけしましたが、少し落ち着いて来ました。
今後は、22日と25日の花嫁造りの仕事に、専念致します。
そんな中、時間を作ってブログ更新をさせて頂きたいと思います。

今後共、どうぞご指導宜しくお願い致します。


☆性別 Fクリックすると元のサイズで表示します     ☆年齢  クリックすると元のサイズで表示します

☆仕事サービス業 取り締まられ役 クリックすると元のサイズで表示します
☆趣味クリックすると元のサイズで表示します
映画鑑賞 乗馬 スキー ドライブ 旅行(温泉好き)
 スポーツ観戦(フィギュアスケート、野球・特にMLB・レッドソックス)

☆好きなもの。クリックすると元のサイズで表示します
歴史 論語 映画 時計 バック モンブランのペン 和服
器(陶器・磁器・クリスタル)  盆踊り 天婦羅 山菜
温泉 飛行機 鰻 お肉 和菓子 柚子 シナモン
レモネード 洋服(ヨシエ・イナバ、ラルフローレン、アバクロンビー)

☆好きなひと?クリックすると元のサイズで表示します
ぷーさん まぐま大使 高倉健 織田裕二(踊るの青島君) 深津絵里 
堤真一 西村雅彦 岡島秀樹 富田洋之 大塚晶則 田口壮 Mike・Timlin

生後8ヶ月の私。色っぽい?でしょ。 クリックすると元のサイズで表示します

★スピンさんのお知り合いの方が、全体写真の↑画像を綺麗にして下さいました。
着物の柄とかそのまま再現されて、驚きと共に感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございました。

クリックすると元のサイズで表示しますわたくしのひとり言の部屋に、お越し下さいまして、ありがとうございます。
何もおもてなしは出来ませんが、お時間の許される限り、ごゆっくりなさって下さい。


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どうぞ宜しくお願い致します。
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2006/11/15

お詫びとお礼  日記(今日思うこと)

長らくブログの更新及び
コメントの返事が遅れて居ります。
大変、申し訳ございません。

親族に不幸があり、少々慌しくしております。

また、私の体調をお気遣い下さり、
ご心配のメールなど頂きまして、ありがとうございました。

落ち着きましたら、記事をアップしたいと思いますので、
今後共、どうぞ宜しくお願い致します。

  
ほたる拝
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2006/11/10

シャーリー・テンプルちゃん…七五三の季節に思う事  日記(今日思うこと)

七五三の季節である。七五三の日と言えば11月15日だが、基本的には11月中の吉日を選んで女の子は3才と7才、男の子は3才と5才に成長を願って氏神様などに参拝すれば良いそうだ。このしきたりは、江戸時代、三代将軍家光が、後の五代将軍綱吉(幼名徳松)が病弱である事を心配し、無事の成長を祈る為に、袴着の儀式を執り行ったのが始まりとされている。七五三に付き物の千歳飴は、やはり江戸時代に浅草の飴売りが長寿の願いを込め長い飴を作って売り始めたと、言われている。私も、一昨日、御支度をさせて頂いたお客様から、お礼にと千歳飴を頂いた。ブランドは不二家…袋にはペコちゃんとポコちゃんの和服姿の絵が描かれていた。
クリックすると元のサイズで表示します 頂いた不二家の千歳飴セット。

このペコちゃんとポコちゃん…今では不二家の代名詞ともなっているが、生まれたのは、ペコちゃんが先で、不二家洋菓子店(1910(明治43)年創業)の店頭人形として1950(昭和25)年に、ポコちゃんはその翌年、ペコちゃんのボーイフレンドとして「ミルキー」の発売と共にデビューした。共に身長100cm、年齢はペコちゃんが6才、ポコちゃんが7才の設定なのだそうだ。名前の由来はペコ=「子牛」の意から、ポコ=室町時代の子供の意→「ぼこ」からだという。この2人の絵が描かれた千歳飴の袋を飾って置いた所、それを見た父が言った。「わしらの子供の頃は、不二家と言えばフランスキャラメルだった」と…。そういえば、私もその「フランスキャラメル」の名前を何となく聞いた記憶があった。調べてみると1998年、復刻版として不二家の店頭で販売されていたらしい。私はその時に、友達から貰った事があったのだ。
1998年の復刻版「フランスキャラメル」 クリックすると元のサイズで表示します
 
この「フランスキャラメル」は「ミルキー」が誕生する前の不二家を支えた「バニラ、コーヒー、チョコレート」の3色のキャラメルで、フランスの国旗をモチーフとしていたという。そのパッケージについていた女の子のモデルは、シャーリー・テンプル…。彼女は、メンソレータムのキャラクター「リトルナース」のモデルでもあった。デザインしたのは、南海ホークスのマーク等を考案した故・今竹七郎氏で、1951年当時、メンソレータム社の販売権を持っていた、近江兄弟社が依頼し、「メンソレータム」として発売した。今竹氏は、当然のようにギリシャ神話のアポロをモデルに、男の子「メンタームキッド」もデザインしたが、販売権の移動により現在は、メンソレータムはロート製薬が、メンタームは近江兄弟社が商標登録とし、別々のキャラクターとして使用している。
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メンソレータム(ロート製薬)と、メンターム(近江兄弟社)のキャラクター

さて、「フランスキャラメル」のテンプルちゃんは、見た事がないという私達以降の世代でも、メンソレータムの「リトルナース」を知らない人はいないだろう。興味が沸いたので、そのシャーリー・テンプルちゃんについて調べてみた。

シャーリー・ジェーン・テンプル(Shirley Jane Temple)
1928年4月23日、カリフォルニア州サンタモニカに生まれ、3才からタップダンスを習い、1931年にハリウッドの子役としてデビュー。1940年代までに主演作は30本を越え、大恐慌下の20世紀フォックス社の倒産をも救ったと言われている。主な作品は「小公女」「アパッチ砦」。歌手としても日本の童謡「靴が鳴る」をレコーディングした。1950年結婚と共に引退。その後はシャーリー・テンプル・ブラック(Shirley Temple Black)として、共和党の政治に参加、国連会議の代表や、ホワイトハウス儀典長等を経て、1974年には駐ガーナ大使、1989年には駐チェコスロバキア大使も務めた。そして1998年にケネディー・センター・名誉賞 (Kennedy Center Honors) を受賞した。彼女の名に因んだ子供服ブランドやノンアルコールのカクテルの名前もある。

愛らしいシャーリー・テンプルちゃん クリックすると元のサイズで表示します

以上のように、テンプルちゃんは、子役からスタートし女優として成功した後、華麗な転身を遂げている。その政治家への転身ぶりは、日本のタレント議員とは同じ知名度を利用した活動でも、かなり趣が違っているように感じた。

七五三の日…ご両親が、そしてご家族が、幼子の無事なる成長を願う…。その子供達の将来は無限の可能性を秘めていると改めて認識し、記念すべき一日のお手伝いが出来る事に改めて感謝したいと思った。因みに前記した「フランスキャラメル」…テンプルちゃん起用の主旨は「ハイカラな新菓に相応しいパッケージのイメージ」だったという。テンプルちゃんは、フランス人でこそ無かったが、その愛らしさを含めて、当時の子供達にとっては、充分「ハイカラ」だったのだろう。父達の世代には貴重なお菓子だったに違いない。そんな事を想像しながら自分の幼少時を思い出した。家庭用の薬箱を開けると、大衆軟膏として名を馳せたメンソレータム…「リトルナース」のテンプルちゃんの愛らしい姿があった。この姿を見るだけで、ひびやあかぎれ、霜焼けも治るような気がしたものだと振り返った。
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2006/11/8

体操を芸術に…冨田洋之…「情熱大陸」を観て。  日記(今日思うこと)

私が、富田選手のファンになったのは、2003年8月にアメリカ/アナハイムで開催された世界選手権を観た時だった。演技前の冨田選手は地味な印象だったが、一旦演技を始めると、特に吊り輪の倒立シーンなどでは、足先までピタリを揃って静止する…その体線の美しさに目を奪われた。しかも、吊り輪のような力技の演技をしているにも関らず、涼しい表情で全く乱れなかった。その時から、富田選手の美しい演技と、演技後の朴訥とした姿のギャップに、妙な魅力を感じてファンになった。そして翌年のアテネオリンピック…。男子団体の最終演技者となって鉄棒を演技した時、NHKの刈屋アナウンサーの実況「新月面が描く放物線は、栄光への架け橋…」は、あまりにも有名になったが、その前に「冨田が、冨田である事を証明すれば…」の言葉は、後で冷静になって聞くと笑えてしまった。あの時は、日本中が冨田選手の演技に釘付けになっていたに違いなかった。

得点だけにこだわらず美しさを追求する冨田選手。 クリックすると元のサイズで表示します

翌年、2005年のオーストラリアの世界選手権では、唯一苦手だった床運動も克服して、日本人として31年ぶりの個人総合優勝を果たした。しかし、オリンピックでメダルを取っても、世界選手権で優勝しても、冨田選手は奢る様子は全くみせず、2004年の大晦日、NHKの紅白歌合戦にゲストとして出た時も、金メダル獲得の偉業を達成した雰囲気など感じられない普通の青年のままだった。そんな冨田選手を、先日TBS系の番組「情熱大陸」が特集した。番組は、10月に開催されたデンマークでの世界選手権までを追い駆けた内容だったが、冨田選手の演技や新採点法についての解説も然ることながら、冨田選手の素顔がクローズアップされていて非常に興味深く観る事が出来た。

それにしても、冨田選手の素顔は「無口」の一言に尽きる。質問にも簡潔にしか答えない。けっして無愛想という訳ではないのだが、会話が続かない。食べ物もいたって普通に順天堂大学の学食で摂り、その後は体育館で後輩達が練習する中、一人黙々と自分の練習メニューをこなしていた。バスト94cm、ウエスト64cmの体脂肪0の逆三角形の体型は、ウェイトトレーニングはせず、体操のみで培われたという。とにかく体操一筋…。冨田選手の日常は、携帯メールや、ゲームなど今時の若者が持つライフスタイルとは無縁の生活ぶりだろう。何だか携帯電話も持っていないような気さえした。そんな冨田選手は、自分の事をこう言った。「リアクションが薄いっていうか、人間的につまんないですよね」…。いやはやとんでもない!私から見ると充分過ぎるほどの面白いキャラクターだ。冨田選手の「ぼそっ」と発する言葉の一つ一つにいい味が出ていて、演技中と素顔のギャップが何とも言えず、ついつい惹き付けられる魅力があるのだ。
クリックすると元のサイズで表示します     無口で素朴な素顔の冨田選手。

冨田選手は子供の頃から運動神経抜群だった。8才の冨田少年は、大阪のマック体操クラブに入り、体操にのめり込んだ。しかし、そのクラブには、ライバルであり親友でもある、鹿島丈博選手も所属しており、コーチ達も鹿島選手のすらりと長い手足に注目、技を磨かせた。冨田少年は、そんな鹿島選手に羨望を抱く事もなく一人黙々と、倒立など基礎的な練習を繰り返していたという。大きな転機となったのは、高校の時、バルセロナオリンピックで6個もの金メダルを獲得した、旧ソビエト ビタリー・シェルボ選手のビデオを観た事だったという。シェルボの体操は、正に芸術的だった。全身に神経の行き届いた美しい技。『静』と『動』の間のバランスのとれた技。爪先までピタリと揃える倒立…。冨田選手は「シェルボのようになりたい」…そう自分に誓ったそうだ。以降C難度の技に挑戦し始めた。8歳の時から培った基礎力があった為、技の習得が早く、あっという間に完璧に出来るようになった。それまで練習場の隅にいた冨田選手に、突如注目が集まりだしたのだ。技の職人…冨田洋之の誕生であった。

今年の世界選手権では、新採点方式となり10点満点が廃止されて、技の難易度で上限がない演技構成点(A得点)と、美しさが問われる演技実施点(B得点)の2段階に分かれその合計点で争われるようになった。この新採点法は、得点の高い大技よりも美しさを優先し、完成度を追求してきた冨田選手にとって、とても不利だった。得点を稼ぐためとはいえ、難度の高い技を連発することは、体力の限界を超えてしまう。冨田選手のようなオールラウンダーの場合、6種目全てに変更を余儀なくされる為、その負担は6倍だったと言えよう。
クリックすると元のサイズで表示します 涼しげな表情での吊り輪の演技。

また、正確に技を刻む冨田選手ゆえその変更は容易ではなかったようだ。更に今年の世界選手権は腹痛と下痢にも襲われ、特に後半の個人総合では、床、鞍馬が終った時点で11位と出遅れた。私はそのニュースを聞いた時、団体戦での鉄棒の落下もあったので不安だった。しかし「とにかく体調を戻す事だけ考えた」…と後で語った冨田選手は、その後快進撃を続け、2位まで挽回した。結果、旧ユーゴスラビアのぺテル・シュミ選手以来の80年ぶりの大会2連覇はならなかったが、冨田選手は、「精一杯やったので悔いはない」「出来なかった事を出来るようにするだけです」と語った。記録より美しさの追求…富田選手は己の肉体を美しく操り、体操の美学を追究し続ける。北京オリンピックまで後2年間、彼のはにかんだ笑顔のガッツポーズを何回も見たいものだと思った。尚、冨田選手は、今月10日からの日本選手権、12月2日からのカタール/ドーハでのアジア大会にも出場する。
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2006/11/4

「父親たちの星条旗」を観て…硫黄島での激戦に思う事。  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

東京から南へ1250kmの太平洋上に浮かぶ、東西8キロ、広さ約22キロ平方メートルの小さな島…現在は、東京都小笠原村に属する硫黄島。この小さな島で、61年前に何が起きたのか?何故にこの島が激戦の地となったのか?「父親たちの星条旗」という映画を観るにあたり、まず思い起こさねばならなかった。硫黄島…名前が示すように火山岩で覆われたその島には、第二次世界大戦以前、1100名の島民が暮らしていた。しかし、戦局の悪化に伴って昭和19年、島民の一部は軍属として徴用され、その他の人々は内地へ強制疎開させられた。そしてこの地を日本軍は、本土決戦の盾となる最後の砦として、アメリカ軍の上陸を待ち受けた。

クリックすると元のサイズで表示します火山岩で覆われた硫黄島。

この硫黄島の占領を巡り、昭和19年2月…日米間で36日間に渡る激戦が行われたのだが、当時、サイパン、グアム等のマリアナ諸島を占領し、B29の基地としていたアメリカ軍にとって、マリアナ諸島と日本本土の中間に位置する硫黄島を占拠出来れば、B29での日本空襲作戦に大きな役割を担う事が出来る作戦だった。アメリカ軍は、当初日本へ中国からB29を飛ばそうと計画を立てていたが、中国沿岸部は日本軍が制海権及び制空権を得ており、B29に搭載する弾薬、燃料、部品等を運び込むのが困難であった。そこでマリアナ諸島を基地とした襲撃計画が立てられ、実行されたのだが、対する日本軍も、本土との中間に位置する硫黄島から戦闘機を発着させ、迎え撃っていた。当時アメリカ国内でも、長引いた戦争に国民は嫌気が差しており、政府が国債を売って軍事費を調達しなければならない内情があった。そんな背景の中、戦闘機の基地確保の為の硫黄島を巡り、日米の死闘が繰り広げられたのである。

東京都小笠原村硫黄島の地図  クリックすると元のサイズで表示します

アメリカ軍は、この小さな島に、始め飛行機による空爆を加え、日本軍をほぼ壊滅状態にして上陸しようと考えた。約170メートル弱の「すり鉢山」が先端にあるだけの島の形状から見て、占領するのに5日もあれば…という司令部の思惑だったが、日本軍司令部は、サイパンやグアムとは異にして「捕虜となるなら自決して玉砕せよ」という命を廃止し、「最後の1人になってでも戦い続けよ」と、本土の軍備を整える為の時間稼ぎをさせる命が下されていた。よって硫黄島には無数の地下壕が掘られ、さながら日本軍の要塞と化していた。

クリックすると元のサイズで表示します 星条旗を立てた6人の写真。

アメリカの兵士達は、まず上陸後3日目の1945年2月23日に占領の証として星条旗を建てた。この写真は、ピリッツァー賞を受賞する事となる、ジョー・ローゼンタール氏(2006年8月逝去)によって撮影されたのだが、後にバージニア州にある海兵隊記念碑となり、記念切手の図案やポスターにもなった有名な写真である。そこに写っていた6人のアメリカ兵…。実際には、要塞と化した日本軍のゲリラ攻撃に、国旗掲揚の後も戦闘は続き膨大な死傷者を出した。結果、その中の3名も帰らぬ人となってしまった。やがて生き残った3人は、戦線離脱を命じられた。彼らは、軍費調達の為に政府によって『英雄』と祀り上げられて利用されたのだ。ニューヨークのヤンキースタジアム等で開催される盛大なセレモニーに、戸惑いながらも参加する3人。しかし祝福の花火も彼らには砲弾の音に聞こえ、戦地の景色がフラッシュバックしてしまう。

「父親たちの星条旗」は、その6人の兵士の中の1人で、衛生兵だったジョン・ドク・ブラッドリーの息子、ジェームス・ブラッドリーの著書を原作としている。この原作は、戦後4年目にもジョン・ウェインの主役で「硫黄島の砂」と題して映画化されているが、今回の映画で、監督のクリント・イーストウッドは、運命に翻弄され凋落していく3人の姿を通して、虚像化された英雄の内幕を画いている。3人の中で、戦後唯一、まともな人生を送ったとされる、原作者の父、ジョン・ドクも「Corpsman」(コーマン/衛生兵)と叫びながら倒れていった戦友達の声が、生涯耳から離れなかった。彼らにはトラウマとの長い戦いが残されたのだ。

戦場でのトラウマに苦しむ3人。 クリックすると元のサイズで表示します

戦費収集の為に「星条旗」の写真は利用され、情報は操作されて英雄は作り上げられ、真実は握りつぶされた。トラウマで苦しむ兵士の心のケアをする事も無く、軍のメンツばかりを考える軍の上層部には、デレカシーの欠片も見られない…。この映画には、過去のハリウッド映画では語られなかったアメリカの恥部が辛辣に描かれている。

硫黄島の黒い砂の中からは、今も遺骨が見つかるという。硫黄島は61年の時を経て尚、戦いの記憶を抱えたまま、太平洋上に浮かんでいる。

「戦争に英雄なんていないのさ」

映画の主人公、ジョン・ドクの、そしてイーストウッド監督の魂の叫びが聞こえるようだ。(文中 敬称略)

◎ノンフィクション映画「父親たちの星条旗」公式HP
http://wwws.warnerbros.co.jp/iwojima-movies/
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