2006/11/29

硫黄島からの手紙Vol 2... 「バロン西」こと西竹一中佐  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

硫黄島で散った将校達の中に、オリンピック馬術競技唯一の金メダリスト…西竹一中佐がいた。彼の事を「バロン(男爵 )西」と名付けたのはアメリカの新聞だった。西氏は、1932年に開催されたロサンゼルスオリンピックに於いて、当時花形競技だった馬術競技で、愛馬ウラヌス号に乗って金メダルを獲得。日本人離れした手足の長さと、紳士的な態度で欧米の社交界に名を馳せていた。西氏は、陸軍軍人でありながら長髪を通し、クライスラー、パッカード社の車を乗り回し、ハーレーまで所有していた豪遊ぶりだった。更に愛馬ウラヌス号もイタリアで出会うと、一目で気に入り、自費で購入していたという。そんな芸当が出来たのも、西氏は、外務大臣を務めた西徳二郎男爵の三男として生まれ、その家は西麻生に1万坪の邸宅を構えていた名家所以だった。
クリックすると元のサイズで表示します ロサンゼルスオリンピック・馬術傷害競技での西竹一氏。

しかし、西竹一氏が名家の嫡男としては例外的に、職業軍人としての道を選んだ事には、理由(わけ)があった。竹一氏は、正妻の子供ではなく、父親が使用人に生ませた子で、母は竹一氏の生後すぐに西家を出され、母親の愛情を知らずに育っていた。父親の亡き後、10才で男爵家の家督を継いだが、学習院時代も問題児として名高く、停学処分も受けていた。名家の名前を背負いながら、心中は孤独だったと推察する…そんな竹一氏にとって馬との関わりあいは、自分を見出せる唯一の時間だったように思う。事実、竹一氏は、硫黄島での最後の時まで、ウラヌス号のタテガミを肌身から離さなかった。そのウラヌス号も西中佐の戦死1週間後、後を追うように逝ったという。

この西中佐と、先に書いた硫黄島指揮官・栗林中将との共通点として、騎兵学校出身であった事、アメリカでの生活を体験し、アメリカという国の国力を知っていた事があげられる。この2人が帰る事はまず無い、とされた硫黄島へと派遣された経緯には、日本軍部内から、知米派の追い出し…と解釈されている説が根強く残っている。硫黄島へ向う際に覚悟を決めた西中佐も、栗林中将と同じく、妻に「今度という今度は戻れないかもしれない」と言い残している。それでも最後まで明るかった西中佐は、米軍上陸の前、硫黄島に一頭だけ残された馬に跨ったり、釣りに興じていたという。しかし米軍上陸後の戦いぶりは、己の肉体をも武器にした壮絶なものだった。修理不能の戦車を砂に埋め、砲台だけを見せて巧みに隠し利用した戦術は、西中佐の軍人としての能力の高さを証している。自身は、米軍が使用した火炎放射器の火で顔半分を焼かれ、総員1000名の連隊も60余名となって尚、栗林中将のいる兵団本部と合流しようと壕を出た所、水際で散弾に倒れたと記録されている。
西竹一氏と、心を通わせた愛馬ウラヌス号。 クリックすると元のサイズで表示します

西中佐については、アメリカ軍が「五輪の英雄、バロン西、出てきなさい。(世界が)君を失うのは惜しい」。と壕に向って投降を呼びかけたが応じなかった…というエピソードも残されている。「死ぬ時は、この宇宙の中に消えて行く」…。そう言い遺した西中佐…最後に栗林中将に一目会いたいという願いは届かなかった。しかし、西中佐が最後まで肌身離さず持っていた、ウラヌス号のたてがみは、1990年にアメリカで発見され、現在は、北海道本別町の軍馬鎮魂碑のある歴史民俗博物館に、収められている。

◎追記
映画「硫黄島からの手紙」では、栗林中将を渡辺謙氏が、西中佐を伊原剛志氏が演じている。もし黒澤明監督が存命なら「メガホンを預けた」と語るクリント・イースト・ウッド氏が描く、初の日本人俳優をメインにした日本映画(イースト・ウッド氏は、ハリウッド映画ではなく日本映画と呼ぶが、アカデミー賞の対象にはなるようだ)。61年の時を越えて届く…「硫黄島からの手紙」…。敵(アメリカという国)を体験した2人の日本人…栗林中将を縦糸に、西中佐を横糸にして織り成す物語は、史実に基づいた戦争映画から何を語りかけてくるのか?今から封切りが待ち遠しい。


◎参考/参照
「別冊宝島・硫黄島での戦い」 宝島社より
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