2007/1/31
スピンさんの欧州便りNo13…パリのオートクチュールVol 2 スピンさんの欧州便り
「オートクチュール:Haute couture」を英語にすると“High sewing”、「高級仕立服」と言う意味になります。でも高級仕立服=オートクチュールではなくて、オートクチュールと呼べるのは、“La Chambre Syndicate de la Couture Parisienne”(パリ衣装店組合)に加盟するメゾン(店)がデザインし、縫製をしたものだけ。このメゾンの数は随分減って、今は10メゾン(Dior・CHANEL・Givenchy・Ungalo…etc)。そして、このメゾンの顧客は世界中で、千人前後らしいですよ。ここで言う「顧客」と言うのは、お気に入りのメゾンに自分のトルソー(自分サイズのマネキン)を預けて、年に何点かをオーダーするマダムたちの事。各国のファーストレディや王族たちに加えて有名女優・アーティストが主な顧客です。気になるお値段は…って値段を気にする人にはオートクチュールは無理かも。(高い物だと10万ユーロ…約1500万円近くだそうです)。
パリのオートクチュール・コレクションは毎年1月(春夏)と7月(秋冬)、定期開催されるようになってからでも100年くらいの歴史があります。このオートクチュール最大の見せ場の一つが2月のアカデミー賞の授賞式。レッドカーペットを歩く映画女優のドレスの多くがオートクチュールです。
オートクチュール・コレクションで、豪華なショーをするのがクリスチャン・ディオール。今回のテーマは「ジャポニズム」で、デザイナーのジョン・ガリアーノ:John Gallianoが日本を旅行した時のインプレッションとプッチーニのオペラ「蝶々夫人」をテーマにしたショーになっています。ジョン・ガリアーノさんはスペイン出身で、ファッションショーの演出でも世界最高と評価されています。ショーのコメントでは、日本文化のオリジナリティに溢れる美しさや素晴らしさを話して、日本には幾度も行ってみるべきだって褒めていました。
ショーの全ては送れないけど、雑誌では紹介されないドレスのディテールやヘアメイクの写真を見て、オートクチュールの縫製技術の凄さや細部へのこだわりも見て下さいね。by...spin.
「鎧」がテーマのドレス。
見た目より、ずっと軽く作られています。
帽子部分のアップ
「桜」がテーマ。
「扇」のヘアメイク。
桜が縫い付けられた部分のアップ。
ドレスの柄を見ると「着物」の柄になっています。

「竹」の刺繍のドレス。
「蛙」のアクセサリーと日本髪風髪型。


「鯉」のドレスと「前衛的華道」みたいな髪型。


全体を見ると日本人には奇妙に見えるかも知れないけど、ディテールを見ると間違いなく「和装」です。




足元は「下駄」風の靴。


「里見八犬伝」に出てきそうな…


ここから下はドレスのディテールを見て下さい。







「葛飾北斎」

ショーのエンディング。デザイナーのジョン・ガリアーノさんです。
「マダム・バタフライ」のピンカートンの衣装を着て登場。紙吹雪がみんな蝶の形です。

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パリのオートクチュール・コレクションは毎年1月(春夏)と7月(秋冬)、定期開催されるようになってからでも100年くらいの歴史があります。このオートクチュール最大の見せ場の一つが2月のアカデミー賞の授賞式。レッドカーペットを歩く映画女優のドレスの多くがオートクチュールです。
オートクチュール・コレクションで、豪華なショーをするのがクリスチャン・ディオール。今回のテーマは「ジャポニズム」で、デザイナーのジョン・ガリアーノ:John Gallianoが日本を旅行した時のインプレッションとプッチーニのオペラ「蝶々夫人」をテーマにしたショーになっています。ジョン・ガリアーノさんはスペイン出身で、ファッションショーの演出でも世界最高と評価されています。ショーのコメントでは、日本文化のオリジナリティに溢れる美しさや素晴らしさを話して、日本には幾度も行ってみるべきだって褒めていました。
ショーの全ては送れないけど、雑誌では紹介されないドレスのディテールやヘアメイクの写真を見て、オートクチュールの縫製技術の凄さや細部へのこだわりも見て下さいね。by...spin.

見た目より、ずっと軽く作られています。
帽子部分のアップ


「扇」のヘアメイク。

桜が縫い付けられた部分のアップ。

ドレスの柄を見ると「着物」の柄になっています。

「竹」の刺繍のドレス。

「蛙」のアクセサリーと日本髪風髪型。


「鯉」のドレスと「前衛的華道」みたいな髪型。


全体を見ると日本人には奇妙に見えるかも知れないけど、ディテールを見ると間違いなく「和装」です。




足元は「下駄」風の靴。


「里見八犬伝」に出てきそうな…


ここから下はドレスのディテールを見て下さい。








「葛飾北斎」

ショーのエンディング。デザイナーのジョン・ガリアーノさんです。
「マダム・バタフライ」のピンカートンの衣装を着て登場。紙吹雪がみんな蝶の形です。


2007/1/30
湯川秀樹博士生誕100年…ラッセル・アインシュタイン宣言 日記(今日思うこと)
去る2007年1月23日は、中間子理論で日本人初のノーベル賞に輝いた湯川秀樹博士の生誕100年にあたる日だったという。振り返ると2005年の愛知万博…7月8日〜11日に、私は出向く事が出来なかったが、長久手会場のロータリー館で「国際平和美術展」が開催され、湯川博士夫人のスミさん(世界連邦運動協会名誉会長、世界連邦全国婦人協議会会長、WFM名誉会長、)が来館されて特別講演会を開かれた。友人はその講演会に出かけ、湯川夫人は、当時95才とは思えない程に張りのあるお声で「地球平和の為に、50年も前に非核宣言をしたのにも関らず、いまだに核兵器はなくなっていない。核兵器をなくし平和を実現する為には、私達一人一人が自覚し行動する事です」と熱く語って居られたと話してくれた。残念な事に湯川スミさんは、昨年5月胃癌の為、他界されてしまったが、命尽きる最後の時まで、世界平和を訴えておられたという。
愛知博を走るリニモ。
そもそも、スミさんの活動は、湯川博士の遺志を継ぐもので、湯川博士は日本人としてただ一人の「ラッセル・アインシュタイン宣言」の共同署名者でもあった。湯川博士はその署名について「私の本来的性格からしますと、何とか純粋に学問だけしておりたいのです。しかし…科学者として知らん顔は出来なかった」と答えている。「ラッセル・アインシュタイン宣言」 (Russell-Einstein Manifesto)とは、イギリスの哲学者であり、論理学者、数学者のバートランド・ラッセル伯爵と、アメリカの物理学者アルベルト・アインシュタイン博士が中心となった科学者ら11人によって、1955年に提示された、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた宣言文である。そしてその3ヵ月後にアインシュタイン博士が亡くなった事から、アインシュタインが人類に遺した遺言とも言われている。(著名者全員がノーベル賞を受賞)。
非核・反戦について語る湯川スミさん(当時95才)
アインシュタインは、ドイツ系ユダヤ人として、ヒトラーが政権を握った1933年にナチス・ドイツを逃れてアメリカへと移民した。その後、第二次大戦が勃発した1939年、ユダヤ人迫害を進めていたドイツが、原子爆弾開発に着手した情報を耳にし、数名の科学者達の代表として、当時のフランクリン・ルーズヴェルト大統領に原爆の開発を進言したという説が残されている。原爆開発に博士の直接的な関与はないとは言われているが、博士のE=mc2という公式で有名な、特殊相対性理論=「エネルギー・質量保存則」は、物質がエネルギーに変換されうる事を示しており、原爆は、正にこの公式の現実化であった。しかし実際に原爆が完成し、日本に投下される計画を知ると、猛反対をしたそうだ。
アインシュタイン博士は、大正11年、出版社の招きで来日し、その航路の途中の船上でノーベル賞受賞の吉報を受け取っていた。そして、約1ケ月半の日本滞在中に、東京・大阪・神戸・京都・名古屋・横浜 等で講演をし、各地で日本人のアインシュタイン・フィーバーと呼ばれる程の歓迎ぶりを目の当たりにした。博士は当時、日本の美しい国土と、純粋な国民性に感動し、大の親日家であった。周知のように残念ながら、原爆は投下されてしまったが、彼はそのニュースを痛恨の思いで聞いていたという。終戦後、やがてアメリカは、ソビエト連邦との冷戦時代を迎える。そこで博士らは、前記した「ラッセル・アインシュタイン宣言」を1955年に提示し、1957年、カナダのバスコシア州で、全ての核兵器及び全ての戦争の廃絶を訴える、科学者による国際会議… 「パグウォッシュ会議」(正式名=科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議)を開催した。以降、核戦争の危険とその回避方法に関する運動(パグウォッシュ運動)がアメリカ、イギリス、ドイツ、日本で組織された。この会議自体も団体として1995年にノーベル平和賞を受賞している。
カナダ、パグウォッシュ村の灯台。
(photo by Kenta.Y)
科学開発によって生み出されたものは、ノーベル賞を創設したアルフレッド・ノーベル博士の発明したダイナマイト然り、その使い方如何で、例えば工事現場での岩盤の破壊で作業の効率化をして産業に貢献する反面、戦争に使用され人を殺す兵器として使用されてしまう。戦争に於いても、科学の進歩したゆえに、武器開発が進み、相手を見る事無く差別に大量殺できる…そこに人としての心の関与が少なくなっていったという悲しい歴史を刻んで来た。戦争を始める者は、最前線に居ない者…先週、映画のアカデミー賞作品賞のノミネートされた「硫黄島からの手紙」を観ても痛感した。しかしながら、このように書いている今この時も、戦争は続いている。対テロの「予防戦争」とも呼ばれたイラク戦争も、長引いた結果、米大統領の米軍増派という方針となった。その分、武器開発以外の科学開発費用は、国家予算から大きく削られているという。ノーベル博士、アインシュタイン博士や湯川博士を始め、先人の科学者達の純粋な平和への想いは届いていないのか…と悲しく思う。このニュースを聞いて湯川スミさんも天国で悲しんで居られるに違いない。スミさんの言葉…「平和を実現する為には、私達一人一人が自覚して行動する事」を噛み締めた。
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そもそも、スミさんの活動は、湯川博士の遺志を継ぐもので、湯川博士は日本人としてただ一人の「ラッセル・アインシュタイン宣言」の共同署名者でもあった。湯川博士はその署名について「私の本来的性格からしますと、何とか純粋に学問だけしておりたいのです。しかし…科学者として知らん顔は出来なかった」と答えている。「ラッセル・アインシュタイン宣言」 (Russell-Einstein Manifesto)とは、イギリスの哲学者であり、論理学者、数学者のバートランド・ラッセル伯爵と、アメリカの物理学者アルベルト・アインシュタイン博士が中心となった科学者ら11人によって、1955年に提示された、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた宣言文である。そしてその3ヵ月後にアインシュタイン博士が亡くなった事から、アインシュタインが人類に遺した遺言とも言われている。(著名者全員がノーベル賞を受賞)。
非核・反戦について語る湯川スミさん(当時95才)

アインシュタインは、ドイツ系ユダヤ人として、ヒトラーが政権を握った1933年にナチス・ドイツを逃れてアメリカへと移民した。その後、第二次大戦が勃発した1939年、ユダヤ人迫害を進めていたドイツが、原子爆弾開発に着手した情報を耳にし、数名の科学者達の代表として、当時のフランクリン・ルーズヴェルト大統領に原爆の開発を進言したという説が残されている。原爆開発に博士の直接的な関与はないとは言われているが、博士のE=mc2という公式で有名な、特殊相対性理論=「エネルギー・質量保存則」は、物質がエネルギーに変換されうる事を示しており、原爆は、正にこの公式の現実化であった。しかし実際に原爆が完成し、日本に投下される計画を知ると、猛反対をしたそうだ。
アインシュタイン博士は、大正11年、出版社の招きで来日し、その航路の途中の船上でノーベル賞受賞の吉報を受け取っていた。そして、約1ケ月半の日本滞在中に、東京・大阪・神戸・京都・名古屋・横浜 等で講演をし、各地で日本人のアインシュタイン・フィーバーと呼ばれる程の歓迎ぶりを目の当たりにした。博士は当時、日本の美しい国土と、純粋な国民性に感動し、大の親日家であった。周知のように残念ながら、原爆は投下されてしまったが、彼はそのニュースを痛恨の思いで聞いていたという。終戦後、やがてアメリカは、ソビエト連邦との冷戦時代を迎える。そこで博士らは、前記した「ラッセル・アインシュタイン宣言」を1955年に提示し、1957年、カナダのバスコシア州で、全ての核兵器及び全ての戦争の廃絶を訴える、科学者による国際会議… 「パグウォッシュ会議」(正式名=科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議)を開催した。以降、核戦争の危険とその回避方法に関する運動(パグウォッシュ運動)がアメリカ、イギリス、ドイツ、日本で組織された。この会議自体も団体として1995年にノーベル平和賞を受賞している。

(photo by Kenta.Y)
科学開発によって生み出されたものは、ノーベル賞を創設したアルフレッド・ノーベル博士の発明したダイナマイト然り、その使い方如何で、例えば工事現場での岩盤の破壊で作業の効率化をして産業に貢献する反面、戦争に使用され人を殺す兵器として使用されてしまう。戦争に於いても、科学の進歩したゆえに、武器開発が進み、相手を見る事無く差別に大量殺できる…そこに人としての心の関与が少なくなっていったという悲しい歴史を刻んで来た。戦争を始める者は、最前線に居ない者…先週、映画のアカデミー賞作品賞のノミネートされた「硫黄島からの手紙」を観ても痛感した。しかしながら、このように書いている今この時も、戦争は続いている。対テロの「予防戦争」とも呼ばれたイラク戦争も、長引いた結果、米大統領の米軍増派という方針となった。その分、武器開発以外の科学開発費用は、国家予算から大きく削られているという。ノーベル博士、アインシュタイン博士や湯川博士を始め、先人の科学者達の純粋な平和への想いは届いていないのか…と悲しく思う。このニュースを聞いて湯川スミさんも天国で悲しんで居られるに違いない。スミさんの言葉…「平和を実現する為には、私達一人一人が自覚して行動する事」を噛み締めた。

2007/1/28
スピンさんの欧州便りNO12…パリのオートクチュールVol 1 スピンさんの欧州便り
スピンさんが、パリのオートクチュールのお仕事をお手伝いされて、またまた貴重な写真を届けて下さいました。斬新かつ優雅なオートクチュール独特の雰囲気をお楽しみ下さい。(写真はクリックで拡大)
ここしばらく、ファッション関係のお仕事を頼まれちゃって忙しくしていました。ミラノでメンズ・コレクションが始まったと思ったら、今度はパリのオート・クチュールでしょう。「お願いっ!」って言われて、パリの方を手伝っていました。
その中でもクリスチャン・ディオールの新作は面白かったですよ♪
この前、モネの時にコメント下さった方から「ジャポニスム」って言うお話が出てたけど、クリスチャン・ディオールのテーマが、今年は「ジャポニスム」で折り紙や盆栽・扇etcをアレンジした素敵なショーでした。
これは「折り紙」がテーマのドレスです。
上の写真のヘア・メイクのアップ
※ディオールを見て、想い出したのが、モネの「ラ・ジャポネーズ」の絵でした。
ラ・ジャポネーズ(ボストン美術館蔵)
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ここしばらく、ファッション関係のお仕事を頼まれちゃって忙しくしていました。ミラノでメンズ・コレクションが始まったと思ったら、今度はパリのオート・クチュールでしょう。「お願いっ!」って言われて、パリの方を手伝っていました。
その中でもクリスチャン・ディオールの新作は面白かったですよ♪
この前、モネの時にコメント下さった方から「ジャポニスム」って言うお話が出てたけど、クリスチャン・ディオールのテーマが、今年は「ジャポニスム」で折り紙や盆栽・扇etcをアレンジした素敵なショーでした。

上の写真のヘア・メイクのアップ

※ディオールを見て、想い出したのが、モネの「ラ・ジャポネーズ」の絵でした。


2007/1/26
アカデミー賞、ノミネートの菊地凛子さんと、辻一弘氏 好きな映画と本(一部ネタバレあり)
「何度も 聾学校に通った。女子高生の振る舞いに馴染む為、ミニスカートを履いて生活し、会話もなるべく手話を使った」。 ………アカデミー賞・助演女優賞ノミネート、菊地凛子さんの言葉。
第79回、アカデミー賞の候補が23日、ロサンゼルスで発表され、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の『バベル』が、作品賞、監督賞、脚色賞、そして助演女優賞では、同作品に、聴覚障害の女子高生役で出演した菊地凛子さんがノミネートされた。『バベル」は、旧約聖書の「バベルの塔」をモチーフに、モロッコで少年からバスに向って放たれた一発の銃弾が国境を越え、アメリカ、メキシコ、日本を舞台に繰り広げられる、孤独な魂を抱える人々のそれぞれ物語を繋いで行くという設定だそうだ。
パリでプロモーション活動する菊地凛子さん。
(star pulsuより)
※「バベルの塔」
古代メソポタミア時代に、神から世界の各地に散って暮らすよう命じられた人々が、シンアルの野原に煉瓦とアスファルトを使用して天まで届く塔を造り、神の命に背いて一緒に暮らそうとしたが、怒った神は言葉が同じではいけないと考え、人々に違う言葉を話させるようにした…という旧約聖書・創世記の中に登場する巨大な塔である。宗教上の教えの題材の一つとして、16世紀の画家ピーテル・ブリューゲルによって描かれた絵が有名で、実現不可能な空想上の計画を「バベルの塔」と呼んだりする。
バベルの塔…ブリューゲル作。
映画は、違う言葉を話す人々が、如何にして再び繋がり合えるか?…をテーマにして描かれているという(日本ではGWに公開)。その中で菊地さんは、役所広司氏の娘役で、約1000人のオーデションを勝ち抜いた。現在、映画「バベル」のPRで、パリを訪問中。そのパリで吉報を受けた菊地さんは、1981年1月6日、神奈川県生まれの26才。年齢差のギャップがある10代の女子高生役になり切る為に、体重を5キロ増量した。また手話を練習して、コンビニでは聴覚障害者の立場になって買い物をしたり、地下鉄で、列車の入駅を風で察知出来る訓練をしたりして、音の無い世界の感覚を磨いたという。菊地さんは、2月25日の授賞式の日、芸名の如く"凛として"堂々とハリウッド、コダック・シアターのレッドカーペットを踏みしめる…。
1月全米で公開「Letters from Iwojima」
一方、1月15日発表のゴールデングローブ賞で、最優秀外国語映画賞を受賞して、アカデミー賞への期待が高まっていた『硫黄島からの手紙』は、作品賞、脚本賞にノミネートされた。『硫黄島からの手紙』は、12月20日からニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴで上映され、今年1月に入ってから、全米各地で封切りとなっている。渡辺謙氏の『ラストサムライ』に続く個人賞でのノミネートは、残念ながら果たせなかったが、個人賞としてメーキャップ賞候補に、『もしも昨日が選べたら』で特殊メイクを担当した、メークキャップ・アーチストの辻一弘さんがエントリーした。候補入りを「光栄です」と喜んだ辻さんは、ノミネートの『もしも昨日が選べたら』で、主人公が時代と共に年齢を重ねて容姿が変って行く様子を表現した。このように辻さんの活躍が報道される事は、日本人の活躍の場として、メジャーリーグだけでなく、ハリウッドの特殊メイクという新しい道を切り開き、特殊メイクを学ぶ後進の人達にも夢を与えるだろう…と嬉しくなった。(お客様のN君が、4月より大阪の専門学校の特殊メイク科に進学されるので応援したいです)。
※菊地凛子
1999年、本名の菊地百合子で映画「生きたい」でデビュー、2002年に映画「空の穴」の奔放なヒロイン役で演技力を評価される。2004年に菊地凛子と改名、NHKの連続ドラマ「ちゅらさん」、映画「茶の味」、舞台「水銀」などに出演。身長169cm。特技は馬術、日本舞踊、手話など。尚、CM出演は、ロッテグリーンガムで「DHよしこ」役を務め、バレンタイン監督と共演している。
※辻 一弘
「スターウォーズ」を観て特殊メイクに興味を持ち、高校三年生の時、独学で趣味として特殊メイクを始めた。アメリカの有名な特殊メークキャップ・アーチストとの文通が契機となり、高校卒業後に上京してプロの道へ進んだ。1996年渡米。人物をリアルに表現するのを得意分野として、今まで2001年「猿の惑星」や2002年の「メン・イン・ブラック2」など多くのヒット作で特殊メイクを担当した。京都府出身の37才。
◎参考 中日新聞、中日スポーツ誌、Wikipediaより。
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第79回、アカデミー賞の候補が23日、ロサンゼルスで発表され、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の『バベル』が、作品賞、監督賞、脚色賞、そして助演女優賞では、同作品に、聴覚障害の女子高生役で出演した菊地凛子さんがノミネートされた。『バベル」は、旧約聖書の「バベルの塔」をモチーフに、モロッコで少年からバスに向って放たれた一発の銃弾が国境を越え、アメリカ、メキシコ、日本を舞台に繰り広げられる、孤独な魂を抱える人々のそれぞれ物語を繋いで行くという設定だそうだ。

(star pulsuより)
※「バベルの塔」
古代メソポタミア時代に、神から世界の各地に散って暮らすよう命じられた人々が、シンアルの野原に煉瓦とアスファルトを使用して天まで届く塔を造り、神の命に背いて一緒に暮らそうとしたが、怒った神は言葉が同じではいけないと考え、人々に違う言葉を話させるようにした…という旧約聖書・創世記の中に登場する巨大な塔である。宗教上の教えの題材の一つとして、16世紀の画家ピーテル・ブリューゲルによって描かれた絵が有名で、実現不可能な空想上の計画を「バベルの塔」と呼んだりする。
バベルの塔…ブリューゲル作。

映画は、違う言葉を話す人々が、如何にして再び繋がり合えるか?…をテーマにして描かれているという(日本ではGWに公開)。その中で菊地さんは、役所広司氏の娘役で、約1000人のオーデションを勝ち抜いた。現在、映画「バベル」のPRで、パリを訪問中。そのパリで吉報を受けた菊地さんは、1981年1月6日、神奈川県生まれの26才。年齢差のギャップがある10代の女子高生役になり切る為に、体重を5キロ増量した。また手話を練習して、コンビニでは聴覚障害者の立場になって買い物をしたり、地下鉄で、列車の入駅を風で察知出来る訓練をしたりして、音の無い世界の感覚を磨いたという。菊地さんは、2月25日の授賞式の日、芸名の如く"凛として"堂々とハリウッド、コダック・シアターのレッドカーペットを踏みしめる…。

一方、1月15日発表のゴールデングローブ賞で、最優秀外国語映画賞を受賞して、アカデミー賞への期待が高まっていた『硫黄島からの手紙』は、作品賞、脚本賞にノミネートされた。『硫黄島からの手紙』は、12月20日からニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴで上映され、今年1月に入ってから、全米各地で封切りとなっている。渡辺謙氏の『ラストサムライ』に続く個人賞でのノミネートは、残念ながら果たせなかったが、個人賞としてメーキャップ賞候補に、『もしも昨日が選べたら』で特殊メイクを担当した、メークキャップ・アーチストの辻一弘さんがエントリーした。候補入りを「光栄です」と喜んだ辻さんは、ノミネートの『もしも昨日が選べたら』で、主人公が時代と共に年齢を重ねて容姿が変って行く様子を表現した。このように辻さんの活躍が報道される事は、日本人の活躍の場として、メジャーリーグだけでなく、ハリウッドの特殊メイクという新しい道を切り開き、特殊メイクを学ぶ後進の人達にも夢を与えるだろう…と嬉しくなった。(お客様のN君が、4月より大阪の専門学校の特殊メイク科に進学されるので応援したいです)。
※菊地凛子
1999年、本名の菊地百合子で映画「生きたい」でデビュー、2002年に映画「空の穴」の奔放なヒロイン役で演技力を評価される。2004年に菊地凛子と改名、NHKの連続ドラマ「ちゅらさん」、映画「茶の味」、舞台「水銀」などに出演。身長169cm。特技は馬術、日本舞踊、手話など。尚、CM出演は、ロッテグリーンガムで「DHよしこ」役を務め、バレンタイン監督と共演している。
※辻 一弘
「スターウォーズ」を観て特殊メイクに興味を持ち、高校三年生の時、独学で趣味として特殊メイクを始めた。アメリカの有名な特殊メークキャップ・アーチストとの文通が契機となり、高校卒業後に上京してプロの道へ進んだ。1996年渡米。人物をリアルに表現するのを得意分野として、今まで2001年「猿の惑星」や2002年の「メン・イン・ブラック2」など多くのヒット作で特殊メイクを担当した。京都府出身の37才。
◎参考 中日新聞、中日スポーツ誌、Wikipediaより。

2007/1/24
「ディパーテッド」を観て…ボストンを舞台にした正義と悪の裏表 好きな映画と本(一部ネタバレあり)
ボストンには、1897年9月1日に開通したアメリカ最古の地下鉄があり、交通渋滞の激しいボストン市内では、移動に大変便利とされている。この地下鉄は、レッドライン、グリーンライン、オレンジライン、ブルーラインの4つの路線で運行されており「ディパーテッド」の撮影は、主にボストン市内の警察署や州会議事堂の近くのガバメントセンター付近、そしてチャイナタウンから、レッドラインに沿って南部へと走る地下鉄沿線で撮影されていた。そして舞台となっているボストンの建物の中で、この映画のキーともなるべく、州会議事堂は何度もその姿を登場させている。時には政界入りへの野望の象徴として、そして時には、金色のドームが大伽藍(だいがらん=大寺院)の屋根のように神々しく…。
州会議事堂と自由に空へ羽ばたく鳥。
(2007年1月撮影)
この映画を観て、思い出したストーリーが「インファナル・アフェア」のプロットによる事を抜きに考えて、2作あった。まず1作は、善と悪、コインの裏表という極端な2人の男性を描いたジョン・ウー監督の「フェイス・オフ」…FBI捜査官と凶悪犯の互いの顔が入れ替わってしまう異色の設定のアクション大作。もう1作はTVシリーズの「Brother hood」…ボストン近郊、ロードアイランド州出身のギャングの兄を持つボストンの若手政治家…アイリッシュ移民の物語である。この「Brother hood」のモデルとされた実在の人物が、ギャングと政治家の兄弟として知られる、ホワイティ・バルジャーとビリー・バルジャーであり、兄ホワイティは、FBI最重要お尋ね者リストのナンバー2に挙がるギャングのボスで、弟のビリーは、マサチューセッツ州の上院議員として最後は議会の議長まで務めたという。
「ディパーテッド」に登場するギャングのボス…ジャック・ニコルソンが怪演するフランコ・コステロは、実在のイタリア系マフィアのボスの名前であるが、アイルランド系ギャングとして描かれている辺りは、ホワイティ・バルジャーに近い人物設定がされていると思われた。そこで幼い頃からコステロに育て上げられ、警察に潜入するギャングとして登場するコリン・サリバン(マッド・デイモン)が、やがては政界へとのし上がる野望を持っている設定にも頷ける。一方、両親の離婚によって中流家庭の母親に育てられるも、父方の親族に犯罪者が居たという因縁を絶ちきる為に警察官となった、ビリー・コスティガン(レオナルド・デイカプリオ)は、その因縁ゆえに潜入捜査官としての職務を命令されてしまう。コリンがホワイティの弟をモデルとしているとすれば、ビリーには、モデルとなる人物はいないが、繊細な心を持ち、演技とはいえ犯罪に加担する事に対して良心の呵責に苦しみ、安定剤を飲み続ける姿からは、悪に染まりきれない天使のような清い心を感じた。
「ディパーテッド」館内入り口ポスター。
ボストンの南部・サウス地区で生まれたビリーとコリンの2人は、同じ警察学校に学び(同期ではないが)、優秀な成績でマサチューセッツ州警察の警官となる。しかしコリンはギャングのボス、コステロの内通者として、コステロから手柄となる情報も貰いつつ、出世の途を辿り、力を発揮していく。人を欺く事に快感さえ感じながら、見せかけだけの忠実さを演じるのは迫真の演技ではあったが、今回の映画で制作に周ったブラッド・ピットがもしこの役を演じていたら?とふと考えてしまった。また、ディカプリオ演ずる、ウィリアム・コスティガンはビリーと名を変え、覆面警官としてコステロに近づいて行くが、コステロがビリーに心許すまでの行程では、ギャングのボスとしての残虐さが浮き彫りになっていて、危険と背中合わせの日々が続く。その役柄をディカプリオは、実在したハワードヒューズを描いた「アビエーター」で、ヒューズの精神を病んだ奇行ぶりを非常に上手く演じていたが、この役でも、知性と野生、意思の強さと繊細さ、2つの顔を持つ苦悩ぶりを、見事に演じ切っていると思った。勿論、コステロ役のジャック・ニコルソンの、下品かつ横暴な、しかし何処か寂しさを匂わすボスの姿を表す演技力は、この役が正にはまり役だと決定づけていた。
映画に登場したザキム・バンカーヒル・ブリッジと市内を臨む (bostonroads.comより)
この映画の中で"The Departed"とは「この世を去りし人々=故人」という意味で使用されているが、"Departed"には「本筋から外されたもの」…という意味もあり、嘘をつき続ける事によって、本来の自分を見失いそうになる2人の姿をも表していると感じた。映画全体を通してダークなイメージのままラストシーンを迎えるが、いつの間にか2人の心理に感情移入してしまい、胸が苦しくなる程スリリングで、あっという間に時間が過ぎた。そしてボストンは鼠が多い街としても知られているが、互いの潜入者を鼠(インファナル・アフェアでは犬)と呼び、ラストは、コリンの野望の象徴たる州会議事堂を背景にしたマンションのベランダで、本物の鼠が登場しているシーンもスパイスが効いた演出であった。尚、スコッセッシ監督の起用した音楽は、流れるシーンに必ず意味があると言われているが、ローリング・ストーンズから、オペラ「ランメルモールのルチア」の曲まで、映画館を出た後も余韻が残る曲ばかりだった。中でもテーマ曲…「デイパーテッドタンゴ」のドブロ(DOBRO)と呼ばれるアコースティック・ギター(リゾネーターギター)の音が、運命に翻弄された2人の悲しい人生を、刹那に表していたと感じた。
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(2007年1月撮影)
この映画を観て、思い出したストーリーが「インファナル・アフェア」のプロットによる事を抜きに考えて、2作あった。まず1作は、善と悪、コインの裏表という極端な2人の男性を描いたジョン・ウー監督の「フェイス・オフ」…FBI捜査官と凶悪犯の互いの顔が入れ替わってしまう異色の設定のアクション大作。もう1作はTVシリーズの「Brother hood」…ボストン近郊、ロードアイランド州出身のギャングの兄を持つボストンの若手政治家…アイリッシュ移民の物語である。この「Brother hood」のモデルとされた実在の人物が、ギャングと政治家の兄弟として知られる、ホワイティ・バルジャーとビリー・バルジャーであり、兄ホワイティは、FBI最重要お尋ね者リストのナンバー2に挙がるギャングのボスで、弟のビリーは、マサチューセッツ州の上院議員として最後は議会の議長まで務めたという。
「ディパーテッド」に登場するギャングのボス…ジャック・ニコルソンが怪演するフランコ・コステロは、実在のイタリア系マフィアのボスの名前であるが、アイルランド系ギャングとして描かれている辺りは、ホワイティ・バルジャーに近い人物設定がされていると思われた。そこで幼い頃からコステロに育て上げられ、警察に潜入するギャングとして登場するコリン・サリバン(マッド・デイモン)が、やがては政界へとのし上がる野望を持っている設定にも頷ける。一方、両親の離婚によって中流家庭の母親に育てられるも、父方の親族に犯罪者が居たという因縁を絶ちきる為に警察官となった、ビリー・コスティガン(レオナルド・デイカプリオ)は、その因縁ゆえに潜入捜査官としての職務を命令されてしまう。コリンがホワイティの弟をモデルとしているとすれば、ビリーには、モデルとなる人物はいないが、繊細な心を持ち、演技とはいえ犯罪に加担する事に対して良心の呵責に苦しみ、安定剤を飲み続ける姿からは、悪に染まりきれない天使のような清い心を感じた。
「ディパーテッド」館内入り口ポスター。

ボストンの南部・サウス地区で生まれたビリーとコリンの2人は、同じ警察学校に学び(同期ではないが)、優秀な成績でマサチューセッツ州警察の警官となる。しかしコリンはギャングのボス、コステロの内通者として、コステロから手柄となる情報も貰いつつ、出世の途を辿り、力を発揮していく。人を欺く事に快感さえ感じながら、見せかけだけの忠実さを演じるのは迫真の演技ではあったが、今回の映画で制作に周ったブラッド・ピットがもしこの役を演じていたら?とふと考えてしまった。また、ディカプリオ演ずる、ウィリアム・コスティガンはビリーと名を変え、覆面警官としてコステロに近づいて行くが、コステロがビリーに心許すまでの行程では、ギャングのボスとしての残虐さが浮き彫りになっていて、危険と背中合わせの日々が続く。その役柄をディカプリオは、実在したハワードヒューズを描いた「アビエーター」で、ヒューズの精神を病んだ奇行ぶりを非常に上手く演じていたが、この役でも、知性と野生、意思の強さと繊細さ、2つの顔を持つ苦悩ぶりを、見事に演じ切っていると思った。勿論、コステロ役のジャック・ニコルソンの、下品かつ横暴な、しかし何処か寂しさを匂わすボスの姿を表す演技力は、この役が正にはまり役だと決定づけていた。

この映画の中で"The Departed"とは「この世を去りし人々=故人」という意味で使用されているが、"Departed"には「本筋から外されたもの」…という意味もあり、嘘をつき続ける事によって、本来の自分を見失いそうになる2人の姿をも表していると感じた。映画全体を通してダークなイメージのままラストシーンを迎えるが、いつの間にか2人の心理に感情移入してしまい、胸が苦しくなる程スリリングで、あっという間に時間が過ぎた。そしてボストンは鼠が多い街としても知られているが、互いの潜入者を鼠(インファナル・アフェアでは犬)と呼び、ラストは、コリンの野望の象徴たる州会議事堂を背景にしたマンションのベランダで、本物の鼠が登場しているシーンもスパイスが効いた演出であった。尚、スコッセッシ監督の起用した音楽は、流れるシーンに必ず意味があると言われているが、ローリング・ストーンズから、オペラ「ランメルモールのルチア」の曲まで、映画館を出た後も余韻が残る曲ばかりだった。中でもテーマ曲…「デイパーテッドタンゴ」のドブロ(DOBRO)と呼ばれるアコースティック・ギター(リゾネーターギター)の音が、運命に翻弄された2人の悲しい人生を、刹那に表していたと感じた。

2007/1/21
スピンさんの欧州便りNo11…晩年のモネが過したジヴェルニー スピンさんの欧州便り
モネが晩年を過ごしたのは、パリ郊外の小さな村「ジヴェルニー:Giverny」です。
ジヴェルニーはパリから西へ80Km、ノルマンディー地方にある人口500人くらいの村。
パリからは高速道路で、1時間ちょっとで行けます。
※セーヌ川沿いにあるジヴェルニーの「ブリッジ・ハウス」です。(画像は全てクリックで拡大します)
真ん中がたわんでるけど大丈夫?
水車のある家。
小さな村の小さなバス・ストップ。
クロード・モネの家と庭への道。
モネの家の門柱。
※訳…「この家に画家クロード・モネが、1883年(43才の時)から1926.12.5に亡くなるまで住んだ」
モネはジヴェルニーに3つのアトリエを持っていました。
1つは、この家の1階のアトリエで、「睡蓮」のアトリエはガラス屋根になっていて、
元は養鶏場だった建物だそうです。
今はお土産物の売店になっているけど、上を見るとガラス屋根がオランジェリーの屋根にそっくりです。
モネの家(奥)に続く庭の小道。
睡蓮の池への看板。
睡蓮の池と柳の木。
※ここはモネが愛した日本の風景を再現した庭園。
モネはこの庭を「私の最高の作品」と言ったそうです。
ジヴェルニーには、モネの作品は遺されて無いけど、この「モネの庭」があります。
庭の小川と竹林。
※本当に日本に居るみたい…。
柳の木越しに見た睡蓮の池。
Le Matin clair aux saulesの部分
睡蓮と池に映った柳。
Reflets vertsの部分(絵の左下部分)
「日本風の橋」と描いた絵↓
Le Pont Japonais Musee d'Orsay
モネはこの橋の絵を沢山描いています。
でも、晩年は睡蓮の池の水面だけを描き続けました。
それは白内障で眼が見えなくなっていたから。
モネは「睡蓮」の壮大な「大装飾画」を完成させるため、1923年に眼の手術を受けます。
そして、その3年後に亡くなります。
モネのお墓。
※村の教会内にあります。十字架が無いと花壇みたいです。

※訳…「私たちの善き友、クロード・モネ(1840.11.14-1926.12.5)ここに眠る。全ての哀悼の意を…」
モネの家の中は撮影が出来なかったけど、日本の版画が沢山飾ってありました。
それからビックリしたのは、左甚五郎の「眠り猫」のレプリカ(陶器)が飾ってあったこと。
本当に日本が好きだったんだなと思いました。
それからね、モネの庭に来ると何となく日本に帰ったような気になれます。
庭のお花も日本にあるものを選んで植えてあります。
最後はオランジェリーにあったモネの自画像です。
オランジェリー美術館が5年の歳月をかけて改装し、再オープンしたのが去年の5月17日。
モネの「睡蓮」のために、オランジェリー美術館が最初に開館したのも、
1927年の5月17日だったそうです。 by...spin.

◎クロード・モネ (1840〜1926)
パリ生まれのモネは、5才の時にノルマンディの港町、ル・アーブルに移住する。この地で海景画家ブータンに出会い、戸外での風景画制作を学ぶ。その後、パリに出たモネは、アカデミー・シェイスやシャルル・グレール(1808〜1874)のアトリエに学び、バジール、シスレー、ルノワール、セザンヌらと知り合う。1874年、ピサロ、ルノワール、シスレーらと第1回印象派展を開催(この時モネが出品した『印象 日の出』が「印象主義の語源となる)。アルジャントゥイユ、ヴェトゥイユとセーヌ川沿いの街に移り住み、1883年には、同一主題を季節、天候、日時によって異なる光の効果を探求した連作(積み藁、ルーアン大聖堂、テムズ川、睡蓮、等)が中心となり「光の画家」と呼ばれるようになる。尚「睡蓮」は1890年頃から描き始め200点以上の作品を残している。(大エルミタージュ展、カタログ参考) by...hotaru.
◎モネと日本の浮世絵との関わりなどついて…詳しくは「北川村・モネの庭」サイトへ
http://www.kitagawamura.net/monet/mone.htm
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ジヴェルニーはパリから西へ80Km、ノルマンディー地方にある人口500人くらいの村。
パリからは高速道路で、1時間ちょっとで行けます。
※セーヌ川沿いにあるジヴェルニーの「ブリッジ・ハウス」です。(画像は全てクリックで拡大します)

水車のある家。


クロード・モネの家と庭への道。


※訳…「この家に画家クロード・モネが、1883年(43才の時)から1926.12.5に亡くなるまで住んだ」
モネはジヴェルニーに3つのアトリエを持っていました。
1つは、この家の1階のアトリエで、「睡蓮」のアトリエはガラス屋根になっていて、
元は養鶏場だった建物だそうです。
今はお土産物の売店になっているけど、上を見るとガラス屋根がオランジェリーの屋根にそっくりです。

睡蓮の池への看板。


※ここはモネが愛した日本の風景を再現した庭園。
モネはこの庭を「私の最高の作品」と言ったそうです。
ジヴェルニーには、モネの作品は遺されて無いけど、この「モネの庭」があります。
庭の小川と竹林。

※本当に日本に居るみたい…。

Le Matin clair aux saulesの部分

睡蓮と池に映った柳。


「日本風の橋」と描いた絵↓


モネはこの橋の絵を沢山描いています。
でも、晩年は睡蓮の池の水面だけを描き続けました。
それは白内障で眼が見えなくなっていたから。
モネは「睡蓮」の壮大な「大装飾画」を完成させるため、1923年に眼の手術を受けます。
そして、その3年後に亡くなります。
モネのお墓。

※村の教会内にあります。十字架が無いと花壇みたいです。

※訳…「私たちの善き友、クロード・モネ(1840.11.14-1926.12.5)ここに眠る。全ての哀悼の意を…」
モネの家の中は撮影が出来なかったけど、日本の版画が沢山飾ってありました。
それからビックリしたのは、左甚五郎の「眠り猫」のレプリカ(陶器)が飾ってあったこと。
本当に日本が好きだったんだなと思いました。
それからね、モネの庭に来ると何となく日本に帰ったような気になれます。
庭のお花も日本にあるものを選んで植えてあります。
最後はオランジェリーにあったモネの自画像です。
オランジェリー美術館が5年の歳月をかけて改装し、再オープンしたのが去年の5月17日。
モネの「睡蓮」のために、オランジェリー美術館が最初に開館したのも、
1927年の5月17日だったそうです。 by...spin.

◎クロード・モネ (1840〜1926)
パリ生まれのモネは、5才の時にノルマンディの港町、ル・アーブルに移住する。この地で海景画家ブータンに出会い、戸外での風景画制作を学ぶ。その後、パリに出たモネは、アカデミー・シェイスやシャルル・グレール(1808〜1874)のアトリエに学び、バジール、シスレー、ルノワール、セザンヌらと知り合う。1874年、ピサロ、ルノワール、シスレーらと第1回印象派展を開催(この時モネが出品した『印象 日の出』が「印象主義の語源となる)。アルジャントゥイユ、ヴェトゥイユとセーヌ川沿いの街に移り住み、1883年には、同一主題を季節、天候、日時によって異なる光の効果を探求した連作(積み藁、ルーアン大聖堂、テムズ川、睡蓮、等)が中心となり「光の画家」と呼ばれるようになる。尚「睡蓮」は1890年頃から描き始め200点以上の作品を残している。(大エルミタージュ展、カタログ参考) by...hotaru.
◎モネと日本の浮世絵との関わりなどついて…詳しくは「北川村・モネの庭」サイトへ
http://www.kitagawamura.net/monet/mone.htm

2007/1/20
スピンさんの欧州便りNo10…モネのオランジェリー美術館 スピンさんの欧州便り
私がパリに美容関係の研修で滞在していた時、帰国直前にマニアティスというサロンで働いていた人から「ルーブル(美術館)に行って来たそうだね。でもパリに来たら、オランジェリーへ行くべき。何故なら門外不出のモネの絵があるから。絵が部屋を一周しているんだよ」と言われた。行く時間がなかった私は、衝撃を受けたまま後ろ髪を引かれる思いで帰国した。モネの睡蓮の絵は、ボストン美術館で、また名古屋の同美術館でも観ているが、いつか必ずオランジェリー美術館へ行きたいと思っている。私の憧れの美術館…オランジェリー。その写真をスピンさんがメールにて送って下さった。風邪気味の私を心配して「お見舞いに…」と、書かれていた。私は感激して涙が出そうになったのだが、興奮し過ぎ、反って熱が上がりそうに?なっている。(スピンさん、ありがとう!)オランジェリー美術館と、モネが晩年を過した村…「ジルヴェルニー」の写真をスピンさんのレポートと共に、2日間の記事に分けて紹介したい。
『 オランジェリー美術館:Musée del' Orangerie 』
パリ1区、チュイルリー公園の中にある小さな美術館… (画像は全てクリックで拡大します)。
元はチュイルリー宮殿の「オレンジの温室:Orangerie」。それは屋根を見るとよく分かります。クロード・モネ本人から寄贈された「睡蓮」のために、フランス政府は温室を改装しました。オープンは1927年、モネが亡くなった1926年12月5日の翌年です。モネが寄贈した作品の公開を自分の死後とするように求めていたからだそうです。

Les Nymphéas (睡蓮)と書かれた、この壁の向こうがモネの「睡蓮」の展示室です。楕円形の展示室が二つ、ここに8枚の「睡蓮」があります。以前の展示室は地下にあって人工の光で照明されていました。でも、モネの望みはジルヴェルニーのアトリエと同じ自然の光の中で作品を展示すること。モネの死後80年経って、この望みが叶いました。*ガラスはUVカットフィルムを間に挟んだ特別なものだそうです。

「睡蓮」の文字のアップ。
モネの望みは鑑賞する人と絵の間をガラスなどで遮らないこと。天井左側の真っ白な部分は薄い一枚の布で、その上のガラス屋根から太陽の光が柔らかく入ってきます。内装は全て白。美術館の人が座る椅子まで白で統一されています。(※絵に付けられた日本語訳はスピンさんの訳です)。

Le Matin clair aux saules:明るい朝と柳
(2m×12.75m)
展示室の様子
奥の絵は Les Deux saules:2本の柳 (2m×17m)
Le Matin aux saules :朝の柳
(2m×12.75m)
上の3枚の他に「Reflets d’arbres:木の投影 」があるけど写真がありませんでした。写したつもりだったけど…。
※ここから下は、もう一つの展示室です。睡蓮の池の一日が4枚の絵で描かれています。
Matin:朝 (2m×12.75m)
Les Nuages:雲 ( 2m×12.75m)
Reflets verts:緑の投影 (2m×8.5m)
Soleil couchant:落日 (2m×6m)
庭の彫刻…ロダンの作品です。
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『 オランジェリー美術館:Musée del' Orangerie 』

元はチュイルリー宮殿の「オレンジの温室:Orangerie」。それは屋根を見るとよく分かります。クロード・モネ本人から寄贈された「睡蓮」のために、フランス政府は温室を改装しました。オープンは1927年、モネが亡くなった1926年12月5日の翌年です。モネが寄贈した作品の公開を自分の死後とするように求めていたからだそうです。

Les Nymphéas (睡蓮)と書かれた、この壁の向こうがモネの「睡蓮」の展示室です。楕円形の展示室が二つ、ここに8枚の「睡蓮」があります。以前の展示室は地下にあって人工の光で照明されていました。でも、モネの望みはジルヴェルニーのアトリエと同じ自然の光の中で作品を展示すること。モネの死後80年経って、この望みが叶いました。*ガラスはUVカットフィルムを間に挟んだ特別なものだそうです。

「睡蓮」の文字のアップ。

モネの望みは鑑賞する人と絵の間をガラスなどで遮らないこと。天井左側の真っ白な部分は薄い一枚の布で、その上のガラス屋根から太陽の光が柔らかく入ってきます。内装は全て白。美術館の人が座る椅子まで白で統一されています。(※絵に付けられた日本語訳はスピンさんの訳です)。

Le Matin clair aux saules:明るい朝と柳

(2m×12.75m)

奥の絵は Les Deux saules:2本の柳 (2m×17m)
Le Matin aux saules :朝の柳

(2m×12.75m)
上の3枚の他に「Reflets d’arbres:木の投影 」があるけど写真がありませんでした。写したつもりだったけど…。
※ここから下は、もう一つの展示室です。睡蓮の池の一日が4枚の絵で描かれています。
Matin:朝 (2m×12.75m)


Reflets verts:緑の投影 (2m×8.5m)


庭の彫刻…ロダンの作品です。


2007/1/19
大エルミタージュ美術館展へ出かけてVol...2 好きな絵画 日記(今日思うこと)
ロシアのエルミタージュ美術館に納められている、膨大な数のヨーロッパ絵画セレクションの中から、『都市と自然と人々』をテーマに厳選された絵画…80点が、名古屋市美術館に展示されている(3月4日まで)。絵画には造詣が深くない私だが、その中で、一番魅かれた絵は、19世紀のドイツの画家、ルートヴッヒ・クナウスの「野原の少女」だった。その構図の中には、殆ど空は描かれておらず、カンヴァス一杯に広がる野原から、草花の香りが漂って来そうだった。そしてこの絵の主人公…無心に花を摘む少女は、今にも動き出しそうなくらい、実に写実的に描かれていた。この絵を観ていると、まるでタイムスリップしたかのように幼い頃、レンゲ畑や、クローバーがぎっしり生えた空き地で、夢中になって花を摘んだ事を思い出させてくれ、その少女と幼い頃の自分の姿を、オーバッラップさせてしまった。童心に帰せてくれた…懐かしくそして温かい絵であった。
スピンさんご提供…再び実物を観たい。
(クリックで拡大します)
※ルートヴッヒ・クナウス (1829〜1910) ドイツ画家
ヴィースバーデンで修行した後、1845年から1852年にかけてデュッセルドルフ・アカデミーで学び、デュッセルドルフ画壇の風俗画家と交流して風俗画家としての基礎を磨いた。1853年、パリのサロンで金賞を受賞、1857年夏には、パリ近郊のブージャヴァルで制作活動をして、ベルリンのL・ラフェネギャラリーに展示した。1857年頃からイタリアを訪問し、1861年から1866年までベルリンに滞在。その後、母校のデュッセルドルフ・アカデミーの教授となった(1884年に辞任)。若きデュッセルドルフ画壇のリーダーとして、またドイツを代表する風俗画家として認められた存在だった。(カタログより引用)
◎大エルミタージュ展公式HP…開催日程、エルミタージュ美術館等について…。(絵画の説明有り)
http://www.ntv.co.jp/hermitage/main.html
◎当ブログ内、エルミタージュ美術館関連記事。
★大エルミタージュ美術館展へ出かけて Vol...1
http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/20070112/archive
★GPファイナル浅田真央選手SP首位発進とサンクトペテルブルグ。
(スピンさんが、実際にエルミタージュ美術館へ出向かれ、撮影された貴重な画像を掲載)
http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/20061216/archive
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※ルートヴッヒ・クナウス (1829〜1910) ドイツ画家
ヴィースバーデンで修行した後、1845年から1852年にかけてデュッセルドルフ・アカデミーで学び、デュッセルドルフ画壇の風俗画家と交流して風俗画家としての基礎を磨いた。1853年、パリのサロンで金賞を受賞、1857年夏には、パリ近郊のブージャヴァルで制作活動をして、ベルリンのL・ラフェネギャラリーに展示した。1857年頃からイタリアを訪問し、1861年から1866年までベルリンに滞在。その後、母校のデュッセルドルフ・アカデミーの教授となった(1884年に辞任)。若きデュッセルドルフ画壇のリーダーとして、またドイツを代表する風俗画家として認められた存在だった。(カタログより引用)
◎大エルミタージュ展公式HP…開催日程、エルミタージュ美術館等について…。(絵画の説明有り)
http://www.ntv.co.jp/hermitage/main.html
◎当ブログ内、エルミタージュ美術館関連記事。
★大エルミタージュ美術館展へ出かけて Vol...1
http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/20070112/archive
★GPファイナル浅田真央選手SP首位発進とサンクトペテルブルグ。
(スピンさんが、実際にエルミタージュ美術館へ出向かれ、撮影された貴重な画像を掲載)
http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/20061216/archive

2007/1/18
被災地から誕生した還暦プロゴルファー古市忠夫氏と被災した妹 日記(今日思うこと)
12年前の1月17日、早朝5時46分、私は当時15日だった成人の日の仕事を無事に終えて、岐阜県高鷲(たかす)村にあるスキー場の宿泊施設の2Fにいた。その直前、私は伝わってくる振動を感じて目を覚まし、一緒に眠っていたスタッフ達を揺起こした。ドドドーッと揺れるその揺れ方は、かつて私が体験した事の無い地震だった。岐阜県と長野県の県境にある活火山…御嶽山が噴火したのかと思いつつ、テレビのある階下の娯楽室へ降りていった。ニュース速報が神戸での地震だと伝えていた。岐阜県でこの揺れ…私は胸騒ぎがして、公衆電話から当時大阪府豊中市に住んでいた妹に電話をかけた。幸運にも電話は繋がり妹が出て、無事は確認できたが、「全ての家具が倒れ部屋の中は無茶苦茶、あまりに大きなドーンという音に大阪ガスの爆発かと思った」と妹は声を震わせ泣いていた。
平山譲著、映画の原作「ありがとう」
「阪神淡路大震災」…その時、神戸市長田区の商店街でカメラ店を経営していた古市忠夫氏は、倒壊した自宅&店舗から妻の千賀代さんと2人の娘を避難させた後、消防団のヘルメットを被り、災害救助にあたろうと瓦礫の街を歩き周った。そこには、あるはずの建物が押し潰されて形を変え、多くの人々が家屋の下敷きとなっていた。やがて火の手があがり、生き埋めになった人々を次々に呑み込んでいった。平山譲氏著の「ありがとう」の中にその時の様子が赤裸々に書かれている。…迫り来る炎、家の瓦礫の下で、妻が夫に「逃げて」と言う、でも夫は「助けたるからな」と瓦礫を退かし続ける。古市氏も手伝うが、現場は火の海となり、2人で救うには時間がない。「奥さん ごめんな」と泣きながら夫を羽交い絞めにして現場から引き離した…。
古市氏の店舗があった鷹取商店街の火は、三日三晩燃え続け、995棟が全焼して105名の方が命を落としたそうだ。地獄絵のような焼け跡の中、古市氏は、街の復興に向けてボランティア活動に取り組み始めた。「わしら、生かしてもろてんねん。生かしてくれた人に感謝せな。文句言うたらあかん」(「ありがとう」より)。街の人々を励まし、励まされながら奔走する日々が続いた。そんなある日、古市氏は、自分の車が焼けずに無事であると知る。駐車場だった場所に向かい車のトランクを開けると、古市氏は愕然としたという。トランクの中には無傷のままのゴルフバックが横たわっていたのだ。古市氏は、「奇跡や!」と、焼け残ったそのゴルフクラブで、復興活動の合間に猛練習を始め、プロテストを受ける事を決心した。その時、古市氏は55才…。家族は呆れるばかりだったが、街の人々は見守り応援を続けた。
平山譲 著「還暦ルーキー古市忠夫」
やがて古市氏は、2000年の秋、2度目の挑戦で日本プロゴルフ協会(PGA)資格認定プロテストに、59歳11ヶ月の史上最年長で合格した。古市氏の合格は「被災地から誕生した還暦ゴルファー」として新聞各紙で報道され、そのプロゴルファーへの行程は、平山譲氏によって執筆、出版された。そして2005年、赤井秀和氏主演による映画化が決定、12月の制作発表の会見には、来日していたタイガー・ウッズも駆けつけた。以下タイガー・ウッズのコメント。
「…前略…阪神大震災には、ずっと心を痛めていました。古市忠夫という人の存在を知り、興味を持っていました。彼の物語は、勇気と希望の映画になると思うので、是非応援したいです…中略…喪失感の底から立ち直る、それは物凄く辛い事だらけだったと思いますが、それをすべて乗り越えた古市さんを讃えられるこの場所に居られる事を、凄く嬉しく思います」。
タイガーウッズと古市氏 (Yahoo photoより)
そして会見の翌日、古市氏は、宮崎のフェニックスカントリークラブ、トムワトソンコースにて、タイガーとの夢の競演を果たした。この試合は、タイガーの他に、マイケル・キャンベル、星野英正、宮里優作、宮里藍、横峯さくら、元MLBプレーヤー佐々木主浩ら(敬称略)が参加し、マッチプレーによるトーナメント方式で行われた。最終結果、優勝はタイガーだったが、古市氏はタイガーと1回戦で対戦、そして何とタイガーと引き分け、決着を付ける為のアプローチ合戦(サドンレス)まで持ち込んだそうだ。映画は、2006年11月25日に、封切りとなり全国に「還暦プロゴルファー古市忠夫」の名前を知らしめた。
古市氏は、現在もシニアツアーで活躍しつつ「プロゴルファーである前に一住民でありたい」と、長田区若松町11丁目の自治会長としてもその活動を続けている。12年前のその日、電気を含め文明の利器が何も役立たない状況下で、「昔ながらの町の人々の助け合う姿は見事だった」。そう語る古市氏…。想像を絶する逆境の中にあっても、心の有り方一つで、奇跡は起こせる…古市氏の12年の歩みは、人と人が支えあえばこその「強さ、逞しさ」も教えてくれる。神戸では今、被災者で作る非利益法人…『1・17 希望の灯り』が、空爆を受け肉親を失ったレバノンの子供達に救援物資を送る等、支援活動の輪も広がっている。現在東灘区に住む妹は、古市氏に会いお話を聞いた事があるそうだ。今日は久しぶりに妹から電話があり、妹も及ばずながら「生かされている事への感謝を忘れないで、何か役に立てたらと『1・17 希望の灯り』の会を訪ねた」と語っていた。
◎映画「ありがとう」公式HP
http://www.arigato-movie.jp/
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「阪神淡路大震災」…その時、神戸市長田区の商店街でカメラ店を経営していた古市忠夫氏は、倒壊した自宅&店舗から妻の千賀代さんと2人の娘を避難させた後、消防団のヘルメットを被り、災害救助にあたろうと瓦礫の街を歩き周った。そこには、あるはずの建物が押し潰されて形を変え、多くの人々が家屋の下敷きとなっていた。やがて火の手があがり、生き埋めになった人々を次々に呑み込んでいった。平山譲氏著の「ありがとう」の中にその時の様子が赤裸々に書かれている。…迫り来る炎、家の瓦礫の下で、妻が夫に「逃げて」と言う、でも夫は「助けたるからな」と瓦礫を退かし続ける。古市氏も手伝うが、現場は火の海となり、2人で救うには時間がない。「奥さん ごめんな」と泣きながら夫を羽交い絞めにして現場から引き離した…。
古市氏の店舗があった鷹取商店街の火は、三日三晩燃え続け、995棟が全焼して105名の方が命を落としたそうだ。地獄絵のような焼け跡の中、古市氏は、街の復興に向けてボランティア活動に取り組み始めた。「わしら、生かしてもろてんねん。生かしてくれた人に感謝せな。文句言うたらあかん」(「ありがとう」より)。街の人々を励まし、励まされながら奔走する日々が続いた。そんなある日、古市氏は、自分の車が焼けずに無事であると知る。駐車場だった場所に向かい車のトランクを開けると、古市氏は愕然としたという。トランクの中には無傷のままのゴルフバックが横たわっていたのだ。古市氏は、「奇跡や!」と、焼け残ったそのゴルフクラブで、復興活動の合間に猛練習を始め、プロテストを受ける事を決心した。その時、古市氏は55才…。家族は呆れるばかりだったが、街の人々は見守り応援を続けた。
平山譲 著「還暦ルーキー古市忠夫」

やがて古市氏は、2000年の秋、2度目の挑戦で日本プロゴルフ協会(PGA)資格認定プロテストに、59歳11ヶ月の史上最年長で合格した。古市氏の合格は「被災地から誕生した還暦ゴルファー」として新聞各紙で報道され、そのプロゴルファーへの行程は、平山譲氏によって執筆、出版された。そして2005年、赤井秀和氏主演による映画化が決定、12月の制作発表の会見には、来日していたタイガー・ウッズも駆けつけた。以下タイガー・ウッズのコメント。
「…前略…阪神大震災には、ずっと心を痛めていました。古市忠夫という人の存在を知り、興味を持っていました。彼の物語は、勇気と希望の映画になると思うので、是非応援したいです…中略…喪失感の底から立ち直る、それは物凄く辛い事だらけだったと思いますが、それをすべて乗り越えた古市さんを讃えられるこの場所に居られる事を、凄く嬉しく思います」。

そして会見の翌日、古市氏は、宮崎のフェニックスカントリークラブ、トムワトソンコースにて、タイガーとの夢の競演を果たした。この試合は、タイガーの他に、マイケル・キャンベル、星野英正、宮里優作、宮里藍、横峯さくら、元MLBプレーヤー佐々木主浩ら(敬称略)が参加し、マッチプレーによるトーナメント方式で行われた。最終結果、優勝はタイガーだったが、古市氏はタイガーと1回戦で対戦、そして何とタイガーと引き分け、決着を付ける為のアプローチ合戦(サドンレス)まで持ち込んだそうだ。映画は、2006年11月25日に、封切りとなり全国に「還暦プロゴルファー古市忠夫」の名前を知らしめた。
古市氏は、現在もシニアツアーで活躍しつつ「プロゴルファーである前に一住民でありたい」と、長田区若松町11丁目の自治会長としてもその活動を続けている。12年前のその日、電気を含め文明の利器が何も役立たない状況下で、「昔ながらの町の人々の助け合う姿は見事だった」。そう語る古市氏…。想像を絶する逆境の中にあっても、心の有り方一つで、奇跡は起こせる…古市氏の12年の歩みは、人と人が支えあえばこその「強さ、逞しさ」も教えてくれる。神戸では今、被災者で作る非利益法人…『1・17 希望の灯り』が、空爆を受け肉親を失ったレバノンの子供達に救援物資を送る等、支援活動の輪も広がっている。現在東灘区に住む妹は、古市氏に会いお話を聞いた事があるそうだ。今日は久しぶりに妹から電話があり、妹も及ばずながら「生かされている事への感謝を忘れないで、何か役に立てたらと『1・17 希望の灯り』の会を訪ねた」と語っていた。
◎映画「ありがとう」公式HP
http://www.arigato-movie.jp/

2007/1/17
厳しい現実を目前にした時、心が温まるお地蔵さんの絵…御木幽石 日記(今日思うこと)
御木幽石(みき ゆうすけ)氏は、昭和41年8月20生まれの書家であり、和体書デザイナーでもある。御木氏の作品は、書き添えられたメッセージとお地蔵さんをモチーフにした絵など優しい画風が注目を集めている。1998年開催された、サッカーのワールドカップ、フランス大会開催記念・国際ポスターコンペティションに入賞、その作品は、フランススポーツ博物館に永久保存されている。物情騒然の現在、我々が取り戻すべき心、空気、リズム、バランス感覚等を、その絵と書で語りかけてくれる。自分自身を見失う危機に面した時、等身大の自分を受け入れ、周囲の価値観や評価に振り回されない事が大切…と改めて教えられる。

御木幽石氏の絵葉書。

2000年11月木耳社から発売された本⇒
※迂闊にも軽い胃腸風邪を引いてしまい、コメントの返事が遅れています。ごめんなさい。
返事の方は、体調が戻り次第順次書かせて頂きますので、今後共どうぞ宜しくお願い致します。
◎箸休め
私が一宮市に勤めていた頃、当時一宮に住んでいた友人と友人の同僚・A子さん(20代)は、名古屋鉄道で名古屋駅前の会社に通勤していた。毎日電車通勤をされる方はよく御承知とは思うが、朝の通勤ラッシュ時には、降りる位置が、如何に会社や乗継に都合良いかも考えて、毎日、同じ車両、同じドアから乗り降りする人が多く、話こそしなくても結構顔見知りだったりするそうだ。その日も何時ものように、友人とA子さんは、満員の車内で立っていた。するとA子さん、我慢していたつもりが、つい大きな音のするオナラが出てしまったという。周囲の乗客から音の主を求めて集まる視線に、恥ずかしさのあまり、汗まで出てきたそうだ。そこでA子さんがふと横を見ると、作業服を着た小父さんが乗っていた。皆の視線に耐えかねたA子さんは苦し紛れに「小父さん、夕べ何か悪い物を食べたの?」と言葉にしてしまい、小父さんにオナラの罪?をかぶせようとした。すると小父さんが一言…。
「なんで俺が悪いもん食べると お前がへーこくんだ!?」
意味→「何故、俺が悪い物を食べるとあなたがオナラをするんだ」
…と、大声で言われてしまった。小父さんもどうやら濡れ衣を着せられて、プライドが許さなかったらしい。A子さんは「墓穴」を掘ってしまったのだ。結局、A子さんと友人は、名古屋駅まで乗り続ける事が出来ず、「清洲」という駅で降りてしまったそうだ。さらに翌日からはJRを使って通うこととなったらしい。下手な事は言わない方が良かった…「沈黙は金なり?」という教訓の実際にあったお話だ。しかし、この話を私がすると、私も当時、美容学校へ通っていた為か、誰もが「A子さんってあなたじゃないの? 」と、いつも疑われた。流石の私も、他の人にオナラの罪を被せるほど、心臓も強くないし、咄嗟に頭も回らない。神仏に誓って私ではない…念の為!。下ネタで失礼致しました...by hotaru.
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御木幽石氏の絵葉書。


2000年11月木耳社から発売された本⇒

※迂闊にも軽い胃腸風邪を引いてしまい、コメントの返事が遅れています。ごめんなさい。
返事の方は、体調が戻り次第順次書かせて頂きますので、今後共どうぞ宜しくお願い致します。
◎箸休め
私が一宮市に勤めていた頃、当時一宮に住んでいた友人と友人の同僚・A子さん(20代)は、名古屋鉄道で名古屋駅前の会社に通勤していた。毎日電車通勤をされる方はよく御承知とは思うが、朝の通勤ラッシュ時には、降りる位置が、如何に会社や乗継に都合良いかも考えて、毎日、同じ車両、同じドアから乗り降りする人が多く、話こそしなくても結構顔見知りだったりするそうだ。その日も何時ものように、友人とA子さんは、満員の車内で立っていた。するとA子さん、我慢していたつもりが、つい大きな音のするオナラが出てしまったという。周囲の乗客から音の主を求めて集まる視線に、恥ずかしさのあまり、汗まで出てきたそうだ。そこでA子さんがふと横を見ると、作業服を着た小父さんが乗っていた。皆の視線に耐えかねたA子さんは苦し紛れに「小父さん、夕べ何か悪い物を食べたの?」と言葉にしてしまい、小父さんにオナラの罪?をかぶせようとした。すると小父さんが一言…。
「なんで俺が悪いもん食べると お前がへーこくんだ!?」
意味→「何故、俺が悪い物を食べるとあなたがオナラをするんだ」
…と、大声で言われてしまった。小父さんもどうやら濡れ衣を着せられて、プライドが許さなかったらしい。A子さんは「墓穴」を掘ってしまったのだ。結局、A子さんと友人は、名古屋駅まで乗り続ける事が出来ず、「清洲」という駅で降りてしまったそうだ。さらに翌日からはJRを使って通うこととなったらしい。下手な事は言わない方が良かった…「沈黙は金なり?」という教訓の実際にあったお話だ。しかし、この話を私がすると、私も当時、美容学校へ通っていた為か、誰もが「A子さんってあなたじゃないの? 」と、いつも疑われた。流石の私も、他の人にオナラの罪を被せるほど、心臓も強くないし、咄嗟に頭も回らない。神仏に誓って私ではない…念の為!。下ネタで失礼致しました...by hotaru.
