2007/2/27

博物館「酢の里」を見学して…ミツカン創業の酢…『山吹』  日記(今日思うこと)

土手には土筆が顔を出していた。寒い週末が明けて暖かさが戻った26日、私は「はんだ蔵のまち 雛祭り」が開催されている半田市内の半田運河沿いにある『清酒・国盛』の「中埜酒造」と、酢の生産高全国一を誇る「ミツカン酢」周辺を散策した。そして、その散策の第一目的は、酒粕から造られる「ミツカン酢」創業の契機となった『三ッ判 山吹』を購入する事だった。私は半田に住んでまもなく「半田の繁栄を担った商品だから」と、この酢をお客様から頂いた。初めて目にした時、その色から一瞬「黒酢?」と思ってしまったが、実は酒粕から熟成された希少価値のある酢だと知った。その時「酢」の造り方にも非常に興味を持ち、「ミツカン酢」が経営する私設博物館『酢の里』を訪れる事となった。そして今回は、それ以来2度目の訪問であった。
クリックすると元のサイズで表示します 酒粕から造られる『三ッ判 山吹』

酢の歴史を辿ると、世界的には紀元前5000年に、古代メソポタミア南部のバビロニアで、ナツメや干しブドウを原料とした『酢』が記録として残されており、世界最古の調味料とも言われている。その名前も、フランスで「ビネーグル」(VINAIGLE)は、「ぶどう酒」(VIN)と「すっぱい」(AIGRE)を語源として、ワインを貯蔵して置いたら発酵して『酢』となった事に由来する。また、漢字の『酢』も「酉…酒を入れる器や酒」+「乍…重ねる」の意で「酒が日数を重ねて出来た物」を表しているという。その『酢』の製法が中国から日本へと渡って来たのは、5世紀頃の平安時代とされており、貴族達が生魚や干し魚を酢や塩につけて食べたと記録されている。更に鎌倉時代になって、調味料として料理の味付けに使われるようになり、やがて江戸時代、東京湾で獲れた生魚を酢や塩で締めて腐敗を防ぎ、酢を混ぜた飯に乗せるという「江戸前寿司」と呼ばれた握り寿司が、一世を風靡して定着し、現代に至っていると言われる。(以下の写真はクリックで拡大)
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当時の寿司の模型↑と説明→ 
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この江戸時代の末期、1804(文化元)年、造り酒屋の息子だった中野(四代目より中埜と改名)又左衛門は「酒を作った後に残る大量の酒粕を生かす道はないか?」と考え『粕酢』を考案した。この酒粕のリサイクルから生まれた『粕酢』は、独特の芳ばしい風味と、なめらかな舌触りで、当時流行っていた「江戸前の寿司」によくマッチしたそうだ。飴色の『粕酢』を混ぜた酢飯は、褐色を帯び、その色から『山吹』の名前がつけられたという。又左衛門の作る『山吹』は、尾張国知多郡半田村の港から船によって江戸に運ばれた。『山吹』が人気を博した背景には、この海運の便に恵まれた半田の立地条件も大きく寄与していたと言えよう。当時から現代まで使用されているミツカンの工場一帯は『酢』の香りを漂わせ、この蔵達が歴史的遺産として…ではなく、現在も生きて呼吸している証のように思える。
クリックすると元のサイズで表示します半田運河沿いに建つミツカンの建物
※電線が運河の下に埋めらている為クリックすると元のサイズで表示します
『姿三四郎』等、時代劇の撮影にも使用された。


そもそも『酢』とは、お酒から出来る産物であり、原料も酒と同じの「穀物」と「果実」に分類される。また、農林水産省による品質表示基準によると『食酢』は、「醸造酢」と「合成酢」に2分され、その中の「醸造酢」は、穀類、果実、アルコール、砂糖を酢酸発酵させた液体調味料であると表示されている。穀物酢は、主にその原料から「米酢」「米黒酢」「大豆黒酢に分けられ、果実酢としては「りんご酢」「ぶどう酢」などが挙げられる。ミツカンでは「ミツカン酢」と呼ばれる「穀物酢」が大量生産され、「酢」の代名詞として日本のみならず、世界各地に輸出されているが、本社のみで、創業時の酢…『山吹』を生産している。近年になってネットでの直販も出来るようになったが、以前は本社と半田市内限定のお店でしか手に入れられなかった。このまろやかな酸味を特徴とした酒粕酢=米酢に分類される『山吹』は、その香りを味わう為にも、酢の物、酢飯、和え物、酢漬けなど、加熱しないで使用する調理に向いているとされ、「ミツカン酢」は、穀物酢のすっきりした酸味を生かして、酸味スープ、酢豚、さっぱり煮など、加熱する調理に使用するよう…推奨している。

日本で唯一の酢の総合博物館…「酢の里」では、古の昔を偲ばせる佇まいの中、酢造りの技と道具、方法を模型や図解で紹介しながら、倉人達が作り上げてきた酢造りの精神を学ぶ事が出来る。また、医学の父と呼ばれた古代ギリシャのピポクラテスも注目していたとされる酢の効能も、現代では、ミツカン中央研究所にて科学的に分析、紹介されており、健やかな暮らしぶりを追求している現代人にとっても、先人達が残した贈り物の価値が高いことを証明している。尚、外国の「酢」の種類として、アメリカの「ホワイトビネガー」、イギリスの「モルトビネガー」、イタリアの「バルサミコ酢」なども紹介されていた。また、この一帯には、中埜グループの「国盛り 酒の文化会館」もあり、東海地方の醸造酒の歴史も学ぶ事が出来る。

◎ミツカンお酢ショップより…『三ッ判 山吹』の出来るまで。
http://shop.mizkan.co.jp/special/howto/index.html 

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2007/2/24

もうすぐ雛祭り…雛祭りの思い出と姪の為の手作り雛  日記(今日思うこと)

私がこの時期、毎年訪れる場所がある、それは名古屋市の徳川園の中に造られている「徳川美術館…。2月初旬より4月の第一日曜日まで、企画展として展示されている『尾張徳川家代々に伝わる雛飾り』の展示を観る為である。徳川美術館は、昭和6年、当時侯爵であった徳川義親の寄附によって創立され、尾張徳川家の歴代相伝の「大名道具」が収められている。今年は、この企画展が20周年を迎え、会津・松平恒雄氏の長女で、秩父宮雍仁親王のお妃となられた勢津子様のお雛様も展示されているという。来月になったら是非、足を運びたいと思っている。
クリックすると元のサイズで表示します 名古屋市東区にある徳川美術館。

さて、雛祭りといえば、私の育った家は新暦(グレゴリオ暦)の3月3日ではなく、旧暦の3月3日(現在の4月)まで飾られていた。元々「桃の節句」とは、旧暦の雛祭りの日の前後に桃の花が咲く事から呼ばれていた…というのが、祖母の言い分で、床の間には桃の花も必ず生けてあった。雛飾りの私にとっての思い出は、出してお人形に冠などを飾り付けて行くのは楽しいが、片付ける事が大変で、いつも私と祖母の仕事?とされており、4月に入ると少し憂鬱になった記憶がある。そもそも我が家では、生みの母が違う為、妹も雛飾りを持っていて、私の雛飾りが「屏風形式」であったからと、妹の品は「御殿形式」であった。「御殿式」は、組み立てるのも容易ではなかったが、解体して、小さな部品を一つ残らず書き記された箱へ、間違いなく入れていくのは、実に大変だった。しかし毎年、組み立てと解体を繰り返していた私は段々慣れて行き、将来「宮大工さん」になろうか?と思った程だった。
生後8ヶ月の私とお雛様。クリックすると元のサイズで表示します
(変色していたカラー写真を、スピンさんのお友達が、色を再現して下さいました。
結果、実物とほぼ同じ色になって感激しました。スピンさん、ありがとう♪)


雛祭りは、その歴史を辿ると起源は、平安時代中期(約1000年前)だという。当時は3月初旬の巳の日に、上巳(じょうし、じょうみ)の節句と読んで、無病息災を願う祓いの行事をしていたらしい。陰陽師を呼び、神に祈りを捧げ、季節の食物を供えて、また人形に自分の災厄を託して海や川に流したのだそうだ。また、当時の上流の女の子達の間では「ひいな遊び」が行われており、「ひいな」とは「お人形」のことで、紙などで作った人形と、御殿や、身の回りの道具をまねた玩具で遊んでいたという。この人形を使った「ひいな遊び」は、紫式部の『源氏物語』や、清少納言の『枕草子』の中にも書かれており、やがて江戸時代にその「ひいな遊び」と、前記した「節句の儀式」が一緒になって、現在のような雛祭りの形となったそうだ。そして徳川家に嫁いだお姫様のように、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的な意味で、嫁入り道具の重要な家財の一つとされたという。
クリックすると元のサイズで表示します 縮緬で作られた兎のお雛様。

昨年、姪が初節句を迎え、お祝いを何にしようか?と考えていた頃に、スタッフの子が、お店の中に手作りのお雛様を飾ってくれていたので、私は「同じような物を作って欲しい」とお願いした。しかし昨年のこの時期彼女は、独立の準備で公私共に忙しく、作る事が出来なかった為、今年になって忙しい中、その約束を果たしてくれ、今夜、私の手元に届けてくれた。心を込めて、一針ずつ縫われて作られた兎のお雛様は、とても可愛く味わいがある。そして世界にたった一つしかない、姪の為に作られたお雛様である。私は並べ写真を写して、弟夫婦にメールを送った所、早速明日、取りに来ると返事が届いた。姪の持っているお雛様の横に、愛嬌たっぷりのこの兎のお内裏様とお姫様が並べられると思うと、何だか今からわくわくしてしまう。

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一人?ずつ撮影。 クリックすると元のサイズで表示します

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後ろ姿。尻尾もあって愛らしい…。 クリックすると元のサイズで表示します
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2007/2/22

秋川雅史の「千の風になって」とジョシュ・グローバンのアルバム  音楽

秋川雅史の歌う「千の風になって」が、オリコンチャートランキングで1位を獲得し続けているという。秋川雅史は、2001年クラッシックのテノール歌手として、日本では最年少でデビューを果たし、昨年末のNHK紅白歌合戦にて「千の風になって」を熱唱、多くのファンを惹きつけた。一方、2003年の11月、全米ヒットチャートで、全てのジャンルに於いて、ヒップホップやR&Bの曲を退け1位に躍り出たのが、秋川雅史と同じ2001年にデビューしたジョシュ・グローバン(以下ジョシュと記す)の2ndアルバム「クローサー」だった。

クリックすると元のサイズで表示しますクラッシック界の貴公子とも呼ばれる

私が初めて、ジュシュの声をTVで聞いたのは、アメリカでのヒットドラマ「アリー・マイラブ」に『歌の上手い青年』としてゲスト出演した時の事であった。なんという澄んだ声なのだろう!と感動し、そして若干20才とは思えない落ち着きのある歌声だと思った。私はそれまで世界的三大テノール歌手の一人である、ホセ・カレーラスのファンだったが、彼に負けずとも劣らない程の伸びのある声と感じた。ジュシュは、幼少時より楽器演奏の才能にも長けており、ピアノを始め、ドラム、エレキギター、バグパイプなどを演奏する事が出来るという。そんなジョシュが一躍脚光を浴びるようになった切掛けは、声楽家にして作曲家であり、プロデューサーでもあるデビットフォスターに才能を見出され、1999年グラミー賞のリハーサルで、アンドレア・ボチェッリの代役としてセリーヌ・ディオンとデュエットした事だった。
アメリカで発売されたシングルCD。 クリックすると元のサイズで表示します

その後カーネギー・メロン大学を休学し音楽活動に専念。映画「A.I.」のサウンドトラック曲で、作曲家、ジョン・ウィリアムズの曲に初めて歌詞がついたという「フォー・オールウェイズ」を歌い、サラ・ブライトマンの全米ツアーの前座を務める等しながら、知名度を上げていった。更にシャルロット・チャーチとのデュエット曲「プレーヤー」は、2002年のソルトレークシティで開催された冬季オリンピックの閉会式にも歌われた他、同年秋、メジャーリーグ、ワールドシリーズの開会式で国家斉唱をした。また12月には、ノーベル平和賞授賞式やヴティカンでクリスマスコンサートでもパフォーマンスを披露した。こうした経過を経て発売された前記したアルバム「クローサー」は、2003年の秋に発売された2ヶ月後、全米トップに躍り出て日本を含む全世界で650万枚のセールスを記録した。ジョシュは、全米での数々の慈善活動にも参加し、日本には2002年と2004年に来日している。
クリックすると元のサイズで表示します タングルウッドの芝生席。
(ピクニック気分で楽しめる)


私は、そのジュシュの2ndアルバムを、日本では未だ発売前の2003年11月、ボストンのハーバード大学のクープで手に入れた。その収録曲の中で、最も気に入った曲が「ユー・ライズミー・アップ」だったが、アメリカでもシングルカットされて発売となり、今ではケルティック・ウーマンやイル・ディーボらもカヴァーしている。(ケルティック・ウーマン歌唱の曲は、トリノオリンピックのフィギュアスケートで金メダルを取った荒川静香がエキシビションに使用した事で話題を呼んだ)。そして2005年8月27日、私は、ボストン郊外の小澤ホールのあるタングルウッドに行く機会を得て、ジョシュの生の歌声を聴く事が出来た。指揮はジョン・ウィリアムズで「フォー・オールウェイズ」以来のコラボレーションとなった。私達一行は、芝生席だったので、ジョシュの姿は小さくしか見えなかったが、声はタングルウッドの木立の中に響き渡り、観客達からは溜息がもれていた。然しながら、タングルウッドの客席でペンライトが揺れ、若い女性の「ジョシューッ」と黄色い声が飛んだのも初めての事だったという。
待望の3rdアルバム「アウェイク」 クリックすると元のサイズで表示します

2006年、ジョシュの待望の3rdアルバム「アウェイク」が発売された。今回私は、日本での発売を待って購入した。2007年2月7日、手元に届いたそのアルバムには、ジョシュ自身のピアノ演奏がイントロに流れる「フェブラリー・ソング」や「ロミオとジュリエットの愛のテーマ」、そしてアルバムタイトルの「アウェイク」等全14曲が納められ、全ての楽曲から音楽に対する『愛情と気品』を感じる事が出来る。アルバムの解説には「音符を抱かかえるようにして歌う」と書かれていた。秋川雅史の声からも、心洗われるような厳かさを感じるが、彼らの美しい声は、神様が人類に授けた最高の贈り物だと言えよう。尚、ケルティック・ウーマンについては、また改めて書く事とする。
(文中、敬称略)

↓以下「千の風になって」と「ジョシュ・グローバン」について、当ブログ内過去記事。
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2007/2/21

祖母の旅立ち…天国へ  日記(今日思うこと)

先週母方の祖母が、長い肝臓癌の痛みとの闘いの末、
天国へと召されました。お蔭様で最後は眠るように逝きました。
通夜、葬儀、そして、その後片付けでバタバタしており、
頂いたコメントの返事及び、ブログの更新をお休みさせて頂いています。
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ご心配のメールを頂きまして、感謝させて頂くとともに、
メールの返事など、遅れました事、深くお詫び申し上げます。

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明日から、通常通りの生活に戻る予定です。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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2007/2/16

友より届いたイーストボーン・セブンシスターズの写真に思うこと  日記(今日思うこと)

ロンドンから南東約100キロにあるEastbourne(イーストボーン)の美しい街…。その街の西の海岸沿いのドーバー海峡沿いに続く、白亜の断崖=ホワイトクリフは、一目見た人を虜にする美しさだという。7つの凹凸がある事から、白い衣装をまとった7人の修道女に見立てられ、別名Seven Sisters(セブン・シスターズ)とも呼ばれている。1991年、アメリカ制作の映画「ロビン・フッド」のイギリスへの上陸シーンにも登場するこの断崖は、全長約5キロ、高さ最高、約120メートル(350フィート)あるそうだ。この地層は、約15000年前から6500年前の白亜紀に形成されたとされ、白亜とは石灰岩のことを言い「白亜紀」という名前もこのホワイトクリフに由来しているらしい。この地層は、プランクトンの死骸の殻が、長い長い年月をかけて海底に蓄積し、このような石灰岩の白い地層ができ上がったという。(写真はクリックで拡大します)


クリックすると元のサイズで表示します Eastbourne・Seven Sisters

太陽光に反射して、ひときわ美しい クリックすると元のサイズで表示します

考えるだけで気が遠くなりそうだが、白亜紀とは、地質年代区分用語でK-T境界(白亜紀=Kreide:ドイツ語と新生代、第三紀=Tertiaryの境目)と呼ばれ、巨大隕石の落下説、または、地殻変動によって気候が変化に伴う植物相の変化で動物の餌の不足説等で、恐竜等を代表とする大型爬虫類が大量絶滅したと言われている時代である。世界的な暖冬で異常気象が続く中、人類を含む生き物自体、小さな塵のような存在にも思えて、大自然の力には太刀打ち出来ないと改めて感じさせられる。友達から届いたこの写真は、大自然が作り出す美しさ、壮大さに圧倒され、言葉を失くす程であった。
(以下の写真…ネットより)
 
クリックすると元のサイズで表示します wandelpaden.comより
  
人との対比でその壮大さが判る…。クリックすると元のサイズで表示します
photo by David Sellman. (ネット情報の提供:コロコロさんより)


   人間は、自然によって生かされてきた。
   古代でも中世でも 自然こそ神々であるとした。
   このことは、少しも誤っていないのである。


                      ― 司馬 遼太郎 ―
                     (『21世紀に生きる君たちへ』より)


◎お詫び、
セブンシスターズの壁の高さは、350フィート(約120メートル)だそうです。
お詫びして訂正させて頂きます。    2月16日 1:20PM by hotaru.

◎WIKIPEDIAより(英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Seven_Sisters,_Sussex
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2007/2/13

梅を愛でた休日…岐阜「梅林公園」を訪れて  日記(今日思うこと)

建国記念日の振替休日、私は久しぶりにお休みが一緒になった友達と「和服を着て何処かへ行こう」を合言葉に、岐阜市にある「梅林公園」へ出かけた。岐阜城のある金華山の山麓にある「梅林公園」は、明治初期の1982年、岐阜の上加納(かみかのう)の素封家(位は持たないが代々の財産のある家)の当主・篠田祐助氏が、この地を開き木を植え私邸の庭園を作り、一般に開放した「篠ヶ谷園」を祖とする。やがて1948年(昭和23年)、篠田祐助氏の孫、篠田祐八郎氏(現、平成薬品社長)が、先代の志を継ぎ、岐阜市に寄贈して、「梅林公園」と命名された。その後、市が南側を拡張して2.9ヘクタールとなり、梅は約50種類で、白梅700本、紅梅600本の合計1300本が植えられている。毎年1月末頃から早咲きの梅が咲き始め、見頃は3月上旬頃となる。昭和26年から3月の第1週目の土・日に梅祭りが開催され、遅咲きの梅は、桜の蕾がほころぶ3月下旬頃まで咲き、訪れる人達を楽しませてくれる。

クリックすると元のサイズで表示します ←筆者。後千両、前びっくり?

◎以下、2月12日現在梅林公園内に咲いていた主な梅の種類

※早咲鶯宿   【野梅系野梅性、色→白、形状→八重、時期→早咲き】
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早咲鶯宿など、野梅系野梅性の特徴は、原種に近く樹の勢いは強健で枝は細く
短枝は針状である。葉は小さく、僅かに軟毛が生えている。

※難波紅  【野梅系難波性、色→紅、形状→八重、時期→中咲き】
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内側の花弁が、中側に巻きこむように咲く為、花全体に丸みがあって、
色も淡いピンクでとても可愛く人気の品種。

※青軸(月の桂)【野梅系青軸性、色→白、形状→一重、時期→中咲き】
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野梅系の中で、がくや新枝(剪定後新しく伸びた軸)が、緑色を帯びる。
花弁も緑がかった白で花びらは普通五弁だが六弁になっている割合が高い。

◎鹿児島紅   【緋梅系緋梅性、色→紅、形状→八重、時期→中咲き】
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紅梅の中では最もよく知られる品種の一つ。蕾も一段と濃い色で目立ち易く、
花つきも極めて良い。

梅林公園内には、岐阜県を代表する15の歌人・書家らの歌碑があり、中でも1988年、岐阜市政100年を記念して建てられた、大沢碧水 (1911〜1989)の碑は、公園内の中央の池付近にあり、歩く人の足を留めていた。

クリックすると元のサイズで表示します

  「梅林は心のふる里
春にさきがけて花を見せる
梅はわが心を洗い
勇気をよびおこしてくれた
梅林はわが心のふる里 」


◎大沢 碧水
本名、大沢繁信 山県郡美山村(現在山県市美山町)出身の書道家。
県書道作家協会会長として多くの書道家を育て、県下の書道界を発展させた。自身も昭和27年から49年まで日展に連続入選し、調和体の近代詩文を大成させた。

公演を散策しながら、金華山の麓に近づくと、手入れが行き届いた大きな松が梅の木の中、その勇姿を見せ圧倒的存在感を見せる。この松は、「太夫松」と呼ばれ、篠ヶ谷園の創園者、先に記した篠田祐助氏の長男、祐喜氏が大切にしていた松だそうだ。以前は上の池の渕にに植えられていたが落雷で樹が折れた為、現在地へ移植したという。

太夫松の前で…。  クリックすると元のサイズで表示します 

更に奥へ歩いて行くと、山麓には大正12年創業の料理旅館「植東」がある。このお店は、白味噌と赤味噌を両面に塗った木の芽田楽と菜飯が有名で、私も幼少時の頃より、ここの田楽が大好物だった。もう少し暖かくなると、野点でも食べられるようになっていて味わいがある。建物は数奇屋造りとなっており、梅林公園の景観と一体化している。私達は梅の形のテーブル前に座り、田楽に舌鼓を打った。梅は、春に先がけ、寒い冬の薄日のもとに花を開かせ、芳しい香りを放つ…。古来、世界に類を見ない東洋独自の花と言われており、遠く奈良時代においては、花と言えば「梅」を意味し、万葉集に歌われた数は、桜を遥かに凌いでいる。私達は、4人揃って大島紬を着て出かけ、風は冷たかったがよく晴れ渡った早春の一日を堪能した。

クリックすると元のサイズで表示します 「植東」の入り口。

田楽とつぶ貝の串焼き クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します 漆塗りの梅形のテーブル。

◎箸休め
大島紬に帯や小物をコーディディネートして出かけた私達であったが、寒気に負けてショールを取って撮影する事を忘れてしまった。更に昼は名古屋市内の「銀座天一」で天麩羅を食べ、夕方には田楽を食べたが、食い気に負け料理を写す前に食べてしまった。ブログに写真を載せる事をすっかり忘れてしまっていた私は、まだまだブロガー?としての修行が足りないと思った。

クリックすると元のサイズで表示します 筆者のコーディネート。(携帯カメラにて撮影)
泥大島に梅模様の八掛け付き着物、唐織半巾帯、梅形の帯留使用。
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2007/2/12

スピンさんの欧州便りNo15…ヨーロッパのカーニバルVo2  スピンさんの欧州便り

次はヴェネツッィアのカーニバルです。今年は2月9日から20日まで。世界中から沢山の人が集まります。でも、今の形になったのは比較的新しくて1979年からです。心配なのは、カーニバルの期間が「アクア・アルタ」の期間10月〜4月と重なる事…。サン・マルコ広場のアクア・アルタ 夜は灯りが映って綺麗です。でも、実際にここに居ると、そんな呑気なことは言ってらいれません。(写真はクリックで拡大します)。

クリックすると元のサイズで表示します

アクア・アルタの注意書き。クリックすると元のサイズで表示します

※21世紀に入って、アクア・アルタの頻度が急上昇中です。

クリックすると元のサイズで表示します 水位の測定器 
水位が上昇するとサイレンが鳴ります。

Maschera:マスケラのお店 お土産のマスケラ(仮面)を売っているお店も多いけど、この写真は本格的なマスケラを売るお店です。

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凝った物は衣装に合わせてオーダークリックすると元のサイズで表示します

※これは衣装のお店。レンタルとオーダーができます。イタリアで貸衣装と言えば「お祭り」か「舞台」用で「婚礼」の貸衣装はありません。

クリックすると元のサイズで表示します

ヴェネツィアの伝統スタイルの3人クリックすると元のサイズで表示します
……少し不気味ですね。

クリックすると元のサイズで表示しますファミリー揃って、マスケラ(仮面) 
……シルバーでカラーコーディネート

グラン・カナル(大運河)を背景にクリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

タイム・スリップしたみたい。クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します 3つの顔の仮装

孔雀の仮装   クリックすると元のサイズで表示します

 クリックすると元のサイズで表示します ブッフォーネ(道化師)スタイル。

黄金仮面   クリックすると元のサイズで表示します


クリックすると元のサイズで表示しますマスケリーナ(半仮面)で美しさを強調。

マリー・アントワネット風?クリックすると元のサイズで表示します 

ペアのマスケラの人達クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

恋人同士?友達同士?クリックすると元のサイズで表示します


※カメラを向けるとポーズをとってくれます。自分でスポンサーを見つけ、準備に何ヶ月もかけます。でも、地元からの参加者は少ないそうです。ヴェネツィアの人は何かの形で観光産業に携わっているのでカーニバルのシーズンは忙しいからです。

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美しいマスケラのアップクリックすると元のサイズで表示します
……マスケラを被っていても、表情がありますよね。

※サン・マルコ広場の時計塔から見たヴェネツィアの町並み。車の通行は禁止です。
カーニバルの時は、この広場が人でいっぱいになります。by...spin.


クリックすると元のサイズで表示します

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2007/2/11

スピンさんの欧州便りNo15…ヨーロッパのカーニバルVo1  スピンさんの欧州便り

今日は、今ちょうど、シーズンに入っているヨーロッパのカーニバルの写真の特集です。
(写真は全てクリックで拡大します)

カーニバル(謝肉祭)はイタリア語で“カルネヴァーレ:carnevale”“carne”(カルネ:肉)+“vale”(ヴァーレ:別れ)で「肉との告別」と言う意味になります。復活祭(Pasqa)の前の四旬節(Quaresima)に入ると40日間は肉・ 卵・乳製品を口にする事ができないので、その前にご馳走を食べてお祭り騒ぎで盛り上がろうと言うのがカルネヴァーレです。でも、今は四旬節にお肉を食べないという人は殆んど居ませんけどね。

最初は2月4日に始まったトスカーナの“ヴィアレッジョ:Viareggio”のカーニバルです。ヴィアレッジョは「王の道」と言う意味を持つ海岸沿いの小さな町で、日本の「湘南」みたいな所です。たくさんの別荘やヨットハーバーもあってイタリアでは高級リゾートとして知られています。近くの“トッレ・デル・ラーゴ”(塔の湖)にはジャコモ・プッチーニの別荘兼仕事場があってお墓もこの別荘の中に有ります。マダム・バタフライ」「トスカ」etcと主要な作品の殆んどが、この別荘で作られたそうです。

VILLA PUCCINI (左側の看板)クリックすると元のサイズで表示します

※ヴィアレッジョのカッロ(山車政治家を風刺したものが多いのが特徴です。写真はブローディ首相。(人形は殆んど可動式で回ったり上下したりします)
クリックすると元のサイズで表示します

タイトルは「チャイナ・ルール」クリックすると元のサイズで表示します

右から困り顔のイギリスのブレア首相・アメリカのブッシュ大統領、中央はブルース・リー。その下で笑ってるのがロシアのプーチン大統領。

※今年の一番人気はこの人。サッカーの元イタリア代表監督マルチェロ・リッピさん。
リッピ監督は、ここヴィアレッジョの出身です。手に持った鶏=フランスですね。

クリックすると元のサイズで表示します


※来週はフランスのニースでもカーニバルが始まります。ウィーン国立歌劇場の舞踏会もカーニバルの催し物の一つです。今年のゲストはパリス・ヒルトンさんらしくて、これには賛否両論みたいですよ。

クリックすると元のサイズで表示しますウィーンのオペラ座舞踏会(オーパン・バル)のデビュタント達。

※デビュタントとは、欧米で社交界にデビューする18歳から20歳の厳しい条件をクリアした良家の令嬢の事。デビュタントとして紹介されると一人前の女性と認められたことになります。 by...spin.


★いつもコメントを頂き、ありがとうございます。明日は終日出かけますので、2月11日以前に頂いたコメントのお返事は、12日以降に書かせて頂きます。ご容赦頂きますよう、宜しくお願い致します。...by hotaru.
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2007/2/8

松坂大輔を待ち受ける街 vol1…ボストンの野球ファン   Boston Red Sox・MLB

来る2月18日からフロリダで始まる春季キャンプに向け、ロサンゼルス近郊で自主トレを続けている松坂投手だが、レットソックスの本拠地、ボストンのフェンウェイパークに隣接した球団グッズショップでは、松坂投手のTシャツ売り上げが"レッドソックスの顔"と言われていたデビッド・オルティースを抜いたと共同通信を通して発表された。そのショップは、球団が直接経営している1946年創業の「THE SOUVENIR STORE」で、松坂投手のTシャツは、名前と背番号が入れられたポピュラーな物から、似顔絵が描かれた物、そして大輔の名前をもじった「DICE-K」のロゴ入り等、4種類作られ販売されているという。
クリックすると元のサイズで表示します ゼッケン18番のTシャツ。

昨季までのTシャツ売り上げのトップは、前記した指名打者で、主砲のオルティースだったが、今年に入って松坂ブランドが上回った。買手は日本人だけでなく、半分以上が地元のファンだそうだ。同店では松坂投手入団が決定すると、早速日本人スタッフを雇い入れるなど、年間数万人に上ると予想される日本人観光客をターゲットにしているようだ。ポスティングシステムでの落札額の高騰も、問題になってはいるが、その分注目度が高まり、期待されるのも当然であろう。
この中に並べられているはず… クリックすると元のサイズで表示します
2006年9月撮影。


昨年12月13日、松坂投手を乗せたジェット機は、ベッドフォードのハンスコン・エアーフィールドに着陸した。この空港はアメリカ空軍所有で、一部民間ジェット機の着陸にも開放しているが、松坂投手が降り立つ事を察知していたメディアはごく僅かであったにも関らず、熱狂的ファンが現れ「WELCOME HOME DAISUKE」と書かれたプラカードを持って出迎えていた映像を観たのも記憶に新しい。更に松坂投手は、健康診断の為にMGH(マサチューセッツゼネラルホスピタル)へと向ったが、そこにもファンが駆けつけ、松坂投手が診断を受けている部屋を探して(ガードマンに阻止されたそうだが)直接会って話すような勢いだったという。
 クリックすると元のサイズで表示します  松坂投手の看板…Boston市内にて。

フェンウェイパークは、1912年にオープンしたメジャー最古の球場として知られているが、観客席とフィールドが他の球場より近く、前列に座ると選手の息づかいや、バットスウィングの空を切る音まで自然と聞こえ、野球観戦の醍醐味を味わえる。そして観客同士も座席が狭いゆえに、肩を並べて観戦するという形になる。私も昨シーズン通路と通路の真ん中辺りの席で観戦した事があるが、この窮屈な空間こそが、ファン同士の親近感を高めているように思った。応援の仕方はそれぞれ自由で強制される訳ではないが、次第に声を荒げて選手の名を呼び、応援している自分がいた。

そんな中、レッドソックスの選手でさえ、失敗を繰り返せば、容赦なくブーイングも飛んでくる。例をあげると、2004年ワールドチャンピオンの立役者の1人となった守護神…キース・フォークは、登板すると必ず、観客のスタンディングオベーションで迎えられていた。ところが昨季、故障によってセットアッパーへの降格を余儀なくされ、その仕事でも2度、3度と失敗すると、アナウンサーがフォークの名前をコールしただけで、席を立ち上がりブーイングを送り続けていた。結局フォークは今季、インディアンスへ移籍して行ったが、このように可愛さあまって憎さ100倍になるのか、極端な風潮も伝統?となっているようだ。
昨季まで売り上げNo1のオルティースクリックすると元のサイズで表示します

入団会見の時、松坂投手は「ヤンキースを倒す為に来ました」…等というようなリップサービスはせず「ここにいる全員が、ファンになってくれるかどうかは、これからの僕次第。ワールドチャンピオンになる力になれるよう貢献したい」と語った。Tシャツを買ってくれたファンの期待に応えられるかどうか!?それは、松坂投手が、チャレンジャーという謙虚な気持になって、個性豊かなレッドソックスの選手達に馴染めるか?もキーワードとなる気がしている。

◎閑話休題
ボストンでも、日本食を扱うお店が増えるに違いないと思っているが、農林水産省は、国外での日本食の認証制度を導入すると決定したらしい。確かに国外の日本食レストランでは、私達日本人が食べると、疑問符を持つような料理が出て来る事も多々あるが、日本政府のお墨付きがなければ「日本食」の肩書きは使わせないとは、随分と居丈高な制度だと思った。アメリカで生まれた、カリフォルニア巻きやレインボーロール等も、お寿司のメニューとして定着、逆輸入されて日本でも売られているし、現代の料理に和洋折衷は、当り前の感覚で、むしろ正調な日本料理とは一体?と考えてしまう。

例えば、レストランの格付けとして「ミシュラン」などフランスの権威ある組織が関っているが、これらは民間で国民の税金は一切使用していない。日本食認定の為の初年度予算は2億円だそうだが、問題は美味しく思うかどうかで、淘汰するのはその土地に住む人達であって政府がくちばしを挟む問題ではないと思う。世界各地でブームになりつつある日本食は、その国の料理と合いまみえアレンジされて行けば良いのではないか?MLBなど国外に選手を送り込み、活躍しているこの時代…狭いのは国土だけではなく、日本政府の心のような気がして、とても残念である。


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2007/2/7

「幸せのちから」を観て…ウィル・スミスと息子、クリストファー  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

舞台は、ベイエリアの景観が美しい坂道と霧の街、サンフランシスコ…。この映画は、実在の人物…クリス・ガードナーが挫折から栄光をつかむまでを描いた自伝小説…「The Pursuit of Happyness」に基づき、妻も家も失ったどん底の生活から、億万長者になる足がかりを得るまでの、苦悩と努力の半生を描いている。

「温かいベッドもママも失くしたあの日、幼かった僕と父は、まだ見ぬ幸せを求めて走り出した」
                            --クリストファーの言葉。
クリックすると元のサイズで表示します アメリカで発売された初版本…(表紙は本人)

映画は、ガードナーの半生を6つに区切り、テーマ付けされて進行して行く、
1、「バスに乗る」…市内を走るバスで移動し、骨密度を測る機械のセールスに歩く時期。
2、「馬鹿をやる」…セールスの途中、赤いフェラーリに乗った人物に職業を尋ね、証券マンを目指そうとするが、機械を預けたヒッピーに逃げられたり、散々な目に遭う。
3、「走る」…持ち去ったヒッピーを見つけて追い駆けたり、駐車禁止代が支払えず禁固刑を受け、証券会社の面接会場まで全力疾走する。
4、「見習い期間」…研修生として採用されるものの、正式採用はその20人中1人のみという競争率の高い中、一刻も無駄に過さず、勉強に励む。
5、「税金を払う」…機械も何とか売れ、モーテルでの生活も、滞納していた税金で口座を差し押さえられ、所持金21ドルとなってしまう。
6、「幸せ」…最後になってようやく幸せをつかむ…それは?。

不運続きも夢を失くさない主人公。 クリックすると元のサイズで表示します

映画の中で最も印象深いシーンは、ガードナー役のウィル・スミスと息子がバスを待っている時、持っていた「5¢コイン」の肖像、トマス・ジェファーソンが「独立宣言の中の言葉で「生命・自由・幸福の追求の権利」を唱えているが、どうして「幸福」だけでなく、「追求」を書き加えたのだろう…と考えるシーンだった。「幸福になれる権利」ではなく「追求する権利」…それは幸福が、人種差別、学歴社会の格差がある中で、追求しても決して得られないものである事を、トマス・ジェファーソンは知っていたのだろう…と、ガードナーは考えていた。全ての運から見放されたようなガードナーではあったが、5才のクリストファーの存在を心の支えとして、一心不乱で証券マンとなるべく努力を重ねて行く。

クリックすると元のサイズで表示します ウィルスミス(右)とクリストファー。

また、税金支払いの為に口座を抑えられ、モーテルを追われて、駅のトイレで眠るシーンは、ガードナーも涙にくれるが、観客の涙も誘っていた。ビザなしで不法滞在し、税金を支払わない人達もいるアメリカで、正直者が馬鹿を見るような印象だった。(しかし、納税したからこそ、会社を起せる権利も得られた)。そして、証券会社の研修生活を送りながらも、教会がホームレスの為に提供している宿泊施設の数少ないベット確保の為に、全財産のスーツケースを持って長蛇の列に並ぶ日々が続くのにも、胸が締め付けられるようだった。カードナーは、その与えられた狭い部屋で、消灯の後も、月の灯りや防犯灯の微かな灯りで勉学を重ねたが、このハングリー精神こそが、彼の「アメリカンドリーム」…商社マンとしての成功の実現に繋がったのだと感じた。

ガードナー本人(右)とウィルスミス。クリックすると元のサイズで表示します 

ところで、映画のストーリーはさて置き、まず、ガードナーを演じるウィル・スミスも、グラミー賞の受賞経験もある、大物ミュージシャンの華やかさを押し隠し、不運続きのしがない父親を見事に演じていたが、そのウィル・スミスの存在事態をも、影を薄くさせてしまうほどの演技力が光っていたのが、ウィル・スミスの実の息子…クリストファー(映画内でも同名)で、ウィル・スミスの縁故ではなく、オーディションを受けて選出されたという事を納得させられた。どんな逆境にあっても、ユーモアを忘れず、人との触れ合いを大切にして行ったガードナー親子…。やがてガードナーは、億万長者となり、自伝の出版、そして映画化と、時の人となった現在も、サンフランシスコの貧民街を頻繁に訪れ、ホームレス達と一緒に、自身も飢えを凌いだ慈善スープを飲むのだという。また、ガードナーはシカゴに本社を置く「カードナーリッチカンパニー(GRC)」の社長件、最高経営責任者を務めているが、売り上げの10%は地元の教育事業に寄付しているそうだ。因みにガードナーは会社設立後、証券マンを目指した契機となった赤のフェラーリも手に入れている。

 クリックすると元のサイズで表示します 美しいゴールデンゲートブリッジ。
写真は全てyahoo photoより


映画は、サンフランシスコの美しい景色と共に、無垢な志でどん底から這い上がって行くガードナーと、その父親のどんな姿にも敬意を失わない息子の姿が生き生きと描かれている。「夢を失くさず頑張ろう」と元気付けてくれる素晴しい映画だと思った。尚、原題の「The Pursuit of Happyness」の「Happyness」は、Happiness=幸せのスペルミスである。息子、クリストファーを預けるチャイナタウンの託児所に書かれていたのだが、あまり良い託児所ではないという事の象徴となっていた。しかし実際は、息子が1才半だった為、最初はその託児所にさえ入れて貰えなかったそうだ。

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