2007/3/14

『鈴渓義塾』Vol.2..ソニー創業者の盛田昭夫と井深大No1  日記(今日思うこと)

先日訪れた「鈴渓義塾」の創設に尽力した盛田命棋は、盛田昭夫(以降昭夫と記す)から4代前の高祖父に当たる。昭夫は、大正10年、盛田酒造、第14代目当主の盛田九左ヱ門の長男として名古屋で生まれた。昭夫が名古屋生まれだったのは、父が家業改革の為に名古屋に住所を移していたからで、本籍地は「鈴渓義塾」のある盛田酒造本拠地の、小鈴谷村であった。昭夫は15代当主となるべく育てられていたが、生まれつき体が弱かった事から、父母は昭夫の体を鍛える事を第一の教育方針として、春休みや夏休みになると小鈴谷の自然の中で過ごさせた。昭夫は午前中を勉強に費やし、午後は海に出て、水泳に熱中し、時には村の猟師達に混ざって地曳網を引く手伝いもしたという。
クリックすると元のサイズで表示します盛田「味の館」内、盛田昭夫の銅像。

また、海に入れない時は、裏山で竹を切って来ては、細く割って竹ヒゴを作り、竹ヒゴを蝋燭で温め少しずつ曲げながら翼の形にし、雁皮紙という薄い紙を貼ってゼラチンを塗って仕上げた模型飛行機を作って飛ばしていた。プロペラも竹を削って手作りし、動力にはゴム紐を束ねて使ったという。模型飛行機の後は、熱気球作りに没頭した。先に使用した雁皮紙と竹ヒゴで直径1メートル位の気球を作り、気球の開口部には家業で使用していた竹製の箍(たが→桶の周囲にはめ、その胴が分解しないように押さえつける金や竹で作った輪)を取利付け、その箍に釣りで使用する錘をつけて、気球のバランスを図った。気球が完成すると、土管を煙突代わりにして下で炭火を起こし、熱しられた空気を気球に送り込んだ。昭夫は、当時から家や自然界にある物で創意工夫する少年だった。昭夫の作る熱気球には、盛田酒造で働く若者や村の若者も協力し、皆で気球を追いかけ、村中を走り回ったそうだ。

このようにして健康になった昭夫は、当時始まったラジオ放送に興味を持ち、愛知一中(現在の旭丘高校)に進学し、自宅にあった色々な器具を分解し組み立てて、遂に真空管ラジオを作り上げた。電気通信の不思議の虜となったように機械いじりをする昭夫を見ていた、弟の和昭は『家業を継ぐ気があるのだろうか?』と、この頃から、不安な気持ちを抱いていたという。その和昭の予感は的中、昭夫は父に旧制第八高等学校の理科への入学を願い出た。酒造会社の社長になるには、経済学、或いは、理科系を選ぶにしても農学部の醸造科に入って欲しいと思っていた父親は失望したが、「どうやら昭夫は新しい物にチャレンジするという命棋翁の血筋をそのまま受け継いでいるようだ」と納得した。その後昭夫は大阪帝国大学、理学部物理学科に進学する事となる。昭夫が理科に進みたいと申し出た時、もし父親のリベラルな考え方が無かったら、現在のソニーは無かったかもしれない?と考えると、その選択が昭夫にとっても、日本の家電業界にとっても、運命の分かれ道だったと言っても過言ではないと思った。

命棋が造った銘酒「子の日松」 クリックすると元のサイズで表示します
(後に「ねのひ」と改名)


昭和8年、日本が開戦に踏み切ろうとして緊迫していた世情の中、昭夫は海軍の委託学生(大学卒業後に軍の技術将校となるという条件で、軍から学業資金が降りる学生)となり、卒業後は横須賀にある海軍航空技術廠(ショウ)に入隊した。物理学の秀才として『戦時研究会』に属し『熱線探知機』や『熱線爆弾』等の研究に取り組んだ。それは敵機が発した熱線を、サーモカップルと呼ばれる熱電対で受け熱の変化を増幅して爆弾の舵を自動的に切るという「マルケ」と呼ばれる兵器で、その開発に携わったのである。ここで昭夫は生涯の仕事のパートナーとなる井深大(以降、井深と記す)と出会う事となったが、実は、昭夫は中学時代『科学画報』という雑誌を愛読しており、「早稲田の大学生が『走るネオン』を発明した」掲載された記事を読んでいた。その大学生こそが井深で、昭夫は井深の発明を覚えていたのである。

更に井深の『走るネオン』は特許を取り、1900年、パリで開催された万国博覧会で優秀賞を受賞していたが、何と昭夫の実家の盛田酒造もパリ万国博に酒・味噌・醤油、そして当時開発されていた「カブトビール」を出展し、金賞を受賞していたのであった。品は違うが「パリ万博での受賞」という偶然の一致に昭夫は驚き、2人の話はその話題を契機に、物理科学という共通の話題で盛り上がった。また2人に共通した考えとして、昭和19年当時「神風が吹く」と精神論をかざし劣勢を認めなかった大本営に対し「この戦争は負ける」と研究会内で口にしていたという。井深は、自身で組み立てた短波受信機で、海外の日本向け放送を密かに聞いていたのだった。

その後『戦時研究会』は、B-29の東京への空襲とともに解散せざるをえなくなった。最後の会は山梨で行われ、会の後、昭夫と井深は富士駅で別れ、井深の乗った列車が先に出発した。暫くして駅には、井深の乗った列車が、敵の艦砲射撃を受けたという知らせが入った。「井深さんは大丈夫だろうか?」昭夫は気が気でなかったという。しかし幸いな事に井深の乗った列車は、運転士の機転でバックしてトンネルに入り、難を逃れていた。やがて終戦後2人は再会を果たし、東京通信工業(東通工)を発足するに至るが、2人で会社発足する願いを昭夫の父に告げ許可を得る為、井深が小鈴谷を訪れた際や、会社が軌道に乗るまでの2人の悪戦苦闘の珍道中?については、また、明日以降書く事とする。続く…。(文中、敬称略)

◎参考
盛田酒造パンフレット・「情熱の気風」より
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