2007/3/15

『鈴渓義塾』Vol.3..ソニー創業者の盛田昭夫と井深大No2  日記(今日思うこと)

日本敗戦の玉音放送を盛田昭夫(以降昭夫と記す)は、実家の小鈴谷村で聞いた。昭夫は小鈴谷で戦艦大和の艦長…森下信衛が大和と共に沈んだが重油の中から部下に助けられ、九死に一生を得て呉に留まり『呉海軍復員収容部長』として、諸外国にいる日本人を帰国させる仕事についていると風の便りで聞いていた。森下も常滑で生まれ『鈴渓谷義塾』から巣立っていった一人であった。昭夫は井深大に会いたいと思っていたが、家業を手伝いながら世の中を静観していた。昭夫の家は、戦災に遭わず大きな屋敷も残っており、造り酒屋という事から食べる米にも不自由していなかった。しかし、戦争によって盛田で作る品物は配給制になってしまい、全国に張り巡らせた直売網は機能しなくなり、家業は縮小せざるを得なくなっていた。昭夫は、敗戦から一ヶ月半が過ぎた頃、人手が足りていた盛田家を父・久左ヱ門らに任せて、恩師の服部教授の誘いで、東京工業大学の講師となるべく上京した。

クリックすると元のサイズで表示します 古い酒造りの道具や樽等、
右には電話もある。(写真は全てクリックで拡大)


昭和20年10月6日、昭夫は朝日新聞の『青鉛筆』という記事を目にして、嬉々とした。『元早稲田理工科講師の井深大氏は、このほど日本橋白木屋の3階に東京通信研究所の看板を掲げ、一般受信機の改造、または付加装置による短波受信機を普及させようとスタートした』…喜治隆一記者によって書かれたこのコラムは「一般家庭にある受信機でも少し手を加えれば短波放送が聞ける」という耳寄りなニュースと記していた。昭夫は「井深さんが東京にいる」と喜び勇んで手紙を書いた。井深も「おお盛田君(昭夫)も無事でいてくれたか」と返事を書き、日本橋白木屋で再会を果たす事となった。この時、昭夫は24才、井深は37才になっていた。

井深は、満州投資証券社長の三保幹太郎に事業の支援を依頼し、白木屋の3階に「東京通信研究所」の看板を掲げて、「ソニー」の前前身の事業をスタートさせていた。昭夫は東京工業大学の講師をする傍ら、無給で東通研の仕事の手伝いをし始めていた。昭和21年、元海軍の技術中尉だった昭夫は「公職追放令」によって大学講師を辞めざるを得なくなった。そこで昭夫は井深と共同で株式会社を作る計画を立て始めた。しかし、昭夫には大きな壁があった。350年続く旧家の盛田家では、代々長男が当主として跡を継ぐ……。昭夫は15代目当主になるべくして育てられたはずだった。井深は小鈴谷ま出向き、昭夫の父・14代目当主・久左ヱ門に「一緒に仕事をさせて欲しい」と願い出る決意をした。
終戦当時の合資会社「盛田」と一族。クリックすると元のサイズで表示します
拡大すると左より昭夫・九ヱ門・和昭と並んでいる。


井深は自分一人では信用度も低いと、元文部大臣を務めていた前田多門に同行を依頼し、昭夫と3人で夜行列車に乗った。「盛田家15代目当主を貰い受けるのは至難の業、だが誠意を持って話をすれば」と決意し、盛田家の門をくぐった。盛田家は代々続いた旧家らしい豪壮な佇まいを見せていた。玄関を上がる時、井深は大きく深呼吸したという。座敷に通されると、父親の久左ヱ門と次弟の和昭が鎮座していた。造り酒屋の当主=頑固一徹だとイメージしていた井深に、久左ヱ門は遠くまで来てくれた事に敬意を示してこう言った。「夜行列車は大変だったでしょう。田舎で何もありませんが、温かいパンでも召し上がって下さい」…。井深は、東京では三等米も手に入れ難い時代に、ここでは進駐軍の食べているようなパンが出てくる。井深は、久左ヱ門の優しい言葉に拍子抜けしたが、「これは、体よく追い返す為の持成しだ」と気を引き締め、パンには手をつけず「盛田君(昭夫)と一緒に会社を始め、日本復興の役に立ちたい」と、丁寧に語った。話終わった井深に久左ヱ門は、静かに言った。「昭夫がやりたいと言うのならそれも良いだろう。しっかりやりなさい」。

意表をつく久左ヱ門の答えに井深は戸惑った。こんなに簡単に許しが出るとは思っていなかったからである。更に久左ヱ門は続けた。「資金も幾ばくか応援致しましょう。そしてあなたが食えなくなったら、いつでも小鈴谷にいらっしゃい。あなたの一人くらい何時でもうちで食べさせてあげます」。この時点で久左ヱ門が簡単に許したのは、実は2人の作る会社がこの先発展するとは、微塵も考えて居らず、日本復興の役に立つどころか、直ぐに潰れるだろう。その時は井深の一人位、面倒みようと考えていたからだった。しかし横で聞いていた弟の和昭は、この時点で家業の跡を継ぐ決意を固め、兄を支援して行こうと誓いを立てていた。
クリックすると元のサイズで表示します 古い酒樽と現在の「盛田」の商品。

盛田和昭は、戦時中に早稲田大学政経学部に入学したが、その直後に海軍飛行隊に志願した。和昭は硫黄島に派遣された、市丸利之助少将の指導の元、鈴鹿航空隊で硫黄島に手紙を運んだ根本正良中尉らと同じ「一式陸上攻撃機」のパイロットとなっていた。戦争末期には特攻隊へも志願していたが、特攻隊は小回りの効く一人乗りの「零戦」から出撃を命じられ「一式陸上攻撃機」のパイロットは後回しにされて予期せず生き残れた。和昭は、せっかく助かった命を家業の隆盛と兄の支援の為に使おうと決意したのだった。こうして昭和20年4月、知多半島の小鈴谷村の盛田家の屋敷で、父・久左ヱ門と弟・和昭の暖かい支援を受けてソニーの前身・東京通信工業の設立が許され、昭夫と井深は、夢への第一歩を踏み出した。尚、和昭は、その生涯を兄の支援に尽力し、あくまでも当主は昭夫として、第15代目当主代行を名乗り続けたという。続く…。(文中、敬称略)
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