2007/3/17

『鈴渓義塾』Vol.5..ソニー創業者の盛田昭夫と井深大No4  日記(今日思うこと)

井深大と盛田昭夫が創めた東京通信工業(東通工)は、資金繰りに苦しむ自転車操業ながらも、3年目を迎えようとしていた。当時昭夫の生家、盛田酒造を任されていた弟の和明も、会社内に電気部を設け、東通工の製品販売を後押ししたが『電気座布団』以来、一般大衆向けの製品が開発されて居らず、井深と昭夫は「もっと大衆に直結した商品を作って、会社を安定させたい」と考えていた。当時大衆商品の雄とされていたラジオは既に他の多くの会社が手がけていた為、2人は『今までに無い商品』を作り出そうと思案した。井深は戦時中、日本電気の多田正信からワイヤーレコーダーを貰っており、陸軍が使っていたワイヤーレコーダーを分解して参考にしようと提案した。昭夫はアメリカにいる友人を通じてウェブスター社のワイヤーレコーダーキッドを入手、組み立てを試みた。
クリックすると元のサイズで表示します 晩年の井深…井深大と本田宗一郎展より

組み立て上がったレコーダーは、当時開催されていた、ロサゼルスオリンピックで、「フジヤマのトビウオ」…古橋広之進が400メートル自由形で、世界新記録の樹立を報じるNHKのラジオ放送を録音する事に成功した。昭夫は縁起がいいと更に研究を進めようとしたが、ワイヤーレコーダー製造のワイヤーの材料となるステンレスは、物資のない時代にニッケル不足で不可能だった。だが昭夫は諦めなかった。ある日、何を作っているか視察に訪れたアメリカ人将校に「ワイヤーレコーダーを作りたいと思っています」と告げた。昭夫達が音声調整卓の改良で高い技術力があると知っていた将校は「アメリカには黒い粉末を塗布した紙のリボンから、音を再生する機械がある」と教えてくれた。そのアメリカ人将校の詳しい話によると、旧ドイツ軍が開発した録音機械を持ち帰り、ミネソタ社(後の3M社)が研究開発して製品にしているという。

将校によって東通工に持ち込まれたそのテープレコーダーの音を聴いた井深と昭夫は、その音に「我々が作る物はこれだ」と確信した。しかし2人が見積もった開発資金は30万円で、盛田酒造から送り込まれていた経理担当の長谷川の渋い顔が目に浮かんだ。更にテープレコーダーに関する資料は皆無に近かった。唯一役員室の本棚に本田光太郎著の『磁石』という本があるのみだった。その時、井深と昭夫がレコーダーの開発担当に選出した木原信敏が「これだ!」と叫んだ。木原はシュウ酸第二鉄に注目した。昭夫は早速、自分の知っている神田の薬品問屋へ向かいシュウ酸第二鉄の入った黄色い瓶を買い求めた。木原は炊事の小母さんからフライパンを借りて来て、シュウ酸第二鉄の粉をしゃもじでかき混ぜながら炒ってみた。欲しいのは酸化第二鉄、炒りすぎると四酸化鉄になってしまう。何度も炒り続けるうちに木原のフランパン芸?は高まって行った。その姿を見ながら社員に笑顔も戻ってきた。

こうして酸化第二鉄の粉末は出来たが、今度は紙テープに付着させる方法が問題になった。炊事の小母さんは「そりゃ糊でしょう。ご飯粒をつぶして糊にすれば」とアドバイスした。木原は貴重なフライパンとしゃもじを借りていた手前頭が上がらず、早速潰したご飯に酸化鉄の粉末を混ぜて塗ってみた。しかし乾くとバリバリになって使い物にならなかった。次に木原はペンキ屋が使っていたスプレーガンを思い浮かべ、透明ラッカーに粉末を溶かして工場の床に紙テープを貼り付けスプレーガンで吹き付けた。結果、紙テープに付着させる事は出来たが、大切な工場の床を真っ黒にしてしまった。また、狸の毛で出来た筆で塗りつけるとか、化粧品の粉白粉の原理を応用しようとしたり、試行錯誤を繰り返す内に何となく要領を得て、音のようなものが出るようになった。

1950年製テープレコーダー。 クリックすると元のサイズで表示します

次はテープそのものの開発だった。昭夫は大阪の本州製紙にいる従兄の小寺五郎に連絡を取り、6ミリの幅の薄くて強度のある紙作りを依頼した。小寺はクラフト紙に麻を混ぜて強度を増した紙テープを製作し昭夫に手渡した。その麻入りクラフト紙の表面はセロハンのように滑らかだった。少しずつテープレコーダーの部品が揃いつつある中、井深はテープレコーダーの開発には必要だった「交流バイアス法」の特許を譲り受けるべく、東北大学の永井健三郎博士を訪ねたが、既に安立電気(現アンリツ)が買っている事を知った。安立電気の磯英治社長は、井深とは中学時代からの無線友達だった事から売ってくれると快諾したが、50万円という金額に手が出ないと困り果てた。しかし、この時も日電の多田正信が、うちでも何れ磁器録音機を作りたいからと半額を持ってくれる事となった。このように東通工は、例え障害が立ちはだかっても、昭夫と井深の人間関係に助けられ解決されて行ったのである。

そこで、井深がテープを回す強力なモーター開発を買って出た。井深は徹夜に継ぐ徹夜を繰り返してヒステリシスモーターを開発、電圧と周波数が下がってもテープの回転に変化がないモーターを作成した。昭和25年1月、録音時間1時間の業務用「G型」と30分用の家庭普及型「A型」の試作機が完成。昭夫と井深が将校のテープレコーダーの音を聴いてから1年、ようやく社員の苦労が形となって日本初のテープレコーダーG型が発売されるに至った。この画期的商品は、飛ぶように売れるに違いないと、昭夫は目論んでいたが3ケ月を過ぎても1台も売れなかった。続く…。
※No5で終了予定です。
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