2007/4/12

スピンさんの欧州便りNo20…ミケランジェロが残した唯一のサイン  スピンさんの欧州便り

ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)は、イタリアのルネサンス期の彫刻家であり、画家、建築家、詩人として、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ・サンティと共に、ルネサンスの三大巨匠と呼ばれています。1475年3月6日にフィレンツェ共和国(現在のイタリアのトスカーナ州)カプレーゼに生まれ 1564年2月18日89才と11ヶ月…90才になる直前までに、彫刻ではサン・ピエトロ大聖堂のピエタ、ヴェッキオ宮前のダビデ像、設計では、サン・ピエトロ大聖堂の他にローマのファルネーゼ宮の増築サン・ロレンツォ教会図書館があり、絵画では、かの有名なヴァティカンのシスティーナ礼拝堂、正祭壇背面壁画の「最後の審判」、そして同礼拝堂の天井画には、天地創造の天地創造から大洪水までの9場面を、フレスコ画(漆喰を塗って乾く前に上から水溶性顔料で描く、書き直しが出来ない画法)で描くなど、天才的な作品を残しています。
クリックすると元のサイズで表示します最後の審判…1541年完成。
※この絵を描いた時、絵の具が目に入って失明の原因となったとも言われています。

ミケランジェロがその生涯の作品の中で、唯一自身のサインを残した物が、サン・ピエトロ大聖堂のピエタで、実際に見た人でも意外に分からないのが、ミケランジェロのサインです。写真を、拡大してみると、下の写真に黄色くマークした部分にミケランジェロのサインを見ることができます。
黄色の部分にサインがあります→クリックすると元のサイズで表示します

また以下の写真は、オリジナルの写真からサインの部分を抜き出して、
↓画像の解析ソフトでサインを見易くしたものです。
クリックすると元のサイズで表示します

こんなに彫刻の正面に大きく彫られたサインって、相当珍しいのに
見た人が気付かないのは、ミケランジェロの彫刻が天才的だったからかしら?

クリックすると元のサイズで表示します

サインの文字(上の写真↑)は、ラテン語で
“MICHAELAGELUS BONAROTUS FLORENTIN FACIEBA”と書かれています。
(後の方の文字はこの写真では見えません)
ただ、この文字列にはスペルの欠落があって、
それを普通のラテン語の表記に直すと
“MICHAELANGELUS BONAROTUS FLORENTINUS FACIEBAT”で
意味は「フィレンツィエ人 ミケランジェロ・ブオナローティ作」です。

ガイドブックにも「ミケランジェロがサインをした唯一の作品」って書かれてはいますが、
中には「名前の署名は無く、フィレンツィエの人とだけ彫られている」
…なんて、書いてあるガイドブックもあったりします。
それにしても、こんな目立つところに目立たない方法で!って、
そっちもビックリ!ですよね。 
下手をすると、作品が台無しになってしまいます。

ミケランジェロがピエタにサインをした理由は、
「25歳の若者にこれが彫れる訳がない。他の彫刻家のものではないか?」と、
ローマ人に疑われて、
自尊心を傷つけられたミケランジェロが、教会に忍び込んでサインを彫ったそうです。
でも、衝動に駆られてそんなことをした自分を恥じて、
以後は、決してサインをする事は無かったと言う話です。
アクリルガラスで保護されたピエタクリックすると元のサイズで表示します

それから、ピエタを囲んでいるアクリルガラスは↑
自動車のスピードメーターみたいな低反射防弾ガラスなのですが、
設置されたのは何年か前で、比較的最近です。
30年以上前に、ピエタがハンマーを投げつけられて
破損される事件があったみたいだけど、
それは、X線写真じゃないと分からない程に修復されています。

ガラスで仕切るきっかけになったのは、観光客が凄く増えたせいじゃないかな?
最近は、連休やバカンスのシーズンになると、
大聖堂の中に入るだけでも大変みたいですよ。
それだけ人が居ると変な人も居るって事なのかしら?ちょっと悲しいですね。


ピエタ…1498年開始〜1500年完成
クリックすると元のサイズで表示します
※クリックして拡大して見て下さい。↑大理石で出来ている事が良く分ります。

1

2007/4/11

ノリタケの森を訪れてNo2…オールドノリタケから現代へ(写真集)  日記(今日思うこと)

私がノリタケの器に興味を持ち始めたのは、つい最近の事である、名古屋で造られているという事から、私にとって身近過ぎたのか、頂く事はあっても、自分で買い求める事は無かった。しかし、親戚の家にあったオールド・ノリタケと呼ばれている、明治から大正にかけて造られた花瓶を見てから、その美しさに感動し「ノリタケの森」には、いつか行きたいと思っていた。更に昨冬、ジョン・万次郎氏が高祖父にあたられる、中濱博先生(医学博士)の御自宅へ伺った時に、出して頂いたティーカップの存在感に「もしや?」と思って失礼ながら尋ねてみたところ、ノリタケ製で、実は奥様が「モリムラ・ブラザーズ」の重役さんの娘さんで戦前までニューヨークでお過ごしになっていたと知った。
クリックすると元のサイズで表示します ローゼンボルグのカップ&ソーサー

出して頂いたティーカップは、ローゼンボルグと呼ばれるシリーズで、現在は業務用しか作られていないようだが、気品があって素敵なカップとケーキ皿だった。中濱先生の奥様も、とても上品な方で、開戦直前には、お父様だけをNYに残して、ご家族と共にご帰国されており、当時大変な思いをされたお話も、詳しくお聞きする事が出来た。私は、益々「ノリタケの森」へ行きたいと思うようになった。そして先月13日、ようやく念願叶って行く事が出来たのである。正に近くて遠い?道程だった。
クリックすると元のサイズで表示します ノリタケの森・ウェルカムセンター

2007年のイースターエッグ クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します過去のイースターエッグコレクション

レストラン、キルン内 クリックすると元のサイズで表示します
オールドノリタケの絵型

クリックすると元のサイズで表示します
↑葉書(上)とクリアファイル集→クリックすると元のサイズで表示します

※以下8点は、オールド・ノリタケの写真

クリックすると元のサイズで表示します 金盛り上げ 薔薇絵
花型 特大ボール

金盛りぶどう文 花瓶クリックすると元のサイズで表示します
(明治24年製)

クリックすると元のサイズで表示します 金盛り薔薇文
チョコレートカップ&ソーサー メイプルリーフ印

金点彩 薔薇文水差し クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します盛り上げ 転写 手彩色
ムース文マグセット

ウエッジウッド風 天使柄ボール クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します銀彩アールデコ枠花文かぼちゃ型
ティー&ケーキセット23pc(大正7年)

アールデコクラウン・フィギュラル灰皿クリックすると元のサイズで表示します
(大正15年)


昭和7年、日本で初めてボーンチャイナの開発に成功したノリタケは、ニューヨークでディナーウェアとしての地位を確立して行ったが、戦争の逆風を一気に受けた。当時、陶磁器は生産中止を余儀なくされ、家庭用電球の傘までが供出を命じられた為、金属製傘の代用として「磁気製電灯傘」を生産したりした。終戦直後は、材料の品質低下によって戦前の品質基準に達しなかった事から、ブランドのイメージを守る為に「Rose China」の商標を使用した。そして品質が戻った後も、連合国占領下てあった為、パターンネームの下に「Made in OCCUPIED Japan」(占領下)と表記するよう義務付けられたという。
クリックすると元のサイズで表示します OCCUPIED (占領下)の刻印がある。

↑これは、スピンさんから頂いた写真であるが、パリの骨董屋に置かれてあった古いノリタケの器に刻印されていたそうだ。“OCCUPIED”(占領下)が入ってる為、希少価値があるらしく高価で、ティーセットで€の桁が4桁だったという。スピンさんのお話では、Noritake Chinaと書いてあっても、実は聞いた事が無いヨーロッパのメーカーだったりする事もあり、Noritake Chinaは、既に固有名詞と言うより、陶磁器の普通名詞のようになっているそうだ。19世紀末のヨーロッパの陶磁器技術に魅了され、ニューヨークでその一歩を踏み出した…「森村ブラザーズ」の情熱が100年間の歩みの中で、世界中で愛されるワールドブランドとして、育まれ続けて来た成果だと思った。
0

2007/4/10

ノリタケの森を訪れてNo1…森村ブラザーズとオールドノリタケ  日記(今日思うこと)

異文化競合の中から新しい文化を発信し続けて来たニューヨーク…。別名、メルティング・ポットとも呼ばれていたその街で、後に「ノリタケ」の創始者となった森村市左衛文は、今から約100年前の明治9年、まず弟の豊を単身で送り込み、輸入雑貨店を開業、明治11年には自身も渡米しニューヨーク六番街に「モリムラ・ブラザーズ」を開店して貿易業を開始した。当時アメリカに輸入されていたヨーロッパの美しい陶磁器を目の当たりにした彼らは、ニューヨークを代表とするアメリカの文化は、ヨーロッパ文化への羨望と、移民の国としてヨーロッパを追い抜きたいという願望に満ち溢れている事に気付いた。市左衛文は、この美しい磁器を日本で製造したい…2人は新たな夢に向かって、まず技術者をヨーロッパに派遣し当時の最新技術を学ばせた。
クリックすると元のサイズで表示します 日本初のディナーセット(セダン)

更に、ヨーロッパ芸術の普及版をアメリカで商品化しようと考え、ヨーロッパと日本の技術を融合させた本格的な陶磁器製造を決意して、明治37年(1904年)「日本陶磁合名会社」を設立。ドイツから本格的な機械一式を輸入し、陶土に恵まれた瀬戸にも近く、良質の水にも恵まれていた、現在の名古屋市西区則武町に陶磁器製造工場を建設、日本初の大規模な機械工場となった。そしてその年、日本で初めてのディナーセットを製造した。私は、かねてより希望していた「ノリタケの森」を訪問し、まずノリタケ創業100周年を記念して造られた、森村・大倉記念館へと足を進めた。そこには、森村兄弟の国益を重んじた貿易への情熱や、森村ブラザーズのアートデレクターであった大倉孫兵衛の物づくりに対する精神など、創業者の夢と理念が紹介してあった。また記念すべき一号窯の模型から、現在の森村グループである日本碍子のセラミック事業、衛生陶器事業としての東洋陶器(TOTO)等の歴史と未来が凝縮して展示されていた。

森村・大倉記念館全景→  クリックすると元のサイズで表示します
クリックすると元のサイズで表示します 一号窯の模型。


一旦外に出て、クラフトセンターに入ると、3F、4Fはノリタケミュージアムとなっており、オールド・ノリタケの芸術的な作品の数々が展示されている。19世紀末のアメリカは、ヨーロッパの影響を受けつつも独自の文化を生み出そうとしていた。やがて経済的に豊になったアメリカは、ヨーロッパでは上層階級の人々だけ享受出来た世紀末芸術の快楽を、マジョリティにも分け与えようとした。一般大衆の為の芸術…不特定多数のためのアートを、大量生産しアメリカの隅々まで流通させたい。アメリカの中流階級の人達が自宅のマントルピースに置く事が出来た美術工芸品…それがオールド・ノリタケだった。
クリックすると元のサイズで表示します金点盛 薔薇 両手付大プレート
(明治27年製作)


オールド・ノリタケのデザインを分類すると、アールヌーボー、ウィーン工房、アールデコなど多様性に富み、同時代にヨーロッパで流行っていたジャポニズムを感じさせるもの、そして西洋の伝統的な装飾技術を継承したものも見られる。しかも幾つかの装飾様式が同居し調和している事に気付く。この背景にはノリタケの陶器産業発展への情熱を感じる事が出来る。それは、伝統的な絵画技法と新しい流行のディテールの融合こそが、慣れ親しんで来た伝統的絵画と、憧れのヨーロッパの流行の最先端を組み合わせる事になり、アメリカの人々に親しまれる製品になると予想したのである。また、はっきりとしてではないが、ジャポニズムも忍ばせてあり、アメリカの美術愛好家の間では、ヨーロッパを介したエキゾチックな日本美術…ジャポニズムが求められていた事も把握して製作されている。

以上のように、19世紀末から20世紀始めのアメリカ社会で求められた夢を織り交、時代の流れを的確にとらえた製品を製作して来たからこそ、「ノリタケ・チャイナ」として親しまれている現在の「ノリタケ」がある。オールド・ノリタケのデザインの多様化は、そのままアメリカ社会の多様化の反映であり、カルチャー発展の足跡と重なる。作品の一つ一つから、アメリカ社会が求めた芸術と、それに応えようと製品を作り続けたノリタケの情熱が込められており、アメリカと日本の文化史の一ページにその歴史を残す事となったと言っても過言ではないだろう。
レンガ造りの古い工場跡 クリックすると元のサイズで表示します

「ノリタケの森」は、広大な敷地に古いレンガ造りの工場の姿を残し、季節の花々が植えられて都心のオアシスとなっている。中には、上記した記念館・美術館以外に、本物志向の方が買い物が出来るプレステージ・ショップや、アウトレット、職人の技を見学したり、絵付けが体験できるクラフトセンター、喫茶店のスクウェアカフェ、そして本格的なコース料理が美味しくて比較的お値打ちのレストラン・キルンがある。キルンでは、目で食器と料理のハーモニーを楽しみながら、舌を満足させるだけの料理を取り揃え、連日多くの人を迎えているという。

◎「ノリタケの森」公式HP
http://www.noritake.co.jp/mori/index.html

◎「ノリタケの森」この他の写真、「オールド・ノリタケ」の写真と解説は、明日以降UPします。
1

2007/4/9

いわさきちひろの初期の挿絵…「プランゲ文庫」で発見される  日記(今日思うこと)

アメリカのメリーランド州、メリーランド大学には、ゴードン・W・プランゲ博士のコレクションからなる「プランゲ文庫」があるという。プランゲ博士は、戦時中マッカーサー元帥が率いる連合国軍総司令部に勤務していた事から、1945年から1952年に渡る、連合国軍による日本占領下の時代に、連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)によって発禁処分となった1945年から1949年に発行された出版物(図書・雑誌・パンフレット・新聞)や検閲文書・公的通信文書・ポスター等を、その歴史的価値に着目して、検閲制度の廃止に伴い、アメリカの機関による一括収蔵を総司令部に要請し、許可を得て収集した。そのコレクションは雑誌だけでも13,783冊に及び、約600余の木箱に納められて、1951年には全てをアメリカに移転、博士の希望通りメリーランド大学のマッケルディン図書館に寄贈され、1979年、博士の功労を称えて、そのコレンションを「プランゲ文庫」と命名されたそうだ。
クリックすると元のサイズで表示しますプランゲ文庫、雑誌の目録より。

時事通信によると、その膨大な資料の中から、この度、いわさきちひろの挿絵が発見された。その挿絵は、終戦後の1948年に作製された冊子に掲載されており、いわさきちひろが、本格的に創作活動を始めたと言われている頃の作品で、関係者は「初期の画風を知る上で貴重な発見」と話しているそうだ。この冊子は、紙芝居の脚本集として「暖い教室」という題が付けられ、発行元の日本共産党出版部からGHQに提出されたと記録されている。発禁処分の理由は明らかにされていないが、冊子の表紙には英語で「BOOK DEPT FILE COPY」…「全体として印刷不許可」との版が押されている。このニュースを受けて、いわさきちひろの子息であり、ちひろ美術館の館長、松本猛氏は「私も初めて見た作品だ、ちひろは1947年から絵の仕事を始めていたが、今回の作品はその初期の頃と同じタッチで描かれている。ちひろの作品が海外で見つかった例も初めてだが、資料として残したいと考えている」と語ったという。
ちひろの可愛らしい絵本の挿絵。クリックすると元のサイズで表示します

いわさきちひろの絵本等の挿絵の作品としての殆どは、水彩で輪郭のない柔らかなタッチが特徴で、私は子供の頃の誕生日に「ひさのほし」という絵本を貰って以来、その絵の虜となった。中でも「戦火のなかの子供たち」の挿絵や、「わたしがちいさかったときに」の挿絵は、柔らかなタッチの中にも、鋭い反戦のメッセージがこもっていて印象的であった。過去の記事で「戦火のなかの子供たち」には触れて書いたが、「わたしがちいさかったときに」は、長田新が編集し発表した、原爆体験の子供達の作文集、「原爆の子」を再編集した本で、表紙を開いた途端、晴れ渡った夏の日、無邪気に遊ぶ子供達の頭上に炸裂した原爆の悲惨さが訴えられて来る。作文は勿論だが挿絵としても、戦地に出向いた兵士達の戦いとは、また違う角度で戦争の悲惨さを描いた作品であり、真の言葉…魂の叫びが綴られていると言えよう。残念な事に、「わたしがちいさかったときに」に集められた作文の作者であった子供達の殆どが、後に放射能障害でその尊い命を落としてしまったという。
クリックすると元のサイズで表示します本、「わたしがちいさかったときに」…子供達の目から見た戦争の悲惨さが描かれている

今回見つかった挿絵の物語は、金権政治に走る悪徳議員の陰謀を、保護者や当時の共産党議員達が食い止めて、空襲で吹き飛ばされた学校の窓にガラスをはめ変えるという内容だそうだ。奇しくも日本は第16回、全国統一地方選挙の真っ最中、今回当選した議員さん達にも是非見て頂きたいと思った。尚「プランゲ文庫」に収集されている作品は、戦後ゆえに、印刷用紙が粗悪であり、資料の劣化が急速に進行して、その保存方法が問題になったが、長年「プランゲ文庫」の管理長を務められた日本人図書館員・故)村上寿世さん(1997年逝去)の熱意により、1992年からこの膨大な資料のマイクロフィルムによる保存事業が、メリーランド大学図書館と日本の国立国会図書館の協力によって開始され、約40%の資料のマイクロ化を実地したという。また「プランゲ文庫」は、一般にも公開され(要、予約)、2001年から2002年にかけて日本財団の助成を得て、文庫内の教育関連図書のオンライン目録化が完了している。(いわさきちひろ、長田新…敬称略)

◎以下、プランゲ文庫公式サイト
http://www.lib.umd.edu/prange/index.jsp

0

2007/4/8

スピンさんからの便り…松坂大輔投手メジャー初登板の写真集  Boston Red Sox・MLB

以下の写真集は、スピンさんのお友達のカメラマンさんが撮られた写真です。
写真は全てクリックで拡大しますので、是非、拡大して松坂大輔投手の力投振りをご覧下さい。

クリックすると元のサイズで表示しますメジャー初登板の松坂投手。

寒い中、初勝利をあげた。クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

108球、10奪三振の力投。クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示しますカウフマン・スタジアムのマウンド。

勝利のハイタッチシーン。クリックすると元のサイズで表示します


※以下、写真に添えられていたスピンさんのコメント…。

『松坂君の写真です。
新聞社の人が「マツザカ、やったね」って言って、
「写真が要るか」って聞かれたから、
とりあえず、貰ったから送りますね。
イタリア人記者で大リーグのファンと言うのも貴重品ですけどね。
その人は私が野球を全く知らないことには、気づいてないみたいです。
マツザカファンじゃなくて、松坂君“だけ”知ってる事もね♪』


スピンさんは、ヨーロッパの芸術や音楽などの文化、歴史にも精通、
フィギュアスケート、サッカー等のスポーツにも大変詳しくて、
いつも拙ブログの載せるのが勿体無い程?の写真を送って頂いたり、
添えられている…大変詳しい解説を読ませて貰えたり、
家に居ながらにして、世界を旅した気分にして頂けたりするのですが、
彼女にも、アキレス腱?があって、そのギャップの激しさに?時々笑わせて貰っています。

例えば、この写真↓↓↓と、添えられていたコメント。
クリックすると元のサイズで表示します

『そう言えば、トリノでお知合いになった人からメールが来てて、
「この写真に写ってる3人を知ってる?」って言うの。
それが上の写真なんだけど、安藤美姫ちゃんと
ほたるさんがブログに書いてたカーリングの選手ですよね。
(名前は分からないけど)

もう一年以上前になるんだなぁと思って 』


トリノオリンピック、パラリンピックでボランティア活動をされたスピンさんですが、
日本国内で話題になっていた選手や、芸能人には、かなり疎い事が多く、
このように、なかなか手に入らない…元チーム青森の林選手や、
小野寺選手の素顔が写った、貴重な写真にも関わらず、
『名前は分からないけど』と言ってのけてしまう、
正に「猫に小判?」状態だ…と思うこともしばしば…です。

また、日本中がTVに釘付けとなったフィギュア世界選手権でのエピソードですが、

スピンさんの妹のチビスピンさんは、
従兄さんのスパイラルさんが手配された(スパイラルさんは国外出張の為、結局観られなくて…)、
全試合の通し券でその上、リンクサイドのスーパーシート?の
プラチナチケットを持って、東京体育館へと観戦に行かれていました。
女子フリーの日には、『鳥肌が立った』という感想メールがスピンさんへ届き、
スピンさんも『おっ、チビスピンも感動したんだ』と一瞬は思われたらしいのですが、
『リンク脇だったから氷が近くて、寒くて寒くて…』だったそう。。

更に、観戦後、遅くなるからと(これもスパイラルさんが)手配されていたホテルが、
偶然にも選手達と同じで、毎日ホテルまで選手達と一緒に帰られたとか。。

その事についても、スピンさんがチビスピンさんに『どの選手と?』と尋ねたところ、

『外国の選手』と一言。。

熱烈なファンでも、チケットが取れなかった人が沢山いたはずで
『選手達を一目でも見たい』と追いかけているような熱狂的ファンの人が聞いたら、
首を絞められそうな?恐ろしい発言でした。

この一連の件に関して、スピンさんは『猫に小判=チビスピンにプラチナチケット』
と話して下さいましたが、
私は『猫に小判=スピンさんにメジャーリーガーの写真集』とは同意語だと思い、
やはりこの天然ぶりは、同じDNAだと確信!!
養殖されたボケの私では、到底適うものではないと、改めて認識…脱帽致しました。

※スピンさん、いつも素晴らしい写真とレポートで感動させて頂いたり、
また、時には笑わせて頂いて、ありがとうございます。心から感謝しています。by...hotaru.

◎奪三振の漢字を変換ミスしていました。
御指摘下さったノックオンさんありがとうございました。4/8 12:10 by hotaru.
0

2007/4/7

松坂大輔、メジャー初勝利…勝利に足で?貢献したオルティース  Boston Red Sox・MLB

4月6日、愛知県では小学校の入学式…満開の桜の木の下、県下の一年生がスタートを切った。その晴れの門出の日、早朝仕事の為に目を覚ましTVの電源を入れると、メジャーでデビュー、スタートを切ったボストンレッドソックスの松坂大輔の勇姿が写っていた。回は7回。4対1でレッドソックスがリードしていた。私はVTRの録画がONになっている事を確認して仕事をし始めた。仕事の途中でお客様から教えられ、レッドソックスが勝った事は知っていたが、その試合内容を楽しみに仕事の後、VTRでじっくりと観戦した。
クリックすると元のサイズで表示します1億ドル右腕と言われている松坂。

試合開始は、現地時間の午後1時10分、ミズーリ州カンザスシティは、異例の寒さで、気温2℃、ロイヤルズの本拠地、カウフマンスタジアムは、1億ドルプレーヤーの松坂を、体中が萎縮するような寒波で迎えた。デビュー戦のプレッシャーを、過去、国際試合等、何度もプレッシャーのかかる試合で投げて来た松坂は、まるで日本のマウンドにいる如く見事に跳ね除けた。マニー・ラミレスのタイムリーヒットで1点の援護を貰った1回裏、敵地2万3170人のブーイングの中、躍るようにマウンドへ飛び出した。それは松坂が、10才の頃から夢見ていたメジャーのマウンドだった。寒さ対策に、投球の合間に何度も息を吹きかけ指先の感覚を保っていた。試合後のインタビューで、低温時の投球についても「東北の楽天相手に投げた事があるが、低温時は感じている以上に体力を消耗する、自分の球威で計りながら投げていた」と発言する余裕すら見せていた。
息で指先を暖める松坂クリックすると元のサイズで表示します

圧巻だったのは、打者が一巡した4回だった。2番・ヘルマンからの上位打線を3者連続三振に斬って取った。この回から敵地ファンのブーイングも鳴りを潜め、松坂の投球ぶりを息を呑んで見守るようになっていた。いきなりヒットを浴びたロイヤルズの一番バッター・デヘススには、6回にはHRも浴びてしまったが、7回を投げ終えて、結果を見れば10奪三振…。デビュー登板としてのこの記録は、レッドソックスのルーキーとして、1977年のドン・アーセの11個に次ぐ記録となり、日本人投手としては2002年、ドジャーズの石井一久と同じ最多タイ記録とした。(レッドソックス移籍後の初登板としては、ペドロ・マルチネスも11奪三振を記録している)

私にとっての見所は、松坂が投げ終えた8回表だった。試合開始前「俺のバッドで勝たせてやる」と宣言していたデビッド・オルテイースが、それまで審判の危うい判定で三振になっていたジレンマを、吹き飛ばすような2塁打を放つと、次のマニー・ラミレスの犠打でタッチアップ…巨体を揺すりながら3塁に走った。その後、ロイヤルズに失策が出ると、素早くスタートしスライディングしてホームへ突っ込んだ。NHK解説の与田剛も、オルティースの怪我も辞さない走塁ぶりに「ベースカバーに入ったロイヤルズのぺラルタ投手は恐かったでしょうね。しかし素早いスタートでした」と褒め称えた。ここまで僅か1点差という緊迫した試合だったが、この1点が試合の流れを大きく変えたように思った。それにしても「オルティースが走る」というだけで話題になる。以前、盗塁した時などは「何を早まったのでしょうか?サインミスでしょうか?」とアナウンサーがつい口走ってしまった事もあった。決して足が速いとは言えないはずだが、この走塁ぶりには、巨体ゆえに遅く見えるだけで、実は速いのか?と錯覚した程だった。
クリックすると元のサイズで表示します 好走塁を見せたオルティース。

この後、レッドソックスは1点を追加、そして松坂の後を受けて8回、J.C・ロメロも好投し、9回は頼もしいクローザー、ジョナサン・パベルボンが力投して、打者3人で勝利を決定付けると、ウィニング・ボールは、パペルボンからキャプテンで捕手のバリテックを通じ松坂の手に渡された。私は試合をTV観戦していて、松坂の出来としては、変化球のコントロールが今一つで、可もなく不可もない70点位だったのでは?と思ったが、何より嬉しかったのは、松坂がオルティースを始めとする、レッドソックスの選手達(特に、マニー・ラミレス、ジュリアン・タバレス、ウイリーモー・ペーニャらドミニカ出身の選手)に、受け入れられている光景を観られた事だった。勝利のハイタッチの時、オルティースと手を合わせて拝みあっている姿を見て、こんな光景を数多く見られれば、松坂は20勝近い数字を残せて、レッドソックスは、念願の地区優勝が出来るような気がした。松坂は、11日、マリナーズを相手として、数々の大投手が立った歴史あるホーム球場のマウンドに上がる事が決まっている。
守護神、パペルボンと固い握手。 クリックすると元のサイズで表示します

尚、オルテイースは試合後の会見で「(DHとして終始)モニターでダイスケの投球を見ていたが、凄い奴だ。信じられないようなボール(球種)を一杯持っていて三振を取りたい時に取れる。ペドロ(現メッツ)を思い出したよ」と、語ったという。(文中敬称略)、写真はYohoo photoより。

◎以下、MAJOR JPより、ジェフ・ゴールドバーグ氏によるコラム
「松坂とペドロ、鳴り物入りで入団した2人の類似点」

http://mlb.yahoo.co.jp/column/?n=16

0

2007/4/6

スピンさんの欧州便りNo19…サン・ピエトロ大聖堂(U)  スピンさんの欧州便り

キリストの復活祭(4月8日)を前に、
スピンさんから、サン・ピエトロ大聖堂の新しい写真を送って頂きました。

テーマは「光とバジリカ」
大聖堂と自然光が織り成す、荘厳な静謐さに満ち溢れた、幻想的な世界をお楽しみ下さい。
(画像は全て、クリックで拡大します)

Basilica di San Pietro:バジリカ・ディ・サン・ピエトロ
クリックすると元のサイズで表示します
↑サン・ピエトロ大聖堂とサン・ピエトロ広場。
ヴァティカンの東南端に当たり、写真の右側にヴァティカン市国が広がります。
ヴァティカンには大聖堂だけでは無くて、中にはテレビ・ラジオ放送局、新聞・雑誌出版社、病院、駅、空港(ヘリポート)、郵便局、発電所、電報電話、銀行、天文観測所etc、国連にもオブザーバーで加盟していて小さくても立派な国です。
ローマで郵便を出すときは、ヴァティカンのポストに入れた方が速く着くそうですよ。
(確かにイタリアの郵便は遅いです)

サン・ピエトロ大聖堂正面クリックすると元のサイズで表示します
※ローマ市内からヴァティカンへ…。

クリックすると元のサイズで表示しますサンピエトロ広場の中心に建つ、
オベリスク:Oberisk(25.37m 320t)
※紀元前のエジプトからローマのカリギュラ(ネロ)広場へ。
そしてこの場所に移築されたもの。
パリのエッフェル塔近くのオベリスクと殆んど同じ高さです。

Cupola:クーポラ(ドーム)クリックすると元のサイズで表示します
※一番上の十字架までの高さは136.57mで高層ビル並みです。
設計プランはミケランジェロ、完成はジャコモ・デラ・ポルタ:Giacomo della Porta
内側は回廊になっていてローマ市内を一望することができます。

クリックすると元のサイズで表示します←この窓が日曜日の正午にローマ法王が信者を謁見する場所。

ミケランジェロのピエタ クリックすると元のサイズで表示します
※入り口を入って右に進むとミケランジェロのピエタ:Pieta(1499)があります。
防護ガラスでガードされているけど分かりますか?
実際に見てもガラスは気になりません。

高さは174cmでサン・ピエトロ大聖堂の彫刻の中では小さい方。
でも大理石とは思えない柔らかさと透明感には圧倒されてしまいます。
これを完成させたのがミケランジェロ25歳の時。天才って居るんですね。
クリックすると元のサイズで表示します

※大聖堂に入って目を奪われるのは、まずその広さ。
2.3ヘクタールと言うことは23,000u。次は祭壇のスケールの大きさです。
でも、大聖堂の荘厳な雰囲気を作り出しているのは、
どこからか射してくる何条もの白い自然光です。


大聖堂に射し込む自然光 クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クーポラの内側 光と天井画 クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します←上の天井画を拡大…。

※↓まるで異次元…特殊撮影みたいな光景です。
クリックすると元のサイズで表示します

サン・ピエトロの像 クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します サン・ピエトロの玉座
 ※この中に、聖ピエトロが実際に使った木の椅子が入っているそうです。

上の写真の光背のアップ。クリックすると元のサイズで表示します
※輝いているのは、中に照明が入っているわけではなく、一種のステンドグラスです。

クリックすると元のサイズで表示します 夕暮れのヴァティカンの空。

コルネードと噴水 クリックすると元のサイズで表示します
(ベルニーニ:Gian Lorenzo Bernini作)

※最後にヴァティカンを離れて夜のトレヴィの泉です。

クリックすると元のサイズで表示します
0

2007/4/5

花祭り(仏教)と復活祭(イースター・キリスト教)に思う事  日記(今日思うこと)

今度の日曜日…4月8日は、仏教では「灌仏会(かんぶつえ)」と言い、釈迦の誕生を祝う「花祭り」として寺院では、小さな「花見堂」を造り、参拝者がお釈迦様の像に甘茶を3回かけるという行事が行われる。甘茶は釈迦が誕生した際に、天から降りた甘い露の代わりだという。私は幼い頃、隣のお寺へヤカンを持って出かけ、甘茶を貰って来ては飲んだ事を思い出した。一方、キリスト教では、春分の日後の満月の後の最初の日曜日を「復活祭」とする習わしで、今年は8日が「復活祭…イースター」となる。「復活祭」と言っても、クリスマス等と違い、日本人には馴染みが薄い気がするが、キリスト教では最大のお祭りとされ、NYを始め欧米各地ではパレードが開催されたり、「イースター・エッグ」を作って子供達が遊ぶ等、祝日としてキリストの復活を盛大に祝っている。
クリックすると元のサイズで表示します 卵と兎の絵…イースターのカード。
「イースター・エッグ」は、キリストが死後3日経って復活した事と、雛が卵から生まれる事とを結びつけた事に由来し、この卵は兎が運んで来るとされている。兎は多産である事から、生命力の強さと五穀豊穣を象徴しているという。美しい「イースター・エッグ」は、殻に鮮やかな彩色を施したり、綺麗に包装したゆで卵を食卓に出す習慣から生まれたが、中には細部に渡って装飾が施された…芸術品として価値のある物も少なくない。また、国や地域によっては、庭や室内の彼方此方に卵を隠し、子供達に探させるという遊びも、盛んに行われているようだ。

NY、フォーブスギャラリーの卵の殻クリックすると元のサイズで表示します

 ※以下は、スピンさんより…ヴァティカンでの復活祭のミサの様子。
(以下の写真は、全てクリックで拡大します)

※復活祭(Pasqua)の時のサン・ピエトロ広場。正面が大聖堂。右側がヴァティカン博物館です。
クリックすると元のサイズで表示します

大聖堂のアップ。クリックすると元のサイズで表示します
※ニュースなどでローマ教皇が手を振ってるのは、↑中央2階のバルコニーです。

↓上の写真を更にアップ。教皇が世界中から集まった信者にお話をしているところ。
↓柱の大きさと人の大きさを比べると、この大聖堂の大きさが分かります。
クリックすると元のサイズで表示します

サン・ピエトロ大聖堂の中。クリックすると元のサイズで表示します
※中央祭壇はブロンズで出来ています。

クリックすると元のサイズで表示します 祭壇と教皇…Papa
(ベネディクト16世:Benedictus XVI)

大聖堂のドームから下を見ると…クリックすると元のサイズで表示します

※大聖堂の中は、荘厳な静謐(せいひつ)さに満ち溢れ、
       復活祭を祝う神聖なミサの様子が伝わってきます。by...spin.


◎箸休め
イースターのもう一つの風物詩として、「イースター・リリー(Easter Lily)」と呼ばれる白い百合の花がある。この「イースター・リリー」に使われている百合の花の種類だが、実は日本が原産の「テッポウユリ」が欧米に渡ったものだと言われている。白い百合は、純潔のシンボルで、聖母マリアを象徴する花としてイコン画にも登場しているが、「テッポウユリ」が渡欧する以前は「マドンナ・リリー」という種類の百合が一般的に使用されていた。しかし「テッポウユリ」を観た欧米の人々は、その凛として大きく咲く姿に魅了され、以降、「イースター・リリー」として圧倒的人気を得る事となった。及ばずながら、私も日本生まれの「テッポウユリ」のように、凛としていたいものだと思った。by...hotaru.
クリックすると元のサイズで表示します真っ直ぐ伸びて凛と咲く「テッポウユリ」

◎サン・ピエトロ大聖堂について、詳しくは過去記事…
「スピンさんの欧州便りNo5…サン・ピエトロ大聖堂」へ。。
  ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
0

2007/4/4

上巳の節句…柳川の「さげもん」と尾張徳川の雛飾りに思う事  日記(今日思うこと)

今日は満月、花冷えの空に満月が煌々と輝いている。各地区で開催されている雛祭りの行事も、4月3日または、今週末で終了する所が多いが、今年の旧暦の3月3日は4月19日にあたっており、和歌を伝承し続けてきた京都の公家の旧家、冷泉家では、今頃から雛人形を飾り始め、旧暦3月の上旬の巳の日(上巳の節句=桃の節句)まで飾られているという。私が是非一度は訪れてみたいと思っている「柳川雛祭り・さげもんめぐり」は、残念ながら3日をもって終了してしまったが、名古屋市内の徳川美術館での企画展「尾張徳川の雛祭り」は、4月8日まで開催されている。
クリックすると元のサイズで表示します 北原白秋邸の雛飾りと「さげもん」

先に書いた「柳川雛祭り・さげもんめぐり」は、水郷の街「柳川」で、北原白秋家を中心に開催され、お雛様水上パレードもあり、街全体が美しく艶やかに飾られる。柳川と言えば、現在料理旅館として美しい庭園を誇る、旧柳川藩主・立花氏の別宅「御花」。そして江戸時代末期から、柳川藩主の腰元達の手慰みとして伝授されて来た「柳川鞠」が、私の記憶の中では浮かんでくる。「柳川」は、祖母が元気な頃、数少ない旅行自慢として話してくれていた街であった。「柳川鞠」は、女の子の無事な成長を願って一針ずつ刺し込んで作られ、やがてお雛様と共に飾られるようになったという。これが柳川名物、手作りの「さげもん」である。

庭先に飾られた「さげもん」→クリックすると元のサイズで表示します
クリックすると元のサイズで表示します 柳川鞠の豪華な「さげもん」

此方は「さるぼぼの雛飾り」→クリックすると元のサイズで表示します 
※飛騨高山のお土産に頂き、お店に飾ってあります。


また、徳川美術館へは、先月訪れる事が出来たが、数あるお雛様の中でも、目玉?は、秩父宮妃・勢津子様の雛飾りであった。勢津子様は、松平(会津藩)常雄氏の長女で、幕末に活躍した松平容保(かたもり)の孫。昭和3年(11928年)に秩父宮雍仁(やすひと)親王と御結婚され、平成7年(1995年)に薨去された。妃殿下として日本赤十字社を始めとする御公務に携わられる傍ら、美術品にも造詣深く、徳川美術館にも何度か訪れられているそうだ。妃殿下御愛蔵の雛人形、及び雛飾りは、形見分けの1つとして実妹の尾張徳川20代、義知夫人の正子様に遺賜され、平成8年に正子様より徳川美術館へ寄贈されたものである。皇室のお雛様に相応しく、男雛の冠は立纓(りゅうえい=天皇のみ許されたとされるシテ)で、装束も天皇のみに許されたとされている黄櫨染(こうろぜん=黄色の中に赤を混ぜた色)の御袍(おんほう=束帯の上着)を着用している。
クリックすると元のサイズで表示します 秩父宮勢津子様のお雛様

福君の雛道具「鏡台セット」
クリックすると元のサイズで表示します

そして毎年、人気を博しているのが、尾張徳川11代目夫人の福君様(さちぎみ)の雛道具である。「菊折枝蒔絵雛道具」と呼ばれるその精巧な雛道具は、梨子地に菊の蒔絵を配し、所々に御実家の近衛家の家紋である「抱牡丹紋」と徳川家の「葵紋」を散らしたデザインになっており、金具は全て銀製、現存する大名家の雛道具の中でも、最も華麗で格調高いと言われ、当時製作した職人達の意気込みを感じる事が出来る。福君は、嫁いだ年の3年後の天保10年に夫の斉温が病没すると落飾して「俊恭院(しゅんきょういん)」と改めるも、癪(胃痙攣)に苦しみ翌年10月に21才の若さでその生涯を閉じたと記録されている。福君は、その名に反して薄幸であったが、雛道具からは、当時の最高位の姫君の婚礼にこめられた思いが伝わって来て、暫し時の経つのを忘れてしまう。

◎参考
福岡県・北原白秋記念館の栞、JAF Mate No4、
徳川美術館発行「尾張徳川のひなまつり」より
0

2007/4/3

私の火傷…火傷の深度と応急処置についてと五条川の桜  日記(今日思うこと)

先週一週間、お店のスタッフが相次いで高熱を出したりし、毎日通常の半数のスタッフで営業していた。週末になってやっと寝込んでいたスタッフも復帰した。休日を翌日に控え私は少し気持ちが緩んだのだろう…。火傷を負ってしまった。仕上げに使用する業務用カールアイロンの電源が抜けてい為、コンセントをさし、電源onにしようとした。その後だった。アイロンが乗っていた台に左手を置いた途端、違和感が…。「痛み」とか「熱い」というより、違和感そのものだった。スタッフが気を効かせ他の場所で「max190℃」に暖め、そのまま移動して来たばかりのアイロン…それに私は手を着いてしまったのだった。
クリックすると元のサイズで表示します
急いで水道水を流し、患部を冷やし続けた。スタッフを呼んで仕上げを交代して貰った。30分以上経っても水道水から手を離すと激痛が襲った。だからひたすら冷やし続けた。そそっかしくドジな私ではあるが、手を使うこの仕事に着いてから、手だけは大事にして来たつもりだった。指を鋏で切りバレンチノのマークが残ってはいるが、仕事に支障をきたすような怪我をした事はなかった。困ったと思った。しかし不幸中にも幸いが沢山あり、偶然医療関係のお仕事の方がお客様でいらしていて、手当ての指示をして頂いた後、火傷専門の医療機関を手配して貰った。そして友達が飛んで来て病院まで車を運転、連れて行ってくれた。火傷は2〜3日経たないと正確な診断は難しいという。とにかく「今は患部を冷やして安静にする事が大切」と指導され、帰路についた。そして今日も別の友人の運転で病院へ行き、現時点では「左手指3本と掌の一部に2度の火傷」と診断を受け、明日も診察に行く事となっている。

◎以下、某病院の救急外来に貼ってあった資料より、
『火傷の深さと応急処置について』

★1度の火傷
熱湯が跳ねて肌についたり、日焼けによる火傷。火傷部分が赤くなり、ヒリヒリした痛みがある、ほぼ数日で治り、跡は殆ど残らないが、火傷した直後にしっかりと流水で冷やす事が大切。大人であれば病院に行かずとも自然治癒する。(子供の日焼けは日射病も伴う事が多いので注意が必要)

★2度の火傷(浅2度と深2度に分類)
高熱の物に触ったり、鍋やヤカン等をひっくり返して熱湯を被った場合は、2度以上の火傷を負うことが多い。

○浅2度
表皮から真皮にかけての火傷。火傷部分が赤く腫れるだけでなく、水膨れが出来、患部がジュクジュクしたりする。強い痛みが伴ったり、患部を熱く感じる事もあるが、感覚が麻痺してしまう事もある。約10日位で治り、火傷跡も残り難いが、火傷後のケアによっては跡が残る事もある。

○深2度
見た目は、浅2度と大きな違いはないが、真皮まで火傷している状態。赤く腫れ、水膨れ等もおきるが、水膨れの下の皮膚は白くなる。深めの2度の火傷は完治するまでに約1ヶ月間かかる。また、跡が残ることも多く、場合によっては皮膚移植をする事もある。

★3度の火傷
皮下組織や筋肉まで火傷を負っている状態。火災や爆発、小さな子供であれば、熱湯を被ってしまった場合でも3度になる事が多い。肌の表面は壊死してしまい、白っぽくなったり、炭化してしまったりする。痛みを感じる事は少ないが、自然治癒が出来ない為、火傷専門医師の下での治療が必要。跡は盛り上がったり、ケロイド状に残る事が多い。完治しても皮膚が引っ張られるような感覚や、機能障害が起きる場合がある。

※応急処置として
・患部は衣服の上からでも、素早く水をかける。
・手足であれば、水の中に痛みがなくなるまで漬け続ける。
※患部には、勝手に薬(味噌・アロエ)等を塗らず、
  清潔なカーゼ又はタオルで包み、冷やしながら病院へ行く事!。

★また火傷はその範囲も大変重要で、大人で全体の20%以上、子供で10%以上火傷してしまうと、命の危険がある為、掌位の範囲を体の1%と目安して、範囲が広い場合は(特に子供は)救急車を呼ぶ必要があるそうだ。


クリックすると元のサイズで表示します
◎箸休め
エイプリルフールの日、「4月馬鹿」をしたのは、その日が誕生日の弟ではなく、ドジな私だった。情けない話だが、自分でドジをして自分が痛い思いをするのは当たり前で、大事に至らなかった事を有難く思い、緩んだ気を引き締めなければと言い聞かせた。私の友達や知人は優しい?人達ばかりなので、「馬鹿だねー」と叱咤激励してくれたり、(私の)「代わりに花見に行って来た」と桜の写真を送ってくれたり、食べ物を差し入れてくれたりした。また、無事な右手だけで、PCのキーも速く打てるようになった。これを「怪我の功名」と言うのだろうか?。

クリックすると元のサイズで表示します 五条川の桜(愛知県岩倉市)
(画像はクリックで拡大)


五条川の桜は延長7.6km、1600本の並木になっている。桜の種類は、染井吉野が中心で、昭和24年頃から植えられて現在に至っており、市民の散歩道として親しまれると共に桜の保全にも、市が積極的に取り組んでいる。また五条川では、伝統的な鯉幟の糊落としの作業…「のんぼり洗い」が、寒の頃から桜の咲く頃にかけて行われ、昔ながらの風情を見る事が出来る。

「のんぼり洗い」…友人撮影。クリックすると元のサイズで表示します
クリックすると元のサイズで表示します
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ