2007/9/29

ボストン・レッドソックス、アメリカンリーグ東部地区優勝!  Boston Red Sox・MLB

現地時間の9月28日、レッドソックスの松坂大輔がレッドソックスの地区優勝をかけた試合に登板、8回を投げて2失点したものの、奪三振8個という快投を見せチームはデビット・オルティーズのホームラン等で確実に加点して5得点、9回を守護神、ジョナサン・パペルボンに託した。パペルボンは9回を打者3人で締め、レッドソックスが勝利した。同時進行でボルチモアではオリオールズ対ヤンキースの試合が行われており、ヤンキースが敗れれば地区優勝が決まる。ボルチモアでは打撃戦となっており、試合が長引いていた。フェンウェイパークの電光掲示板は、試合終了と同時にその試合を映し出した。観客は12年ぶりの地区優勝の瞬間を味わおうと、なかなか帰ろうとしていなかったが、8回表に、アレックス・ロドリゲスのタイムリーでヤンキースが9対6とリードすると、諦めたように帰り始める人が増えていた。
クリックすると元のサイズで表示します全員クラブハウスからグランドに出て…

しかしその後、奇跡が起きた。9回裏、オリオールズはヤンキース不動の守護神、マリアーノ・リベラを打ち崩して同点とすると、延長10回に、満塁作をとったバッテリーの裏をかくように、何とツーアウトからのバントヒットでサヨナラ勝ちをした。その瞬間、レッドソックの地区優勝が決定すると、選手達、首脳陣、観客も交えてのシャンパンファイトが始まった。既にレッドソックスは23日にプレーオフ進出を決めていたが、目指すはまず地区優勝!とシャンパンファイトは行わなかった。その分、選手達も弾けていたに違いない。過去9年間ヤンキースに首位の座を譲り続け、特に2005年は同率首位も直接の対戦成績で劣っていた為、地区優勝を逃した。そんな悔しさを晴らすような熱い夜となった。

松坂に浴びせるシリングクリックすると元のサイズで表示します
クリックすると元のサイズで表示しますベケットに浴びせ返す松坂。
集中攻撃を受けるオルテイーズクリックすると元のサイズで表示します
クリックすると元のサイズで表示しますシリングからティムリンへ。
※以上の写真は yahooスポーツより引用


尚、松坂は、開幕から200イニング以上を投げ、5〜6回に四球から崩れる試合も多かったが、怪我もせず先発ローテーションを守り続けた。ポストシーズンに向けて、まだまだ課題はあると本人も言っていたが、この試合は、四球を出しても落ち着いていたように思えた。奪三振の多い投手はホームラン被弾率も高いというが、シーズン通算201奪三振は、DICE-Kのあだ名に恥じない結果となったと言えよう。また27日、13試合振りにマウンドに上がった岡島は、マウンドにひざまづいて、また投げられる事に感謝したという。そして復活した。振り返れば、今年の活躍を占うが如く、レッドソックスのチケット売り場で渡させる、2007年の年間スケジュール表には、笑顔の松坂、岡島両人が印刷されていた。彼らが益々活躍し、ラッキーボーイとなって、今度はアメリカンリーグ優勝、そしてワールドシリーズへと駒を進めて制覇、後2度のシャンパンファイトを見たいものだと思った。
クリックすると元のサイズで表示します今季チケット売り場で配布された
年間スケジュール表…松坂、岡島がレッドソックスの顔として印刷されているのが誇らしい!


※歓喜溢れるシャンパンファイトは、以下のページで…
More Photosをクリックして御覧下さい。選手全員、水浸しになって弾けています。
(試合毎に更新されますので、明日以降は、過去の写真へと進んで御覧下さい)
http://sports.yahoo.com/mlb/teams/bos

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2007/9/26

大黒屋光太夫記念館を訪れて…番外編、顕彰会元会長様からの便り  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

先日、大黒屋光太夫記念館を訪ねた時、記念館の近くに建つ光太夫の記念碑や、神昌丸乗組員の墓などをご案内下さった、大黒屋光太夫顕彰会、元会長様を勤められていた小田様から、本日一通の封書が届いた。中には、記念館以外の各地に散在する光太夫関係の貴重な資料が掲載された、立派な図録(資料)が2冊入っていた。鎖国の日本に帰国した光太夫は、江戸に軟禁されていたと伝えられているが、その間、将軍徳川家斉は、第6代将軍家宣以降、代々幕府奥医師を勤めた桂川家の甫周(ホシュウ)に、光太夫から聴取したロシアの情報を記録させた。また、一説によると光太夫が、ロシアにて既に桂川甫周の名前を聞いており、光太夫自身が甫周を選んだとも言われている。届いた資料を見た私は、光太夫の事を書くのには、桂川甫周抜きでは語れないという、小野様からのメッセージが届けられた気がした。
クリックすると元のサイズで表示します 小田様…光太夫記念碑の前で9/4

桂川甫周(以下甫周)は、蘭学を学び若干21才の時、前野良沢、杉田玄白、中川順庵らと共に、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳に参加し『解体新書」作成に尽力したり、オランダ商館付医師として長崎の出島に赴任していたツンベルグから、外科術を学んでいた事から、ツンベルグが著した「日本紀行」にも登場しており、ヨーロッパにも広くその名が知られていたという。甫周が幕府の命で光太夫から話を聞きながら、オランダの地理学書『ゼオガラヒ』等を参考にして著した『北槎聞略』』(ホクサブンリャク)は、1994年に2年がかりで完成。ロシアに関する地理、歴史、言語、習慣等が体系的に網羅されており、江戸時代に於いての「ロシア情報の最高峰」と言われてきた。中でも、附図として光太夫達が持ち帰った衣服や道具を描かれた絵図2軸と地図10鋪は、平成5年、国の重要文化財として指定された。
北槎聞略附図より外套(がいとう)クリックすると元のサイズで表示します

※以上、光太夫記念館特別展、図録No1,No2より転写。


帰国後の光太夫は、江戸に軟禁されていたとは言うものの、比較的自由に当時の蘭学者達と行き来をし、ロシア語を始め、当時ロシアへ伝わっていたヨーロッパの情報を提供し、後の蘭学発展に大きく貢献したと言われている。また、また甫周は、光太夫が将軍に拝謁した時も同席し、その際の記録を『漂民御覧之記』という本に著している。甫周が書き残したこれらの著書は、日本とロシア両国の後世にとって、歴史的価値が非常に高いと言えよう。時間が前後してしまうが、明日以降「大黒屋光太夫記念館を訪れて…No4」として、ペテルブルグから帰国、そして伊勢若松に帰省するまでの物語を拙い筆で、また再開しようと思っている。

※大切な資料をお送り頂いた小野輝雄様、本当にありがとうございました。

★ほたるからのご報告とお礼★
2007年9月22日…。自分の思う事、好きな事、興味のある事…等を「ほたる」という名を借りて、勝手気ままに書き残し始めてから、ちょうど2年が経ちました。また25日の深夜(正確には26日)に、アクセスして頂いた数が200万に達しました。100万アクセスの時は、知らないうちに過ぎてしまいましたが、今回は数日前に気が付いて、昨夜はアクセスを表示しながらチェックしていましたら、何と自分の目で、200万と数字が並んだ瞬間を見る事が出来ました。(200万の切り番は、私のPCとは別のIPで、開けて下さった方が、おいでになると思います…)。
クリックすると元のサイズで表示します2007年9月26日午前3時頃のカウント。

記事上で大変恐縮ですが、
今まで読んで頂いた方々を始め、ブログを通して知り合った方々、
そして、コメントやメールで、励ましやお教えの言葉を頂きました全ての方々に、
厚くお礼を申し上げます。
  クリックすると元のサイズで表示しますありがとうございました。 クリックすると元のサイズで表示します

今改めて、2年間を振り返えりますと、ブログを書き続けて来た事によって、自分の視野が広がり、趣味の世界も深まったような気がします。そして、私がこの2年間で得た何よりの宝物は、ブログを通じて知り合えた方々から、学ばせて頂いた数え切れない事柄です。それは、このブログには書き切れない程の心の財産だと思っています。これからも、何にも変え難いこの宝物達を、胸の中で温め続けながら、自分のペースではありますが、また書き続けて行けたら…と思っています。今後共ご指導の程、どうぞ宜しくお願い致します。2007年9月26日.....by hotaru.
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2007/9/25

大黒屋光太夫記念館を訪れて…No3、ロシア大陸横断  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

伊勢の白子から約8ヶ月の漂流の後、アムチトカに漂着、現地で毛皮獲りに着ていたロシア人達と共に、自力で船を造り、カムチャックまで辿り付いた大黒屋光太夫達は、チギリスクから更にオホーツク海を渡り、ロシア大陸の東岸、オホーツクに到着した。その時、白子を出航した16人の仲間も次々と栄養不良や寒さの為、帰らぬ人となり遂にたった6人となっていた。光太夫達は、暫くオホーツク滞在して毛皮装束等の身支度を整え、帰国の嘆願書を持って、ロシア政府の漂流民担当が居るというイルクーツクまでソリで向かう事となった。(一説によると途中のヤクーツクまでは政府から与えられた馬車で行ったと言われている)。厳寒期には−60℃にもなるヤクーツク(北緯60度…北半球で最も低温地帯)から、イルクーツクまでの雪の道には、80キロ毎にソリを乗り継ぐ小駅があったという。光太夫達はレナ湖に沿って極寒のシベリアの雪原を、ソリで走り続け約4ケ月、年が明けた2月7日、ようやく氷に閉ざされたバイカル湖面の果てに、イルクーツクの町が蜃気楼のように見えてきた。
クリックすると元のサイズで表示します冬のバイカル湖…流れ出るアンガラ川は凍らない為、温度差によって水蒸気が立ち登り幻想的。

オホーツクから4000キロ、この極地の旅は想像を絶する困難な旅だったと、光太夫は書き残している。イルクーツクに辿り付いたのは、大国屋光太夫、九兵衛文小市、庄蔵、新蔵、磯吉、の6人。イルクーツク着くと、この町にも漂流民が暮らしていたという痕跡があった。南部藩(現在の岩手)から漂流して来たという久吉は、ロシアの女性と結婚して、イルクーツクの日本語学校で教えていたが、早逝してしまい、その日本語学校も不完全なままとなっていた。イルクーツクの総督は、光太夫達を帰国させるより日本語学校の教師にしようという目論見があった為、住まいと生活費を与え、手厚く持成した。

国境の町、イルクーツクは、人家も3千戸以上あり、教会、学校、病院、官公署の建物が建ち並んでいた。その町に、ペテルブルグ大学の教授のキリル・ラックスマンが、極東の植物を調査する目的で滞在していた。キリルは、ロシア政府では官位大佐待遇のフィンランド系の博物学者だったが、当時から『黄金の島』と呼ばれていた日本に強い憧れの念を持ち、密かにサハリンから日本への渡航を試みようと考えていた。そんな時、息子のアダムがイルクーツクへ光太夫を送り込んで来たのだから、大いに喜び早速光太夫に会った。そしてキリルは、光太夫から日本の事を学び、光太夫達は、キリルから地球儀を見せられたりして世界の広さを学ぶ事となる。映画「おろしや国粋夢譚」では、緒方拳演ずる光太夫達が、キリルの部屋に招かれ、日本の小ささ、そして広大な世界を見せ付けられて、カルチャーショックを受ける様子が有り有りと描かれていた。
イルクーツクのロシア正教会クリックすると元のサイズで表示します

光太夫達のロシア語の吸収力の早さ、ロシア文化の学習能力の高さ…その姿を観たキリルは、学問をまともに学んでも居ない、一介の船乗り達がこんなに賢いとは、日本人は優秀な民族なのだと確信し、益々日本への想いは熱くなっていった。キリルは漂流民返還を名目に、日本への通商使節派遣しようという筋書きを立て、光太夫に帰国の嘆願書をイルークツクの総督に出すよう申し出た。しかし半年も待って届いた返事にはロシアに永住するように…と書かれていた。日本語学校に士官すれば、税金も免除するという優遇も書かれていたが、光太夫の絶対に帰国するという信念は揺らがなかった。それは海に散り、異国の土となった仲間10人の叶わぬ想いを胸に抱き続けていたからだと思った。

その後、光太夫は3度帰国の嘆願書を出した。政府は生活費を打ち切ったが、光太夫の帰心は揺らがなかった。一方、凍傷にかかり両足切断によって帰国も厳しくなった庄蔵は、仲間にも心を閉ざしてしまっていたが、ロシア正教に入信する事によって生きる希望を見出そうとしていた。しかし日本ではキリシタンは火炙りの刑…庄蔵は帰国を諦め日本語学校の教師として生きる道を選択せざるを得なかった。その頃、九兵衛文と新蔵は熱病にかかり年長者の九兵衛文が亡くなってしまった。光太夫達がイルクーツクに着いて約1年、町はまた新年を迎えようとしていた。
クリックすると元のサイズで表示します 光太夫のロシア大陸横断図。
オホーツク→イルクーツク→ペテルブルグまで…青緑のライン。(クリックで拡大)


その頃、光太夫の元にキリルが朗報を持って来た。それは「近くペテルブルグに上がる用意が整ったので一緒に行って直接国王に帰国を願い出よう」という途方も無い計画だった。光太夫達はそれは日本の将軍様に会うようなもの…日本なら打ち首と一瞬怯むが、ここに滞在したままでは、何時まで経っても埒があかないと、光太夫1人がペテルブルグへ向かう決心をした。1月15日、光太夫達が白子を出てから10年目の冬、光太夫はキリルが用意した官軍の馬ソリに乗って一路ペテルブルグへと旅立った。イルクーツクからペテルブルグまで6200キロ。しかし官軍使用の8頭立ての馬ソリは1日200キロというスピードで、西シベリアからウラル山脈を越え、ロシアの広大な大雪原を、鈴の音も高らかに西へ西へと進んでいった。官用ソリは36日目にフィンランド湾を望み運河を湛えたロシア帝国の美しい首都…ペテルブルグに到着した。尚、光太夫がオホーツクからペテルブルクまで結果的に往復する事となる距離…約1万キロは、地球を半周する距離に及ぶという。…No4へと続く

※トラックバックは大黒屋光太夫記念館を訪れて…No1 、No2
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2007/9/23

大黒屋光太夫記念館を訪れて…No2、北の離島からオホーツクへ  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

天明2年伊勢の白子を出航し嵐に遭って漂流約8ヶ月、アムチトカの島に漂着して毛皮獲りに来ていたロシア人達…ニビジモフ達と出会った光太夫達15人は、ニビジモフ達の温かい持成しを受け、長い漂流の疲れを癒したのも束の間、海が荒れて錨を降ろしていた神昌丸の真っ二つに割れた残骸を目の当たりにする。光太夫は身振り手振りを使って、ロシアからの船が何時来るかを聞いたが、ニビジモフは丸印を24書いただけで、それが24日か24ヶ月かさえも分からなかった。途方にくれる光太夫達にニビジモフは、穴倉を1つ住まいとして、提供してくれた。時は8月、暫くは魚を獲り草木を食べて暮らしていたが、ここは北の果て…。9月ともなると周囲の海は凍って何も獲れなくなると知らされる。その頃、年の若い磯吉が「エトチョア」という単語が「これは何?」という意味だと知り、光太夫は色々な物を絵に描き「エトチョア?」と聞きながらロシア語を覚えて行ったようだ。この光太夫の絵の上手さは、後々様々な形で光太夫自身にも、またロシアにも功をなす事となる。
クリックすると元のサイズで表示します 賢くリーダーシップもあった光太夫
(大黒屋光太夫記念館前の銅像)

アムチトカは、9月末になると吹雪が続き灰色の世界となった。想像を超える寒さの中、残り15人の内、5人がアムチトカの土と化して行った。当時の日本人は、動物の肉を食べる事=地獄に落ちると思っており、長い漂流の疲れと栄養失調が原因だったと推察される。ニビジモフは日本人に病人が出たと聞くと、動物の肉を光太夫に与え「生きる為に食べろ」と言い続けた。光太夫も生き伸びて日本へ帰る為に…と、禁断の肉を口にするのだった。やがて氷が溶け始める頃、光太夫はロシア人達と共に、オットセイ、海豹、ラッコ等の海獣狩りに参加し始める。機知に富んだ光太夫は、皆に生き抜く為に最も必要な気持ちの張りを与えた。2年も経つと誰もが一人前の海獣漁師になっていた。(この間1名のみ死亡)。そして7月、いよいよ5年に1度訪れるというロシア本国の船が着く時期となった。

光太夫は、ニビジモフに日本経由でオホーツクに戻ってくれるよう、一旦は交渉するが、方角も分からない上に、日本が鎖国をしている事情もあり、諦めてまずロシアに渡りロシアの偉い役人に依頼して帰国させて貰う…という計画に変更した。しかし、そのロシアからの出迎えの船も嵐の為、難破してしまった。生き残った乗組員はボートで上陸したが、光太夫達は神昌丸の難破の時以上に絶望の底へと突き落とされたように思えたという。しかし、光太夫は無学の船乗りではなかった。次何時来るかも分からないロシアからの船を待つより、自分達で船を造ろう…と考え始めたのだ。神昌丸に使ってあった船具、ロシアの船の残骸、流木等を集め、石灰と麻、海藻等から作られた当時の建築材料の接着剤である「漆喰」は、貝殻を砕いた物と海草を煮て混ぜた物で代用した。この船の設計図も光太夫が書いたと記録されている。

外で働ける僅か3ヶ月の北の果てで何処まで造れるのか?誰もが思っただろうが、悲境を乗り越えて来た海の男達はひるまなかった。そしてその姿を見ていたロシア人達も手伝う事となり、とうとう2年目の7月、帆は衣類を継ぎ剥いで作り、600石位の新造船を進水させるに至った。1787年7月18日、船はアムチトカを離れ、アレウト列島(太平洋戦争末期にも登場するアッツ島沖)に沿い、島を飛び石のような目安にして、航海30数日、カムチャッカ半島の東岸、ニジニ・カムチャックという港に辿り着いた。この時、光太夫達が乗って来た船を見て、役人は「こんな船で荒波を…!」と驚愕するも、担当の役人は都に行って帰国させる権限は無いと、帰国願いを却下してしまう。ところが当時のロシアには漂流民には生活費が支給されるという温かい配慮があった。光太夫は、時期を待ってシベリアの都…役人の居るイルクーツクを目指そうと決心した。
光太夫達が辿った絵図。クリックすると元のサイズで表示します
アムチトカからオホーツクまで…ピンクの線(クリックで拡大)


その冬は、日本でも天明の飢饉が起きた寒さで、食糧の輸送ルートが途絶え、ニジニ・カムチャックは食糧難となり、ここで光太夫達は、また3人の仲間を壊血病で亡くしてしまった。光太夫達は、3人の亡骸を丁重に弔い、春になるのを待って、共に海を渡ってきたロシア人達と共にカムチャッカ半島の西海岸、チギリスクへと向かった。チギリスクでは後に光太夫の大きな後ろ盾となる=キリル・ラックスマンの息子、アダム・ラックスマン(光太夫の帰国と共に来日)と出会い、アダムはオホーツクまでの船を用意してくれた。しかし漂流民を担当する役人は、オホーツクから更に4000キロ先のバイカル湖の畔のイルクーツクに駐在していると知る。光太夫達は藁をも掴む思いで、イルクーツクへ向かう事にした。その旅程は、夏の足としては馬車しかなく、夏は川が氾濫したりして時間が長くかかる為、川や湖が凍りつく冬がトナカイを使用したソリを使用出来て速い。ゆえに冬に極寒のシベリアを横断するという過酷な旅を選択せざるをえなかったのだった。

当時ロシアは、1555年にイワン4世がウラル山脈を越えたのを契機に、1639年には、オホーツクの沿岸まで制していた。ロシアは、このオホーツクを拠点に、シベリア大陸という極寒の地に食糧提供可能な日本との交易を望んでいたという背景があった。よって既にピョートル大帝がロシアを治めていた頃、先に漂流民としてロシアに辿り着いていた「デンベイ」をペテルブルグに召抱えて日本語学校を開設していた程であった。そして光太夫達が目指したイルクーツクは、国境の街として、支那、満州、朝鮮との交易の拠点となって栄えていた。…No3へ続く。

トラックバックは大黒屋光太夫記念館を訪れて…No1 No3
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2007/9/21

長坂秀樹投手(ナシュア・プライド)リーグ優勝、おめでとう!  Boston Red Sox・MLB

現地時間の9月14日、Little Giant(Hideki)こと長坂秀樹投手のプレーしている、独立リーグのチーム「ナシュア・プライド」が、Canadian-American Association of Professional Baseball …通称Can-Amリーグで、ポストシーズンに進出して、セミファィナルシリーズ、ファイナルシリーズへと勝ち進み、ファイナル(CHAMPIONSHIP)では見事に3勝0敗!…リーグ優勝決めた。 長坂投手は、アウェイ(ノースショア)ながら優勝が決定したこの試合に先発し、6回3/1を投げて(2失点、7奪三振 四球1)で、勝利投手=ウィニングピッチャーとなった。最終回は、元レッドソックスのエルガポことRich Garces投手が試合を締めくくった。他の独立リーグのチームでもプレー経験のある長坂投手の話によると、シーズン当初はプレーオフに出られるチームだとは思っていなかったらしいが、連敗をしないチームで徐々に勝ち星を積み上げ、プレーオフ進出、ファイナルへと勝ち進んだのだという。
クリックすると元のサイズで表示します長坂秀樹投手と優勝トロフィー。

長坂投手は、シーズン中も12勝2敗の大活躍!チーム内の2007年度MVPを受賞したり、8月にはリーグ内でピッチャー・オブ・ザ・マンス(PITCHER OF THE MONTH)…月刊最優秀投手にも選出されており、ご本人、関係者の方々は勿論、ささやかながら応援してきた私にとっても、二重三重の喜びとなった。優勝の喜びに浸った後の長坂投手は、プレーオフの短期決戦を制する事が出来た要因を、以下のように語っている。

『チームの中で、岡本(晃)さんを始めとする経験豊富な選手が、短期決戦の難しさや、ここ一番での集中力、戦い方を知っていたのが強みだったと思います。ここ一番!!という所での集中力がありました。セミファイナルの第1戦を僕が落としてしまいましたが、2戦目で岡本さんが完投勝利!。そしてファイナルに進んだ初戦も、岡本さんが相手を完全に沈黙させた勝ち方で、チームに「行ける!!」という勢いが生まれました!(ファイナル、3勝0敗)』。

メジャーリーグも残り試合が約10試合となり、アメリカンリーグ東部地区と、ナショナルリーグ中地区と西地区では、連日熾烈な首位争いが繰り広げられている。そしてワイルドカード争いも然りである。10月に控えたポストシーズン…。短期決戦の鍵を握るのは、長坂投手の言葉を借りるなら「短期決戦を乗り越え、それを制して来た経験を持つ選手達だ」と言えようか…。

※以下は、長坂投手並びにナシュアプライドのチームを写し続けられたカメラマンさんのご協力で、優勝が決定した試合と歓喜のシャンパンファイト等の写真を掲載する。
(写真はクリックで拡大)

クリックすると元のサイズで表示しますシーズン中、チーム内のMVPトロフィ
(15 HIDEKI NAGASAKAの刻印がある)

ウィンニングボール クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します長坂投手、先発のマウンド。

勝利の瞬間…マウンドに集まる選手達クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します優勝旗と関係者全員で記念撮影

優勝のシャンパンファイト クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します優勝トロフィとButch Hobson監督
Butch Hobson監督は、レッドソックスの監督も勤めた事がある(1992–1994)。

シャンパンを持ったGarces投手クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します讃え合う長坂投手とGarces投手
(ゼッケン19の後ろ姿は矢野英司投手↑)

ファイナル初戦先発の岡本晃投手クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示しますチームMVPトロフィが授与された
2007年9月3日、ホールマンスタジアムにて。

※プライドチームの身長No1…Palazzolo投手と、体重No1…Garces投手と一緒に。
クリックすると元のサイズで表示します
サインは「エルガポ」ことGarces投手の物↑


★長坂投手からのスペシャルサービス!
「熱い監督」を象徴する動画。因みに2度目だとか…。
http://www.youtube.com/watch?v=xtDReUIgVsY
(注※監督から○○○を受け取った子供が着ているTシャツは岡島の37番)

★Can-AmリーグHP
http://www.canamleague.com/
★ナシュア・プライドHP
http://www.nashuapride.com/

※トラックバック先は当ブログ内
「独立リーグ…ナシュア・プライドの長坂秀樹投手を訪ねて」
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2007/9/19

松坂、岡島他ルーキー・ラギング・デー(新人仮装)の写真No2  Boston Red Sox・MLB

16日に慣行された、ルーキー・ラギング・デーでは、メジャー登板2試合目にして、ノーヒット・ノーランの偉業を達成した、クレイ・バックホルツも仮装して登場した。どうやら女海賊に扮したらしいが、私には『織田裕二の女装』にしか見えなかった…。その女海賊のバックホルツも、オズの魔法使いのドロシーに扮したブランドン・モスも仮装をそれなりに楽しんでいたらしいが、最近大活躍している外野手のジャコービー・エルズブリーは、ミニーマウス(赤頭巾ちゃん?)姿が、かなり恥ずかしかったらしく、隠れるようにしていたそうだ。(写真はクリックで拡大)

クリックすると元のサイズで表示しますバックホルツ(中央)と関係者達

バックホルツとモス(手前)クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示しますバックホルツのアップ。

バックホルツ達を見るティムリンクリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示しますブランドン・モスのサイン

女装が似合う?投手、ハンサッククリックすると元のサイズで表示します
(後方にキャプテンのパリテック)
クリックすると元のサイズで表示します赤頭巾?姿のエルズブリー

※以下は、仮装していない選手や関係者の写真

クリックすると元のサイズで表示します昨年はベビー服に哺乳瓶で登場。
今年はスーツ姿で余裕?のペドロイア

テリー・フランコーナ監督クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示しますフランコーナ監督のアップ

ヘンリー、オーナー クリックすると元のサイズで表示します

マニー・ラミレス(レフトフィルダー)@クリックすると元のサイズで表示します

スーツが似合うラミレスAクリックすると元のサイズで表示します

バスに向かうラミレスBクリックすると元のサイズで表示します

ラミレスCクリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示しますケヴィン・ユーキリス(一塁手)
好投も勝てなかったシリングクリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します試合後は常に爽やなティムリン

タバレス(中央)と関係者クリックすると元のサイズで表示します


※以下「WBZ-TV Video Archive」の動画
選手達がロッカーで着替える様子。
★「Red Sox Rookies Dress In Drag, Costumes」
 (松坂の画像をクリックで再生)
http://wbztv.com/video/?cid=37


※「ルーキー・ラギング・デー」は、
上の動画のタイトルにも「Dress In Drag, Costumes」とあるように、
dragに女装という意味があり、正しくは「Rookie Dragging Day」だそうです。
コメント欄で、アメリカ在住のすぬさんからも、ご指摘頂きましたが、
当ブログでは、日本のマスコミ各誌の記載に従い「ルーキー・ラギング・デー」としました。
因みに「Rookie ragging day」だと、新人を悪戯してからかう日という意味となるそうです。

★追記
すぬさんが、更に教えて下さいました。メジャーではその日の正式な呼び名はなく、
「rookie hazing」と呼んでいるいるのが通説だそうです。よって検索サイトで「rookie hazing」で引くと、松井選手を始めとする過去の新人仮装の記事がヒットします。
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2007/9/18

松坂・岡島他ルーキー・ラギング・デー(新人仮装)の写真No1  Boston Red Sox・MLB

ボストン現地時間の16日、この日レッドソックスは、新人メジャーリーガーにとって洗礼?とも言えるルーキー・ラギング・デーを実施した。ルーキー・ラギング・デーは、メジャー各球団実施するが、9月中で、ホームから移動する日…とされているだけで、選手達は勿論、マスコミにも知らされていない。新人選手が試合の後、ロッカーに戻ると、自分の衣服類は既に移動するバスに積まれていて、その仮装衣装を着るしか選択肢がないという仕組みである。そしてそのまま遠征先まで移動。レッドソックスの新人達は、仮装のままカナダのトロントまで(チャーターバスと飛行機で)移動する事となった。
クリックすると元のサイズで表示します
通訳のジェフ・山口氏、松坂、岡島。クリックすると元のサイズで表示します

私は昨年、偶然だがその場に居合わせて、クローザーのパペルボンや、二塁手ペドロイアの仮装姿を撮影、サインを貰う事が出来た。今年は、ボストン在住の知人Jさん達が、この日を予測して、日本のマスコミの人達より先にその場に居合わせ、暗がりの中、苦心の末、撮影した写真を掲載したいと思う。また、運よく松坂にサインして貰うことも出来たそうだが、照明も無い中、ファンやマスコミの人に揉まれての撮影は、かなり苦労が伴ったと推察している。フランコーナ監督は『松坂と岡島が乗ってくれて雰囲気作りをしてくれた』…と地元紙にコメントをし、ルーキー・ラギング・デーへの貢献?を、讃えていたという。日本でもテレビ報道があったり新聞各紙にも掲載されたが、また違った角度からの写真等を、見て頂けたらと思っている。※文中選手は敬称略。
(写真はクリックで拡大) 

TV番組テレタビーズのキャラクタークリックすると元のサイズで表示します
「ディプシー君」の着ぐるみを着た松坂。

クリックすると元のサイズで表示します松坂とプレスリーになった山口氏

松坂と通訳の星野氏(紫)クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示しますサインに向かう松坂と岡島。

手を振る岡島(パイレーツの扮装)クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します快くサインする松坂。

サインして貰ったボールクリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します松坂を撮ろうと待ち受けるティムリン

網タイツ姿の前田トレーナー(白)クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します
松坂を撮影するティムリン↑→クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します
松坂と受けているティムリン→↑クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示しますココ・クリスプの子供と松坂。


※No2へと続く……。

※以下「WBZ-TV Video Archive」の動画
選手達がロッカーで着替える様子。
★「Red Sox Rookies Dress In Drag, Costumes」
 (松坂の画像をクリックで再生)
http://wbztv.com/video/?cid=37


※「ルーキー・ラギング・デー」は、
上の動画のタイトルにも「Dress In Drag, Costumes」とあるように、
dragに女装という意味があり、正しくは「Rookie Dragging Day」だそうです。
コメント欄で、アメリカ在住のすぬさんからも、ご指摘頂きましたが、
当ブログでは、日本のマスコミ各誌の記載に従い「ルーキー・ラギング・デー」としました。
因みに「Rookie ragging day」だと、新人を悪戯してからかう日という意味となるそうです。

★追記
すぬさんが、更に教えて下さいました。メジャーではその日の正式な呼び名はなく、
「rookie hazing」と呼ばれているのが、通説だそうです。検索サイトで「rookie hazing」で引くと、松井選手を始めとする過去の新人仮装の記事がヒットします。
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2007/9/14

大黒屋光太夫記念館を訪れて…No1伊勢から船出、漂流へ  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

私の敬愛するジョン・万次郎こと中浜万次郎が、西暦の1927年に土佐で生まれ、まだ2才にもならず、恐らく土佐の浜をよちよちと歩き始めた頃、万次郎より一早く「世界」を体感し帰国した日本人が、江戸(東京)の番町薬草園内で、静かに息を引き取った(享年78才)。その人の名前は、大黒屋光太夫…。万次郎と同じく太平洋の荒波に人生を翻弄され、方向こそ異なって国は違ったが漂流民としてロシアへ渡り、厳しい自然と闘いながらも、エカテリーナ女帝と謁見までして、祖国へ帰郷する想いを貫き通した人…であった。私は井上靖氏の原作「おろしや国粋夢譚」(ロシア夢物語)を読み、1992年に緒方拳主演で、映画化された同題名のDVDを観て、是非、三重県鈴鹿市に2005年新設された「大黒屋光太夫記念館」を訪れたいと思い、休日に車を走らせた。
クリックすると元のサイズで表示しますエカテリーナに帰国を懇願する光太夫
エルミタージュ宮殿にて熱演する緒方拳


光太夫は、1751年伊勢の国若松村(現在の伊勢市南若松町)に亀屋という旅籠(はたご)の息子として生まれた。成長するにつれてその俊敏性と統率力を認められ、回漕問屋(船舶で旅客や貨物を運ぶ問屋)である大黒屋の養子となって、白子(しろこ)港から江戸へ紀州米、伊勢木綿等を運ぶ神昌丸の船長として31才となった12月13日、江戸へ向けて出港した。当時の白子(現在・鈴鹿市白子町)は、紀州領として、江戸幕府特定の重要港湾であった。この港は、伊勢はもとより、伊賀、志摩、尾張、美濃、飛騨、近江から江戸へ向かう貨物船が出航していたが、全てこの港を関所として、査証(パスポート)を貰い江戸へ向かわなければならなかった。
大黒屋光太夫記念館全景。 クリックすると元のサイズで表示します

神昌丸の乗組員は船長の光太夫を入れて16名、積荷は先に述べた幕府に収める紀州米350石(一石=約150キロ)、瓦150石の他、木材、伊勢木綿等を搭載していた。船の大きさは、長さ約30m、幅約8m、帆船の帆の高さ約25m。所謂「千石船」であった。記念館には神昌丸の模型も展示され、子供達向けに解り易く一般のお風呂の1000杯分の大きさと記されていた。その時代、漂流民が嵐に遭っても助かったという背景には、当時の木造船技術の素晴らしさが見え隠れする。しかし、頑強な千石船も遠州灘に差し掛かった所で三日三晩嵐に揉まれて、舵は折れ、帆を揚げる帆柱も傾いて転覆寸前になった。船員達は、瓦などの荷を捨て帆柱を切り捨て船のバランスを保ち生き延びた。だが嵐が止んだその時には、かすかに見えるはずの日本の山々の姿も遥か海の彼方となっていた。尚この嵐によって遠江の駿河沖で遭難した船は24隻に及んだという。

舵と帆を失った神昌丸は、黒潮に乗せられて東北に流され、やがて北緯45度辺りから太平洋海流に巻かれて漂った。光太夫達は、暦では6月に入るというのに、暖かくなるどころか、氷雨まで降ってくる状況から「北へ流されている」と察知した。また当時から船乗り達が目印としていた北斗七星も夜毎に高い位置となっていた。漂流間の、食料としては、積荷の米が充分あり、水は雨水を溜めて飲み、海流の魚を釣り上げて食べていた。しかし野菜は採る術も無く、アメリカへ漂流した音吉達と同様、2ヵ月も経つとビタミンCの不足で元気を失っていった。7月15日、初の犠牲者が出た。幾八(若松出身、当時42才)だった。光太夫達は、自分達の辿る運命を予感する暗い思いで、幾八の亡骸を海に葬ったという。
クリックすると元のサイズで表示します 千石船「神昌丸」の模型。

その日から数日後、見張り役をしていた磯吉(17才、若松出身)が、鳥が飛ぶ姿を見つけ、島が近いと騒ぎ出した。かすかに見えた島は白い雪を被っていたが、光太夫達は、約8ヶ月ぶりに見る島影に絶叫して喜び、船板に跪いてひれ伏し拝んだ。その島は北海の果て、アラスカとカムチャッカを結んでいるアレウト列島のアムチトカという島だった。光太夫達は神昌丸に碇を降ろし、伝馬船に米2表と鍋釜や衣類を積んで乗り込み、島へと上陸した。時は雪解けの頃、所々に土も見え、雑草が生えていた。この島は当時ロシア領であったが、アレウト人と呼ばれる原住民も住んでいた。彼らは言葉こそ通じないが友好的でジェスチャーにより「来い」という仕草をした。光太夫は比較的元気だった5人を連れ、アレウト人に着いて行く事にした。
漂流した海路を示す地図(黄色)クリックすると元のサイズで表示します

半里(2キロ)程歩くと、光太夫達が今まで見た事のない深紅の洋服に身を包んだロシア人が立っていた。光太夫達を見ると持っていた銃を天に向かって発砲…。光太夫達は驚嘆したが、それはロシア流の礼砲だった。光太夫達は彼らの住まいに案内された。首領らしいロシア人が微笑みながら光太夫の手を固く握り、自分を指して名乗った。「ニビジモフ」。光太夫も臆する事無く「ニッポン国の光太夫です」と丁寧に名乗った。まもなく浜に残った他の9人も呼び食事が持成されたという。光太夫達も感涙に咽んだが、私はこの史実を知った時点で、当時から言葉は通じなくとも、国境を越えた人間愛があった事に感動して涙が止まらなかった。しかしこの時、このニビジモフとの出会いが、北の果てから限りなく厳しく、かつ果てしなく長い旅が始まる序章に過ぎない事を、光太夫達は知る由もなかった。

…No2へと続く。(写真はクリックで拡大)

※ご協力 大黒屋光太夫顕彰会
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2007/9/12

9月11日…米国同時多発テロが起きた日に思う事  日記(今日思うこと)

6年前のこの時間…私は電話をかけていた。まずボストンの知人の無事を確認後、従姉に依頼されて仕事でニューヨークへ出張していた従姉のご主人に…。従姉から、そのご主人は、ワールドトレードセンター近くにあるビル内の弁護士事務所へ行く予定が入っていたらしいと聞き、回線がビジー状態の中、東京より名古屋からの方が電話も通じやすいかもしれない?と、手分けして連絡を取っていたのだ。朝方になって、ようやく無事の確認は取れたが、2キロ以上離れたホテルのエントランスにも大量の粉塵が積もっていたという。テレビ画面では、各局ともに、その衝撃的映像を何度も何度も映し出し、世界中が震撼した。あれから6年…。今もテロの恐怖は抜け切らず、世界の何処かで戦火も耐えない現実がある。
クリックすると元のサイズで表示しますNY…ツインタワーの無いマンハッタン
リバティ島(自由の女神像)に向かう船より撮影。


昨年の記事にも書いたのだが、同時多発テロの丁度1年前…即ち7年前のこの日、東海地方では、停滞した秋雨前線と太平洋上の台風14号の影響で、2日間の総雨量が567ミリと年間の3分の1を上回る(名古屋市調べ)後に東海豪雨と呼ばれる大水害が起き、私の家も浸水被害に遭った。雨は舗装された道路を川にして、比較的海抜の高い地域に建っている家をも浸水して行った。大気が不安定になり竜巻も起きて、知人の家は半壊、台風の直撃を受けなかったにも関わらず、自然の猛威の前に自分の無力を痛感させられた。
美しい自然を大切に… クリックすると元のサイズで表示します

奇しくもこの1年を経て、同じ日に起きた天災と人災…。私には大きな衝撃だった。今冷静に振り返ると、テロ行為は、けっして武力で抑える事が出来ない事を、その6年の経過から私達は学ばされた。協調性という言葉を使うには、少し安易な気もするが、自分とは違う相手を理解する事が大切ではないか?!と思った。そして進む地球温暖化による天災被害が年を追う毎に増大しつつある事も、痛感させられている。最早、対岸の火事ではない。私達一人一人が、自然から恩恵を受けて暮らしているという…最も原始的な考えに立ち戻るべきでは…と思っている。
クリックすると元のサイズで表示します NY…サウスステーションの星条旗。

※以下、9月11日付け、中日新聞掲載の「中日春秋」が、大変印象深かったので転載する。

▼摩天楼を白い煙のようなものが這い登っていく。高層ビル街の谷底は騒然となっていた。2ブロックほど先の現場へ急いだ。7月半ばに訪れたニューヨーク・マンハッタンでの事…。大規模ではあっても、結局はただ地中の蒸気管が爆発した事故。だが周囲のニューヨーカーたちの顔はこわばったまま。やがて現場にも携帯電話などを通じて「テロの兆候なし」の情報が伝わる。それでやっと空気が緩んだ。

ミネソタ州ミネアポリスで8月、高速道路の橋が突然崩壊した時も当局は素早く「テロとのつながりなし」と発表している。米国が中枢同時テロに見舞われてから、今日で6年。今でも何か尋常ならざる事態が起きる度に、人々はまず「テロか」と身を硬くする。その名の通り、テロが狙う果実は恐怖である。だから、おびえたら負けとばかり、かの国はそれを「愛国」や「強いアメリカ」への熱狂と読み変えて、武力を振りかざす道を選んだけれど、この6年を見れば、市民の心に巣くった恐怖を減ずる十分な効果があったとは思えない。

パレスチナ人を父に持つ米国の作家ナオミ・シーハブ・ナイは、同時テロ後に著したエッセーに書く。米国を一言で言い表さなければならないとしたら、それは「受け入れる事、になるだろう」と(『私たちはなぜアメリカ人なのか』)9・11の後、中東でも何処でも目立つのは米国流の価値観の押しつけだ。米国が、多様性を「受け入れる」という最大の美点を自ら損ない続ければ、更に世界の支持を失う。それこそ、テロの果実である▲


※テロリズム(英terrorism…小学館 大国語辞典より一部引用)
語源はフランス語の“Terreur(恐怖)”。 一定の政治目的の為に、暗殺や暴行、粛清(しゅくせい)等の直接的な恐怖手段に訴える主義。暴力主義。またその行為の事。

※同時多発テロ、東海豪雨等の災害でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈り致します。
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