2006/7/21

オシム監督就任に寄せて…イビチャ・オシム氏と故郷、サラエボ  サッカー&ワールドカップ・ドイツ大会

学生時代、世界史・地理で習ったユーゴスラビアは、「7つの隣国。6つの共和国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)。5つの民族(セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人)。4つの言語(スロベニア語、セルビア語、クロアチア語、アルバニア語)。3つの宗教(カトリック、セルビア正教、イスラム教)。2つの文字(ラテン文字、キリル文字)により構成される1つの国」と表現され、多民族国家として混沌とした政治背景があり、掴み所が無かった。1984年にサラエボで冬季オリンピックが開催され、その地名は記憶に刻み込まれたが、1992年に内戦が勃発、4年間続いた戦火の中心となったサラエボでは、多くの犠牲者を出した。その有様は「50万人の市民が世界から切り取られ、肉親を失わない者は誰1人としていなかった」と語り継がれている。ヨーロッパという地域で、第二次大戦後最悪の被害(死者20万)を出す内戦を、平和を謳う世界や隣国が何故止められなかったのか?私には計り知れないが、その悲しい物語はイギリス人記者の実録を元に、1997年映画化された『ウェルカム・トゥ・サラエボ』でも、伺い知る事が出来た。奇しくもサラエボオリンピックのメインスタジアムは、内戦で破壊され、現在は、亡くなった人々の墓地になっているという。
クリックすると元のサイズで表示します 実録の映画化「ウェルカム・トゥ・サラエボ」

イビチャ・オシム(本名、イワン・オシム)氏は、1941年、オリエントとヨーロッパ文明の交わる美しい町、サラエボ(トルコ語で「宮殿のある平地」の意)で生まれた。サッカー選手としては、FWとしてプレーし、1960年、サラエボのゼレズニチャル・サラエボでプロデビュー。1964年の東京オリンピックには、旧ユーゴスラビア、サッカーチームの代表として来日した。1970年から、フランスのストラスブールに籍を移しプレーした後、1978年に引退。1986年にユーゴ代表監督に就任し、1990年のW杯では、ベスト8へと導いた。しかし、1991年、日ソ冷戦後の東欧諸国で民主化運動が進む中、ユーゴスラビア内のスロベニアとクロアチアで独立を宣言、当時のユーゴ政府は、その報復措置として1992年4月6日、サラエボを侵略した。この内戦が、オシム氏の祖国を離れた監督人生の発端となった。
旧ユーゴスラビアの地図クリックすると元のサイズで表示します 

オシム氏は、内戦勃発当時仕事の為、セルビアに出むいて居り、次男と共に戦火を免れる事が出来たが、サラエボに残った夫人と長女は、脱出することが出来なくなってしまった。悲しみにくれるオシム氏は、ユーゴ軍のサラエボ侵攻に対し、抗議する意味を込め、欧州選手権開催直前の5月、「サラエボの為に唯一私に出来る事」という言葉を残して代表監督を辞任した。監督不在のまま、W杯ベスト8のメンバーであり、日本でもプレーした経験のあるストイコビッチら代表選手達は、開催国スウェーデンへと向かったが、国連からユーゴへの制裁の命を受けたFIFAとUEFAは、代表選手の大会参加を認めず、選手達は、到着したばかりの空港で入国を許される事無く、強制帰国させられてしまった。正にスポーツ選手が、戦争や政治に巻き込まれ、国と共に代表チームも解体してしまったという悲しい出来事だった。皮肉な事に、その年の欧州選手権は、ユーゴの代わりに出場したデンマークが制覇している。

オシム氏は、戦火のサラエボに夫人と長女を残したまま、1992年から1993年 ギリシャのパナシナイコスの指揮を取った。更に1993年から2002年 オーストリアのシュトゥルム・グラーツという小さなクラブチームの監督を務め、チームをUEFAチャンピオンズリーグに3度出場させた。夫人と長女には、グラーツに就いてから1年後、ようやく再会を果たせたが、オシム氏は、当時の事を「とてつもなく多くの事が起き、それをサッカーを通じて忘れる事が出来た」と振り返っている。「サッカーだけが、安らぎの場所だった」とも語るオシム氏の事を、欧州のジャーナリスト達は、ただの監督ではなく、『サッカーの哲学者』と評価しているそうだ。日本でも、そのサッカー哲学の評価は高く、実際に2003年 ジェフユナイテッド市原(現・千葉)監督に就任後. チームを2005年 Jリーグ、ヤマザキナビスコカップ初優勝に導き選手からも厚い人望が寄せられている。
クリックすると元のサイズで表示します 既に代表人選に入っているオシム監督。

そんなオシム氏が、いよいよ日本代表監督に就任する日が訪れる。2006年、ワールドカップ・ドイツ大会は、旧・東西ドイツが力を合わせ、大盛況の中、無事に幕を降ろした。多くの感動とドラマを生んだ大会だったが、日本代表チームにとっては、世界との差を見せつけられた苦い大会となった。また、決勝戦では、世界中のサッカーを愛する人々が、後味の悪い思いをした。現地時間の20日、その当事者である2人の選手に、FIFAは処分を下した。その処分が軽いか重いか?は、既にメディアで論点となっているが、むしろ本人達の心には、償えば済むという問題よりも、重い影が落ちている気がしている。戦争の苦しみ、人と人が争う事の醜さを身を持って知っているオシム氏は、きっとその重みを一番知っている監督だと思った。因みにオシム氏は、12年間の選手生活中、イエローカード制が導入された1970年から引退までの8年間、イエローカードの提示は一度もされなかった選手であった。逆境を糧にサッカー哲学を大成させて来たオシム氏…既に19日には、Jリーグ、大宮対磐田戦を選び視察したという。両チームの中でW杯の代表は、川口選手と福西選手のみ…。新しい代表選手の発掘にも期待したい。
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2006/7/21  22:59

 


球宴なんて言ってたよね。
  



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