2007/9/26

大黒屋光太夫記念館を訪れて…番外編、顕彰会元会長様からの便り  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

先日、大黒屋光太夫記念館を訪ねた時、記念館の近くに建つ光太夫の記念碑や、神昌丸乗組員の墓などをご案内下さった、大黒屋光太夫顕彰会、元会長様を勤められていた小田様から、本日一通の封書が届いた。中には、記念館以外の各地に散在する光太夫関係の貴重な資料が掲載された、立派な図録(資料)が2冊入っていた。鎖国の日本に帰国した光太夫は、江戸に軟禁されていたと伝えられているが、その間、将軍徳川家斉は、第6代将軍家宣以降、代々幕府奥医師を勤めた桂川家の甫周(ホシュウ)に、光太夫から聴取したロシアの情報を記録させた。また、一説によると光太夫が、ロシアにて既に桂川甫周の名前を聞いており、光太夫自身が甫周を選んだとも言われている。届いた資料を見た私は、光太夫の事を書くのには、桂川甫周抜きでは語れないという、小野様からのメッセージが届けられた気がした。
クリックすると元のサイズで表示します 小田様…光太夫記念碑の前で9/4

桂川甫周(以下甫周)は、蘭学を学び若干21才の時、前野良沢、杉田玄白、中川順庵らと共に、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳に参加し『解体新書」作成に尽力したり、オランダ商館付医師として長崎の出島に赴任していたツンベルグから、外科術を学んでいた事から、ツンベルグが著した「日本紀行」にも登場しており、ヨーロッパにも広くその名が知られていたという。甫周が幕府の命で光太夫から話を聞きながら、オランダの地理学書『ゼオガラヒ』等を参考にして著した『北槎聞略』』(ホクサブンリャク)は、1994年に2年がかりで完成。ロシアに関する地理、歴史、言語、習慣等が体系的に網羅されており、江戸時代に於いての「ロシア情報の最高峰」と言われてきた。中でも、附図として光太夫達が持ち帰った衣服や道具を描かれた絵図2軸と地図10鋪は、平成5年、国の重要文化財として指定された。
北槎聞略附図より外套(がいとう)クリックすると元のサイズで表示します

※以上、光太夫記念館特別展、図録No1,No2より転写。


帰国後の光太夫は、江戸に軟禁されていたとは言うものの、比較的自由に当時の蘭学者達と行き来をし、ロシア語を始め、当時ロシアへ伝わっていたヨーロッパの情報を提供し、後の蘭学発展に大きく貢献したと言われている。また、また甫周は、光太夫が将軍に拝謁した時も同席し、その際の記録を『漂民御覧之記』という本に著している。甫周が書き残したこれらの著書は、日本とロシア両国の後世にとって、歴史的価値が非常に高いと言えよう。時間が前後してしまうが、明日以降「大黒屋光太夫記念館を訪れて…No4」として、ペテルブルグから帰国、そして伊勢若松に帰省するまでの物語を拙い筆で、また再開しようと思っている。

※大切な資料をお送り頂いた小野輝雄様、本当にありがとうございました。

★ほたるからのご報告とお礼★
2007年9月22日…。自分の思う事、好きな事、興味のある事…等を「ほたる」という名を借りて、勝手気ままに書き残し始めてから、ちょうど2年が経ちました。また25日の深夜(正確には26日)に、アクセスして頂いた数が200万に達しました。100万アクセスの時は、知らないうちに過ぎてしまいましたが、今回は数日前に気が付いて、昨夜はアクセスを表示しながらチェックしていましたら、何と自分の目で、200万と数字が並んだ瞬間を見る事が出来ました。(200万の切り番は、私のPCとは別のIPで、開けて下さった方が、おいでになると思います…)。
クリックすると元のサイズで表示します2007年9月26日午前3時頃のカウント。

記事上で大変恐縮ですが、
今まで読んで頂いた方々を始め、ブログを通して知り合った方々、
そして、コメントやメールで、励ましやお教えの言葉を頂きました全ての方々に、
厚くお礼を申し上げます。
  クリックすると元のサイズで表示しますありがとうございました。 クリックすると元のサイズで表示します

今改めて、2年間を振り返えりますと、ブログを書き続けて来た事によって、自分の視野が広がり、趣味の世界も深まったような気がします。そして、私がこの2年間で得た何よりの宝物は、ブログを通じて知り合えた方々から、学ばせて頂いた数え切れない事柄です。それは、このブログには書き切れない程の心の財産だと思っています。これからも、何にも変え難いこの宝物達を、胸の中で温め続けながら、自分のペースではありますが、また書き続けて行けたら…と思っています。今後共ご指導の程、どうぞ宜しくお願い致します。2007年9月26日.....by hotaru.
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2007/10/4  2:23

 

西暦1792年10月7日、大黒屋光太夫、小市、磯吉ら漂流民3人と、アダム・ラクスマンを始めとするロシア人39名の総勢42人を乗せたエカテリーナ号は、蝦夷(北海道)の根室沖に着いた。それは伊勢の白子を神昌丸に乗 

2007/10/4  2:23

 

江戸に着くと、お目付け役の取調べを受け、やがて吹上御殿での将軍家斉との拝謁が決まった。拝謁はロシアでの服装でという事で光太夫は、外套を着て黒ビロードの帽子を抱え、胸にはエカテリーナからの金メダルを 

2007/10/3  3:50

 

伊勢から船出、ロシアのナムチトカに漂着し、海獣獲りのロシア人達とロシア大陸に渡った光太夫は、生き残った5人の仲間をバイカル湖の畔の街、イルクーツクに残して、ペテルブルグ大学で植物学を専攻するキリル 



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