2007/10/3

大黒屋光太夫記念館を訪れて…No4 エカテリーナと謁見、帰国まで  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

伊勢から船出、ロシアのナムチトカに漂着し、海獣獲りのロシア人達とロシア大陸に渡った光太夫は、生き残った5人の仲間をバイカル湖の畔の街、イルクーツクに残して、ペテルブルグ大学で植物学を専攻するキリル・ラックスマンと共にロシア帝国の首都ペテルブルグへと着いた。ペテルブルグは、フィンランド湾を望んだネヴァ川河口の三角州にある都で、寺院がそびえ建ち、煉瓦作りの建物がびっしりと建ち並ぶその様は、「北のベネチュア」とも呼ばれている美しい街だった。光太夫は、高官を通して政府宛の帰国嘆願書を出したが、3ヶ月待っても帰国を許す返事は来ないままだった。
クリックすると元のサイズで表示します 美しいエカテリーナ宮殿。

キリルは、ロシア帝国の女帝、エカテリーナに直訴する事を考え、側近の政府高官に願い出た。当時日本という国に興味深かった政府高官は「日本国の地図が書けるか?」と光太夫に取引を持ちかけた。この時、光太夫は、藩別に城壁や港等を詳細に描いた地図を書き残しているが、当時にして、現在の地図と比べ、方向感覚に長けた船乗りとは言えども、その精巧さに驚かされる(九州と本州は繋がり、北海道は書かれていない)。そして、その地図が功をなしたか、キリル宛てに「6月28日、光太夫を伴って参殿するように」という知らせが届いた。エカテリーナ女帝は、例年5月から9月まで、避暑を兼ねて、ペテルブルグから24キロのツワルスコエ・セロ(現在のプーシキン)の離宮で過ごしていた。その間、その離宮に全ての高官が集い、事実上政治の中枢となっていた。
光太夫が描いた地図クリックすると元のサイズで表示します
(ゲッチンゲン大学付属図書館蔵 クリックで拡大)


空が青く晴れ渡ったその日、光太夫はキリルに伴い正装して5階建ての宮殿を訪れた。それは漂流から8年の歳月を経た1792年の事だった。役人に導かれて3階の謁見の間(別名、鏡の間)へ通された。光太夫が入った途端、左右に立ち並んだ高官や女官達の視線は、日本から来たという光太夫に一斉に注がれた。光太夫は、予めキリルから習った拝謁の作法を滞りなく済ませた。光太夫の帰国嘆願書を見た女帝は、日本についての様々と漂流の経緯について質問をした。キリルが通訳として補助はしたが、光太夫は流暢なロシア語で答えたと記録されている。女帝は光太夫の話を聞き、身の上を哀れんだ。しかし、ロシアに残って日本語を教えるよう提案する。映画「おろしや国粋夢譚」では、このシーンで光太夫役の緒方拳の迫真の演技が際立っていた。

女帝 :   「そんなに日本へ帰りたいか?ロシアは嫌いか?」
光太夫:   「いいえ、ロシアには大変感謝しております。
       ロシアに来て、沢山の事を学びました」。
       「だからこそ帰りたいのです。日本の国を開くためにも…」
(映画「おろしや国粋夢譚」より)

クリックすると元のサイズで表示します エカテリーナ宮殿、謁見の間。

光太夫はロシアでは無礼だったのかもしれないが、涙を流し土下座をして懇願した。女帝は「良い方法を考えるから、安心して待つが良い」と答え、帰国の許可を下した。そしてその準備が整うまで、光太夫を国賓扱いにし、天文台、博物館、図書館、工場、銀行などを見学させた。光太夫は、短期間に新しい知識を貪るように吸収したという。また、ペテルブルグ大に招かれて日本の風俗について講演をした。更に女帝の勅命でアンガリア学長が編集した「欽定世界辞典」の日本編に訂正を加えた。やがて9月29日、イルクーツクの総督に宛てに女帝の勅命が出された。

1, 漂流民光太夫達を丁重に日本へ送還すること。
1,オホーツクの港に送還船を用意すること。
1,送還の使節団には、キリル・ラックスマンの子息、アダム・ラックスマンを長とすること。
1,使節には、日本政府宛のシベリア総督の国書を奉呈すること。

女帝は、帰国が決まった光太夫に、女帝自身の姿が浮彫された金メダルを与えた。光太夫は、他にも金時計、ダイアモンドの飾られた煙草ケース、金貨、顕微鏡など、多くの人達からの餞別を受けた。光太夫が受けたこれらの持成しを知ると、当時のロシアの人々の心の温かさが伝わってくると共に、光太夫には、国や民族を超えた人としての人徳があった事が伺われる。
光太夫が残したとされる印籠等クリックすると元のサイズで表示します
(エルミタージュ美術館蔵)


光太夫は旅立ってから1年後に仲間が待つイルクーツクへと戻った。帰国の許しが出た事に大喜びの小市と磯吉、しかし、凍傷で両足を失った庄蔵と重い病にかかった新蔵は、心の支えにロシア正教の洗礼を受け、日本では禁じられているキリスト教徒となっていた為、帰国すれば火炙りの刑…。よって帰国を諦めざるを得なかった。その2人との惜別の辛さは幾許だっただろう…計り知れない…。更にオホーツクでは終生の大恩人…キリルとも別れなければならなかった。キリルは息子に友、光太夫を託してイルクーツクへと帰っていった。別れを惜しんだ光太夫の眼前には、2本のマストにロシア帝国の国旗をはためかせたエカテリーナ号が姿を現した。その姿は光太夫達3人にとって、大空から舞い降りた美しい白鳥のように見えたかもしれない。…No5へ続く。

★参照 スピンさんの欧州便り「エカテリーナ宮殿」
http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/20070610/archive
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2007/10/4  2:23

 

西暦1792年10月7日、大黒屋光太夫、小市、磯吉ら漂流民3人と、アダム・ラクスマンを始めとするロシア人39名の総勢42人を乗せたエカテリーナ号は、蝦夷(北海道)の根室沖に着いた。それは伊勢の白子を神昌丸に乗 

2007/10/4  2:23

 

江戸に着くと、お目付け役の取調べを受け、やがて吹上御殿での将軍家斉との拝謁が決まった。拝謁はロシアでの服装でという事で光太夫は、外套を着て黒ビロードの帽子を抱え、胸にはエカテリーナからの金メダルを 



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