2007/10/3

大黒屋光太夫記念館を訪れて…No5 帰国…そして故郷へT  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

西暦1792年10月7日、大黒屋光太夫、小市、磯吉ら漂流民3人と、アダム・ラクスマンを始めとするロシア人39名の総勢42人を乗せたエカテリーナ号は、蝦夷(北海道)の根室沖に着いた。それは伊勢の白子を神昌丸に乗って経ってから丁度10年目の秋だった。アダムは下船すると蝦夷を治めていた松前藩の役人にこの使節団来航の趣旨を藩主に届けてくれるよう依頼した。記録によると松前藩の役人達は、光太夫一行が日本から漂流して帰国したとは信じ難かった。特に若かった磯吉は、ロシア語を使い慣れていて、役人の質問の応えにロシア語が出てしまった。その為日本人を装った異国人だと思われたという。
クリックすると元のサイズで表示しますおろしあ船図 複製(1825)秋山広画
光太夫は疑心の目の中、文字を書けば判って貰えると考えた。自分は漢字も書けるし小市も磯吉の平仮名で自分の名前くらい書ける…。しかしまだ重苦しい雰囲気は続いた。やがて使節団1人1人の前に箱膳が用意された。光太夫達は箸を手に取り、懐かしい日本の味に舌鼓を打った。ロシア人達は初めて持つ箸に戸惑い、四苦八苦していた。この光景を見て、箸使いの上手い下手でやっと日本人とロシア人の区別がつき、日本人と認めて貰えた(吉村昭著「大黒屋光太夫」より)という逸話がとても興味深い。松前藩から江戸に向けて光太夫達帰還の報が送られ返事を待つ事となった。ロシア人達は一旦上陸を許され小さな小屋を建てて暮らし始めた。光太夫達には帰国しても蝦夷で足止めをされている悔しさもあったが、長い間、帰国の許しを待ったという忍耐に比べれば比ではなかった。
光太夫達の行程図(クリックで拡大)クリックすると元のサイズで表示します
(大黒屋光太夫記念館)


蝦夷の地にも少しずつ春の兆しが訪れ始めた4月、悲しい出来事が起こった。当時冬の野菜不足で蝦夷開拓者の中でも、流行っていた壊血病で小市が亡くなった。光太夫達は「ここまで来て…」と悲しんだが、異国の地で果てた他の仲間からすれば日本国の地に埋葬されるのは…と、諦める事しか出来なかった。待てど暮らせど江戸からの返事はなかなか届かなかった。そしてやっと6月になって、函館の松前藩の屋敷にて、3度の会談が行われ、アダムが持ちかけた日露通商協定は、暗礁に乗り上げさせたまま、幕府側は、とりあえず長崎入港許可証を発行して、アダム一行を乗せたエカテリーナ号を長崎へと向かわせた。その後、光太夫と磯吉は、役人の付き添いで江戸へ向かう運びとなった。新緑の陸奥路は、索漠たるシベリアの原野を見てきた光太夫達にとって、帰国の喜びを更に感慨深くした事だろう。
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