2007/10/4

大黒屋光太夫記念館を訪れて…No5 帰国…そして故郷へU  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

江戸に着くと、お目付け役の取調べを受け、やがて吹上御殿での将軍家斉との拝謁が決まった。拝謁はロシアでの服装でという事で光太夫は、外套を着て黒ビロードの帽子を抱え、胸にはエカテリーナからの金メダルを下げて出かけた。幕府の高官達はロシアの国情について尋ねたが、国を閉ざして300年、質問は随分と焦点のずれたものであったと推察される。それでも光太夫達は、キリスト教の事、空気銃の事、大砲の事、ガラスや羅紗の製造過程の事、そして種痘の事などを話した。この時の記録が桂川甫周の『漂民御覧之記』である。甫周はこの後も将軍の勅命によって光太夫達を訪ね、ロシアの天文、地理、風俗について『北槎聞略』(ホクサブンリャク)として書き残し、幕府の書庫深く納めたという。尚、『北槎聞略』の冒頭には「他見を禁ずる旨を以ってこれを借りる密書なり。よって至って秘すべくもの也。寛政六年申寅五月是を書く」と記されている。
クリックすると元のサイズで表示します 将軍と謁見する光太夫と磯吉の図。
『漂流民御覧記』(1794年)桂川甫周(北海道大学付属図書館北方資料室蔵)


光太夫と磯吉は、江戸の薬草園に居を与えられ、幕府から生活費を貰って暮らしていた。訪れる蘭学者達と西洋について語り、薬草園に出ては花を眺めながら遥かロシアの友人、キリルや庄蔵、新蔵に想いを馳せた。光太夫達の江戸での処遇について、1986年(昭和61年)以前は、江戸に幽閉されたまま生涯を閉じた…と思われていたが、その年、当時若松小学校の校長だった故・弓削弘氏が、小学校の百年史を作成するに当たり、南若松の古い倉庫から見つけた古文書によって、光太夫達が里帰りをしていた事が判った。『大国屋光太夫らの帰郷文書』(鈴鹿市の文化財指定)と名付けられたその書によると、磯吉は、亀山藩お預けという形で1ケ月間、母親の元へ帰郷し、光太夫も40日間の帰省で、実姉に会い、神昌丸の船主、一見諫右衛門の元へ船を無くした詫びに行ったり、伊勢神宮への参拝も果たした。また2人共、消息を絶って2年で建てられた自分達の墓にも参ったという。
神昌丸乗組員の墓と光太夫実家の墓クリックすると元のサイズで表示します
建立は神昌丸の荷主で伊勢商人、長谷川次郎兵衛(後の三井財閥の祖)


光太夫は78才まで生き、妻を娶って亀二郎(後の蘭学者、大国屋梅陰)という男子をもうけたが、亀二郎は結婚する事無く早逝した。光太夫の帰国後の足取りが途絶え、遺品が少ないのは、子孫がいなかったから…とも言われている。また根室で亡くなった小市の遺品は、幕府の温情により、若松に遺した妻の元に送られ、菩提寺だけでなく、彼方此方の仏閣、大須観音でも法要が行われた。それは法要とは名ばかりの小市の遺品の展示会で、神社仏閣の金儲けとも囁かれ、そうこうして巡るうち、63点あった遺品も今では10数点となってしまったらしい。また磯吉は光太夫の10年後に亡くなったが、磯吉が語ったロシアについては『魯斉亜国舶聞書』『極珍書』として書き残されている。
クリックすると元のサイズで表示します 菩提寺前の小市の碑
小市の遺品…図録よりクリックすると元のサイズで表示します

そして、ロシアに残った庄蔵は早逝したが、新蔵はロシア人と結婚し、3人の子供も儲け、日本語学校の教師として少尉まで出世して、ロシア文で『日本及び日本の貿易について』という著を書き残している。残念ながら、光太夫らが晩年を迎えた頃、日本は、ロシアとの通商を結ぶどころか『異国船打ち払い令』まで出して臨海の船を攻撃したり、益々国を閉ざして行ったが、それは進んだ違う世界を民衆に見せる事によって江戸幕府が揺らぐのでは?という幕府の懸念=エゴそのものだったに違いない。やがてペリー来航で開港を迫られる事となるが、罪も無く鎖国の犠牲になって帰国出来なかった、多くの漂流民達の悲しみが伝わってくるようで光太夫の銅像も、少し淋しげな表情に思えた。
クリックすると元のサイズで表示します遠くを見つめる光太夫の銅像。
大黒屋光太夫顕彰碑クリックすると元のサイズで表示します
「開国曙光」←題字は徳川家達(15代徳川慶喜引退の後、徳川宗家を相続・公爵)
撰文は、光太夫研究の先駆けの新村出(文学博士・「広辞苑」の編者)昭和51年(1976年)建立。


※追記
大黒屋光太夫の人柄についてヨーロッパで紹介された本
フランスのルイ16世の命を受けて、大航海士ラペルーズによる北西海航路発見の旅に出ていたジャン・レセップスは、カムチャッカで光太夫達と偶然遭遇し『レセップスの旅行日録』(1790年パリで刊行)の中で光太夫の事は「活発な精神と優しい心の持ち主、賢く意思の強い指導者」と記し、逸早くヨーロッパに紹介した。その日録をエカテリーナ女帝は読んでいたかもしれない。尚、ジャン・レセップスは、後にスエズ運河建設に携わったフランスの外交官、フェルナンド・レセップスの叔父にあたるという。

※参考 
・「おろしや国粋夢譚」井上靖著
・「大黒屋光太夫」 吉村昭著
・大黒屋光太夫記念館発行 図録 ・(同)大黒屋光太夫便り

※大黒屋光太夫記念館公式HP
http://www.edu.city.suzuka.mie.jp/kodayu/

※ご協力
 大黒屋光太夫顕彰会


★長くなってしまいましたが『大黒屋光太夫記念館を訪れて…』は、この記事にて終了です。
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