2006/5/25

ちょうちんブルマのルーツ…その出生から2才まで その1  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

もうすぐ、サッカーW杯と言う事で、昨日はW杯の審判の秀でた運動能力について書いた。私が実の両親から遺伝的に貰ったもので、唯一、他の人より少し優れていた能力が運動能力だったと感謝している。私は、小学校の時から、体育の時間だけが楽しみだった。後は、両親とも身長も(鼻も)高く私は、いつか伸びるだろう…と希望を持ち続けて現在に至っていて、両親が持っていた他の良い所は、殆ど似ていない気がしている。そもそも生まれた時の私は、1700グラムの未熟児で、母は、妊娠中毒症がひどく、妊娠5ヶ月から入退院を繰り返していたが、8ヵ月も終わりに近づいた時、容態が悪化して緊急手術となったらしい。両親とも居ない今は、詳しく聞く事が出来ないが、帝王切開なのに深夜1時に生まれているという結果で、その緊急性を知る事が出来る。母体だけでも助けたい…という目的の手術だったらしいが、私は生命力が強かったらしく生きている事が出来たのだ。
クリックすると元のサイズで表示します初めてのひな祭りの写真(9ヶ月)

更に私の生命力の強さは、並大抵ではなく、翌年10ヶ月で迎えた「赤ちゃんコンクール」(決して赤ちゃんの美人コンテストではない)の未熟児の部で、健康優良児として岐阜県で優勝してしまうという、成長ぶりだったようだ。母は、そのお礼と報告も兼ねて、私が4才になるまで、お世話になった岐阜大学病院へ毎年訪れていた。4才以降は母がいなくなった為、行ってはいなかったのだが、大人になって当時の看護師さんに偶然出会った時、看護師さんは、私の名前を見て「あの時の赤ちゃん」と思い出して下さった。それくらい、駄目かと諦めていた赤ちゃんが健康優良児に選ばれ、新聞にも載ってしまったのは、印象的だったらしい。

さて、私は物心ついた時から、走るのが早く、短距離も長距離も強かった。それは、両親からの遺伝的要素と、後天的に悪戯ばかりして、特に祖母から追い駆けられていたから…と自分で思っていたのだが、何年か前に、育ててくれた母が「蔵を整理していて見つけた」と、私の4才までのアルバムを持って来てくれた。私はそのアルバムを開いてみて驚いた。私の「逃げ足の速さルーツ」が、そのアルバムの中に載っていたからである。育ての母は親戚の人の紹介で、父の後妻として私が6才になる頃に嫁いで来たのだが、祖母は、私が生みの母を思い出さないようにと、幼少時のアルバムを蔵に隠していたようだ。それは、父と祖母が相談した結果、私の為に出した結論だったと思っている。
赤ちゃんコンクール入選の新聞(母と私)クリックすると元のサイズで表示します

アルバムを開いて行くと、母直筆のコメントも添えられていて、まず、未熟児だったかなり小さい生まれたての写真から始まり、お七夜、ひな祭りの写真と続いている。両親は、結婚して何年もなかなか子供が授からず、授かったと思ったら駄目になるかも?と諦めた事もあった反動か、その4才までに思い切り可愛がって貰っていたな…と感じる事が出来た。更にアルバムの写真は、赤ちゃんコンクールで入選した時の新聞記事や、県下で優勝した際に、改めて新聞に載った「ほたる本邦初公開・ヌード写真」(オールヌードで刺激的過ぎる?為ブログでは非公開)と続いていた。また、この写真は、自分で見ても結構笑える。当時、家業が写真屋さんをしていた伯母曰く、新聞社の本格的なカメラマンのフラッシュを前に、泣き叫ぶ赤ちゃんの中、1人だけ笑って手をパチパチと拍手していたらしく、その横綱ばり?の心臓でも県下一だったそうだ。父からは「こいつは、もしかしたら馬鹿かもしれない?」と心配した程、何にも動じず、へらへらしていたとも…聞いていた。
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2006/5/25

ちょうちんブルマのルーツ…その出生から2才まで その2  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

そんな私の初めての長い旅行は、2才を前にした今頃の時期、祖父の末の弟が住んでいた大阪へ行った事だった。私はその小父さんを「大阪の秀(ひで)小父さん」と呼んでいたが、毎年、お盆と正月には、私の育った家にやって来て何日か滞在し、随分と可愛がって貰った思い出がある。アルバムによると、秀小父さんは、私達を奈良へと連れて行ってくれたようだ。そして私は、大仏の大きさに魂消たらしいが、大仏の鼻の穴の大きさとは露知らず、柱に刳り貫かれた穴を、何度も何度も潜って喜んでいたようだ。そしてその後、若草山を訪れている。問題はここである。若草山には鹿が放し飼いになっている。両親は、恒例の如く「鹿せんべい」を買い、私に鹿へ食べさせるようにと、与えた。ところが…である。食い意地が張っていたのか、はたまた、悪戯心があったのか、自分でも定かではないのだが、私は、鹿にあげるふりをして、自分で「鹿せんべい」を食べてしまったのだ。

クリックすると元のサイズで表示します 鹿に追われている証拠写真。
宙に浮く私の足と対照的な鹿のカメラ目線が憎い?(クリックで拡大します)


目の前にせんべいを出されるも、自分より図体の小さい子供に、食べられてしまった鹿は、きっと怒ったのだろう…私を追いかけて来た。流石の私も逃げ出した。鹿はずっと追って来たようで、私は泣きながら母の元へと辿り着いた。しかし、両親は恐がる私に、鹿さんに謝れと「ごめんなさい」を言わせ、もう1度、「鹿せんべい」を与えさせた。母に抱かれながら、せんべいを持ち、思い切り足を突っ張らせて、体は引いてしまっている情けない姿の写真も残っていた。それにしても、この一連の動作を、本来なら助けてくれるべき存在の父が、カメラに収めていたのも、何か解せない。そしてよく見ると鹿は、ちゃっかりカメラ目線であるのだ。2才に満たない子供の足が宙に浮いて必死に走っている。そして、その後ろを余裕で追い駆けるカメラ目線の鹿…。私は、(残念ながら)ここに「ちょうちんブルマ」のルーツを見つけた。
必死の形相でせんべいをあげ直す私。クリックすると元のサイズで表示します

この一枚は、何とも情けない写真であるが、その写真からは、「悪い事?をしたらちゃんと謝りなさい」という両親の教えも伝わって来た。2才の私のこの体験は、今では殆どその記憶は残っていないのだが、人としての基本・謝る事を教えられた事に、今改めて感謝し、けっして忘れてはいけないと思っている。…しかしながら、生まれて直ぐから、私の人生が、目標としている「エレガント」からは、かけ離れた「三枚目路線」として確定していたのか…とアルバムを見て、嘆かわしいやら、笑えるやら…であった。全く、今までの私のささやかな「エレガント路線」への心がけと努力は、所詮無駄だったという事なのだ。

また、その写真を見ていると、運動能力だけでなく、泣きながら逃げる我が子を、恐らく楽しみながら?撮影した父の「悪戯心」も、私に遺伝していると推察できた。アルバムの続きの写真からも、その片鱗が伺われる。その後は、悪戯している様子が写された写真ばかりなのだ。結果、私の悪戯心の一番の被害に遭ったのは、両親は勿論だが、後には、腹違いの妹と弟達だった気がしている。妹については、前の日記で触れているが、弟の事も色々と思い出している。その逸話等はまた別の日記で…。
クリックすると元のサイズで表示しますカメラを向けても、悪戯ばかりの9ヶ月頃
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2006/5/17

自動車学校の思い出…(ちょうちんブルマのその後) その1  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

今日は、友達と、友達の彼との3人で、自宅から20分ほど車で行った所の串揚げ屋さんへ行った。友達もその彼もお酒を飲める人なので、私が運転手として出かけた。車を走らせていると、前を自動車学校の教習車が走っていた。そういえば、私の路上教習もこの時期だったなぁ…と思いつつ、20才当時の自動車学校時代の思い出を振り返ってみた。当時の私は目標とした国家試験合格後、勤め先から近い自動車学校に入校した。自分で書くのも変だが、女性にしては進むのが早い方で、第一段階、第二段階、第三段階、と、規定枠の時間数で通過して行った。仮免も学科・実技試験ともに一度で受かり、そのまま路上教習に出た。私は同時入校の男子で自動二輪の免許を持っている子と競うように、単位を消化して行ったのだ。そして最後の卒業(路上)検定の日、車両番号は5号車…「鬼の石原」という厳しい教官の車に乗る事になった。それでも、いつものように乗ればいいと、かなり余裕を見せていた。
クリックすると元のサイズで表示します 私が通った尾西自動車学校(愛知県内)。

私に与えられたのはBコース…。自動車学校を出て、対面・片側一車線の県道を走り、デパートのある繁華街を通って、団地を抜け、片側二車線の国道に出て直進、そしてまた、県道に戻って学校に帰るという所要時間約20分間位のコースだった。いつも走っていたコースだから、後は確認の言葉や、横断歩道を渡ろうとしている歩行者の人に注意しながら慎重に走ればいい…そんな風に思っていた。心地よい緊張感の中、私は仲間達より早い一番スタートとして車に乗った。助手席を見ると、石原教官が厳しい顔つきで乗っていた。私は深呼吸してエンジンをかけ、アクセルを踏んで車を走らせ始めた。そして片側一車線の県道を500メートルくらい走った所で信号待ちをしていると、私の前に選挙カーが入ってきた。市会議員選挙候補者の「前○茂」氏の選挙カーだった。鶯嬢が「前○茂、前○茂に清き一票を、お願いします」とマイクで呼びかけ、窓からは白い手袋をした手が振られていた。その道路は、制限速度40キロだった。
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選挙カーは明らかに徐行に近いスピードだった。自分の運転する車のメーターで確認してみたら20キロ位で走っていた。更にバックミラーとルームミラーで確認すると、私の車の後ろには、どんどんと他の車が溜まって来た。遂にはクラクションを鳴らす車まで現れた。私は急に焦りだした。どうしよう?心臓はドキドキと鼓動を高め、少し汗も滲んで来てしまった。すると選挙カーが左に寄りながらウィンカーを出して更に減速して走り出した。「抜いてくれ」という意味だ。そこで私は石原教官に「抜いても宜しいですか?」と、聞いてみた。石原教官は顔色も変えずに一言…「答えられません」。悩んだ私は遂に決心、方向指示器を出し「右後方良し」と声を出して確認し、加速して選挙カーを抜いて行った。選挙カーの拡声器からは「自動車学校、頑張って下さい」と声がした。私が慎重に方向指示器を左に出し、40キロ以内で加速して抜き切って選挙カーの前に出た途端、石原教官から、驚愕の指示が出た。「はい、このまま次の信号を左折して、学校まで帰りましょう」。「えっ?」暫く事態が把握できなかったが、私は、はみ出し追い越し禁止の黄色い車線を越えて抜いてしまい、「失格」となってしまったのだった。
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情けない気持のまま、自動車学校に戻ると、仲間からは「早かったねー。流石!何点だった?」と聞かれた。私は「0点、失格だって」と答えた。皆にその理由を話したら、何故か皆からお礼を言われたが、私は落ち込んでいた。卒業検定は一度落ちると、2時間の路上走行を追加し、また再検定を受けなければならなかった。勿論、2時間乗ればお金も余分にかかるし、検定料も要る。当時国家試験を受けたばかりの私は、自動車学校に使うお金がぎりぎりだったので、勤め先の先生に、その追加分の金額の前借りをお願いして、支払う事にした。そして再試験は一週間後となった。試験前日、今まで緊張する事も少なかった私が、緊張の為か、なかなか寝付けず長い夜を過した。朝、先生が不安そうな私を見て、「酔い止めのような精神安定剤を薬局に行って買ってきたら」と助言してくれた。私は、急いで一軒隣の行き付けの薬局の小父さんの所へ相談しに走っていった。その時は、今までのどの試験より不安な気持だった。小父さんにその旨を切々と説明した。
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2006/5/17

自動車学校の思い出…(ちょうちんブルマのその後) その2  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

小父さんは、話を聞いて暫く悩んでいたが「ほたるちゃんの頼みだから、取って置きの薬を出してあげる」「その代わり、これは誰にも言うなよ。公になると小父さんは薬剤師の免許を取られてしまうからな」と言った。私は小父さんの話に真剣に耳を傾けた。小父さんは続けた。「いいか、1錠しか出せないぞ。よく効くから2錠飲んだら、寝てしまって居眠り運転になるからな。30分で効いて来るから、試験開始の30分少し前に飲むんだぞ、いいか。小父さんの言う事をちゃんと聞けるか?」と私に念を押しながら、「特別な安定剤だから、奥の冷蔵庫に入れてある」と言って、奥の部屋に行き、ハトロン紙で包んだ錠剤を持って来てくれた。「絶対に落ち着くという自信があるから、代金は受かってから払えばいい」という約束もしてくれた。このようにして私は、小父さんの丸秘特効薬を得て、試験に臨む事が出来たのだ。そして小父さんに言われた通り試験開始30分少し前に薬を飲んだ。薬も小父さんの言った通り効いて来て、30分くらい経ったら自分でも驚く程落ち着いて来て、バクバクしていた心臓の音も静か過ぎる位になった。教官は、またもや「鬼の石原」。しかし私は、おもむろに助手席のドアを開け「どうぞ先生」と言える程、余裕綽綽だった。石原教官は「余分な事は言わないで宜しい」と言い、助手席に座った。今度は選挙カーもいない。落ち着き払っていた私は、ノーミスの運転で終える事が出来、1時間半後の発表で、100点満点で合格する事が出来た。
クリックすると元のサイズで表示します  自動車学校内のコース。仮免までは順調だったが…。

お店へ帰った私は、先生に相談し、早速小父さんの大好物の羊羹を持ってお礼に走って行った。今振り返るとスキップしていたかもしれない。逸る思いで薬局のドアを開け、「小父さーーん、効いたよ。ありがとう。合格したよ!」と叫んでいた。その瞬間、小父さんは高笑いを始めた。「???」怪訝そうな顔でキョトンとしている私に、小父さんは「ほたるちゃんが飲んだのはこれだよ」と、ある薬のサンプルを出してくれた。それは明らかに封が切られていて、1錠出した跡ががあった。その破かれた袋には「アリナミンA」と印刷されている。私は狐につままれた状態だった。そこで小父さんは「プラセボ」という偽薬の話をしてくれた。私はそれでも「そんな馬鹿な!」と小父さんに言い「本当に落ち着いて来たんだもん。効いたんだよ!!」と食い下がった。小父さんは「小父さんも、こんなに簡単に効くとは思わなかったなぁ」と笑ったままだった。そのうち何だか無性に怒れて来た私は、「小父さんひどい、私を騙して」と言った。小父さんは「希望通り受かったのに、怒られる筋合いはないわ」と、まだ笑っていた。そして「羊羹は薬代の代わりに頂いて置く」と言いながら、嬉しそうに奥の部屋へ入って行ってしまった。
クリックすると元のサイズで表示します
それでも私は、どうしても「アリナミン」だったとは信じられず、その夜本屋さんへ行って、家庭の医学・薬版みたいな辞典を片っ端から立ち読みし、安定剤で黄色い錠剤は無いかと、懸命に探したが、残念な事に1種類も載っていなかった。しかも、その後、後輩の国家試験の前などに、小父さんに向って「同じ薬を貰えないか」と頼んでも「ほたるちゃんにしか効かないよ」と2度と処方?してはくれなかった。最近になって、先生の家を訪ねた時、小父さんに会いに行った。小父さんは「自分の薬剤師人生で、最高の大芝居だったわぃ」と言ってまた大笑いしていた。全く、小さい子供でもあるまいに20才の私は、そんなに単純だったのか…!?。私は今でも、あの効き方は本物の安定剤だったのだと、思っていたいのである。因みに、私が抜いてしまって試験に落ちた時の、選挙カーの持ち主「前○茂」氏も、市会議員選挙を落選してしまったらしい。結果、私は抜いて落ちて、前○氏は、抜かれて落ちたのだが、全く洒落にならない情けのない話だった。更に特筆すると、合格した時に、鬼の石原教官は、やっと笑顔になって言ってくれた。「あなたは、全てストレートで来たから、あのまま受かっていたら、過信して事故を起すかもしれない。落ちて良かったんだよ」と…。あまりにショックが大きかった思い出だけに、その言葉は、今でも運転席に座る時に聞こえるような気がして、私の自戒の言葉となっている。

◎参考  プラセボとは…(メルクマニュアル 医学百科家庭版より)
プラセボとはラテン語で「私は満足するでしょう」という意味。偽薬、ニセの薬の事を指す。例え実体は砂糖の塊でも、よく効く薬だと言われて飲めば、効いてしまう事もある。これをプラセボ効果と言う。このように信じれば何でも効いてしまうという事があり、従ってプラセボ効果は、患者の医師に対する信頼が厚い程、強く出て来る。またこれは医師に後光が差しているようだ、という意味で「後光効果」と言う事もあるそうだ。◎参考サイト→
http://mmh.banyu.co.jp/mmhe2j/sec02/ch010/ch010c.html
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2006/4/22

書家・金峯の親族(ちょうちんブルマ)の武勇伝…柿右衛門の皿  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

昨日のブログで祖父の弟、金峯の事を書かせて頂き、知っていて下さる方や、興味を持って見てみたいとメールして下さった方がいらして感激した。では、私本人の文字は?とのご質問もあり、穴があったら入りたい気分になった。ノーベル物理学賞の朝永振一郎博士でさえ、習字の先生に下手と言われ朝になると腹痛が起きて学校に行きたくなくなったというエピソードも有り、どうやら字の上手下手と賢さは因果関係はないらしい。しかしながら、文字が綺麗だと賢く思われがちで、学生時代の字は一寸綺麗で、随分徳をしたり誤解されたりした。私が習字を習っていたのは中学生までであったが、小学生の頃は、半紙から、はみ出すくらいの元気な文字を書いていて、小さな大会で賞を頂いたりした。それで祖母の期待を担い、金峯に習ったという先生に習字を習いに行くことになった。
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しかし、祖母の期待はいつも裏切られるものだった。どうも学校の習字の時間とは違い、じっと墨を磨るのが苦手であった。私は墨汁を使いたいといつも思っていたのだ。また、偶然だが同じ類の男の子も習いに来ていて、隣に座っては、先生の目を盗み私の半紙に悪戯書きをしたり、墨を顔に飛ばしたりして来た。そこで泣けば女の子らしいのであったが、義理堅い?私はお返しをしたものだから、見つかってしまい、いつも先生からは墨磨りの罰を与えられていた。以来どうも習字は好きになれなかった。でもどうにか、中学1年までは習っていて、書道展で「女郎花」(おみなえし)という字を書いて文部大臣賞を貰った事もあった。それは安い表装だが一応表装して貰って掛け軸になっている。習字を習って良かった事は、どうでも良い事だが書き順を覚える事が出来た事と、墨磨りで少しは根気が身に付いた事と思っている。

また、習字と普段書く字は違うものである。最近は文字を書く事がめっきり減って、慌ててメモした時等は、後で自分の字が読めなかったりして困る事も多々ある。お正月に娘さんの和服の着付でこのブログにも登場した、私の幼少時のお守のお姉さんとは、高校時代文通をしていた。5年前、東京へ行った時、彼女の家に泊めてもらったが、彼女が大きな箱を出して来て、蓋を開けて驚いた。私が送った手紙の全てがそこに保管してあった。懐かしさのあまり手紙を開いて更に私は驚いた。「これ、私の字?」。それは今現在書く文字とは、別物だった。それも草書で書いていた。文字とは、書かないと退化するものだとよく解りかなりショックだった。10代の自分に負けてしまったのだ。いやしかし、負けているのは文字だけではないかもしれない。ここで例を挙げると空しくなって気力を失くしそうだ。
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さて、金峯の書だが、通常は育った家の蔵に保管してあった。私は腕白だったので小学生の低学年くらいまでは、祖母によく蔵の中に入れられた。始めは暗くて恐いので泣いているのだが、そのうちに目が慣れて来ると、その蔵の中は私にとって興味深々の場所になった。実は金峯の掛け軸も開いて見たりしていた。巻き方やしまい方が違う為、すぐに祖母に判ってしまい、余計叱られたりしたが、懲りずに蔵の2階まで探検したりした。その経験は、祖母が亡くなった時に、育ての母は物の位置を知らない事が多く、結構役に立ったりした。蔵の中には、焼き物も多く、飯事遊びもしていた。祖母が気にして蔵の前に来ると、「お帰りなさい。ご飯にする?」なんて飯事の会話が聞こえていて、呆れたと言っていた。

柿右衛門皿の内の1つ。 クリックすると元のサイズで表示します

そういえば、こんな事もあった。小学生の時、親戚で結納式があり、柿右衛門一式の器を貸し返って来て内縁に干してあった。その日は公民館で子供会の集いがあり、カレーライスが出る日だったが、私の家にはレストランで出てくるようなカレー皿がなく、私は、干してある皿の中から楕円の気に入った柄の物を選んで持って行った。私なりに気を使いキルトの布で包み、自転車の荷台に丁寧にくくり付けて持って行った。帰宅して祖母がお皿が「1つ足りない」と騒いでいたので、「今借りて行ったよ」と答えたら、祖母は怒りながら慌ててそのキルトを持った為、お皿が滑り落ちて2つに割れた。
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祖母は憤りを何処にぶつけていいのか解らず帰宅した父に唾を飛ばして怒っていた。父は「おふくろ、割ったのはおふくろだからな。金継ぎに出せばいいさ」と言い、私にはお咎めが無かった。そして「前代未聞だ、柿右衛門の皿でカレーか。皿もびっくりしたわなぁ」と高笑いしていた。まったくもって寛大だった父に感謝している。数年前、弟の結納の時、その一式(昔は家で挙式をした為、20客ずつ揃っている)が出された。金で継いだ楕円のお皿…私がその家で育った証拠だと親族から笑われた。今振り返ると、柿右衛門の柿色にカレーの黄色はよく似合っていたと覚えている。良い器は料理を引き立てるとは、本当の事だ。このようなほたる武勇伝は、祖母からは目くじらを立てられ通しで「巴御前のように戦国時代に生まれて来て欲しかった」と言われていた。金峯の話を書いたからには、子孫の恥とならぬよう、今後はしとやかに努めたいと思っているが、はてさて…である。

◎閑話休題
朝永博士は「習字が苦手だったから色紙は勘弁してもらっていた」と『回想の朝永振一郎』に書かれているが、実は色紙にこんな言葉を残して居られる。
「ふしぎだと思うこと これが科学の芽です よく観察してたしかめ そして考えること これが科学の茎です そうして最後になぞがとける これが科学の花です」

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2005/11/6

鈴子と名乗るオーストラリア人(高校時代)その1  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

高校2年の春、オーストラリアからの交換留学生とやらで、リン・ハドウという子が私達の学校にやって来た。リンちゃんは自分の家に、日本人をホームステイさせた事もあり、日本が大好きで、既に2年間、日本語を学んでの来日だった。リンちゃんが転校?してきて間がないある日、いきなり校長先生から私は呼び出された。この校長先生のFシスターは、日本人だったが、生徒を呼び出す時は、放送室へ行って、ピンポンポポーンとか言うイントロの音を使わず、いきなり「2年1組○○、校長室まで」と言うから、いつもドッキリとさせられる。しかも、私の場合、殆どが、ドッキリするような内容ばかりで呼び出されていたので、この時も、まりものように毛が生えている、と言われていた心臓も、円形脱毛症になりそうだった。
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するとFシスターは、「リンちゃんの面倒を見てあげて」と私に依頼した。一瞬何かの間違いではないかと、思った程だ。という訳で東海道中膝栗毛(ヤジキタ道中)と名付けられていた私とゆうちゃんに、リンちゃんが加わり、かしましトリオが誕生した。私はリンちゃんに鈴子と名前をつけた。リンちゃんは、とても気に入ってくれたは良かったが、公式な書類にも書くようになってしまい、困ったりした。リンちゃんは、日本語がとっても上手だったが、人真似も上手かったので、例えば私達が友達同士で「オハヨッ」と言ったり、更に「チワーッス」と言ったりすると「カンタンガ イイネー」とか言って忽ち覚えてしまい、それをシスター達に堂々と言ってしまったりするから困ったものだった。そして、「そんな言葉を、誰から教わったのですか?」と聞かれると、100%私の名前を言うものだから、半分は濡れ衣だったりしたのにも関らず、全て私が呼び出され叱られてしまっていた。そうこうする内に、修学旅行の時期が来た。
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修学旅行の班分けは、クラスを取り払って、くじ引きで行われた。修学旅行先は北海道。私は広大な大地というイメージもあり、とても楽しみにしていた。リンちゃんは、当然のようにシードされて私の班と決まっていた。後2人、4人で一班とされていたのである。くじを引いて暫くすると、ゆうちゃんがやたら嬉しそうに「ほたるー、一緒」と叫んで来た。これでは、いつもと変らないではないか。何の為に、くじを引いたのか意味が無いと、私は、うな垂れてしまった。ゆうちゃんとは、夏休み等に教会のボランティアで、泊まりで彼方此方行った事があったが、まず部屋を出る時の荷造りにしても、ぶつぶつ言いながら、あれやこれやと、動かしているだけで、私から見ると、出しているのか、入れているのか分からない感じだった。結局、ジタバタした挙句に入りきらず、2人して押さえ込んで閉める、そんな経験を何度もして来ていた。9泊10日の先行きが、思いやられる嫌な予感がしていたのだった。
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北海道に入り、私の予想に反して手がかかったのは、ゆうちゃんではなく、リンちゃんだった。まず北海道は寒い。私達の服装は、制服のブラウスにジャンバースカート、そしてカーディガンだったが、体操用や作業用にと紺色のジャージもあって(勿論、ピチブルマもあったが)滞在先ホテルの部屋着となっていた。リンちゃんは、そのジャージを寒いからと、ジャンバースカートの下に履いて、行動していた。札幌の繁華街でも平気だった。私が「その組み合わせは可笑しい」と言っても、「ユニファームダ」と言い張ってジャンバースカートは脱がないし、だったら「ジャージは止めてタイツにしたら?」と言えば「サムイカラ」と履いたままであり、思いの外、頑固者だった。私達は一緒に居るのが恥ずかしかった。
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ゆうちゃんも私も、何処かでリンちゃんをギャフンと言わせたいと、思っていたに違いない。層雲峡のホテルでの夕食時、フランス料理のコースの中に「北海道のお雑煮」のサービスが着いて来た。リンちゃんは私に「ホタル、ドウシテタベル」と聞いて来たので、箸が置いてあったが、ここぞとばかりに閃いて「ナイフとホークで食べるんだよ」と教えてあげた。リンちゃんは、ナイフとフォークを手に持って、お椀の中のお餅と格闘していた。お餅とは、思った以上に切れにくいものだった。そして、リンちゃんが必死でお椀に向かって格闘している間に、私達はさっさと、お餅を食べてしまい、そ知らぬ顔をしていた。しかし、やはり悪い事は出来ないものである、当り前だがFシスターに見つかり、私達は大目玉をくらってしまった。
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2005/11/6

鈴子と名乗るオーストラリア人(高校時代)その2  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

更にである。根室では民宿風の旅館だった。何と其処はトイレが外にあり、汲み取り式だった。夕食の前だった。リンちゃんは「コワイ、ハイレナイ」と言い続けて入らなかった。ゆうちゃんと私は、困り果てたが、リンちゃんも我慢が限界だったのだろう。「ドアヲ アケテスル」とか言い出した。それもまた困るので、ゆうちゃんが「ここに掴まって、こうすればいい」と、実践さながら丁寧に教えこんだ。それでやっと1人で入ってくれる事になった。私達は安心して、部屋に戻り食卓を前にお祈りをしようと、リンちゃんを待っていた。しかし、リンちゃんは、なかなか帰って来なかった。私達はトイレまで様子を見に行った。すると、トイレの中から「Oh ーーaaaQQQuuu」(英語で意味不明)とリンちゃんの叫び声が聞こえていた。耳をすませてよく聞くと、何と、靴を落としたと言っていたのだ。そして窓から手を伸ばし、朝顔とかに使うつるべ取りの棒を取り、靴を取ろうとしていた。(汚い話で、大変申し訳ございません)
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私達は「もう汚いから」と説得したが、リンちゃんは「ユニフォーム、アタラシイ」と言って譲らなかった。仕方がないので、一緒に取るのを手伝った。旅館の番頭さんもやって来た。シスターも来た。しかし誰が何と言っても「トル」と言って聞かなかった。結局、ゆうちゃんと私が拾い上げ、外の水道を借りて洗う事にした。その惨憺たる光景は今でも、思い出したくない程だった。しかも結局、革靴なので水に浸けると縮んで固くなってしまい、履く事は不可能だった。リンちゃんは、そこでやっと、落とした靴を使用する事を諦めた。その日の私達の夕食は遅くなっただけでなく、けっして美味しくは食べられなかった。更に、リンちゃんは翌日、片方は革靴、片方は、とりあえず買ったスニーカーとの、不揃いの格好で歩くと言うのだ。それも「ユニフォームダカラ」と片方の革靴を指差して、両方スニーカーにすると「ワタシハ ルールイハンネ」と、校則を破る事になると屁理屈を捏ねる。結局そのままの格好で、北海道の街を歩き続けた。
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リンちゃんは、身長も高く、美人であった。だから余計目立った。私達の学校の制服は白いブラウス、グレーのチェックのジャンバースカート、ブルーのベルト。足元はコインローファーの靴、頭にはグレーのフェルトのベレー帽と、当時にしては、なかなかお洒落であったと思っていたが、その服装にジャージのズボンを履き、靴は革靴とスニーカー。傍にいるだけで恥ずかしい格好だった。更にりんちゃんは恥ずかしがるどころか、堂々としていたのだ。今、振り返ると、私の開き直りに拍車がかかったのは、リンちゃんの影響もあったのかと、思ったりする。私の姓を名乗り、自称「鈴子」と言って何処へ行くにも着いて来たがり、彼女の1年間の留学期間、学校での時間の殆どを一緒に過したが、本当は、私が、一寸ばかり迷惑だったりした事を、当時の彼女は知る由もなかった。
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今になっても、毎年、クリスマスの時期には「○○鈴子より」と書かれたクリスマスカードが届く。そのカードには丁寧な日本語で、色々とメッセージが書かれている。今年「愛知万博に来る」と言いきっていたが、お母さんが病気(子宮筋腫)になられて手術された為、断念した。リンちゃんは、久しぶりの日本だと、とても張り切っていて、私達の家に、交代で泊まると決めていたので、実は、お母さんには申し訳ないが、私は、中止になって、ほっとしていたりしたのだった。ゆうちゃんも、かだし同感だった。
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2005/10/29

パイプオルガン初演奏(ちょうちんブルマのその後)  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

私の高校時代は、暗い過去?を暴露され?波乱に飛んだ幕開けとなった。1年の時は、必須科目のスペイン語で、巻き舌ができず苦労したり、音楽でマンドリンを習い、学校から貸し出されて持ち帰れば「琵琶」と言われてしまったり、それはそれは、様々な事があったが、ちょうちんブルマからは、脱皮し、少しは都会的女子高生に近づきつつあった(気がした)。しかしである、2年になってから、例の入学式に遅刻してきた子(ゆうちゃん)と、同じクラスになってしまい、その同調性によって、私の私たる威力は、更に発揮されて行った。時を同じくして、某高校男子部から、T神父様が赴任して来た。体育と倫理の先生だった。神学校=>男子校という男性ばかり世界から、女子高へ配属になったT神父様は、最初、私達に、どう接して良いか、迷っていたようだった。どうやら、可憐でか弱い女子高生達と、イメージしていたらしい。他の学年はともかくとして、私達の27期性は、明らかに違っていた。賢いT先生、教室へ入って即その雰囲気を感じ取ったようで、すぐに緊張は取れていった。
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T神父様の所属する教会は、ステンドグラスが綺麗な、東海地区では1番大きな大きな教会だった。何故か私とゆうちゃんは、教会のボランティア活動へと、T先生に頼まれて借り出され、以降毎週、通うようになったのだが、初めて行った時は、1年の担任のEシスターに連れて行って貰った。そのEシスターはスペイン人で、当時日本に来て15年以上経っていたが、何故か日本語が上手でなかった。音楽の先生の割りに?発音も悪く、て、に、を、は、が、目茶目茶だった。私達は、慣れていたのだが。その日、私達は、名古屋駅からは、市バスに乗った。Eシスターは「私、慣れてますから、私を?ついて来なさい」と言った。ゆうちゃんと私は、何処のバス停で降りるかも知らず、一緒に座っていた。そして、バスが停まった。すると突然Eシスター、「運転手さん、私をころして、ここで、ころして下さい」と席を立ち、前に向かって走り出した。車内は騒然となった。私は焦って後を追いかけた。「降ろして下さい」と言い換えた。ゆうちゃんは、私と制服が一緒なのだから、無駄な抵抗だったが、間を置いて、他人のふりをして降りてきた。
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Eシスターは、教会に着いて開口一番、「優しい運転手さんでした、私を殺しませんでした」得意げに宜った。「いきなり『殺して』と頼まれても困るよなぁ…」と、私とゆうちゃんは思ったが、T神父様は「それは、良かったですねー」と普通に答えていた。何だか、常識が違うような気がした。でも、教会という所は、そこに居るだけで心が落ち着くものだった。私の育った家は禅宗であったが、何度か通ううち、ミサで、神父様達のお話を聴くのも、勉強になって楽しかった。そんなある日、T神父様が、パイプオルガンの部屋へ案内してくれた。ゆうちゃんは、グリークラブだったし、勿論、ピアノも弾けたので、T神父様は気遣ってくれたのだろう。私も学校で毎週末に歌う聖歌だけは、覚えていた。パイプオルガンは、2階に置いてあり、その部屋からは、教会内が一望出来た。ゆうちゃんは、オルガンのパイプに興味を持ち眺めていた。私は、知っている聖歌がないかな?と、パイプオルガンの譜面を捲っていた。するとT神父様は、私達2人に「一曲ずつ、好きな曲を弾いていいよ」と言ってくれた。そして階下に下りていった。
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私は、おもむろに、パイプオルガンの椅子に座り、演奏し始めた。「バァバァ、バッバァッーバー」流石、低音も響きがいい。もう一段階キーを上げて演奏を再開しようとしたその時、T神父様が、顔色を変えて階段を駆け上がって来た。「ほ、他の曲は、演奏できないのか?」そう叫んだT神父様に、私は答えた。「あっ、子猫踏んじゃったも、弾けますけど…」T神父様は、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。そう、私は、「猫踏んじゃった」を演奏したのであった。T神父様は、私が聖歌集を見ていた為、聖歌集の中から、選ぶと思い込んだらしかった。更にミッションスクールの女子高生たるもの、ピアノくらい習っていて当り前と、思っていたのである。初めて私達に会った時、即違うと悟ったはずだったのが「甘かった」とT神父様は嘆いていた。T神父様の上司にあたる司教様もやって来た。そして「もう駄目だ」と演奏中止命令になってしまった。ゆうちゃんは、「えーっ。私が先に弾けば良かった。北酒場」と言った。そういえば、ゆうちゃんのお母さんが好きで、彼女はエレクトーンで演奏してくれた事があった。私はその時「また聴きたい」と言ったらしかった。結局、2人とも、聖歌を弾くつもりなど、毛頭なかったのだ。以来パイプオルガンの部屋には「関係者以外、立ち入り禁止」の札が立てられた。
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因みに私は、ピアノは習った事がないが、小学校の音楽の授業でオルガンを習い、ハモニカやリコーダーを弾くのも下手でなかった。更に「猫踏んじゃった」は、オルガンの早弾き競争をして、負けたことの無い程の腕前だった。後にゆうちゃんの家で、エレクトーンのパイプオルガンモードで、弾き比べてみたが、やはり、本物のパイプオルガンの音には適わないなと実感した。……そんな女子高時代、ゆうちゃんとの迷コンビの逸話は、まだまだ、続くのであるが、その話はまた、別の日記で…。
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2005/10/26

ちょうちんブルマのその後 番外編  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

私のことを、指差して「ちょうちんブルマ」からの脱皮を妨げた「こっちゃん」は、やはり名門中学の陸上部だっだだけあって、通信陸上のその後も、着々とタイムを上げ走るのも早くなっていた。そして何より170cm近い長身だった。私達の学年は、こっちゃんの他にも足の速い者が後2人居て、校内の学年対抗リレーでも、3年生に勝てる早さだった。私達は東海3県にあるカトリック5校の大会のリレーにも、新記録をかけて出場する事になった。私達の高校には、体育専門の先生がいなかった為、体育の先生(講師さん)は某体育大学から来られていて、そこの大学の陸上部へもバトンの練習を中心に、指導して貰いに行く事にもなった。

こっちゃんは、私達4人の中で1番早かったが、バトンの受け渡しがネックになっていて、当然のようにアンカーに指名された。私はスタート時に瞬発力はあっても雷管の音でひるむ癖がありスタートには適さず第3走者になった。それに、不器用なこっちゃんに、バトンを渡すのは、私の役目とされた。リレーの指導をしてくれた大学陸上部の人達は国体にまで出たグループだったので、バトンの受け渡し練習も、並の練習ではなかった。バトンサークルに入ったら、走者は「Go」と声をかけ、同時に次の走者はスタートする。そしてお互い走りながら後は、「はいっ」と声をかけ、振り向かずバトンを受け取る。私達は手に肉刺が出来、破れても、破れても、新記録の為と厳しい練習を重ねた。

試合当日は、秋晴れの良い天気だった。私達は万全をつくして望んだつもりだった。愛知県の某高校女子部で、その大会は開催された。他にもアーチェリー、テニス等、強い部活も参加していた。その中でも、リレーはやはり花形で、全試合の最後に開催された。私達のチームは最強だった。私は1位でバトンを受け取り、2位とは既に10メートル以上の差がついていた。私も更に引き離して行ったそうだ。ところが、200メートルトラックの第3コーナーを周ろうとした時、バトンのウェイティングサークルに、こっちゃんの姿が無い。私は一瞬、何が起こったか察知できなかった。するとこっちゃんは、走り終えた第1走者と共に、コースの中で、悠然と体操座りをしているではないか!「こっちゃーん」(実際は呼び捨て)私は彼女の名前を喚きながら走っていった。こっちゃんは「はっ」と気付いて立ち上がりバトンサークルに来たが、私から「はい、どうぞ」みたいな、バトンの手渡ししか出来なかった。のちに言う「宅急便受け渡しリレー」であった。こっちゃんは泣きながら爆走した。受け渡す時には3位のチームと同時になっていたが、こっちゃんは牛蒡抜きし、1位になった。しかし、新記録は藻屑と消えた。

応援していた同じ女子校の仲間は、私の喚きながらの走行、こっちゃんの泣きながらの爆走と、「はい、どうぞ」のバトン受け渡しが、余りにも対照的で面白かったと後で他人事のように言っていたが、本人達は、「あんなにバトンの練習したのに。。。」と悔しかった。それでも、こっちゃんの泣いている姿に、誰も怒る者はいなかった。指導してくれた大学生の人が、「ふぅー」とついた、ため息だけが、やたら大きく聞こえていた。因みに、こっちゃんは、体育前の着替えの時、ストッキングとパンツも一緒に脱いでしまう癖があった。それも、面倒だからと、先にスカートを脱いでしまっているから、大変だ。当時更衣室が無かったので、教室で着替えていたのだが、一度、体育の先生が伝言の為に入って来た瞬間に、脱いでしまった事があり、先生にお尻を披露してしまった強者である。しかし、あの時「ぎゃーっ」と言って逃げ出したのは、先生の方だった。そのこっちゃん、3年前優しそうな彼と結婚した。「宅急便を受け取る度に、あのリレーを思い出します。すまん」と年賀状に書かれていた。こっちゃんにとっては、今でもあのリレーの事がトラウマ?らしい。
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2005/10/25

ちょうちんブルマのその後 part 1  学生時代の思い出とちょうちんブルマ

先日の中学校の思い出の中の、ちょうちんブルマの話に対し、コメントを頂いたり、メールを頂いたりしたので、リクエスト?にお答えし(僅かな人ではあるが、楽しんで頂けたようで)今日は、ワールドシリーズも無いことだし、ちょうちんブルマのその後を書く事にした。と言っても大した落ちはないのだが。。。
私は幼少時から、どうも大事な所でずっこける傾向にあったようだ。自分では、このボケは、養殖されたボケのつもりではあったが、どうやら天然のボケらしい。近頃、新年のモットーは「エレガント」だが、毎年、元旦早々崩れ去っている。何でも、友達の分析によると、他の人が冷静な時に慌て、慌てている時に冷静らしく、根っからの、天邪鬼なのかもしれない。

そんな感じで幼少時から何かに追いかけられながら、走るのが速くなり、陸上部に在籍していたのだが、2年になる時、陸上部を辞める事になってしまう。それは先輩女子部員が卒業し、もう1人の同級生の女子もソフトボール部に転部する事になった為、職員会議で女子陸上部は無くなる事に決ったのだ。行き場をなくした私は…と書くと悲哀に満ちた感じなのだが、ショックだったのはM先生だけで、私はトラックに青春をかけるなどという意気込みもなく、男子の中で搾られるのは堪らないと思っていたので、何の抵抗もなく他の部に移る事にした。その代わり、M先生は、陸上の大会には出場させるという条件をつけた、そんな条件を呑んだ上で呼んでくれたのが、バスケット部であった。チビではあったが、すばしっこかったし、シュートのコントロールも悪くなく、何より大勢で、パスの練習したりするのも楽しかった。そうして、バスケット部に属しながら、陸上の練習もする…なんていう、陸上部だけだった時より、むしろ、ハードになったのだが、何とか楽しくやっていた。

ところが、バスケットのパスの練習をしていた時、校内に入り込んで来た、暴走族のバイクに撥ねられるというアクシデントに遇う。脳震盪を起こし、ダイレクトにぶつかった左足の腱を痛め、暫く陸上の練習は出来なくなってしまったのだ。しかし、快復後は、駅伝に出たり、相変わらずのお転婆ぶり?だった。市民運動会では景品を取り捲った。鍋やハンガー、石鹸等、家庭用品を持ちきれくて、鍋を被って帰宅した事もあった。そのようにして、家計を助けていた?にも関らず、祖母からは「何とかならないか」と言われ続けていた。習字の先生や、茶華道の師匠から、匙を投げられたのもこの頃だったからだろう。何せ家庭科の時間だろうと、美術の時間だろうと、さっさと済ませて外に出て遊ぶ事ばかり考えていたし、女の子らしさからは程遠かった。祖母は、まったくをもって諦めが悪く、親族が集まると「女の子らしくする方法」を相談していたらしいのだ。

そこで出た結論が、スペイン系のミッションスクール(女子高)へ進学させる事だった。父は女の子らしく…という目的は果たせそうもないとは思ったらしいが、情操教育たるものには、興味があり、悪くない、と賛成した。当時、父は教頭になって居り、教頭会とやらの役員をしていて、「教員をしていると、子供の育て方を迷い、間違いがち」という話題になる度、「全くその通りだ、うちなんか、出来損なった典型だ」と大声で言い放っていたくらいだった。このように、祖母の大いなる期待と、父母のかすかな期待を背負い、その女子高を受験する事になった。今でも、地元では、出身高校を聞かれて答えると100%の確率で「え゛っー?。あそこは、お嬢さん学校でしょ」と、今の私からは、まるで想像がつかないかのように、驚かれる。よって、高校名は、余り答えたくないのが本音である。
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