2006/4/11

ジョン・万次郎、直系4代目・中濱博先生を訪ねて  敬愛する「ジョン・万次郎」

縁があってボストンへ行く機会があり、私はボストン近郊の街で暮らしたジョン・万次郎の人となりに興味を持ち惹かれて行った。「ジョン万次郎」に関する本や文献を読み、万次郎が暮らした街、フェアヘヴンを訪れ、その興味は尊敬に変わり、私なりにつたない筆で、このブログにまとめた。そして、その後出会った本によりジョン・万次郎の曾孫にあたる中濱博(医博・心臓外科)先生が、名古屋在住とお聞きし、そのお勤め先にまずは文書で連絡を取ってみた。中濱先生は「ブログ」というツールはご存知なかったが、光栄にも読んで頂ける運びとなった。

そんなある日、お店の電話が鳴った。スタッフが出て「なかはま様から」と電話を回してくれた。私は、お客様からだと思っていたので、中濱先生ご本人と判って驚き恐縮してしまった。中濱先生は、ブログを読まれて、私のジョン・万次郎の熱烈なファンぶりを知られ、とても喜んで下った。そして何と会って下さる事となった。最初はお勤め先を訪れる予定だったが、再び電話を頂き、「どうせなら、万次郎の縁の品もお見せしたいので、自宅へお越し下さい」とまで仰って下さったのだ。中濱先生は、NHKのプロデューサーに会われたり、多くの識者が訪ねて来られたりで、大変お忙しい中、私の為に半日を空けて下さった。

クリックすると元のサイズで表示します 中濱家のジョン・ハヲラン号模型

名古屋市内の閑静な高級住宅街に、中濱先生のご自宅はあった。玄関を入れて頂いた途端、中濱先生ご自身が特注された「ションハヲラン号」の模型が置いてあり、私の目に万次郎博物館さながらの風景が飛び込んできた。冷静になれば、万次郎直系の4代目の中濱先生の家である。当り前の事なのに、私はまだ、夢を見ているような不思議な感じがしていた。奥様も幼少時代をニューヨークで過されたという明るくて素敵な方だった。客間に通して頂き、まず中濱先生は、クリアファイルを取り出され、私が書いたブログのプリントアウトした紙を私に渡して下さった。万次郎について書かれている文献には、間違っている事がとても多く、私が参考にした物も例外ではない為、その間違いの一つ一つを、とても丁寧な解説付きで直して下さってあった。「よく書けているからこそ、直して置きました」。中濱先生のそのお言葉と、赤ペンでの訂正文は、私にとって何よりの宝物となった。

鯨の歯の細工・スクリムショウ クリックすると元のサイズで表示します

中濱先生は、万次郎に纏わる色々なエピソードや、ご自身がアメリカに訪れられた時の話をして下さりながら、本物の「スクリムショー」(鯨の歯に彫り物をした工芸品)を見せて下さった。捕鯨船に乗った船員達が漁をしない時に、このような工芸品を作っていたそうだ。本物のアイボリーからは、150余年の時を超え、その捕鯨船での光景が目に浮かんで来るようだった。そして、中濱先生は床の間を指し「徳川慶喜公から、万次郎に贈られた書です」と教えて下さった。徳川幕府最後の将軍は、「天理を楽しむ(天然・自然の道理を楽しむ)」という言葉を万次郎に贈った。潮に流され漂流という形でアメリカに渡り、その逆境を糧にして逞しく生き抜いてきた万次郎。慶喜公自身も、時代の狭間に生まれ来て、実は万次郎のような生き方が羨ましかったのかもしれない。薄絹に書かれたその大らかな文字から、そんな事を思った。

クリックすると元のサイズで表示します 徳川慶喜公書・中濱博氏所蔵。

楽しい時間は、あっという間に過ぎ、おいとまをする際、私は中濱先生の自著「中濱万次郎・アメリカを初めて伝えた日本人」(富山房)にサインをして頂いた。謙虚なサインと落款まで押して頂き、帰路についた。私が中濱先生にお会いし、その印象から思いついたエピソードは、「万次郎は、不思議な人だ、大名とも話すし、乞食とも話す」という逸話だった。武士として江戸屋敷に住んでいた頃、鰻好きの万次郎は、浅草の「やっこ」という店へよく足を運んだそうだ。その時、残した鰻を持ち帰るので、お店の女将は最初「万次郎はけちだ」と思っていたらしいが、ある日使いの帰りに、両国橋の上から、橋の袂に住んでいる乞食を呼び、分け与えている姿を見かけた。身分差の激しいその当時は、武士が乞食と話す事など到底考えられない事であったのだ。

中濱博先生ご夫妻と筆者 クリックすると元のサイズで表示します

このような万次郎の上下の隔てのない人間同士の付き合い方は、乞食に対してだけではなく、大名や奉行に対しても媚びる事無く対等に話をしたと記されている。だからこそ、「アメリカでは投票によって、賢い人が国主に選ばれる」と主張し続けたのだ。民主主義の国、アメリカで生活し、捕鯨船の中で様々な人種の人達と生活を共にして来た万次郎は、分け隔てのない人と人との付き合い方を身に付けていた。暖かい人間愛…それは中濱先生の暖かさにも引き継がれている気がした。中濱先生もこのエピソードを自著の中で、こう結んで居られる。「正に天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずである」。この言葉は、明治維新後の福沢諭吉氏の言葉だと記録されているが、身分差の激しかった幕末に、真の意味での民主主義者として実行していたのが万次郎だったのは、紛れもない事実だったと言えよう。

◎「敬愛するジョン万次郎」の頁http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/msgcate11/archive

※中浜 博先生は、平成20年4月3日、虚血性心疾患でご逝去されました。
謹んでご冥福をお祈り致します。

・ご葬儀のご予定
通夜 4月7日 18時より
本葬 4月8日 13時30分から
於  カトリック南山教会
    名古屋市昭和区南山町1(朝日新聞電子版より)
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2005/12/14

マーク・トウェインの手紙(ジョン・万次郎番外編 )  敬愛する「ジョン・万次郎」

ジョン・万次郎縁の品々が展示されているミリセント図書館は、イタリアのルネッサンス様式で建てられている。この図書館は、19世紀後半にかけて、石油精製で巨万の富を得た、ヘンリー・ハットルストン・ロジャースの娘、ミリセント・ギフォード・ロジャースの名前に因んで命名された。ミリセントは17才で亡くなって居り、父、ヘンリー・ロジャースは、ミリセントが、もし生きていたらと20才という誕生日、1893年1月30日にオープンさせた。図書館の入り口には、ミリセントの顔をデザインした、ステンドグラスが飾られていた。

クリックすると元のサイズで表示します 1986年、National Register of Historic Placesに指定されたミリセント図書館

ヘンリー・ロジャースは、フェアヘヴンで生まれ、ペンシルバニアにて起業し成功したが、高校時代の友人と結婚したのを契機に、フェアヘヴンに戻り、当時捕鯨の衰退と共に寂れつつあった自分の生まれた街に、様々な公共施設を寄贈している。石油発掘によって、捕鯨産業が衰退したのだから、この街の運命の皮肉を感じる。ヘンリー・ロジャースは、図書館の他にも、ハイスクールや市民ホール等を寄贈しており、街にある他の箱庭のような建物とは対照的な、豪華な建築法で建てられているので、すぐに見て取れた。

地元の高校、一見お城のような建物 クリックすると元のサイズで表示します

一方、ヘンリー・ロジャースは、『王子と乞食』、『トム・ソーヤーの冒険』、『ハックル・ベリイ・フィンの冒険』で19世紀のアメリカ文学を代表とする作家、マーク・トウェインと、親友であった。実際に、マーク・トウェインは、このミリセント図書館に滞在し、執筆活動もしたという。南北戦争後、一躍作家としての名声を高め、代表作を次々と世に送り出したマーク・トウェインであったが、50歳代後半からは、出版社の破産に始まり、開発した自動植字機の事業も失敗し、莫大な借金を背負ってしまう。更に、長女の脳膜炎による急死、妻の喘息発作による死…と、次々不幸に見舞われた。晩年、マーク・トウェインは、出版の収入から借金は完済し、豪邸を構えるまでにはなるが、逆境時には、ヘンリー・ロジャースが、金銭的・精神的共に支えたと言われている。

クリックすると元のサイズで表示します 立派なタウンホールを見上げて

尚、マーク・トウェインの本名は、ミュエル・ラングホーン・クレメンズ(Samuel Langhorne Clemens)という。マーク・トウェインは、1835年、ミズーリ州開拓地のフロリダ村で生まれた。弁護士であった父の死後、地元の印刷所の植字工となり、その後、印刷職人として各地を放浪。ミシシッピ川で、水先案内人なども勤めた。また、材木や銀鉱山の投機にも手を出したが、失敗し、次に新聞記者となるが、生来の短気と辛辣な記事で、悶着を起こし、カリフォルニアへ逃げ出す…という波乱に飛んだ青年時代を、過していたのだった。
マーク・トウェーンのレリーフ クリックすると元のサイズで表示します

因みにペンネーム『マーク・トウェーン』とは、川を蒸気船が航行する際の、測深手の合図、即ち 船が川底につかない安全な深さ=by the mark twain(約3.6m)から取った水先案内人用語である。ミシシッピ川で水先案内人を務めた事から思いついたと言えよう。最も裕福となった40代では、大邸宅に6人の召使いを雇い、専用列車で旅行する王侯貴族のような生活を送った。しかし、マーク・トウェーンの晩年は、悪夢や預言等に関心を持ち、白い服しか身に付けない等の奇行が目立ったという。いかなる名声も財産も永遠に続くものではない。むしろ、名声や財産が、不幸をもたらす事の方が多い。マーク・トウェーンの一生を追うと、「諸行無常」が人生の常であると思い知らされた。万次郎と同じ時代を生きたマーク・トウェーン、波乱に飛んだその青春期には、いささか共通点が見つかるが、晩年の生き方は対照的だと感じた。

クリックすると元のサイズで表示します マーク・トウェーン直筆の手紙

ミリセント図書館には、マーク・トウェインがヘンリー・ロジャースに宛てた、直筆の手紙が展示されていた。また、私達も記帳した図書館のサインノートは、今でこそ、主に、万次郎関係者の訪問者の記帳ノートになってはいるが、最初は図書館を訪れた著名人のサインノートで、1894年のタウンホールのオープン時、祝辞の為に訪れたマーク・トゥエインのサインも施されているのだそうだ。そして、1987年、当時皇太子、皇太子妃としてご訪問された、天皇陛下、皇后陛下の直筆のサインも見ることが出来た。その同じノートに名前を連ねられたのは、大変光栄な事だった。
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2005/12/2

ニューベットフォードのアートグラス(万次郎番外編)  敬愛する「ジョン・万次郎」

ニューベッドフォードの捕鯨博物館には、捕鯨産業によって生産された様々な製品も展示されていた。中でも「スクリムショウ(Scrimshaw)」は抹香鯨の歯に彫刻を施した高度な芸術品だった。博物館を2階へ上がって行くと、南北戦争の後、ニューベッドフォードで、捕鯨に代わって栄えた産業の工芸品等の展示があった。その中で、私の目が惹きつけられたのは、現在サンドイッチガラスの代表ブランドとも言われているPairpoint社の前身、マウントワシントングラス社のartglass作品だった。因みにPairpointのクリスタルガラスは、この地方の名産品、クランベリーに因んだクランベリー色のガラスが有名で、私もケープコッド半島を訪れた際に、1つずつ買い求めていた。
○Pairpoint社、HP  http://www.pairpoint.com/

クリックすると元のサイズで表示します鯨の歯に彫刻されたスクリムショウ。鯨の歯その物という高価な品から、お土産用キーホルダーまで多種作られている。

マウントワシントングラス社では、19世紀半ばから19世紀後半にかけて、技術的に難しい技法を開発し、優れたアート・ガラスを次々に生み出した。Burmese というタイプは、つや消しで、ピーチスキンのような表面に、色のグラデーションがかかっている。これらに様々な技法で柄付けした物で、マウントワシントングラス社が最も成功した作品であった。1893年のシカゴ万博には、ルビーグラスカンパニーとの契約で、白からピンクに窯変(ようへん)した作品を展示したとされている。

クリックすると元のサイズで表示します 窯変し色が変化した生地に、手描きされた花鳥の絵

レモンイエローからサーモンピンクに陰影がつくこのBurmeseタイプは、熱に敏感で、その窯の熱の加わり具合によって窯変する。(窯変とは、窯〔かま〕の温度が作り出す自然にできる色の柄) Burmeseタイプは、1881年、病欠のガラス職人の代わりに働いていた、フレディリック・シャーリー氏によって作られた。 シャーリー氏は、ガラスを作る為の原石を、色々と工夫する職人で、吹きガラス職人ではなかった。彼はルビーガラスカンパニーで働いていた時に、金色を定着させる為に苦労した経験が有り、その経験を元に原材料の混合物に、いくらかの酸化ウランを加えたのだ。その結果Burmeseタイプ は誕生した。Burmeseタイプは、偶然と経験が生み出した傑作だったのであった。 これは陶器の備前焼の「火襷(ヒダスキ)牡丹餅(ボタモチ))、瀬戸の「瀬戸黒」の誕生と似ている。実はこれら日本古来の焼き物も、偶然が重なり出来たとされているのだ。

クリックすると元のサイズで表示します 貴重なBurmeseタイプQueen's pattern

シャーリー氏が、造った作品の中で、最も有名なデコレーションは「Queen's pattern 」であった。宝石で飾られたドットと金を使用し、渦巻の花のパターンを作成している。このタイプは、英国のビクトリア女王に献上された。しかし、このガラス産業も石炭の値段の高騰とともに衰退の一途を辿り、遂に、大恐慌時には造られなくなってしまった。
現在、黄色或いは、白からピンクへのグラデーションに、窯変しただけの作品は、アンティークのオークションでも見つけられるが、このBurmeseのように飾り付けられたタイプを探すのは、容易ではないそうだ。あの柔らかな色のグラデーションと細かい絵付けを、実際に自分の目で見る事が出来て良かったと、改めて感謝した。

クリックすると元のサイズで表示しますマウントワシントングラス社のアートガラス(捕鯨博物館にて撮影)

○以下、ニューベッドホード、捕鯨博物館HP
http://www.whalingmuseum.org/
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2005/11/30

万次郎暮らした街を訪ねて 第4章 その1  敬愛する「ジョン・万次郎」

ホイットフィールド船長に別れの手紙を書き、サンフランシスコから帰国の途についた万次郎は、アメリカの商船、サラボイド号で、一路ハワイへ向った。ハワイで暮らしている同じ漂流仲間も、出来れば一緒に帰国する気持ちだった。当時のハワイは捕鯨船の休息地であり、様々な情報が集まっていた。ハワイに着いた万次郎が耳にしたのは、まず幕府が「異国船打ち払い令」は解いて居り、捕鯨船に蒔き水くらいは援助するようになっていた事、ロナウド・マグドナルドというアメリカ人が、漂流を装い、北海道から日本に入っていた事、だった。ロナウドは、インディアンの母とスコットランド人の父を持ち、インデアンの祖先は日本人だと信じ、日本に憧れを持っていた。そして父がハドソン湾会社に勤めて居た事から、あの音吉達の漂流話を知る事となり、漂流民を装って日本人の情けにすがろうと、計画を立てたのだ。(当然捕えられ長崎に送られた後、アメリカへ送り返されるのだが、長崎では牢屋越しで、森山栄之助[→注]らに、英語を教えている)

クリックすると元のサイズで表示します 万次郎直筆の美しい英文字
(土佐清水市・ジョン万ハウス)


◎注 森山栄之助
幼い頃よりオランダ語を学ぶ事が、当たり前のように育った。それは森山の家は代々通詞(つうじ)の家系で、父・源左衛門は通詞としては最高位の大通詞になった人でもあったからである。1843(天保14)年3月、24才という若さで、長崎から浦賀奉行所に派遣され、ペリー来航時の通訳として活躍した。

万次郎は、日本への入国する先を琉球(沖縄)と決めた。ハワイからは、3人の内、2人が同行した。既に妻を娶り大工をしていた寅右衛門は、「何処で暮らすも同じ」と帰国しなかった。ハワイを出航後、30余日にて琉球が見える付近に到達した。万次郎達3人は、サラボイド号の船長に別れを告げ、自ら購入し名付けた「アドベンチャー号」という捕鯨ボートで琉球へと向った。翌日の朝、3人は上陸を果たしたが、やはり捕えられ、ボートも持ち帰った品も全て没収されてしまった。(後に万次郎は、咸臨丸で渡米した際も、日本産業への刺激的影響を意識して選び、様々な品を持ち帰ったとされている。ミシン・洋傘・写真の現像機器・薬品等)。

クリックすると元のサイズで表示します 万次郎の写真(捕鯨博物館)

万次郎達は、7ヶ月の取調べの後、薩摩での48日間の取調べを受け、やがて長崎へと送られる。特に琉球での投獄中は簡易な檻であり、外に出て散歩なども楽しんでいたようだが、ひたすら日本詞(日本ことば)を勉強し、脱走する気持ちは無かったようだ。薩摩では、造船・捕鯨・航海術についても、藩主、島津斉彰から質問を受けた。長崎では白州に引き出され、「漂流の次第」の吟味を受ける。万次郎は死罪にならなければ、何にでも耐えうる覚悟が出来ていたようで、堂々としていたという。そして何処でも共通して万次郎が「アメリカについて」語った事は、「亜米利加(メリケ)は大国ゆへ、取るに及ばず」と領土的野心が無い事だった。「英吉利(イギリス)は小国にて」と対外姿勢をイギリスと比較して、執拗に繰り返し続けた。

長崎での10ヶ月の拘留生活の後、土佐に入る事が許される。しかし、また更に50日、取調べの白州に引き出され、「生涯海上の業を禁じ、外国の様子を話すな」と命じられた上、11月12日に、ようやく生まれ育った故郷、宇佐浦に戻る事が出来た。万次郎は10年ぶりに年老いた母と対面できたのだ。しかし、鎖国令を破ったとされた3人への幕府の仕打ちは、情報を得るだけの冷たいものであった。意思の強い万次郎以外の1人、五右衛門は白州での取調べが祟り、33才で狂死したとも言われている。数日後、万次郎だけが土佐藩に呼び出され「定小者」と武士の末端に加えられるが、万次郎の「将軍に直訴してでも開国を…」という夢は叶えられなかった。
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2005/11/29

万次郎が暮らした街を訪ねて 第4章 その2  敬愛する「ジョン・万次郎」

万次郎やホイットフィールド船長が望んだ、捕鯨船による開国の夢は叶わなかったが、アメリカは、黒船でペリーを送り開国を迫る。世の中は大騒ぎとなり、幕府は、万次郎の知識と経験を必要とし出した。万次郎は土佐に於いて、外国事情、アメリカンデモクラシーを語り、坂本龍馬・後藤象二郎・岩崎弥太郎らに多大な影響を与えて行った。1853年ペリーが浦賀に姿を見せ開港を求めるや、幕府は万次郎を呼び出し、米国の諸事情や、開国を求める真意を聞き出そうとする。万次郎は、まるで水を得た魚のように、米国の地理・政治体制・民主主義に於ける大統領選挙の話等を語ったと記録されている。

万次郎は旗本の地位を得るが、水戸藩から「アメリカのスパイ容疑」をかけられ、直接ペリーと話す事は出来なかった。しかし、日米和親条約終結後、咸臨丸に通訳として乗船した。その咸臨丸の船中では、「万次郎学校」と言われるほど、勝海舟・福沢諭吉らにとって、造船・航海・測量・英学の勉強の場であった。また、咸臨丸は途中、嵐に遭い、遭難しそうになるが船酔いで苦しむ勝海舟らを横目に、万次郎が持ち前の航海術の腕で乗り切り、事実上の船長となって働いた。捕鯨船での船上生活6年の経験が、生かされる事になったのであった。この時、万次郎が、福沢諭吉を促して、お互いにウェブスターの英語辞書を1冊ずつ購入して帰国したエピソードは、有名である。

◎万次郎の影響を受けた人物
勝海舟・福沢諭吉・後藤象二郎・坂本龍馬・佐久間象山・新渡戸稲造・大山巌・岩崎弥太郎…等

クリックすると元のサイズで表示します 咸臨丸(オランダキンデルダイク造船所製作)

更に万次郎の功績は、小笠原の開拓調査、捕鯨活動、薩摩藩開成所の教授就任、上海渡航、明治政府の開成学校(東京大学の前身)教授就任、アメリカ・ヨーロッパ渡航と、輝かしく、そして日本の為に働き続けた。しかし、何故か万次郎の功績は、歴史の中に埋もれさせられてしまった。それは、万次郎が漁民出身だっただけでなく、当時の日本自体が、国際社会で正しく生き、役割を果たすという自覚がなく、もっぱら一国繁栄主義だったからだと思う。開かれた国を訴える万次郎の考え方に、誰一人ついていけなかったのかもしれない。

また、万次郎は14才まで、日本語の読み書きを習得して居らず、会話は得意であったが、文章として残す事が苦手であったと推察される。そして、44才で脳梗塞となり、得意だった会話にも不自由を来す事になったとも思われる。脳梗塞以後の万次郎は、政治の舞台には姿を出さず、波乱万丈の半生に比べて、静かな晩年を送った。その間、故郷の土佐、中浜にも数度程帰省し、老母(明治12年に86才で病死)を見舞っている。そして、東京京橋弓町の長男・中浜東一郎医博(当時岡山医学校教授)宅で、71才の生涯を静かに終えた。

クリックすると元のサイズで表示します 2年毎に開催された万次郎祭りの際の寄せ書き/中浜博 氏(4代目)の名前がある (ミリセント図書館)

万次郎の事が、日本では、「万次郎漂流記」等の発刊により、幸運な漂流民としてのみ語り継がれる中、アメリカでは、その後も、中浜家とホイットフィールド家の交流は続いて行った。万次郎の存在は、フェアヘヴンでは英雄のままだった。その証拠に、第二次大戦中も、息子、東一郎氏が送った刀は、陳列台から降ろされる事無く飾り続けられたのだ。万次郎は、明治3年、普仏戦争視察の為、渡欧する途中に寄ったニューヨークからも、一晩でフェアヘヴンに駆けつけ、ホイットフィールド船長に会いに行っている。フェアヘヴンの人達は、人間愛に満ち溢れ、義理と礼を尽くした万次郎と敵国の日本とを、切り離して考えていたのだろう。そして現在でも、中浜家とホイットフィールド家、そして、姉妹都市として、フェアヘヴンと土佐清水市も、交換留学生を送りあったりし、その親交を深め続けているのである。

クリックすると元のサイズで表示します2003年、万次郎祭りにて。タウンホールの前でスピーチをするスコット・フィールド氏(ホイットフィールド船長から6代目)

◎参考 
○土佐清水市HP
http://www.city.tosashimizu.kochi.jp/john/

○川澄哲夫 編著 「ジョン万次郎とその時代」
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2005/11/23

万次郎が暮らした街を訪ねて 番外編 万次郎とRedSox  敬愛する「ジョン・万次郎」

去る11月19日土曜日、知人・Yさんのご好意で車に乗せて頂き、万次郎の縁の地を訪ねた。過去にも2度程、訪れてはいるが、肝腎の万次郎の部屋が設けられているミリセント図書館が閉館日ばかりに当たってしまい、入れてはいなかった。今回、3度目の正直となり、ようやく入館する事が出来たのだ。ボストンを訪れる以前、万次郎に関しては、井伏鱒二の「万次郎漂流記」を読んでいたものの、アメリカに於ける万次郎の活躍ぶりを知る事はなく、フェアへプンに行き地元の人々から聞いた、革新的で才能に溢れ人々に愛された万次郎像は、目から鱗状態だった。今回、初めて万次郎の部屋を訪ね、ブログに記録していく為に、彼方此方の記録を調べて行くにあたり、万次郎とベースボールとの結びつきを見つけた。

メジャーリーグ、遡っては、近代野球の生みの親とも言われているアレキサンダー・カートライトは、1845年頃、ニューヨークのマンハッタンで銀行員をしていた。当時のニューヨークでは、火事が多かった為、ボランティアの消防団を組織し、団員の団結を図り、運動不足を解消する為に、リクリエーションとして「タウンボール」というスポーツを導入した。タウンボールとは、ヨーロッパでは、18世紀からプレーされ、イギリスではラウンダースと呼ばれていた球技が、アメリカで名を変えたものであった。カートライト達はタウンボールのルールを、自分たちに合うように細部を変えてプレーして行った。これがベースボールの起こりとなった。  

カートライトが設定した「基本ルール」例
1、 塁間を90フィートとする。
2、 1チーム9人編成。
3、 ファウルとフェヤーの区別をするラインを引く。
4、 アウト3個で攻守交代とする。
5、 アンパイヤーは「ストライク」とコールする権限を持つ。
6、 ボールを帽子で捕球してはならない。


クリックすると元のサイズで表示します 近代野球ルール生みの親、アレキサンダー・カートライト(消防団の服装)

実は、そのカートライトが、何と、その若き時代、フランクリン号に乗船し、捕鯨船の仲間として万次郎と、同じ時間を過していた事が判った。副船長に選ばれる程、人望のあった『万次郎とカートライトは友人でもあった』との記載だった。☆「ジョン万次郎とその時代」より引用。
捕鯨船フランクリン号は、万次郎と変らず、カートライトにとっても「エール大学であり、ハーバード大学」でもあったのだ。私には、捕鯨船に乗った若き船員達が、世界各地を観て周り、自分達の将来の夢を語り合っている情景が目に浮かんで来るように思えた。当時捕鯨船に乗る事は、命がけではあったが、正にアメリカの若者達の壮大なる浪漫でもあった。やがてカートライトは船を降り、ニューヨークに行き、銀行マンとなる。その傍ら、自分の会社も設立し大成して行くであった。

このカートライトが作ったルールに則ったベースボールは、アメリカ北部と東部を中心に人気を博し始め、1858年には最初の野球協会が発足する。そして1861年から1865年に起こった南北戦争では、南軍の兵士の間でも余暇にベースボールが行われた。カートライトが作ったルールは、アメリカの立法・行政・司法の三権分立のデモクラシーをスポーツに移し変えたようなものであった。ゆえに、兵士達の士気高揚と団結を促すのに役立ったという。戦争の後、このベースボールを経験した兵士達は、故郷に帰り、ベースボールをそれぞれの町で伝えた。これが元で一気に全米へとベースボールが伝授され、各地で野球チームが生まれた。これがプロ野球発生の下地となって行った。

クリックすると元のサイズで表示します 1945年頃・野球を楽しむ風景の絵

尚、カートライトが所属していたニューヨークの消防団チーム「ニッカボッカーズ」には、ハリー・ライト、ジョージ・ライト兄弟も属しており、彼らは、1869年、初めてのプロ野球チーム、「シンシナティ・レッドストッキングス」を発足した。このチームは、経営難で、一旦は潰れてしまうが、ハリー・ライト達は懲りる事無く、本拠地をボストンに移し、現在の「レッドソックス」の祖となるチームを創設したのだった。また、この頃選手の給料は、ポジション別に始めから設定されていたそうだ。

◎以下、MSNニュース・メジャーリーグコラム
http://inews.sports.msn.co.jp/columns/MLB_970.html

クリックすると元のサイズで表示します 足摺岬に立つ万次郎の銅像 手にはコンパスと定規を持ち、遥か遠いフェアヘヴンを見つめている

私の中で、ボストン・マサチューセッツという地名以外、殆ど関りの無かった、「万次郎」と「レッドソックス」の点と点が、捕鯨船・カートライトというキーワードで結ばれ、1つの線となり、繋がっていった。160年の時を超えて、万次郎が、カートライトと共に、ベースボールを楽しんでいる姿が、目に浮かんで来るようで、思わず涙汲んでしまった。

○参考文献
西東  玄 著  「ジョン・万次郎」
永国 純哉 著  「雄飛の海」
川澄 哲夫 編集 「ジョン万次郎とその時代」
佐山  和夫 著  「メジャー・リーグを100年分楽しむ」

○参考サイト
ボストン・レッドソックス公式ページ
MSN-MAINICHI INTERACTIVE ホームページ
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2005/11/22

万次郎が暮らした街を訪ねて 第3章  敬愛する「ジョン・万次郎」

万次郎が降り立った異郷の地は、「ノフスメリケ」Nouth America 「マセツーセッツ」Massschusetts 「ヌーベッホー」New Bedford という港であった。恐らく土佐訛りの万次郎の耳には、こう聞こえただろう当時のニューベッドフォードは、捕鯨とそれに属する産業―蝋燭などの鯨製品、造船、銛、大包丁、油桶等の製造で栄えていた。また、世界の隅々から捕鯨船に乗って、風習、言語を異にする人々が集まり、国際社会の縮図でもあった。ゆえに遥か遠い東洋の国から来た万次郎が、ジョン・マンとして街に受け入れられた事も納得できる。万次郎はホイットフィールド船長の家に住み、農場を手伝いながら、『写字(スペリング)』の勉強に励んだ。更に日本では武士以外許されていなかった馬に乗る事も教えられた。後に明治政府が「平民へ苗字・乗馬を許した事」のも帰国後の万次郎の助言に拠る所が大きいと推察される。

クリックすると元のサイズで表示します万次郎が3年間暮らした家。フェアヘヴン

ホイットフィールド船長は、万次郎の、これまでの捕鯨に於ける勇気と技術をかっていた為、捕鯨専門学校に入学させようと考えていた。まず、オックスホードスクールに入れ、小学生に混じって「横文字、算術学」を修行させ、農事の暇をみては、毎日写字、スペリングの練習に励ませた。そして10ヶ月後、「ハアツレイアカデミー」への入学を許される事となる。アカデミーで、万次郎は、航海術、測量術、高等数学を学び、ジョン・ハヲラン号での捕鯨実地訓練の甲斐も手伝って、優秀な成績で卒業した。万次郎は、フェアヘヴンに住んだ3年間で今の学校教育になぞらえると、高校を卒業し、専門学校をも卒業した事になったのである。然るに封建時代の土佐では、その才能を発揮する事は不可能だったに違いなかった。

クリックすると元のサイズで表示します      万次郎直筆のアルファベット文字

万次郎はフェアヘブンで、人間は平等である事を学び、自由な青春時代を過ごしてはいたが、やはり、土佐の母親の事を忘れた事はなかった。母親の縫ってくれた着物を取り出し涙ぐむ事も、しばしばあったという。フェアヘヴンに住んで3年、無人島で救出されて5年が過ぎた時、ニューベッドホードから出港するフランクリン号という捕鯨船に、乗り込む機会が与えられる。万次郎を乗せたフランクリン号は鯨を追いながら、大西洋を渡り、ケープタウンからインド洋を抜けて太平洋に出た。そして日本近海で仙台の漁船と出会うが言葉が通じず、上陸は諦めた。更にそのまま太平洋を東を向い、ホノルル港へと寄港する。そして万次郎は、一緒に漂流した仲間達3人と再会を果たした。(その内の1人、重之助は既に死亡していた)

そして、フランクリン号は、今度は進路を西にとり、マニラに寄港する。その頃、船長のデービスが精神に異常を来たしていた為、船上では新しい船長を選挙にて選ぶ事になり、一等航海士のエーキンと万次郎が同点を獲得する。結局年上のエーキンが船長となるが、万次郎は一等航海士兼、副船長に選ばれた。後に万次郎は「大統領も入れ札にて選ばれ、上下に隔たり無し」とその身分差別の無い実力主義を述べている。万次郎の航海士としての凄腕ぶりは、通訳として乗り込んだ咸臨丸でも発揮され、勝海舟らも平伏していたのだが、万次郎にとってフランクリン号の船上での3年余りの生活は、正に「私にとってのエール大学であり、ハーバード大学でもあった」(白鯨より)如く、言葉、捕鯨術、航海術全てに於いての学び舎だったに違いない。

クリックすると元のサイズで表示します       万次郎壮年時代の貴重な写真

万次郎は、ホイットフィールド船長の農場に帰り着いた。船長は万次郎の成長振りを大いに喜び、このままフェアヘヴンに留まり、鯨捕りとして大成する事を望んだ。しかし万次郎には夢があった。当時西海岸では、砂金が発見されゴールドラッシュに沸いて居り、船長を説得して、西海岸、カリフォルニアのサクラメントへ単独にて渡る。万次郎は砂金でお金を貯め、日本へ帰国する事を考えたのだ。フランクリン号で世界の海を旅する間、日本が鎖国しているゆえに各国の船が寄港できないという悪評を聞き続けていた。万次郎は命をかけて帰国し、琉球辺りにアメリカの捕鯨船が自由に入稿できる港を開くよう、直訴する事を決意していた。そうする事がホイットフィールド船長への恩に報いる事であり、日本の為にもなると信じていたのである。ホイットフィールド船長宛てに手紙を書き『世運循循(まわりまわり)再謁の時無かるべからず』世の中が変わり、再会出来る事を誓ったのだった。この時、万次郎は23才になっていた。
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2005/11/21

万次郎が暮らした街を訪ねて 第2章  敬愛する「ジョン・万次郎」

万次郎とホイットフィールド船長との出会いには、アメリカに於ける捕鯨の歴史が大きく関っている。その捕鯨の歴史はニューイングランドへの殖民と共に始まる。既に座礁する鯨を先住民のインディアンは捕って、その肉を食料とし、また鯨髭は装飾品や鋤や鍬の材料としても使用していた。カヌーで漕ぎ出し、鯨を取り囲み銛を打ち込む原始的な捕鯨術で「背美鯨(セミ鯨)」という繁殖能力の低い鯨を捕っていた(現在では絶滅の危機にある)そのインディアンの技術と、殖民者達の資本力が結びつき、マサチューセッツ州、ナンタケット島を中心に生活資源となって行った。

クリックすると元のサイズで表示します ニューベッドフォード・捕鯨博物館

そして、このナンタケットの一艘の捕鯨ボートが『抹香鯨(マッコウクジラ)』に遭遇する。ハセーという漁師が銛で仕留め、ナンタケットへ持ち帰る。そのマッコウ鯨の頭部からとれる鯨蝋は、万能薬として重んじられ「抹香油一升=金一升」の価値が上がって行く。更に技術が進み、捕獲した鯨を陸に持ち込んで処理していたのが、海上及び船中で処理出来るようになった。この為、船も大型化して行き、更に過剰捕獲の為、沿岸や近海に鯨が少なくなり、やがて遠海へと漁場を広げる事となった。ニューベッドホードが、捕鯨競争に乗り出す頃には、その捕鯨船数は、ナンタケット、ニューベッドフォード合わせて170隻を超えていた。更にアメリカの捕鯨船は、マッコウ鯨を求めて、その漁場を大西洋から、太平洋の日本近郊へと広げて来る事になるのであった。

クリックすると元のサイズで表示します 捕鯨に使用された銛(捕鯨博物館撮影)

当時、マッコウ鯨の頭から採れる鯨蝋は、万能薬と良質の蝋燭の材料になり、鯨髭は縄・女性用のコルセット・乗馬用の鞭・傘の骨等に利用された。また、竜涎香と呼ばれるマッコウ鯨の腸内に出来る結石みたいな物は、香水・薬品・媚薬として珍重された。(捕鯨が禁止されている現在では、過去に採れた物として竜涎香300グラム程の物に100万円の価格がつけられた事もある)更に、元々採り続けていた、セミ鯨から採れる鯨油は、一般の照明や機械油として利用され、石油発掘までのアメリカの産業を支え続けていたのである。その黄金期、1847年には、世界の捕鯨船数が900隻の内、722隻がアメリカの保有であった。正に圧倒的数である。

1841年、ハワイ沿岸を通り、日本近海にその漁場を広げていた、ホイットフィールド船長率いるアメリカの捕鯨船ジョン・ハヲラン号は、無人島に漂着していた、5人の土佐漁民(143日間、鳥や貝で飢えを偲んでいた)を救う事となる。万次郎達5人は、「手招き致し、ここへ参れと申すをカメ(Come here)。手招きは手の裏を上向きにして、上へ招き候。」と手招きの仕方が違う事にも気付き、初めて見るアメリカ人に「見慣れ申さぬ人ゆえ、気味悪しく」と思いつつも、船中で言葉を少しずつ学び、やがては、捕鯨の手伝いもするようになっていく。◎言葉引用=ジョン・万次郎著「亜米利加詞」より

クリックすると元のサイズで表示します ジョン・ハヲラン号の絵                              (ミリセント図書館にて撮影)

5人の中で1番年も若かった万次郎は、英語の覚えも早く、利発であった為、捕鯨術にも逸早く慣れ親しんで行ったらしい。ハワイ・ホノルル港に一旦寄航したジョン・ハヲラン号は、漂流民の筆之丞始め4人を、ハワイの牧師に預け出航する。ホイットフィールド船長の熱い要望と、万次郎の意思により、ただ一人万次郎だけが、アメリカへと連れて帰られる事になった。ここに船の名前を貰った「ジョン・万次郎」が誕生する。やがて、万次郎の未来を乗せた、ジョン・ハヲラン号は、南太平洋で捕鯨を続け、ホーン岬を経由して、マサチューセッツ州、ニューベッドホードに到着した。こうして万次郎は、アメリカの地にその一歩を踏み出した。それは鳥島で救出されてから2年後の初夏の事であった。
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2005/11/21

万次郎が暮らした街を訪ねて 序章  敬愛する「ジョン・万次郎」

19日のボストンは冷え込んだ。朝8時にボストン在住の方々と待ち合わせをして、車でフェアヘブン、そしてニューベットフォードへ連れて行っていただい た。この地方では今でもなお、Manjiroは英雄である。今年10月5日にも、姉妹都市・土佐の市民を招いて、万次郎フェスティバルが、行われていた。(2年に1度の開催)☆以下添付写真は、ミリセント図書館内・万次郎の部屋にて撮影
クリックすると元のサイズで表示します 土佐市を始め日本から贈られた品々                         真ん中の刀は、万次郎の長男・中浜東一郎氏(東京大学医学部卒・森鴎外と同期)が寄贈した品

土佐の漁民であった当時14歳の彼は、仲間5人と共に、無人島に漂着して143日目、ホイットフィールド船長の船に助けられ、ハワイへと渡る。その後、自ら希望して、アメリカの東海岸、ボストンの南、当時捕鯨で栄える街フェアヘブンで、船長の家 に住まわせてもらった。若い彼は短い間に、鎖国中の日本では学び得ない多くの知識を身につけた。鎖国中の日本に危機感を覚えた彼は、国や家族を思う気持 ちが募り、命がけで帰国し、その後、明治維新から開国、そして新しい政府の樹立へと進む日本に、多くの貢献をすることになる。明治時代に活躍して名を残 している多くの政治家、思想家が、万次郎の伝える新鮮で新しい考え方に影響を受けている。

アメリカ開国200年の歴史の中で、最も貢献した外国人29傑にジョン・万次郎こと中浜万次郎は、列挙されている。しかし、漁民という身分が低かったからなのか、開国して日米和親条約終結後の日本では、その貢献度を度外視し、漂流民と して冒険的な物語の方で、その知名度が高いようである。彼の扱い方、インパクトにおいて、日米の間で随分な温度差がある。これは、どうも明治維新前後の日本の混乱に あるようだが、この話は、また後程述べようと思う。

クリックすると元のサイズで表示します ホイットフィールド船長と万次郎の絵

日米開戦時の米国大統領ルーズベルトは、親族であるホイットフィールド船長から、万次郎の素晴らしい人となりを知らされて居り、日本人を、かなり信頼していたようである。第二次世界大戦で、アメリカ側からの開戦が遅れ、日本軍からの奇襲という形で始まったのは、万次郎が築き上げた日本人に対する信頼の高さの影響を受け、ルーズベルトは開戦に踏み切れなかった…とする説もある程である。

クリックすると元のサイズで表示します万次郎の部屋が設けられている図書館
                              天皇皇后両陛下を始め、多くの著名人が訪れている。

ボストンに縁があり、数多く行く機会のある中で、私は万次郎の人となりに非常に興味を惹かれるようになった。知られていないだけで、実は日本開国の陰のヒーローでもある彼が住んでいた街に行き、彼の歴史や記録に、実体験として触れる事は、ここ数年来、私が切に願っていたことの1つであった。
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