2007/10/12

写真集「雨のボストンデジタル散歩」と出会って…  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

最近では、携帯電話のカメラ、デジタルカメラの普及で、気軽に写真を撮る機会が多くなっている。これまでの私の中で、写真の上手い下手とは、人物や建物を撮る時に、そのターゲットが欠けないように撮る事が、第一条件だと思っていた。しかし、この写真集と出会った時、写真というものをとらえる感覚が、私の中で大きく変化した。…それは偶然だった。AOLのブログの中で「レッドソックスの記事を書いている方は?」と思い立ち、『ボストン』というキーワードで検索した所「雨のボストンデジタル散歩(別冊)」というブログに辿り着いた。私はそこに載せられている写真を見た途端、懐かしさに似た温かな気持ちになった。勿論、私がボストン何度も行っていて見慣れた景色だったから…という事が第一の理由ではあったが、カメラを通した写真であるにも関わらず、私が実際に街を歩いた時、街中のお店に入った時…そんな時の、私自身の目で見てきた何気ない景色そのものの気がしたのである。
クリックすると元のサイズで表示します写真集『雨のボストンデジタル散歩』

私は、そのブログ内で写真集『雨のボストンデジタル散歩』が、Amazonで販売されている事を知り、早速注文して取り寄せた。届いた写真集はポストカード式になっていて合計24枚。全てを一言で表現するなら『ノスタルジック』。私は、その写真集を何度も何度も眺めているうち、初めに何となく感じていた事が、確信に変わって行った。そう!そうなのだ。これはボストンに住んでいる人達が、何気に見ている光景なのだ。例えば住み慣れた街だと、歴史的な建物も見慣れていて、建物を見上げたりして全体を見る事は少ないはず。仮に自分の住んでいる建物全体を、毎日まじまじと見る人は、決して多くないだろう。住み慣れた人が、歩きなれた街を何気なく歩いている時、視界に入る景色…それが1枚ずつの写真となって、収められていると思った。私が懐かしく、そして心が温まるように感じたのは、そういう理由からなのだと…写真には全く素人の私だが、自分自身で納得したのである。

『雨のボストンデジタル散歩』は、自称「なんちゃってフォトグラファー」のイザワトシオさんが撮られた写真集だ。但しイザワさんは「なんちゃって」を付けられてるくらいなので、プロの写真家さんではなく、掲載されているプロフィールによると、某電気メーカーのシステムエンジニアをされながら、趣味でデジタルカメラを使って写真を撮られ、各種コンテストに入賞!現在では、写真を趣味とする人に、コンテストに入賞する為のノウハウを指導されてもいるという。またイザワさんは、イラストも手がけられているそうで、載せられている写真が絵画風にレタッチされているのも頷けた。それにしても、驚いたのは、イザワさんが、初のボストン訪問でこの写真達を撮られていた事だった。私の感覚では、初めての方は建物全体を中心に写してしまう気がして、路地を行き交う人を撮るとか、お店のショーウインドウ越しに撮る事など、想像すら出来なかった。写真集を見ながら、及ばずながら私も今度は、自然な目線で撮ってみたいと思った。

しかしながら、よく考えてみると、例えばボストンに行って、歴史ある有名な建物自体を写真に撮るとしたら、自分がその中に入ればまた別の味わいがあるが、それはプロが撮って作られた「絵葉書」には適わない。この写真達は、観光地で売られている「絵葉書」の感覚ではなく、正にイザワさんが街を散歩する感覚の自然な目線で、撮られているのだと思った。また題名の冒頭に『雨のボストン…』とあるが、ボストンは、アメリカの東海岸にあり、緯度的には北海道旭川市と同じ位、気候は比較的乾燥していて、春から夏にかけては特に雨の日が少ない。イザワさんは、本来この日、2001年当時、レッドソックスに在籍していた野茂英雄投手が登板日で、フェンウェイパークへ観戦に行く予定だったのだそうだ。しかし、雨が降って試合が中止となり、やむを得ず市内を散策される事になったのだという。その日もし雨が降らなかったら、この写真集は存在しなかった。…そう思うと(フェンウェイパークへ行って貰えなかったのは残念だが)雨に感謝したいと思っている。

※以下、イザワさんご自身のご協力で…写真集…『雨のボストンデジタル散歩』から抜粋。
・コメントは、ほたるの本当のひとり言…(写真はクリックで拡大)
クリックすると元のサイズで表示します ゴディバのウィンドウごしに…
…クィンシーマーケットの煉瓦畳。

ダウンタウン… クリックすると元のサイズで表示します
煉瓦造りのアパートメントと路地を行く人。

クリックすると元のサイズで表示します家族を待っているお父さん。
ネイビーヤードのフリゲート艦「USS Constintution」乗船場で…。

クリックすると元のサイズで表示しますウォーターフロントの風景。

同上…雨に霞んだ波止場クリックすると元のサイズで表示します


※尚、この写真集は、150万画素のデジカメの一番荒いモードで撮影し、
画像ソフトでレタッチして、一枚一枚絵画のように仕上げられている。

※イザワさんのブログ
★「なんちゃってフォトグラファーのチャレンジフォトコン!」
http://diary.jp.aol.com/gmrktua9gt/

★「雨のボストンデジタル散歩(別冊)」・24枚に収まらなかった写真を随時UP
http://diary.jp.aol.com/zcfwfp8qw6/
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2007/5/7

『ブラッド・ダイヤモンド』を観て…ダイヤの歴史と紛争ダイヤ  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

人類が初めてダイヤモンド(以下ダイヤと記す)と出会ったのは、紀元前10世紀から5世紀の間ごろで、インドのゴルコンダと呼ばれる地域だったとされている。硬質で神秘的な光を放つダイヤは、当時の人々にとっても価値ある石とされ、紀元前1世紀にはギリシャ、その後ローマ帝国へと伝わって行ったという。その産地は長年に渡ってインドのみだったが、17世紀にはボルネオ、18世紀にはブラジルでダイヤが産出され、やがて1866年には遂に南アフリカでダイヤの大鉱脈が発見された。
クリックすると元のサイズで表示します 

更に中世からは、ブリリアントカット等、ダイヤに輝きを与えるカットと研磨技術も進化して、支配階級の人々は競うようにダイヤモンドジュエリーを身につけるようになった。フランスのルイ9世に至っては、ダイヤを富や権力の象徴として平民は身につける事を固く禁じる法律まで制定して、その輝きを独占しようとしたらしい。しかし、ダイヤに憧れる女性の思いは、誰にも止められず、まずは社交界の花と謳われた人々やハリウッドの女優達から幅広い層の人々へと広がって行ったそうだ。

ダイヤの原石そのものの歴史は、何と遥か32億年前へと遡る。誕生は、まだ地球上に生物が誕生するよりずっと以前の事だ。地底の奥深くで、想像を絶するような高温と圧力を受けて結晶化した物質は、地球の火山活動によってマグマと共に噴出し、その後数百万年に渡って厳しい自然環境の変化にさらされて来た。この果てしない時間と過酷なダイヤの旅程の中で、もしも自然の力が、少しでも別の方向に働いたとしたら、ダイヤは宝石ではなく、二酸化炭素や黒鉛と化していたかもしれない。燃えたぎった地底で生まれた太古の物質のうち、ダイヤの原石となる事が出来た物質は、ほんの僅かだと言われている。
人類の強欲を表すような クリックすると元のサイズで表示します
キンバリー鉱山の大きな穴(直径465m,深さ1097m)


そして、250トンもの土の中から採れるダイヤは、たったの1カラット(O.2g)に過ぎず、更にカットや研磨を経て宝飾品として仕上げる事が可能な大きさと品質を持つ原石は、驚くほど僅かだという。結局、宝飾品として有史に残るダイヤを、全世界から集めても、その量はロンドンの2階建てバス1台分程度だそうだ。このように世界中の人々が、ダイヤの輝きに魅せられるのは、この宝石が自然界の奇跡が生み出した稀少な存在だからだと言えよう。地球が人類に残した贈り物…32億年の時を超え、未来永劫その煌きを放ち続けるだろう。

婚約指輪は給料の3ヶ月分…これは1970年代にデ・ビアス社が、ダイヤの販売促進に使ったキャッチコピーが日本に定着したのだそうだ。1950年代のアメリカでは、給料の2ヶ月分とされていたが、日本に渡った時、当時の円相場や所得水準で3ヶ月とされたらしい。また、ダイヤの品質を決める指標として、GIA(アメリカ宝石学協会)が考案した"4つのC"は、Color(カラー)色、Clarity(クラリティ)透明度、Carat(カラット)重さ、Cut(カット)研磨、とされているが、映画「ブラッドダイヤモンド」では、もう1つチェックすべきCとして『Conflict=争い』を挙げ、ダイヤモンド鉱脈が見つかった、アフリカのシエラレオネを舞台にした「紛争ダイヤモンド」を巡った史実とフィクションを織り交ぜ、ダイヤの輝きに封じ込められた、アフリカの人々が流した血と涙を、激しい銃撃戦の中で描いている。
舞台は紛争中のシエラレオネクリックすると元のサイズで表示します

主演のダニー・アーチャーを演じたレオナルド・デカプリオ、ダイヤの密輸ルートを暴こうとする女性ジャーナリストにジェニファー・コネリー、予期せずダイヤモンドを巡る紛争巻き込まれ、引き裂かれた家族を、命を懸けて取り戻す勇敢な父親…ソロモン・バンディ役のジャイモン・フンスーらの名演技が光っていたが、ソロモン・バンディの息子、ディア・バンディが、反政府軍(RUF)に連れ去られ、洗脳されて少年兵…コマンダーとなり、無差別殺戮を繰り返す姿には、強い衝撃を受ける。やがて関わった人物が、ヒューマニズム…人間愛を呼び覚まして行き、ラストは涙を流さずにはいられない。
クリックすると元のサイズで表示します ダイヤを巡って織り成す人間模様。

またこの映画の中で描かれている史実の部分…アフリカでダイヤと無縁の生活を送っている人々が、傲慢な人々に操られ、武器調達の為にダイヤを巡って国内紛争まで起こす様には、強く胸を締め付けられる。この紛争ダイヤモンド問題は、2000年、NGO団体により、南アフリカのキンバリー鉱山で、ダイヤモンド原石の国際認証制度=『キンバリー・プロセス』の検討が開始され、2003年に合意。アフリカやヨーロッパ連合(EU)などの計47ヶ国の地域が参加し、『キンバリー・プロセス』の徹底によって、問題は鎮静化したというが、現実は、まだ流通しているという説もある。日本には「キンバリー・プロセス」で認証されたダイヤしか入って来ていないそうだが、その輝きの中に秘められたアフリカの人々の魂の叫びを、決して忘れてはならないと思える作品だと感じた。ダイヤモンド…語源はギリシャ語でadamas =征服できないに由来するという。永遠の愛の証として贈られる品だからこそ、地球がくれた唯一無二の財産として、その煌きのように、流通も清くあって欲しいと願いたい。「ブラッド・ダイヤモンド」…この映画は、レオナルド・デカプリオの渋い名演技も輝いていたが、ダイヤの歴史を知る上でも観ておく価値があると思った。

◎参考 映画パンフレット、家庭画報他。
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2007/2/7

「幸せのちから」を観て…ウィル・スミスと息子、クリストファー  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

舞台は、ベイエリアの景観が美しい坂道と霧の街、サンフランシスコ…。この映画は、実在の人物…クリス・ガードナーが挫折から栄光をつかむまでを描いた自伝小説…「The Pursuit of Happyness」に基づき、妻も家も失ったどん底の生活から、億万長者になる足がかりを得るまでの、苦悩と努力の半生を描いている。

「温かいベッドもママも失くしたあの日、幼かった僕と父は、まだ見ぬ幸せを求めて走り出した」
                            --クリストファーの言葉。
クリックすると元のサイズで表示します アメリカで発売された初版本…(表紙は本人)

映画は、ガードナーの半生を6つに区切り、テーマ付けされて進行して行く、
1、「バスに乗る」…市内を走るバスで移動し、骨密度を測る機械のセールスに歩く時期。
2、「馬鹿をやる」…セールスの途中、赤いフェラーリに乗った人物に職業を尋ね、証券マンを目指そうとするが、機械を預けたヒッピーに逃げられたり、散々な目に遭う。
3、「走る」…持ち去ったヒッピーを見つけて追い駆けたり、駐車禁止代が支払えず禁固刑を受け、証券会社の面接会場まで全力疾走する。
4、「見習い期間」…研修生として採用されるものの、正式採用はその20人中1人のみという競争率の高い中、一刻も無駄に過さず、勉強に励む。
5、「税金を払う」…機械も何とか売れ、モーテルでの生活も、滞納していた税金で口座を差し押さえられ、所持金21ドルとなってしまう。
6、「幸せ」…最後になってようやく幸せをつかむ…それは?。

不運続きも夢を失くさない主人公。 クリックすると元のサイズで表示します

映画の中で最も印象深いシーンは、ガードナー役のウィル・スミスと息子がバスを待っている時、持っていた「5¢コイン」の肖像、トマス・ジェファーソンが「独立宣言の中の言葉で「生命・自由・幸福の追求の権利」を唱えているが、どうして「幸福」だけでなく、「追求」を書き加えたのだろう…と考えるシーンだった。「幸福になれる権利」ではなく「追求する権利」…それは幸福が、人種差別、学歴社会の格差がある中で、追求しても決して得られないものである事を、トマス・ジェファーソンは知っていたのだろう…と、ガードナーは考えていた。全ての運から見放されたようなガードナーではあったが、5才のクリストファーの存在を心の支えとして、一心不乱で証券マンとなるべく努力を重ねて行く。

クリックすると元のサイズで表示します ウィルスミス(右)とクリストファー。

また、税金支払いの為に口座を抑えられ、モーテルを追われて、駅のトイレで眠るシーンは、ガードナーも涙にくれるが、観客の涙も誘っていた。ビザなしで不法滞在し、税金を支払わない人達もいるアメリカで、正直者が馬鹿を見るような印象だった。(しかし、納税したからこそ、会社を起せる権利も得られた)。そして、証券会社の研修生活を送りながらも、教会がホームレスの為に提供している宿泊施設の数少ないベット確保の為に、全財産のスーツケースを持って長蛇の列に並ぶ日々が続くのにも、胸が締め付けられるようだった。カードナーは、その与えられた狭い部屋で、消灯の後も、月の灯りや防犯灯の微かな灯りで勉学を重ねたが、このハングリー精神こそが、彼の「アメリカンドリーム」…商社マンとしての成功の実現に繋がったのだと感じた。

ガードナー本人(右)とウィルスミス。クリックすると元のサイズで表示します 

ところで、映画のストーリーはさて置き、まず、ガードナーを演じるウィル・スミスも、グラミー賞の受賞経験もある、大物ミュージシャンの華やかさを押し隠し、不運続きのしがない父親を見事に演じていたが、そのウィル・スミスの存在事態をも、影を薄くさせてしまうほどの演技力が光っていたのが、ウィル・スミスの実の息子…クリストファー(映画内でも同名)で、ウィル・スミスの縁故ではなく、オーディションを受けて選出されたという事を納得させられた。どんな逆境にあっても、ユーモアを忘れず、人との触れ合いを大切にして行ったガードナー親子…。やがてガードナーは、億万長者となり、自伝の出版、そして映画化と、時の人となった現在も、サンフランシスコの貧民街を頻繁に訪れ、ホームレス達と一緒に、自身も飢えを凌いだ慈善スープを飲むのだという。また、ガードナーはシカゴに本社を置く「カードナーリッチカンパニー(GRC)」の社長件、最高経営責任者を務めているが、売り上げの10%は地元の教育事業に寄付しているそうだ。因みにガードナーは会社設立後、証券マンを目指した契機となった赤のフェラーリも手に入れている。

 クリックすると元のサイズで表示します 美しいゴールデンゲートブリッジ。
写真は全てyahoo photoより


映画は、サンフランシスコの美しい景色と共に、無垢な志でどん底から這い上がって行くガードナーと、その父親のどんな姿にも敬意を失わない息子の姿が生き生きと描かれている。「夢を失くさず頑張ろう」と元気付けてくれる素晴しい映画だと思った。尚、原題の「The Pursuit of Happyness」の「Happyness」は、Happiness=幸せのスペルミスである。息子、クリストファーを預けるチャイナタウンの託児所に書かれていたのだが、あまり良い託児所ではないという事の象徴となっていた。しかし実際は、息子が1才半だった為、最初はその託児所にさえ入れて貰えなかったそうだ。

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2007/1/26

アカデミー賞、ノミネートの菊地凛子さんと、辻一弘氏  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

「何度も 聾学校に通った。女子高生の振る舞いに馴染む為、ミニスカートを履いて生活し、会話もなるべく手話を使った」。 ………アカデミー賞・助演女優賞ノミネート、菊地凛子さんの言葉。

第79回、アカデミー賞の候補が23日、ロサンゼルスで発表され、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の『バベル』が、作品賞、監督賞、脚色賞、そして助演女優賞では、同作品に、聴覚障害の女子高生役で出演した菊地凛子さんがノミネートされた。『バベル」は、旧約聖書の「バベルの塔」をモチーフに、モロッコで少年からバスに向って放たれた一発の銃弾が国境を越え、アメリカ、メキシコ、日本を舞台に繰り広げられる、孤独な魂を抱える人々のそれぞれ物語を繋いで行くという設定だそうだ。
クリックすると元のサイズで表示しますパリでプロモーション活動する菊地凛子さん。
(star pulsuより)


※「バベルの塔」
古代メソポタミア時代に、神から世界の各地に散って暮らすよう命じられた人々が、シンアルの野原に煉瓦とアスファルトを使用して天まで届く塔を造り、神の命に背いて一緒に暮らそうとしたが、怒った神は言葉が同じではいけないと考え、人々に違う言葉を話させるようにした…という旧約聖書・創世記の中に登場する巨大な塔である。宗教上の教えの題材の一つとして、16世紀の画家ピーテル・ブリューゲルによって描かれた絵が有名で、実現不可能な空想上の計画を「バベルの塔」と呼んだりする。


バベルの塔…ブリューゲル作。 クリックすると元のサイズで表示します

映画は、違う言葉を話す人々が、如何にして再び繋がり合えるか?…をテーマにして描かれているという(日本ではGWに公開)。その中で菊地さんは、役所広司氏の娘役で、約1000人のオーデションを勝ち抜いた。現在、映画「バベル」のPRで、パリを訪問中。そのパリで吉報を受けた菊地さんは、1981年1月6日、神奈川県生まれの26才。年齢差のギャップがある10代の女子高生役になり切る為に、体重を5キロ増量した。また手話を練習して、コンビニでは聴覚障害者の立場になって買い物をしたり、地下鉄で、列車の入駅を風で察知出来る訓練をしたりして、音の無い世界の感覚を磨いたという。菊地さんは、2月25日の授賞式の日、芸名の如く"凛として"堂々とハリウッド、コダック・シアターのレッドカーペットを踏みしめる…。

クリックすると元のサイズで表示します 1月全米で公開「Letters from Iwojima」

一方、1月15日発表のゴールデングローブ賞で、最優秀外国語映画賞を受賞して、アカデミー賞への期待が高まっていた『硫黄島からの手紙』は、作品賞、脚本賞にノミネートされた。『硫黄島からの手紙』は、12月20日からニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴで上映され、今年1月に入ってから、全米各地で封切りとなっている。渡辺謙氏の『ラストサムライ』に続く個人賞でのノミネートは、残念ながら果たせなかったが、個人賞としてメーキャップ賞候補に、『もしも昨日が選べたら』で特殊メイクを担当した、メークキャップ・アーチストの辻一弘さんがエントリーした。候補入りを「光栄です」と喜んだ辻さんは、ノミネートの『もしも昨日が選べたら』で、主人公が時代と共に年齢を重ねて容姿が変って行く様子を表現した。このように辻さんの活躍が報道される事は、日本人の活躍の場として、メジャーリーグだけでなく、ハリウッドの特殊メイクという新しい道を切り開き、特殊メイクを学ぶ後進の人達にも夢を与えるだろう…と嬉しくなった。(お客様のN君が、4月より大阪の専門学校の特殊メイク科に進学されるので応援したいです)。

※菊地凛子
1999年、本名の菊地百合子で映画「生きたい」でデビュー、2002年に映画「空の穴」の奔放なヒロイン役で演技力を評価される。2004年に菊地凛子と改名、NHKの連続ドラマ「ちゅらさん」、映画「茶の味」、舞台「水銀」などに出演。身長169cm。特技は馬術、日本舞踊、手話など。尚、CM出演は、ロッテグリーンガムで「DHよしこ」役を務め、バレンタイン監督と共演している。

※辻 一弘
「スターウォーズ」を観て特殊メイクに興味を持ち、高校三年生の時、独学で趣味として特殊メイクを始めた。アメリカの有名な特殊メークキャップ・アーチストとの文通が契機となり、高校卒業後に上京してプロの道へ進んだ。1996年渡米。人物をリアルに表現するのを得意分野として、今まで2001年「猿の惑星」や2002年の「メン・イン・ブラック2」など多くのヒット作で特殊メイクを担当した。京都府出身の37才。


◎参考 中日新聞、中日スポーツ誌、Wikipediaより。
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2007/1/24

「ディパーテッド」を観て…ボストンを舞台にした正義と悪の裏表  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

ボストンには、1897年9月1日に開通したアメリカ最古の地下鉄があり、交通渋滞の激しいボストン市内では、移動に大変便利とされている。この地下鉄は、レッドライン、グリーンライン、オレンジライン、ブルーラインの4つの路線で運行されており「ディパーテッド」の撮影は、主にボストン市内の警察署や州会議事堂の近くのガバメントセンター付近、そしてチャイナタウンから、レッドラインに沿って南部へと走る地下鉄沿線で撮影されていた。そして舞台となっているボストンの建物の中で、この映画のキーともなるべく、州会議事堂は何度もその姿を登場させている。時には政界入りへの野望の象徴として、そして時には、金色のドームが大伽藍(だいがらん=大寺院)の屋根のように神々しく…。
 クリックすると元のサイズで表示します 州会議事堂と自由に空へ羽ばたく鳥。
(2007年1月撮影)


この映画を観て、思い出したストーリーが「インファナル・アフェア」のプロットによる事を抜きに考えて、2作あった。まず1作は、善と悪、コインの裏表という極端な2人の男性を描いたジョン・ウー監督の「フェイス・オフ」…FBI捜査官と凶悪犯の互いの顔が入れ替わってしまう異色の設定のアクション大作。もう1作はTVシリーズの「Brother hood」…ボストン近郊、ロードアイランド州出身のギャングの兄を持つボストンの若手政治家…アイリッシュ移民の物語である。この「Brother hood」のモデルとされた実在の人物が、ギャングと政治家の兄弟として知られる、ホワイティ・バルジャーとビリー・バルジャーであり、兄ホワイティは、FBI最重要お尋ね者リストのナンバー2に挙がるギャングのボスで、弟のビリーは、マサチューセッツ州の上院議員として最後は議会の議長まで務めたという。

「ディパーテッド」に登場するギャングのボス…ジャック・ニコルソンが怪演するフランコ・コステロは、実在のイタリア系マフィアのボスの名前であるが、アイルランド系ギャングとして描かれている辺りは、ホワイティ・バルジャーに近い人物設定がされていると思われた。そこで幼い頃からコステロに育て上げられ、警察に潜入するギャングとして登場するコリン・サリバン(マッド・デイモン)が、やがては政界へとのし上がる野望を持っている設定にも頷ける。一方、両親の離婚によって中流家庭の母親に育てられるも、父方の親族に犯罪者が居たという因縁を絶ちきる為に警察官となった、ビリー・コスティガン(レオナルド・デイカプリオ)は、その因縁ゆえに潜入捜査官としての職務を命令されてしまう。コリンがホワイティの弟をモデルとしているとすれば、ビリーには、モデルとなる人物はいないが、繊細な心を持ち、演技とはいえ犯罪に加担する事に対して良心の呵責に苦しみ、安定剤を飲み続ける姿からは、悪に染まりきれない天使のような清い心を感じた。
「ディパーテッド」館内入り口ポスター。クリックすると元のサイズで表示します 

ボストンの南部・サウス地区で生まれたビリーとコリンの2人は、同じ警察学校に学び(同期ではないが)、優秀な成績でマサチューセッツ州警察の警官となる。しかしコリンはギャングのボス、コステロの内通者として、コステロから手柄となる情報も貰いつつ、出世の途を辿り、力を発揮していく。人を欺く事に快感さえ感じながら、見せかけだけの忠実さを演じるのは迫真の演技ではあったが、今回の映画で制作に周ったブラッド・ピットがもしこの役を演じていたら?とふと考えてしまった。また、ディカプリオ演ずる、ウィリアム・コスティガンはビリーと名を変え、覆面警官としてコステロに近づいて行くが、コステロがビリーに心許すまでの行程では、ギャングのボスとしての残虐さが浮き彫りになっていて、危険と背中合わせの日々が続く。その役柄をディカプリオは、実在したハワードヒューズを描いた「アビエーター」で、ヒューズの精神を病んだ奇行ぶりを非常に上手く演じていたが、この役でも、知性と野生、意思の強さと繊細さ、2つの顔を持つ苦悩ぶりを、見事に演じ切っていると思った。勿論、コステロ役のジャック・ニコルソンの、下品かつ横暴な、しかし何処か寂しさを匂わすボスの姿を表す演技力は、この役が正にはまり役だと決定づけていた。
クリックすると元のサイズで表示します 映画に登場したザキム・バンカーヒル・ブリッジと市内を臨む (bostonroads.comより)

この映画の中で"The Departed"とは「この世を去りし人々=故人」という意味で使用されているが、"Departed"には「本筋から外されたもの」…という意味もあり、嘘をつき続ける事によって、本来の自分を見失いそうになる2人の姿をも表していると感じた。映画全体を通してダークなイメージのままラストシーンを迎えるが、いつの間にか2人の心理に感情移入してしまい、胸が苦しくなる程スリリングで、あっという間に時間が過ぎた。そしてボストンは鼠が多い街としても知られているが、互いの潜入者を鼠(インファナル・アフェアでは犬)と呼び、ラストは、コリンの野望の象徴たる州会議事堂を背景にしたマンションのベランダで、本物の鼠が登場しているシーンもスパイスが効いた演出であった。尚、スコッセッシ監督の起用した音楽は、流れるシーンに必ず意味があると言われているが、ローリング・ストーンズから、オペラ「ランメルモールのルチア」の曲まで、映画館を出た後も余韻が残る曲ばかりだった。中でもテーマ曲…「デイパーテッドタンゴ」のドブロ(DOBRO)と呼ばれるアコースティック・ギター(リゾネーターギター)の音が、運命に翻弄された2人の悲しい人生を、刹那に表していたと感じた。

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2007/1/7

NHK大河ドラマ「風林火山」…山本勘助に思う事  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

「風林火山」…2007年、井上靖原作の戦国浪漫小説が、NHKの大河ドラマに登場する。

「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」 

「疾(はや)きこと風の如し、徐(しず)かなること林の如し、
              侵掠(しんりゃく)すること火の如し、動かざること山の如し」

この中国の孫武の作とされている兵法書…孫子の中で軍の進退について書かれた一節…「風林火山」を甲斐(現在の山梨県)の武将、武田信玄は旗印(軍旗)として使用していた。小説「風林火山」では、その武田軍を支えた軍師として、山本勘助の人間像を描いている。軍師といえば、まず三国志に登場する、「諸葛孔明(諸葛亮)」や、豊臣秀吉に仕えた「竹中半兵衛」を思い浮かべる人も多いだろう。竹中半兵衛が、諸葛孔明と同じように主君に望まれて仕えた(秀吉が7度半兵衛の庵に通った話は有名だが、諸葛孔明も、主君・劉備が3度通って依頼した「三顧の礼」がある…後に秀吉の逸話は「三顧の礼」に基づき創作されたとも言われている)事に対し、勘助は、今川義元に仕官するも断られ、9年も浪人生活を送った後、50才を過ぎて武田家の重臣・板垣信方に見出され、ようやく召抱えられる事となるなど、現在に例えるなら50才(40代後半という説もある)を越えた上に、履歴書には載るような業績がない、中途採用者だったと言える。

クリックすると元のサイズで表示します大河ドラマ「風林火山」出演者…
左からGackt(謙信)、内野(勘助)、市川(信玄)。(NHK HPより)


その当時、武田信玄(当時・晴信)は若干22才(若干の誤差あり)…。甲斐を統一したが、諍(いさか)いの耐えなかった暴君の父、信虎を今川義元(娘の舅)のもとに追放し(後に無血のクーデターと言われた)、実権を握ったばかりだった。以後勘助は、当主となって間もない信玄を支え続け、戦国時代最強の常勝軍団…「武田軍団」を作り上げる事にその力を発揮した。機略に通じ軍事の天才とまで言われた山本勘助…井上靖が描いた勘助像に迫ってみると、身体的に恵まれた力強い武士の姿からは程遠い事に気付く。勘助は、幼少時から片目が悪く、片足も不自由で、背丈も小柄…。よって、誇り高い今川義元のお眼鏡には叶わなかった、と思われる。山本勘助に関して記録されている史料は数が少なく、17世紀初頭に完成したという武田軍の兵法を伝えた書物…「甲陽軍艦」が唯一の書とも言えるようだ。その中で勘助は、生まれは三河の国牛窪(愛知県豊川市)で、若い時代は武者修行として国内諸国を流浪し、剣術の腕を磨きながら、各地の地理や土地ごとの事情、人々の気質を学んだと書かれているという。

そんな勘助が、武田家への仕官が叶って、初めて信玄の前に進み出た時、信玄は勘助の風貌や履歴にはとらわれず、真っ先に「何が出来るのか?」とその能力について尋ねた。信玄には「部下を使うに当り、人を使うのではなく、人の能力を使う」というポリシーが備わっていたに違いない。信玄の質問に対して勘助は、まるで水を得た魚のように、それまで自身の体験によって身につけて来た諸国の状況、敵を心服させる方法等を語ったという。能力主義の青年武将、信玄を目の前にして、勘助はこの時、自分の居場所をやっと見つけた!と思ったのではないだろうか。更に原作を読み進むうち、勘助の人間像として「仕事師」「職人」というイメージが浮かんで来る。勘助からは、一国一城の主になりたい…とか、石高を増やしたい…とかいうような野望は、全く見えて来ず、とにかく信玄の元で自分の能力を最大限に発揮することのみを考えていたように感じる。孤高の人…守るべき家族や家、国を持たない勘助には、足を引っ張る存在が無い事も意味している。信玄に出会って以降、主君を裏切る事なく、信玄の戦略の為に生きる決意をしていたと推察できる。
井上靖 原作「風林火山」→ クリックすると元のサイズで表示します
また武田信玄は、先に述べた「甲陽軍艦」の中で、能力重視の人事を行い、おだてへつらう事を嫌ったと書いている。決して贔屓をしない事、陰日向を持たない事という平等性を打ち出し、自分自身を戒めていたのだ。信玄は、このように能力重視の重用を徹底する事で部下達の不協和音を防ぎ、中途採用の勘助の立場を、従来の幹部達に納得させて行った。そして勘助も、参謀という立場になった後も、あくまでも決定権は信玄に与え、主君と従事者としての一線を越える事はなかったという。古今の兵法を学び、城取り、陣取りなど軍略の達人にして築城の名人であった山本勘助…。そして彼の能力を見抜き、伸ばして行った武田信玄…。2人の戦国武将の生き様に触れた時、現代社会の会社経営の成功法にも通じるものを見つけた気がした。

「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」。

「風林火山」の旗印と共に信玄が残したこの言葉…。その背景から、信玄と勘助を切り離して考える事は出来ない。過去の史実から学ぶこと…原作の「風林火山」には、戦いに於ける武器・武力を、現代の仕事の能力や技術に置き変え、見習うべき事が多く描かれていると思った。尚、大河ドラマでは、山本勘助を個性派俳優・内野聖陽(うちのまさあき)が演じ、武田信玄を歌舞伎界から市川猿之助を伯父に持つ市川亀治郎(いちかわ・かめじろう)が、そして勘助の「啄木鳥戦法」を見破った上杉謙信役は、ドラマ初出演のGackt(ガクト)が務める。それぞれの俳優がどんな演技を見せてくれるのか?今年の大河ドラマからは目が離せない。   -文中敬称略-
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2006/12/14

「硫黄島からの手紙を観て」No2…ルーズベルト宛に書かれた手紙  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

硫黄島で最後の総攻撃が行われようとしていた時、市丸利之助少将は、1人壕の中で机に向かい、ルーズベルト大統領宛てへの手紙を認めていた。映画「硫黄島からの手紙」には、僅かの登場シーンしかないが、大本営は海軍部の司令官として市丸利之助少将を硫黄島へ送った。市丸少将は、海軍航空パイロットとしての草分けであり「飛行機乗りの神様」と呼ばれていた。市丸少将は、1919 (大正)8年に、海軍の第一期生の飛行生徒として戦闘機の操縦を学び、霞ヶ浦航空隊で教官を務めていたが、事故に遭い頭蓋骨骨折と右大腿部骨折という大怪我を負い、操縦員としての道は閉ざされてしまっていた。しかし1930年、海軍に予科飛行訓練生の制度設立とともに初代部長(校長)に任命された。市丸少将の教育理念は、「兵としてより、まず人間たれ」最も人道的であり人望も厚かったが、やがて市丸少将も、硫黄島の防空目的で第27航空隊の指令官として赴任する事となる。
クリックすると元のサイズで表示します 市丸少将の大統領へ宛てた手紙の本。

しかし硫黄島は、マリアナ諸島から飛立ったアメリカ軍の空襲で飛行機は壊滅状態となっていた。よってある参謀が市丸少将に転任を勧めたが「飛行機がなくなったからこそ、私の存在意義があるのです」と答え、1944年8月、硫黄島へと降り立った。陸軍と海軍の軋轢の中、市丸少将は、概(おおむね)栗林中将の方針を受け入れ、海軍兵士と陸軍兵士との橋渡し役になったという。更に市丸少将は、深く掘られた壕の中で、硫黄島周辺のアメリカ艦隊に突入する特攻機の無線を聴き入っていた。その特攻に乗っていたのは、市丸少将が育てた予科練を出たばかりの少年飛行兵達だった。結果、この時の特攻攻撃が、硫黄島周辺では最初で最後となるのだが、特攻攻撃による数少ない戦績の中では、護衛空母轟沈1、空母大破1、貨物輸送船損傷1で成功を遂げたと言えよう。「輸送船に突入す」「空母に突入す」…続々と入る無線を聴きながら市丸少将は、教え子達の最期に何を思い巡らせていただろうか?

市丸少将が鈴鹿航空隊に赴任していた時、学徒出陣によって海軍に配属され、航空搭乗員訓練を受ける為に入隊して来た1人の青年がいた。その青年の名は根本正良…。根本氏は、この訓練時に市丸少将から「もうすぐ戦争は終る、命を無駄にするな」と声をかけられていた。卒業後、海軍中尉となり、一式陸上攻撃機の機長として、比島作戦、硫黄島作戦、沖縄作戦等に転戦した。特に硫黄島への、手紙を含む、物資輸送と傷病者の輸送目的にした出撃では、米軍の攻撃をかいくぐり、無事硫黄島に着陸、市丸少将との再会を果たした。そして復路・硫黄島から兵士の手紙と傷病者を乗せて帰還した。しかし、一式陸攻には、乗組員以外15名しか乗せられず、根本少尉は並んでいた16人目の傷病者の失神しそうな目を、その生涯忘れる事はなかったという。
昭和19年鈴鹿航空隊にて根本氏 クリックすると元のサイズで表示します

根本少尉が硫黄島に着陸出来たのは、この時の一度きりであるが、木更津基地から硫黄島に向けて、何機かが送られたがその殆どが洋上に散り、着陸し目的を果たして帰還したのは根本少尉の飛行機のみだった。根本機はその後も、島に上陸した米軍への爆撃を目的として2度の夜間飛行を行った。最期の爆撃となった3月、根本機が硫黄島上空に達し、爆撃を始めると米軍の攻撃は一斉に根本機に向けられ、硫黄島北部で戦っていた日本兵達は、一時的にではあるが、矢玉の飛んで来ない安らぎの時間を持てたという。この時の事を晩年の根本氏は以下のように振り返った。「四周から射ちこまれる砲銃弾によって、全島が溶鉱炉の如く燃え上がっていた断末魔の凄愴な硫黄島の航空から見た情景は、50余年を経ても眼底に灼きつけられて、今なお消えていない」。根本氏は、平成14年8月にこの世を去るまで、硫黄島協会副会長、または、福島県硫黄島協会会長として会誌「遠き島かげ」を毎年編集刊行するなど、その生涯を硫黄島戦没者の慰霊に尽力した。
クリックすると元のサイズで表示します米従軍写真家撮影の根本機への攻撃の空に向って伸びる火花写真

さて映画「硫黄島からの手紙」の封切りと同時に放送されたドラマ…「硫黄島、戦場からの郵便配達」では、市丸少将と根本少尉にスポットを当て、硫黄島から届いた手紙の実物を写しながら遺族の方々にインタビューを行いつつ、61年前の硫黄島を再現した。中でも2000万円をかけて再現された一式陸上攻撃機は圧巻であった。このドラマの企画は2005年夏、梯久美子氏の『散るぞ悲しき』(新潮社)を、フジTVの成田プロデューサーが読んだ事を切っ掛けに立ち上がった。しかし成田氏曰く「当初は、栗林中将が主人公の作品を考えていたら、映画化されると聞いて一回は諦めた。でも、『島に手紙を届けたのはどんな人だったんだろう』という角度からドラマが作れるのでは、と思い直した」そうだ。

番組は最期に、アナポリスのアメリカ海軍兵学校記念館に保管されている、市丸利之助がルーズベルト大統領に宛てた「手紙」を写していた。この手紙は、ハワイ出身の日系二世兵士によって英訳もされ2通共に、出撃する将校のお腹に巻かれた。敗戦国の将校が今際に書いた手紙…それは、戦勝国となるアメリカへの訓告でもあった。

…前略…「世界ヲ以テ強者ノ独専トナサントセバ 
         永久ニ闘争ヲ繰り返シ 遂ニ世界人類ニ安寧幸福ノ日ナカラン」


◎参考 
フジTVドラマ「硫黄島 戦場からの郵便配達」
◎ 中攻の会 HP

http://www.aramant.com/chuukou/page04.html
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2006/12/13

「硫黄島からの手紙」を観て…No1  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

私は、この映画の原作「散るぞ悲しき」を読み、前日にフジTVのドキュメンタリードラマ「硫黄島戦場の郵便配達」 を観て、また新たな感動を胸に、映画を観る事を楽しみにしていた。フジTVの番組は、硫黄島へ手紙を届けた木更津基地の704飛行隊海軍配下の根元正良少尉を中心に、栗林中将の硫黄島へ着任2ヶ月後の8月に着任した、第27航空戦隊(海軍所属)司令官、市丸利之助少将のご遺族の方々や遺された手紙を公開しながら進行する番組だった。しかしその中に「栗林中将」の名前が一度も登場しなかった事等に、若干の疑問を感じながら、映画公開2日目の10日の夜、映画館へと向った。映画は、まるでモノクロ映画のような背景の中、淡々と物語が進んで行ったように思った。
クリックすると元のサイズで表示します 映画館入り口にて。

戦争映画に大きな感動は必要ない…クリントイーストウッドは、そう感じたのだろうか?登場人物も実在の人物ではない…とされている二宮和也演じる…西郷が主人公のような気がして、栗林中将について、逸話等をもう少し掘り下げて欲しいような感覚になった。勿論、バロン西こと西竹一中佐の人としての暖かさや潔さも、描かれてはいたが、それでも何処か物足りなさを感じてしまった。結局、前日TVで観た「硫黄島戦場の郵便配達」 のイメージが尾を引き、つい双方比較してしまい、様々な矛盾点を感じざるを得ず、私の気持ちの中で消化不良を起していた。私は、もう1度原作の本を開き、そしてまず、栗林中将が属した陸軍と、市丸小将が属した海軍との関係を調べてみた。そして過去、戦争を取上げていた映画やドラマでも、陸軍と海軍とは、切り離して語られて来た事が多い事に気付いた。

例えばアメリカの組織図を観て見ると、陸軍の参謀本部という統帥(とうすい)部が、全作戦を考え、元首であるアメリカ大統領に提案し許可を得る、そして海軍の作戦も参謀本部が指導した…これを「統帥一元」と呼ぶのに対し、日本の海軍は、陸軍の統帥部に従う必要がなく「統帥二元」と呼ばれ、その中で陸軍の存在意識は、対ソ連(ロシア)戦の為にもたされており、実際に陸軍は、海軍と合流命令発令が出た後の、1941年の夏以降も、満州に精鋭部隊を残したままにしていた。基本的に開戦当初の対米戦争は海軍のみで行われていたが、合流後の海軍上層部は、陸軍の兵士を出来るだけ遠い南方の離島に送り込んでいた。この硫黄島での戦いに至るまでに、海軍上層部と陸軍上層部の間には、予算等の死活問題をめぐり、深い政治的軋轢があったようだ。映画の中でもこの軋轢の片鱗が、水際作戦変更時にも表現されていたが、栗林中将は「今更、議論の余地はない」と、即却下したシーンが甦った。

"嵐"の二宮和也が演じる「西郷」 クリックすると元のサイズで表示します
(パンフレットから撮影)

私は自分の中にある「史実」という概念への拘りを捨て、改めて映画館へと足を運んだ。主役と思えていた西郷は、やはりこの映画の中で重要なキーとなっていた。私はふと気付いた。史実上は存在していないはずの西郷…この人物とは、意に反して戦地に出向き、心中に不満を抱きながらも家族の為に戦い、散って行った兵士達の象徴的存在なのだと…。イーストウッド監督は、この映画の主役を、名も語り継がれない兵士達にしたかったのだ。戦争の真の英雄とは、戦いに散って行った兵士達…これは映画「父親達の星条旗」とも共通して訴えられていたように感じた。一兵士を代表とする西郷の目を通して、渡辺謙演ずる栗林中将、伊原剛演ずる西中佐ら上官の姿…軍人である以前に人としての姿を描いていると思った。結末の分っている地獄絵図を見るような映画の中で、その人間味に触れた時、空虚となった心の中に僅かながらでも温かみを感じる事が出来た。

米軍上陸D−dayから1ヶ月が過ぎ、武器弾薬も、更に食料も飲み水も尽き果てた後、それでも栗林中将の元に残った400余名の兵士は、5日以上飲まず食わずで応戦し続け、3月26日の最後の総攻撃によって果てたとされている。その最後の組織的戦闘後も、各壕に生き残った1000名以上の将兵達は(米軍によって各壕の中に生き埋めにされた兵士達もいたが)栗林中将の発した「敢闘の誓い」…「我らは最後の1人となるとも、『ゲリラ』に依って敵を悩まさん」を胸に、戦い抜いたという。

このゲリラ戦法は、沖縄でも(民間人も巻き込んで)使用され、後のアメリカ軍の本土上陸の戦意を消失させる事となった。硫黄島・沖縄での米兵の損害は、2万8千人+4万9千人にも及び、この後本土に上陸すれば、物資の補給が可能な本土に篭る120個師団と戦うと、米軍犠牲者は250万人に達する…と計算された。時を同じくしてドイツは既に降伏しており、米軍は、これ以上の犠牲は出せないと、九州上陸戦を延期し、7月に条件付の和平提案「ポツダム宣言」を提案した。(受諾の遅れは残念だが)敗戦国で領土保全の確約を得た国は日本以外に例はなく、結果的に栗林中将率いる日本軍の硫黄島での戦いぶりが、本土の人々の暮らしを守った事となった。栗林中将の願いは、一刻も早い戦争終結だったに違いない。私はこの映画を2度観て、敗戦後、60年以上もの間、関係者以外には封印されて来た硫黄島の戦いぶりを、史実をもとに双方の国の目で平等に描き、改めて戦争の空しさを伝えてくれた監督・イーストウッドに、敬意を表したいと思った。 -文中敬称略-

※尚「硫黄島の手紙」は、現地時間の10日ニューヨークで、米国では初の試写会が開かれ、同日発表された「ロサンゼルス映画批評家協会賞」の最優秀作品賞を受賞した。

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2006/11/30

硫黄島からの手紙Vol 3… 栗林忠道から家族へ、そして部下へ。  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

太郎君ニ 知ラセル御父サンノ様子

余り 暑いから ハーバード大学ノ庭へ行テ 寝ソベッテ居ル所


成績優秀だった栗林は、軍事研究の留学生として、昭和3年3月から昭和5年4月までの2年間、アメリカに滞在した。当時3才(〜5才)でまだ文字が読めなかった太郎(長男)の為に、絵を描きそれに解説文を添えた手紙を送った。届いた手紙は妻の義井が太郎に読んで聞かせた。その絵手紙を見ると、生活に密着した話題が多く、自動車や電車を見れば太郎を乗せてみたいと思い、美しい景色に出会うと太郎にも見せたいと願う、父親の温かさと、そして異国で家族と離れて過す淋しさも伝わってくる。また「猫だけは日本と同じいから、こんなものが非常に懐かしい。猫が本当に味方のような気がする程、外国は淋しいことがある」と書かれている。そんなアメリカ生活の中で、栗林氏が最も愉快な事は、果てしない練兵場を馬に乗って走る事で、最もイヤな事は、週末に開かれるダンスパーティだとも書かれていて、親近感を感じられ、とても微笑ましく読む事が出来る。
クリックすると元のサイズで表示します ハーバードエリアの芝生(2006年)
栗林氏もこの辺で寝そべったのだろうか?


栗林は、昭和3年3月27日横浜港から「太陽丸」に乗って、ハワイを経由し、同年4月13日、サンフランシスコへと到着した。陸路、ロサンゼルスに向かい、ロサンゼルスからグランドキャニオンの見学をし、シカゴ経由でワシントンへと入った。そしてボストン、ニューヨーク州バッファローに滞在…日本人の少ない地に住み、英語力を磨いた。そしてカンザスシティ、エルパソ、とアメリカの中南部も見学し、メキシコにも行った。帰路はワシントンからニューヨークへ周り、イギリスのリバプールからロンドン、パリ、ベルリンを経由して、シベリア鉄道にて帰国した。

アメリカからの絵手紙。 クリックすると元のサイズで表示します

栗林の絵手紙は、今風に言うと「インタクラクティブ」(双方向)があり、手紙を媒体として、それぞれが受け手と送り手になれる…バーチャルな関係が形づけられている。父は遥か遠いアメリカから、息子の目を通して妻に語りかけ、妻は夫の声に耳を傾けながら息子に語り聞かせる。この絵手紙によって息子・太郎は、いないはずの父の存在を強く意識出来ただろう。その絵手紙の中からは、軍人・栗林忠道の姿は全く見えて来ない。

それから10余年経つと、栗林の手紙は、硫黄島から次女(当時9〜10才)のたか子宛てと変り、たかこを始め、家族を思う気持は変らないが、内容はだんだんと「これから先を気強く明るく生きて欲しい」…というような別れの言葉へと変化せざるを得なくなって行き、読み進むうちに胸が締め付けられてくる。

「たこ(たか子)ちゃん、お父さんはたこちゃんが早く大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかり思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言付けをよく守り、お父さんを安心させるようにして下さい」。         昭和19年6月25日 戦地のお父さんより。

一方、栗林の立場は、陸軍将校。それも近衛師団(近衛兵になるには、家柄もよく三親等以内に犯罪者がいてはならない)の団長まで勤めたという将校の中でもエリート中のエリートでありながら、軍属として働く人達にも、思いやりがあって温かい人柄だったようだ。貞岡信喜は、縫工部に属し高級将校の軍服などを新調したり、直したりする部にいて栗林の担当だった。貞岡は例えば「車に乗れ」という言葉も命令口調ではなく「乗りなさい」と優しく声をかけられ、天皇陛下から下賜された鴨鍋での食事会にも招かれた。それは、当時の軍人の階級社会では考えられない事だった。貞岡は栗林中将を慕い続け、硫黄島へも一緒に行きたいと申し出るが、その時は「駄目だ、親孝行しろ」と初めて叱られ、却下されたという。
クリックすると元のサイズで表示します広東にて…中央が栗林氏。その右後方に貞岡氏。(「散るぞ悲しき」より転写)

戦局の悪化に伴い、どうせ死ぬなら閣下の元で…と諦めきれない貞岡は、父島の軍基地まで渡り、藤田副官に栗林中将へと電話をかけてもらう。しかし「こらぁっ、渡島あいならん」と怒鳴られ剣もほろろに返される。硫黄島には縫工作業する人手は要らず、無駄な死は必要なかったのだ。その時の事も栗林は、妻の義井宛の手紙の中で「貞岡がせっかく来たのに、私に会えずに帰還し、結局郷里に帰るのだと思う…後略…東京へ着けば無論立ち寄るだろうからその時は、玄関だけにせず何でもある物をやって下さい」と書いていて、貞岡の気持ちを知りつつ、心を鬼にしたことが覗える。その後、栗林は貞岡宛てに葉書を出した。軍事郵便の文字が印刷された葉書に端正な文字で認められていた栗林中将の温かい言葉…。葉書は、61年経った今でも貞岡家の自宅の金庫に保管されているという。

その貞岡が硫黄島へと渡ることが出来たのは、栗林中将の死から33年を経た昭和53年だった。慰霊巡拝団の一人として渡島した貞岡は、栗林中将が潜んでいたという司令部壕を示されると声を限りに叫びながら駆け出した。「閣下ぁー、貞岡がただいま参りましたーっ!」

親として、夫として、軍人として、そして何より人として、思いやりに溢れた栗林忠道の手紙…日米合わせて3万人近い硫黄島での戦死者の魂へ、そしてその遺族の心へと、言葉の壁も乗越えて届いているように思えた。

◎文中、敬称略
◎参考
「玉砕指揮官の手紙」 栗林忠道著 小学館文庫
別冊宝島「栗林忠道 硫黄島の戦い」 宝島社

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2006/11/29

硫黄島からの手紙Vol 2... 「バロン西」こと西竹一中佐  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

硫黄島で散った将校達の中に、オリンピック馬術競技唯一の金メダリスト…西竹一中佐がいた。彼の事を「バロン(男爵 )西」と名付けたのはアメリカの新聞だった。西氏は、1932年に開催されたロサンゼルスオリンピックに於いて、当時花形競技だった馬術競技で、愛馬ウラヌス号に乗って金メダルを獲得。日本人離れした手足の長さと、紳士的な態度で欧米の社交界に名を馳せていた。西氏は、陸軍軍人でありながら長髪を通し、クライスラー、パッカード社の車を乗り回し、ハーレーまで所有していた豪遊ぶりだった。更に愛馬ウラヌス号もイタリアで出会うと、一目で気に入り、自費で購入していたという。そんな芸当が出来たのも、西氏は、外務大臣を務めた西徳二郎男爵の三男として生まれ、その家は西麻生に1万坪の邸宅を構えていた名家所以だった。
クリックすると元のサイズで表示します ロサンゼルスオリンピック・馬術傷害競技での西竹一氏。

しかし、西竹一氏が名家の嫡男としては例外的に、職業軍人としての道を選んだ事には、理由(わけ)があった。竹一氏は、正妻の子供ではなく、父親が使用人に生ませた子で、母は竹一氏の生後すぐに西家を出され、母親の愛情を知らずに育っていた。父親の亡き後、10才で男爵家の家督を継いだが、学習院時代も問題児として名高く、停学処分も受けていた。名家の名前を背負いながら、心中は孤独だったと推察する…そんな竹一氏にとって馬との関わりあいは、自分を見出せる唯一の時間だったように思う。事実、竹一氏は、硫黄島での最後の時まで、ウラヌス号のタテガミを肌身から離さなかった。そのウラヌス号も西中佐の戦死1週間後、後を追うように逝ったという。

この西中佐と、先に書いた硫黄島指揮官・栗林中将との共通点として、騎兵学校出身であった事、アメリカでの生活を体験し、アメリカという国の国力を知っていた事があげられる。この2人が帰る事はまず無い、とされた硫黄島へと派遣された経緯には、日本軍部内から、知米派の追い出し…と解釈されている説が根強く残っている。硫黄島へ向う際に覚悟を決めた西中佐も、栗林中将と同じく、妻に「今度という今度は戻れないかもしれない」と言い残している。それでも最後まで明るかった西中佐は、米軍上陸の前、硫黄島に一頭だけ残された馬に跨ったり、釣りに興じていたという。しかし米軍上陸後の戦いぶりは、己の肉体をも武器にした壮絶なものだった。修理不能の戦車を砂に埋め、砲台だけを見せて巧みに隠し利用した戦術は、西中佐の軍人としての能力の高さを証している。自身は、米軍が使用した火炎放射器の火で顔半分を焼かれ、総員1000名の連隊も60余名となって尚、栗林中将のいる兵団本部と合流しようと壕を出た所、水際で散弾に倒れたと記録されている。
西竹一氏と、心を通わせた愛馬ウラヌス号。 クリックすると元のサイズで表示します

西中佐については、アメリカ軍が「五輪の英雄、バロン西、出てきなさい。(世界が)君を失うのは惜しい」。と壕に向って投降を呼びかけたが応じなかった…というエピソードも残されている。「死ぬ時は、この宇宙の中に消えて行く」…。そう言い遺した西中佐…最後に栗林中将に一目会いたいという願いは届かなかった。しかし、西中佐が最後まで肌身離さず持っていた、ウラヌス号のたてがみは、1990年にアメリカで発見され、現在は、北海道本別町の軍馬鎮魂碑のある歴史民俗博物館に、収められている。

◎追記
映画「硫黄島からの手紙」では、栗林中将を渡辺謙氏が、西中佐を伊原剛志氏が演じている。もし黒澤明監督が存命なら「メガホンを預けた」と語るクリント・イースト・ウッド氏が描く、初の日本人俳優をメインにした日本映画(イースト・ウッド氏は、ハリウッド映画ではなく日本映画と呼ぶが、アカデミー賞の対象にはなるようだ)。61年の時を越えて届く…「硫黄島からの手紙」…。敵(アメリカという国)を体験した2人の日本人…栗林中将を縦糸に、西中佐を横糸にして織り成す物語は、史実に基づいた戦争映画から何を語りかけてくるのか?今から封切りが待ち遠しい。


◎参考/参照
「別冊宝島・硫黄島での戦い」 宝島社より
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