2008/1/17

トレーニングジムに通い始めて…ボストンで通った「Be well」  ボストンの思い出

成人の日が過ぎ、仕事の方もようやく一段落して(少し風邪気味でもあったが)久しぶりにゆっくりとした休日を過ごした。気持ちが抜けた所で、今年の抱負…『運動を続ける』を守るべく、近くのスポーツクラブへと足を運んだ。明日こそ、明日こそ…と、なかなか通い始められなかった『あななろ君』の私だったが、朝、偶然見たカレンダーの欄に「決断力と勢いが大切」と書かれていて、普段は占い等をあまり気にしない生活をしているが、今日はその言葉に後押しして貰い入会手続きをした。
クリックすると元のサイズで表示します 通い始めたスポーツジム玄関。

入会手続きの後、最初のオリエンテーションを受けたが、そもそも、数年前まで、通っていたスポーツジムだったので、スタジオが広くなったり、スタジオメニューが少し変わった以外、殆ど同じ説明で、少し緊張感が解けた。トレーニングマシーンも以前からあった…平地や坂道を想定して、ウォ−キングからランニングまで設定出来る『トレッドミル』や、固定式自転車…『リカンベンドバイク』が並んでいて、新しくは『クロストレーナー』と『ロデオマシーン』等が増やされていた。今日は、とりあえずスタジオメニューの「エアロビクス」を受け、『トレッドミル』で15分間、走ったり歩いたりして、汗を流した。

今年の抱負を『運動を続ける』と決めたのは、暫くの間、スポーツから離れた生活をしていて、運動不足が気になっていた事もあったのだが、昨年11月ボストンへ渡米した際に、友人の紹介で短期入会したHarvard Medical Schoolの大学病院の一つであるBeth Israel Deaconess Medical Center 内にある 「Be Well」というスポーツジムで、少しトレーニングした事が切っ掛けとなった。そのジムは、7日間の無料体験コース+10日券で50ドルという価格で、期限は半年。一ヶ月滞在の私にとって、有難い値段だった。(日本では体験1日が(安くても)1000円だから、かなりお値打ちである)。そのジムではまず、インストラクターの方に、軽いダンベルを使用した手腕の運動を習い、ノーチラス(Nautilus)製ナイトロ(NITRO)のトレーニングマシンの中から、主に腹筋を鍛えるアブドミナル等、4台選択、重さも設定して貰って、ほぼ毎日そのメニューをこなした他、週に一度、スタジオメニューのキックボクシングを選択して、未熟ながらもパンチやキックの型を学ぶ事が出来た。
Thanks! Ms. Marlene. クリックすると元のサイズで表示します

初め友人は、私にスタジオメニューの、キックボクシングを勧めてくれたが、数年間にも渡る運動不足で体力が無いと判断されて、インストラクターのマリーンさんに友人は「彼女を殺す気ですか?」というジョークまで言われてしまった。実際、キックボクシングはスタジオメニューの中で、最もハードなのだそうだ。そこで『まずは見学』という運びとなったが、ストレッチの時とか「トライしてみる?」と促され、スタジオの片隅で始めていた。私の場合、体力不足は否めなかったが、何故か体だけは柔らかく、ストレッチには充分着いて行けた。すると…マリーンさんから「一緒に参加しなさい」と言われてしまった。心の準備が出来ていなかった私は一瞬焦ったが、無理なら休んでも良い…との事で、安心してそのメンバーに加わった。しかし、その結果は翌日の酷い筋肉痛…。私は既にトレーニングマシーンで一汗掻いており、その後に続けてのキックボクシングチャレンジは、かなり無謀だった。

ところが、筋肉痛が治まると、何だか体が軽くて動き易くなり、肩凝りもなくなっていた。私は、運動していた方が体調が良い事に、改めて気付かされた。ボストンでジムに通ったのは、約半月ととても短かったが、マリーンさん始め、ジムで働いている方達には、毎日暖かい言葉をかけて頂き、楽しい時間を過ごす事が出来た。特にマリーンさんには、とても親切にして貰った。マリーンさんとは、帰国しても運動をして体力をつけ、必ず再訪する事を約束した。年末年始の慌しさの中、実現しないまま一ヶ月が過ぎて、気になる所だったが、やっと最初の一歩を踏み出し、運動をし始める事が出来た。明日の筋肉痛が少し怖くもあるが、心地よい疲れの中、マリーンさんの笑顔を思い出している。

※「Be well」で大人気!空きがなかなか無かった『クロストレーナー』について。
クリックすると元のサイズで表示しますクロストレーナー(珍しく空いていた)

楕円形の動きを採用、腰や膝への負担を軽くして手足を動かせる。階段の登りとランニング要素を合わせ持ったようなトレーニングマシン。水の上を走っているように?足を交互に動かしながら有酸素運動が出来る。また「前漕ぎ」を「後ろ漕ぎ」に変換出来、使う筋肉も変えて下半身を鍛えられる。クロストレーナーには、手も連動させるタイプと足だけのタイプがある。

バーベルとダンベルが並ぶクリックすると元のサイズで表示します

トレーニングマシンは、動作範囲は限られているが、まず第一の長所は、ダンベルやバーベル運動に比べて、安全性が高いという事で、レバーで体格に合わせられ、ピン1つで重さが変えられる為、老若男女、筋力の有る無しを問わず、多くの人に使用出来る。また、フォームも崩れ難い為、初心者でも正しい筋肉運動が出来るという。
クリックすると元のサイズで表示します ラットプールダウン(Lat Pulldown)
・大胸筋、上腕二頭筋、三角筋を鍛える。

※他に私が使用させて貰った残り3台のマシーン…NAUTILUSサイトより

クリックすると元のサイズで表示しますアブドミナル(Abdominal)
・主に腹筋を鍛える。
ロウアーバック(Lower Back)クリックすると元のサイズで表示します
・背筋を鍛える。
クリックすると元のサイズで表示しますレッグプレス(Leg Press)
・大腿筋を鍛える。
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2007/12/10

ボストン市内のイルミネーションとハッサム(ボストンコモン)の絵  ボストンの思い出

12月に入ってからのボストンは、連日氷点下の寒い日が続いていて、量こそ多くはないが降った雪も溶けないままとなっている。特に9日は1日中曇っていて空は灰色だった。それでも街中は、ホリディシーズンとなって彼方此方にリースやツリー等が飾られ、イルミネーションが光っている。晩秋のボストンに訪れて約1ヶ月も、あっという間に過ぎ、間もなく帰国の途に着こうとしている。今日は、滞在中にボストン市内で撮影した、ツリーやイルミネーションの写真を掲載しようと思う。
(写真は、全てクリックで拡大します)
クリックすると元のサイズで表示しますボストン美術館、ロトンダの階段

階段のサイドと降りる人達クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示しますロトンダ吹き抜けの飾り付け

ツリーのオーナメント→↓クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

リッチミアのギャラリア内クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します同、マックショップのウィンドウ
(サンタの人形が大人気のアイフォンを持っている)

※以下は、ボストンコモンとボストンコモン付近

ボストンコモンは、街の中心街、ダウンタウンの中央にある。1634年、牛の放牧場や練兵場として設置されたが、その後、市民の集会や演説(マーティン・ルーサー・キング、ヨハネ・パウロ2世ら)に…使用された事から「COMMON(共有地)」と呼ばれるようになった。全米で最古の公園として知られ、総面積は20.2万m²で、ボストン・パブリック・ガーデンと隣接しており、現在では市民の憩いの場となっている(冬期は、ボストンコモン内のフロッグ池がアイススケート場となる)。
クリックすると元のサイズで表示します高さ15メートル?天然木のツリー

パークストリート教会クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します噴水から州会議事堂を臨んで…
(↑是非、クリックで拡大して下さい。ほたるのお気に入り写真です)。

ダウンタウンへの路地を…クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示しますトレモント通り沿いの歩道

歩道をズームアップで…。クリックすると元のサイズで表示します

※以下は、ボストン美術館所蔵、フレデリック・チャイルド・ハッサム
「Boston Common At Twilight 」(黄昏のボストン・コモン)1885〜1886年作
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拡大写真(部分)
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「Boston Common At Twilight 」は、120年以上前に描かれた作品であるが、ボストンコモンに面した、トレモント通りを走っている乗り物や人々の服装以外は、現在もその光景が、ほぼそのまま残っている。絵の中にスズメと戯れる少女が描かれているが、毛皮が袖についたお洒落なコートを着た可愛いその姿は、育ちが良く、未来の貴婦人を連想させる。雪をまとったボストンコモンの景観は、むしろ今も、こんな少女に居て欲しいような雰囲気を漂わせている。尚、印象派の影響を受け、サージェントを敬愛したというアメリカの画家…ハッサムについては、後日改めて詳しく記載したいと思っている。

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2007/12/4

シンフォニーホールのコンサート…ヘンデルの「メサイア」  ボストンの思い出

12月1日、ボストン・シンフォニーホールで開催された、Handel and Haydn Society(へンデルアンドハイドン・ソサエティ)のコンサート「Messia (メサイア)」へ行った。ヘンデルのメサイアというと、 有名な「ハレルヤコーラス」のフレーズが浮かんで来る。私は高校時代、このコーラスにアルトのメンバーの1人として参加した事があり、懐かしさも手伝って期待に胸を膨らませていた。但しチケットを予約したのが前日で、何とか取れたものの、何処のシートなのかも分らず、とりあえず「25ドル」という価格から、オペラグラスは必須だろうと持って出かけた。シンフォニーホールへ着くと、フロントでチケットを受け取り、中に入った。1階とは聞いていたが、係りの人に案内されるまま進んでいくと、どんどん前に連れて行ってくれる。気がつくと最前列に案内されていて、オペラグラスが不必要な事態となった。
クリックすると元のサイズで表示します開演前…3F席から写したステージ。
最前列のシートに座る筆者
クリックすると元のサイズで表示します

ここで、もしこれがジャニーズ系のコンサートなら、アリーナ席だと大興奮する反面、間違いでは?と疑うのだろうが、シンフォニーホールに於いてこの最前列のシートは、7ランクあるうち、4番目の価格帯となっている。確かに立ち見でない限り、舞台の高さに遮られて奏者全員を観る事が出来ない。それでも、過去にコンサート等を最前列で聴いた経験が無かった私は、わくわくした。開演まで時間があった為、シンフォニーホールの散策?に出かけた。ホール1Fの壁にはホールの歴史についてや、ボストンシンフォニー交響楽団の人達の写真が掲げられており、その中に、1973年から2002年まで音楽監督 に就任していた小澤征爾氏の写真を見つけた。小澤氏は、歴代の名立たる指揮者中でも、クーセヴィツキー氏と並んで最も任期の長い指揮者となったが、その長い就任期間もさる事ながら、情緒的な表現様式でボストン市民を魅了した。ボストンで「有名な日本人は?」…と問えば、まず小澤征爾氏の名が上がる。
クリックすると元のサイズで表示します 9年間指揮者を勤めた小澤征爾氏

さて、演奏曲…ヘンデルの「メサイア」について少し書こうと思う。メサイアは、オラトリオ形式となっており、バロック音楽を代表する楽曲で、キリストの生涯を描いている。オラトリオとは、声楽(独唱・合唱)、オーケストラ、によって演奏される。歌詞にストーリー性がある点でオペラと雰囲気は似ているが、演技はなく、大道具、小道具、衣装なども用いない。 また「メサイア」には決まった配役も無く、第1部・降誕、第 2部・受難、第3部・復活と永世…から構成され、歌唱部分はソリストのソプラノ、アルト、テノール、バリトンの4人と、コーラスで構成されている。そして第2部の最後に流れるのが有名なハレルヤコーラス…神を讃えるこのコーラス部分は、観客が総立ちとなって聴く事が慣例となっている。この慣例は、1743年、ロンドンで初演奏の際、国王ジョージ2世が、コーラスの途中で感動のあまり起立し、観客も総立ちになったという逸話に由来するという。
クリックすると元のサイズで表示します お辞儀をする4人のソリストと、
指揮者のハーリー・クリストファー氏(中央)


休憩を入れて3時間のコンサートは、あっという間だった。バロック音楽を代表するかのようなチェンバロの調べが美しく響き渡り、ソリストの方達の熱唱を引き立てていた。更に、33名のコーラスの人達が歌うハレルヤコーラスは、予想以上に圧巻だった。私も思わず記憶が甦り、歌詞を口ずさんでいた。そしてラストの「アーメン」の大合唱も見事で、観客は再び総立ちとなり、彼方此方から「ブラボー!」の声が飛びかっていた。私は、身も心も洗われたような清清しい気持ちになって、耳に残った余韻を楽しみながら、キンと冷え込んだボストンの街中へと、シンフォニーホールを後にした。

★以下は「メサイア」に使用されたバロック音楽独自の楽器と、
コンサートマスターで、演奏も笑顔も素敵だったダニエル・ステップナー氏の写真。
クリックすると元のサイズで表示しますチェンバロ(ハープシコード)

バロックトランペット(2F席で演奏)クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します開演前…笑顔のステップナー氏

音合わせするステップナー氏クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示しますコンサートマスターとして指揮をとる。

演奏者全員に一礼クリックすると元のサイズで表示します


※ダニエル・ステップナー(Daniel Stepner) ウィスコンシン州ミルウォーキー出身
幼少時から両親より音楽を学び、シカゴのヴァイオリニスト…サム・ストライクと、フランスの指揮者…ナディア・ブーランジェに師事した。イエール大学で、音楽論の学位を取得し、以降数々のクラッシック音楽演奏に参加したのち、現在はマサチューセッツ州内のハーバード大学やブランダイス大学で教鞭をとる傍ら、2004年より、ヘンデルアンドハイドン・ソサェティのコンサートマスターを務めている。
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2007/12/2

ボストン美術館No5…ゴッホ「郵便配達人ジョゼフ・ルーラン」他  ボストンの思い出

フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)は、オランダ生まれの画家で、ゴーギャンやセザンヌと同じくポスト印象派(後期印象派)に属する。27才で絵を描き始めるまでは、伯父の経営する美術商での仕事、父親と同じ牧師をするなど、職も定まらなかった。その原因の1つとして、ゴッホは人との交流が苦手だったと言われているが、画商で成功した弟…テオドールとの文通は亡くなる直前まで続き、妹に送った手紙も含む、約700通にも及ぶその書簡は、ゴッホの作品や当時の絵画美術の理解に役立つだけでなく、書簡文学の傑作とされている。そんな手紙好きのゴッホが、1886年ごろからフランスに移り住み、アルル地方のカフェで偶然、郵便配達人のルーランと出会う事となった。
クリックすると元のサイズで表示します 郵便配達人ジョゼフ・ルーラン。
(1888年作、写真は全てクリックで拡大)


ルーランは、その後友人として、また絵のモデルとしてゴッホの心の支えとなって行った。ゴッホはルーランの制服姿の肖像画を6枚描き、更に夫人や子供達も描いた。実際この絵を観ていると、椅子から溢れた大きな手と体は、働き者である事を表し、ゴッホの描く父親のイメージだと推察できる。顎に湛えた立派な鬚には「白」「茶」「赤」「緑」「黄」「黒」等の多彩な色を使われ、絵の中でも大きな存在感を示していて、ゴッホが描こうとしたルーランの心の優しさが伝わって来る気がする。ルーラン夫妻は、ゴッホが精神を病んで入院後もしばしば見舞い、そして退院にも付き添ったという。ゴッホは、画商のテオの計らいで、ドガやピサロらと出会い、印象派の手法を吸収してきたが、生活を共にしたゴーギャンとは、作風…自画像の耳の大小を巡って口論となり、自分の耳を切り落としてしまったという有名な逸話まで残している。そんなゴッホの親族以外の数少ない、良き理解者だったと言えよう。
「オーヴェルの家々」 クリックすると元のサイズで表示します

次の絵は、ゴッホ終焉の地となったオーヴェル・シュル・オワーズで描かれた…ゴッホ最後の作品とも呼ばれている「オーヴェルの家々」である。多彩な筆さばき、混じり気のない絵の具の生気に跳んだ厚塗りは、実際の情景からは少し逸脱し、孤独な人物を取り囲む静物だけに的を絞って描かれている。「郵便配達人ルーラン」にも言えるが、黒色を使って輪郭を描くなど、浮世絵の影響を受けている事がうかがい知れる。ゴッホは、10年間の画家人生の中で、油彩900点、素描1100点を残しているが、晩年の2年間に残した350点の油彩と数百点の素描の中から、傑作と呼ばれる作品が生まれたそうだ。
クリックすると元のサイズで表示します 「ペイルレ渓谷」(Ravine)

もう一枚は、1889年に描かれた「ペイルレ渓谷」で、ゴッホがサン=レミ近郊のペイルレ渓谷に出かけ石灰岩の岩場を縫う急流や、両側にそびえ立つ荒涼とした石灰岩の山を描いた作品である。(「ペイルレ」とは、転がった石を意味する「ピエール・ルレ」に由来する)。この絵は、浮世絵に描かれていた山水画の影響を受けていると思われるが、力強い筆致の中にも何処か不安定さが見て取れる。また最近になって、この絵は、アムステルダムにあるゴッホ美術館によってX線撮影され、絵の下にも別の絵…「Wild Vegetation」が描かれている事が判った。「Wild Vegetation」は1889年6月の作品だが、数ヵ月後「Ravine」を書こうとした際、テオドールから届くはずのキャンバスが遅れ届かなかった為、「Wild Vegetation」のキャンバスをリサイクルとして使用したそうだ。後に炎の画家と呼ばれ、力強い線と燃え上がるような色彩で、情熱的な作品を描き続けたゴッホだったが、画家としては不遇であり、37年間という短い生涯に自らの手で終止符をうった。ゴッホの絵の価値が上がったのは、皮肉な事にゴッホの劇的な生き様であり、何作かの映画も作られた。結局生前、売れた絵は1888年作の「赤い葡萄畑」(プーシキン美術館蔵)のたった一枚だったという。
横から…絵の具の厚さが分る?クリックすると元のサイズで表示します
クリックすると元のサイズで表示しますゴッホ美術館撮影のX線写真。
(「Ravine」の下に描かれている「Wild Vegetation」)


伝説の画家・ゴッホが、弟のテオドールに遺した作品の内、約200点の油彩、500点余りのデッサン、スケッチブック、約700通もの書簡、そしてゴッホのコレクションであった多数の浮世絵は、1962年以来フィンセント・ファン・ゴッホ財団の所有となり、以降ゴッホ美術館に永久貸与されている。尚1999年完成したゴッホ美術館の新館は、名古屋市美術館を始め、著名な建造物を数多く設計した黒川紀章氏が携わったという。

◎参考
「ボストン美術館の巨匠たち」名古屋ボストン美術館発行
 2007年8月5日付(電子版)AFP ニュースより
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2007/11/29

アメリカ・コネチカット州にあるカジノ…モヒガンサンを訪れて  ボストンの思い出

日本では晩秋の晴れ渡った暖かい日の事を『小春日和』と呼んでいるが、北米(アメリカ・カナダ)では、インディアン・サマーと呼ぶそうだ。これは、ネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民)に伝わる伝説で、神様がキセルで煙草を吸い、その煙が暖かい日を作り出すと信じられており、神様がくれた恵の暖かさの中、厳しい冬に備える冬仕度を捗らせるのだという。今年は、ボストンでも比較的暖かい日が続いており、一昨日の夜等は、暑過ぎて窓をあけた程だった。インディアン・サマーだなと思いつつ、そこで私は、11月22日、サンクスギビング(感謝祭)の日に、ボストン在住の中国人の友達…Pangさんに連れて行って貰った、ネイティブ・アメリカンが経営しているカジノの事を書こうと思った。
クリックすると元のサイズで表示します一際目立つモヒガンサンのホテル
モヒガンサン内の案内図
クリックすると元のサイズで表示します

コネチカット州にあるカジノ…「モヒガンサン」は、ニューヨークから車で北へ約200キロ(2.5時間)、ボストンから150キロ(2時間弱)のコネチカット州にあるアメリカ先住民保護地区に建てられているカジノとホテル、ショッピングアーケードを持つモヒガン族が経営するカジノ施設である。アメリカの先住民達は、コロンブスがアメリカ大陸を発見して以来アメリカ建国に至るまで、侵略して来たヨーロッパの人達から土地、住居、物資、そして人権や生命までを奪い取られてきたという悲しい歴史がある。そこで米国政府は、一般のアメリカ市民を規制する法律を超越した扱いとして、自治権を与え、先住民独自の生活習慣やルールを認めており、先住民居住区では、治外法権的な事が許されている。よって州法で「規制」されているゲーミングに関する法律にも、従わなくても良い事となっており、先住民達は、独自のゲーミング規制法を1988年に成立させ、各地でカジノを開いたという。先住民の部族数は、米国政府の認定によると562あり、大多数の人達が国内314ヶ所の居住区内に住んでいるそうだ。
クリックすると元のサイズで表示しますスロットルで楽しむ人達
車を賭けた?ゲームコーナー
クリックすると元のサイズで表示します

サンクスギビングは、殆どの会社やお店等も休日となり、途中の道路は空いていたが、「モヒガンサン」に着くと、大駐車場には車が所狭しと並んでいて、異次元のように思えた。更に中へ入ると、昼時という事もあり、通路も凄い人で混雑していた。奥に進むとスロットルマシンがタワーのように建ち並び、カードゲームやルーレットを行う台のコーナーが花びらのような円形に配置されていた。私にとって映像でしか見た事が無い世界だった。折角来たのでと食事の後、初めてスロットルの台に座ってみた。全ての台に於いて(ドルをプールして置けるカードもあるようだが)現金が使用可能で、台によって最低ラインが決められていた。連れて行ってくれたPangさんは、カードゲームに行ってしまった為、私は使用方法も解らず10ドル紙幣を投入すると、スイッチを押すだけで(レバーでもOKとなっている)ドラムが回転し始めた。画面を見ていると横や斜めの各ラインに賭ける金額を設定出来る事が判った。しかし方法も解らずに座るのは無謀者、私は20ドル使った時点で、他の人達の見学をする事にした。当たっている人をじっと観ていると、色々な仕掛けもあってかなり面白かった。
クリックすると元のサイズで表示します
滝とベネチュアングラスの塔クリックすると元のサイズで表示します

面白さが解った所で頑張れるとギャンブラーの素養充分なのだろうが、私は煙草の煙が目にしみたのと(禁煙コーナーは後で見つけた)、滞在時間が残り少なかった為、ベネチュアングラスで出来たオブジェのシンボルタワー?があるという滝「Taughhannick Falls」 へと、ショッピングモールを経由して向かった。因みに「モヒガンサン」には、中央のエントランスを挟んで、カジノが東側に森がテーマの「Casino Of The Earth」。西側には星がテーマになっているという「Casino Of The Sky」と2ヶ所あり、公式サイトによると総面積291000sq.feetで、350台のテーブル、6200台のマシンが設置されているそうだ。そしてカジノ部分の入場は21才以上限定で、各入り口で係りの人がチェックしている。託児所も完備で、とにかく広い…。Pangさんとはエントランスで待ち合わせていたが、戻れるか?少し不安だった。
クリックすると元のサイズで表示します中央にあるツリー型モニュメント
(一旦別になったPangさんとここで待ち合わせた)


ショッピングモールにも多くの人達が歩いていて、買い物を楽しんだり、各オブジェの前で写真撮影をしたりしていた。サンクスギビングという事で、キリスト教徒の人達は、自宅でターキーを食べ家族と過ごし外に出かける事は少ないらしい。この日は、そのせいもあってか?アジア系の人達が80%を占めていたように感じた。中はレストラン街も充実しており、食事も美味しかった。モヒガンサンはカジノを見学したり、モール内でショッピング、そして彼方此方のオブジェを見学しているだけでも充分楽しめるが、やはり「カジノで遊ぶ!」と決めて隣接したホテルをとり、時間をかけて訪れるのが一番良いのでは?と思った。尚、アメリカに於ける先住民を「インディアン」と呼ぶのは、コロンブスが南米の諸島を東インド諸島と間違えていた事に由来するという。此方では「先住民」または「ネイディブ・アメリカン」と記した。
 
※以下は「モヒガンサン」のクリスマスイルミネーション
クリックすると元のサイズで表示します 「Casino Of The Earth」にある櫓。
レストラン街の熊とツリークリックすると元のサイズで表示します
クリックすると元のサイズで表示しますショッピングモール
モールを2階から撮影クリックすると元のサイズで表示します
イルミネーション部分の拡大
クリックすると元のサイズで表示します
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2007/11/23

ボストン美術館No4…印象派の影響を受けたアメリカ絵画T  ボストンの思い出

ボストン美術館のアメリカ絵画に分類される絵の中で、私はジョン・シンガー・サージェントの絵…「エドワード・ダーリー・ボイドの娘達」(1882年)が、脳裏に焼きついて離れなかった。この絵は2007年春、名古屋ボストン美術館に「アメリカ絵画-子供の世界」という題目で来日しており、私は今回、この絵と海を越えて再会する形となった。サージェントの絵は、アメリカ絵画に分類されているものの、サージェント自身は、1856年イタリアで生まれ、少年時代をフィレンチェで過ごしている(両親の国籍がアメリカ)。12歳から絵を学び始め、14才でフィレンツェのアカデミア・デッレ・ベッレ・アルティに通い、1874年には18才で官立美術学校に入って学んだ。
クリックすると元のサイズで表示しますエドワード・ダーリー・ボイドの娘達
[221.9×222.6cm] (※写真は全てクリックで拡大)


やがてサージェントは、1877年パリのサロン(官展)に出品し、一躍脚光を浴びる事となるが、1884年に出品した『マダムX』という実物大の肖像画(メトロポリタン美術館蔵)が、当時にしては肌の露出が多く官能的で、実在の女性…ゴートロー夫人と明らかに酷似していた為に(実はサージェントが、夫人にモデルを頼み込んで描き、「マダムX」として名前を伏せていた)、一大スキャンダルとなり、翌年パリを離れてロンドンに移り住んだ。しかしその実力は群を抜いており、ロンドンでも肖像画家としての地位を得ると、ロイヤル・アカデミーに出品、1897年には同アカデミー正会員となった。そして1891年、ボストン公共図書館の壁画制作にと白羽の矢が立った。この仕事の為にボストンとロンドンを行き来しながら活動をしていたサージェントは、更に1916年、ボストン美術館移転の際、建物のロトンダ(円形大ホール)の吹き抜けの天井絵を任される。サージェントは、この天井絵をギリシャ、ローマ神話等から想を得て描くと共に、装飾のレリーフを含めるロトンダの空間全体の設計に携わった。
ロトンダの天井絵  クリックすると元のサイズで表示します

さて、時間が前後するが、本題の絵…「エドワード・ダーリー・ボイドの娘達」は、サージェントが若干26才の時に描いている。19世紀当時に描かれた家族の肖像画の多くは、子供達皆が対等な位置にいて、両親と共に座っていたり、遊んでいる姿が描かれていたが、この絵は、そのセオリーとは違い、意図的に異なる技法でボイドの4人の娘達の持つ、個々に独立した個性を強調している。まず、向かって右前方に立っているのが、この絵の主役のような8才のメアリー、少し後ろにいる2人の姉、12才のジェーンと14才のフローレンス。この姉2人は部屋の後部に立ち、まるで召使のように控えているように見える。そして床に座っている末っ子のジュリア(4才)。ジュリアはこの絵の中で唯一の玩具である人形を抱いて無邪気な表情をしている。このように等しい重要度でモデル達を描くという慣例が破られ、姉妹それぞれの個性を強く表して描かれている。※以下は姉妹それぞれの拡大写真(部分)

クリックすると元のサイズで表示します ←三女、メアリー。

次女ジェーンと長女フローレンスクリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します ←末っ子のジュリア。

この作品は、例の「マダムX」出品の前年…1883年のサロンで、大変な注目を浴びた作品で、批評家の間では、過去に例のない構図と少女達の笑顔がない表情に、賛否両論ではあったが、パリの日刊紙「ルヴュー・デ・ドゥ・モンド」は『作品に潜む心理的な不可解…観る者に家族間の関係について疑問を呈している事…を上手く表現している』と絶賛した。またサージェントは、ピアノを弾いたりして、子供達の機嫌を損ねる事なく肖像画を描き続けた。更にサージェントは、1980年代中頃から、モネの住むジヴェルニーを訪ね、1885年、モネをモデルにした「木の脇で写生するクロード・モネ」という作品も描いている。
絵の中にある有田焼きの壷 クリックすると元のサイズで表示します
(実物の写真…江戸後期〜明治初期作成)


一般的には、上流階級の人達を描いた肖像画家として、知名度が高いサージェントだが、1907年頃から肖像画の注文を一切断り、晩年はボストン美術館のロトンダ製作に携わる傍ら、水彩で風景画を描いていたという。サージェントは、アメリカの画家達に印象派の技法を伝える共に、絵画コレクターの良きアドバイザーとしても活躍した。更に前記したロダンダの設計と、展示してある自らの絵画で、ボストン美術館、そしてアメリカ絵画の発展に大きく貢献していると言えよう。   ※最後は問題となった[マダムX」の絵(メトロポリタン美術館蔵)
クリックすると元のサイズで表示しますマダムX(ゴートロー夫人)1884年
[208.6 x 109.9 cm]…思わず息を呑んでしまう程の美しさである。
サージェントが、生涯唯一依頼ではなく、自らモデルに頼み込んで描いた作品だったという。

John Singer Sargent's Galleryより引用→http://www.jssgallery.org/
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2007/11/21

ボストン美術館No3…クロード・モネ「ラ・ジャポネーズ他」  ボストンの思い出

ボストン美術館に設けられた印象派の部屋…その中でも、一際人目を引いて目立っている絵が、モネがカミーユ婦人に日本の着物(打ちかけ)を着せて1875年に描いた「ラ・ジャポネーズ」(副題:和装のモネ夫人)である。この絵は縦2メートル50センチもあるカンヴァスに、カミーユ婦人を等身大の大きさで描き、モネが如何に日本好きだったか!を象徴する絵でもある。1867年開催のパリ万国博覧会に、日本から出品された浮世絵に魅せられたモネは、晩年を過ごしたジヴェルニーに「私の最高の作品」とモネ自身がこよなく愛した日本庭園を造り、池には睡蓮を咲かせた。そして現在もジヴェルニーのモネの家には、浮世絵が飾られているという。
クリックすると元のサイズで表示しますラ・ジャポネーズ(クリックで拡大)

浮世絵の影響で「ラ・ジャポネーズ」の小道具にもこだわりが見られる。床に敷かれた畳地の上に並べられた2枚の団扇と、壁に飾られた団扇には、浮世絵や日本画が描かれていて興味深い。打ち掛けも、奇抜な侍の刺繍柄から、当時浮世絵に描かれた芝居衣装だと思われる。ポーズは、切手でも有名な菱川師宣の「見返り美人」の影響を受けている。また、反対にカミーユ婦人には、本来黒髪だったにも関わらず、金髪のウィッグをかぶせ、手に持った扇子には、フランス国旗を示す3色を使った虹のような絵が描かれていて、初めは何となく違和感を感じるが、このミスマッチも暫く観ていると、違和感が消え、東洋と西洋が調和しているように見えて来るから不思議である。

「光の画家」と呼ばれたモネは、風景画が多く、人物画は多くないが、カミーユ婦人を描いた作品等、何作か残している。しかしながら今日では印象派の巨匠とされているモネも、カミーユ婦人と過ごした新婚時代は絵が売れない時代であった。その当時絵画は屋外で景色を描くという概念がなく、生計の為に人物を取り入れた作品を描かねばならなかったという裏事情があったという。今では代名詞ともなった「印象-日の出」でさえ、色と色の境目の隙間や、形がはっきりしない筆使いは、嘲笑の的となっていたのである。そんな時代背景の中、生まれたのが、カミーユをモデルにした「緑衣の女」(ブレーメン美術館蔵)であり「ラ・ジャボネーズ」であった。「ラ・ジャボネーズ」は、 1876年開催の第2回印象派展で、2000フランという高値がついたという。しかし、モネの描きたいテーマはあくまでも「外界の光」だった。
振り返る笑顔のカミーユクリックすると元のサイズで表示します 

元々病弱だったカミーユ婦人は「ラ・ジャポネーズ」完成の3年後に、2人の子供を置いて亡くなった。その後のモネは数少ない理解者の援助を受け、旅をしながら光を取り込んだ風景画を描き続けた。中でも「積みわら」「ポプラ」「ルーアン大聖堂」は、光によって刻々と色を変える同じ景色を、連作で描いた事で知られている。モネは、この連作を契機に長い不遇から抜け出し、印象派としての成功をおさめたという。この時モネは既に50歳になっていた。
夕暮れの積みわら(1891年)クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します朝のルーアン大聖堂(1924年)

夕暮れのポプラ並木(1891年)クリックすると元のサイズで表示します

★インクスタンド(1876年 フランス製)
Paul Legrandデザイン Frederic Boucheron製作
1876年に開催された印象派展で、モネの「ラ・ジャポネーズ」の傍に展示されていた。銀製の土台に、エナメルや金を使用し、七宝焼きのような技法で細かく模様が描かれ、ジャポニズムを強く意識した作品である。
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インクスタンド側面
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※クロード・モネ (1840年パリ生まれ)
ウジェーヌ・ブーダンとの出会いが「光の画家」としてモネの方向を決定づけた。1859年ピサロと知り合い、1862年グレールのアトリエにて、ルノワール、シスレーらと親交を結んだ。1874年第1回印象派展に「印象−日の出」を出品。当時中傷の的となったが、皮肉にもこの作品が「印象派」という名称の由来となる。1890年にジヴェルニーに移り住み、以降1926年に没するまで、ジヴェルニーで製作を続けた。終生印象主義の技法を追求、貫き通した最も典型的な印象派の画家である。


以下、晩年描き続けたモネの代表作…『睡蓮』の2作品
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睡蓮(1905年)↑→クリックすると元のサイズで表示します

睡蓮の絵は、水の広がりが無限に見えるように暗示する為、わざと睡蓮を途中で切れるように描いている。モネはしばしばこの形のカンヴァスを使用し、睡蓮と池、睡蓮の葉と花、光をすい汲む水面と反射する水面のコントラストを駆使して構図を作ったという。


※トラックバックは
「スピンさんの欧州便りNo11…晩年のモネが過したジヴェルニー」と、
「スピンさんの欧州便りNo10…モネのオランジェリー美術館」
…モネの庭や睡蓮の大作など貴重な写真が載っています。
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2007/11/20

ボストン美術館No2…ビゲローコレクション(北斎、豊国他)  ボストンの思い出

ボストン美術館で開催中の特別展…ビゲローコレクション、「江戸の誘惑」(Drama and Desaia)は、連日多くの人が訪れており、週末は特に混み合っているという。幻のコレクションとまで呼ばれていた、ビゲローコレクション…私は、葛飾北斎の肉筆をそして、浮世絵をじっくり見てみたいと思い立ち、木枯らしが吹き始めた平日の寒い午後、再びボストン美術館を訪れた。美術館に着いた私は、名古屋ボストン美術館の会員証を提示し、無料チケットを手にすると、真っ直ぐに「江戸の誘惑」(Drama and Desaia)コーナーへと向かった。カメラを片手に急ぎ足で歩く私の姿から、何人かの人に報道関係の人と間違えられたり、道順を聞かれたりした。いつもの事ながら方向感覚だけは悪くない私は、黙って歩いていると地元に住んでいるように見えるらしい。以下「江戸の誘惑」(drama and Desire)に展示されていた作品の写真を一部掲載する。
(写真はクリックで全て拡大)
クリックすると元のサイズで表示します「Drama and Desaia」の垂れ幕

★「鳳凰図屏風」(phoenix)葛飾北斎(1835)
金箔の背景に鳳凰を描いた華麗な作風の屏風で、その色鮮やかさは、北斎の色彩感覚の鋭さを表している。北斎芸術が集約された傑作作品だと言える。
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「鳳凰図屏風」中央拡大クリックすると元のサイズで表示します

★「鏡面美人図」葛飾北斎(1805)
江戸時代の女性の後姿を描いた作品。黒塗りの蒔絵らしい鏡台に姿を写して髪の結い上げ具合を確かめている。この女性の立ち姿…腰を前に出して弓なりのように身を反らした形に描く技法は北斎特有のものだという。着物の柄、髪の毛など詳細に美しく描かれている。
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「鏡面美人図」拡大写真クリックすると元のサイズで表示します

★「薪を運ぶ大原女」葛飾北斎(1804〜1818)
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大原女の拡大写真クリックすると元のサイズで表示します

★「提灯絵 龍蛇」葛飾北斎(1804〜1818)
「提灯絵 龍虎」と共に提灯に墨で描かれた迫力ある作品。
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★「三代目中村歌右衛門」歌川豊信(1812 )
三代目中村歌右衛門は、初代歌右衛門の実子で「梅玉歌右衛門」とも呼ばれていた。 三代歌右衛門は、敵役・立役・女形をも見事に演じる「兼ル役者」として絶大な人気を誇り、文字通りの千両役者であった。通常、女形を演じる役者は幼少より女性らしく振る舞う努力を積み重ねて、やっと一人前になると言われているが、三代目は男らしくも、女らしくも演じきった。この絵は、歌右衛門が江戸から上方へ上がる時、熱烈なファン1人が豊国に依頼して、その面影を写させた作品だろう…と推測されている。
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★「芝居町・遊里図屏風」菱川師宣(1684〜1704)
浮世絵の開祖とも言われ、『見返り美人』で有名な菱川師宣の、数少ない肉筆の代表作。江戸の「芝居小屋」と「遊郭」を、六曲屏風の左右に描き分けられている。
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「芝居町・遊里図屏風」一部拡大
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◎私はプレスさんと間違えられたのか?全く注意を受けなかったのですが、
特別展だけは、撮影禁止だそうですので、悪しからずご了承下さい。

※トラックバックはボストン美術館No1…葛飾北斎の肉筆…ビゲローコレクションより 
(ウイリアムス・スターシス・ビゲローについてと北斎の肉筆画)
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2007/11/13

ボストン美術館No1…葛飾北斎の肉筆…ビゲローコレクションより  ボストンの思い出

ボストンを訪れる度に、必ず1度は足を運んで来たボストン美術館…。私は勿論、モネを始めとする印象派の絵を間近で眺められるのも、1つの楽しみではあったが、ボストン美術館に所蔵されている膨大な日本の美術品にも惹かれるものがあり、その品質の高さに驚かされていた。私は今回の渡米で、この日本及び中国を始めとするアジアの美術品収集に尽力した人物達…岡倉天心(覚三)、エドワード・シルベスター・モース、アーネスト・フランシスコ・フェノロサ、ウイリアムス・スターシス・ビゲローらについて、紹介された本などを読み、彼らが魅せられた日本美術を紹介しながら書き記そうと思っていた。名古屋ボストン美術館のメンバーシップを持っている私は、今更だが、そのカードでボストン美術館への入館料が無料だと知ると(念の為、名古屋ボストン美術館に問い合わせた所、初の問い合わせだったそうで驚いたが)、時間を見つけては、何度か行ってみようと決めていた。
クリックすると元のサイズで表示します ボストン美術館正面
(ハンチントン通りより、2007年7月撮影)


木立の紅葉も終わりを迎えようとしている11月中旬の週末に、ボストン美術館を訪れると、玄関には長蛇の列が出来ており、初めは特設開催の「ナポレオン展」が人気で混んでいるのかと思っていた。チケット売り場に並び「名古屋ボストン美術館」のメンバーシップカードを提示すると、何と私と友人の分、2枚のチケットが用意され、パスポートの提示は必要なく特別扱いのような優遇で驚いた。(尚、ボストン美術館は入場料が大人17ドル必要だが、その半券で10日間は無料で入館可能だそうだ)。私は早速、日本美術のコーナーへと向かった。初めに目に入って来たのが「相撲の浮世絵」だった。このコーナーも各展示品の前に人だかりが出来ており、かなりの人気ぶりだった。その後「江戸の誘惑」という看板に導かれて入ってみると、そこには私が浮世絵=版画だと印象付けられていた私のイメージを、打ち破るような作品が展示されており、大きな衝撃を受けた。中でも「朱鍾馗図幟」と呼ばれる葛飾北斎の肉筆の絵の前では、身動きが出来なくなる程であった。…と同時に必見すべきは、このコーナーであると確信した。
「朱鍾馗図幟」北斎(1805) クリックすると元のサイズで表示します

解説によると「朱鍾馗図幟」は、縦230センチを超える麻地の幟(のぼり)旗に中国で疫病を防ぐ鬼神と伝わる鍾馗(しょうき)様の立ち姿が、朱色で力強く描かれており、端午の節句に鯉のぼりと一緒に掲げられた品だそうだ。北斎の肉筆の中では最大の幟絵で、ボストンの浮世絵コレクションの中でも、最重要作品の1つだという。呆然としたままの私の目に、次に入ってきた作品は、同じく北斎が縮緬の袱紗に描いた「唐獅子図」で、円の中に墨で描かれた1頭の唐獅子と、枠の外に埋め込まれるように描かれた牡丹の花の鮮やかさが対照的で、時間が経つのを忘れて見入ってしまった。更に真ん中に置かれた提灯には、龍と虎の戦いが描かれていた。北斎といえば「富嶽三十六景」が最も有名で、富士を臨む各地の景色には、西洋画の遠近法等も取り入れられていると言われているが、これら民衆の生活に根付いた作品は、北斎の作品の中でも極めて珍しく、日本にあれば国宝級の作品だと思われる。このコーナーでは、立ち止まってじっくりと観ている人や、メモを取る人も多く、大盛況であり、アメリカに於いて「浮世絵」の人気ぶりが伺えた。
クリックすると元のサイズで表示します 「唐獅子図」北斎(1844)

さて「江戸の誘惑」コーナーに展示されている作品は、全てウイリアムス・スターシス・ビゲローが収集したコレクションである。ビゲローの職業は本来、医師で、モースの導きにより1882年(明治15年)に初来日、日本美術に魅せられて東京に居を構え、モースやフェノロサと共に日本美術品収集の旅をした。更に貧しい日本画家を経済的に援助したり、奈良地方の宝物保存の為の融資を引き受けたりしたそうだ。岡倉天心による日本美術院(横山大観、下村観山ら卒)創設時にも、2万円(現在の金銭価値にして約2000万円)の寄付をして援助している。約7年間の日本滞在中に収集したコレクションは、浮世絵を始め様々な流派の絵画、刀剣、刀装具類、染織品、漆器、彫刻等、広い分野に渡り、その数は約41,000点にも上るという。ビゲローが集めたコレクションは、1つ残らずボストン美術館に寄贈され保管されている。明治維新の開国とともに、西洋化の一途を辿る日本に於いて、軽んじられがちだった日本の美術を再び見出し、収集したビゲローは、貴重な日本の伝統文化を美しく保存してくれた人物の1人として…現代を生きる私達日本人が、手を合わせ感謝するべきだと言えよう。

尚、私は「浮世絵」が今まで余り好きではなく見逃していたが、昨年(2006年)、これらビゲローコレクションは同題目として、110年ぶりに日本へ里帰りしている(神戸、名古屋、東京で展示)。それまで長期に渡ってビゲローの遺志で、門外不出を執り、その数の多さゆえ謎に包まれたままとなっていたが、1997年に日本からボストンへと研究員による調査団が送られ、初めて陽の目を見た作品も多くあったそうである。これらを代表とするビゲローの700点に及ぶ肉筆画のコレクションは、版画とは異なって注文によって特別に描かれた「特注品」の1点物であり、その価値は、到底計り知る事が出来ない…。
「提灯絵 龍虎」北斎(1804〜1818)クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します「鏡面美人図」北斎(1805)

「Li bai admiring a waterfall」クリックすると元のサイズで表示します
北斎(1849) ※(写真は全てクリックで拡大)


※SELEBRETE JAPAN AT THE MFA
2008年2月10日まで、ボストン美術館にて開催
ボストン美術館公式HP →http://www.mfa.org/
★またボストン美術館では「walk this way」と題し、
各時代、各国の様々な形式の『靴』が、会場の彼方此方に展示されていた。
その中で、2007年を代表する靴として、
レッドソックス、松坂大輔使用のナイキ製スパイクも展示されている。

◎参考
「岡倉天心とボストン美術館」…名古屋ボストン美術館発行
「岡倉天心物語」…新井恵美子著
「江戸の誘惑」…朝日新聞社HP

◎私はプレスさんと間違えられたのか?全く注意を受けなかったのですが、
特別展だけは、撮影禁止だそうですので、悪しからずご了承下さい。
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2006/10/11

人体のプラスティネーション標本(ボディ・ワールド)を観て…。  ボストンの思い出

ボストンのサイエンス・ミュージアムでボディ・ワールド2の展示がされていると、中国人の友達から聞いた私は観たくなり、まず、9月30日の土曜日、野球観戦の前に時間を作って地下鉄で出かけた。あの日は小雨が降っていて、フェンウェイ球場で投げる予定のウェイク・フィールドにとっては、変化球・ナックルボールの為にも、何としても雨は上がって欲しかった。サイエンス・ミュージアムに着いたのは、午後4時近くで、チケット売り場のお兄さんに聞いた所、昼の部の時間は、24ドル支払っても5時までで終了、残り時間が僅かしかなく、ナイター営業の方が16ドルで安い…との事。結局、この日は入場を諦め軽食を摂って野球場へ向う事にした。駅に着く頃に雨は上がっていた。今季のレッドソックスの試合も残す所後2試合となり、週末だという事もあって、チケット入手は無理だった。それでも並んでいる時に、可愛い少年とお兄ちゃんのご家族に会えて楽しい時間を過す事が出来た。
クリックすると元のサイズで表示します サイエンス・ミュージアムの外観。

ボディ・ワールドへは、入り口を観ただけで、ますます観たいという思いがこみ上げて来て、翌日の夕方に再び出かける事にした。プラスティネーション技術…その言葉は、3年前の2003年、看護学校の教師をしている友達が教えてくれた言葉で、日本でも(規模は小さかったらしいが)その展示会が開催されていた。プラスティネーションとは、ドイツの解剖学博士、フォン・ハーゲンス氏が、人間の体の全てを、体液をプラスチックに差し替えるという新しい技術で保存し、臓器、筋肉、神経、血管などを展示。更にプラスチック化させた人体を縦・横にスライスした状態で展示している。病変化した臓器もあって、有り難い事に医師である友人と出かけた私は、解説付きで非常に解りやすかった。私は父が軽い脳梗塞を患って、CTスキャンやMRI(磁器共鳴装置)の画像を見た事があるが、スライスされた脳を観て、更に解り易いと思った。
ボディ・ワールドへの入り口。 クリックすると元のサイズで表示します

このプラスティネーションによる標本を一般公開するについては、賛否両論あったようだが、本来は医療の場という特定の世界でしか知り得ない『人体解剖標本』を私達が目にする事によって、人間の体の構造や仕組みを知り得る事が出来る。私も話を聞いた当初は「気持ち悪い」と、出かけるのを躊躇ったが、実際観て見ると自分の体の事なので、大変興味深く観る事が出来た。繊細で巧妙に出来ている体の仕組み…私は、命の大切さ、神秘さを改めて教えられたようで、神聖な気持になれた。展示会場には、皮を剥がれて筋肉や骨が丸出しになった状態で、様々なスポーツをしているポーズが取られた標本もあったが、それは芸術感覚が強い感じがして、どの筋肉を主に使っているかは判り易いが、神聖な気持になった他の展示物とは、異次元の物のような気がした。

最も印象的だったのは、肺の標本で、健康な肺、喫煙者の肺、そして炭鉱夫の肺と比較されて並べられていた。まずタバコを1日20本20年間吸った人の肺は、健康な肺と比べると、組織の中に黒いタールが蓄積しており萎縮していた。更に炭鉱夫の肺(黒色肺、塵肺)は、真っ黒でまた小さかった。石炭の粉塵は、肺の細気管支を取り巻くように蓄積する為、呼吸に支障を来たすようになるという。そして何より怖いのは、治療方法が無いという事だった。現在、炭鉱は減少し、黒色肺は減ってきたようだが、反対にアスベストなどの化学物質による塵肺症が増えているらしい。治療不可能なので、何より予防する事が大切だと痛感した。そして、次に心に残ったのは、関節の仕組みだった。人工関節の技術が進み、代替が入れられた標本もあったが、どれだけ科学の技術が進んでも、限りなく人の関節(特に手指)に近づくのは、かなり困難だと思った。
クリックすると元のサイズで表示します 15分毎に区切って入場できる。

さて、私が特別、筋肉や関節に興味引かれたのは、左膝を手術しているせいもあるが、実は、観る直前にこのミュージアムの近くの交差点で、事故に遭ったせいもあった。横断歩道がある五差路で、歩行者用の信号は青だったが、私の前に渡る人が居なかった為、中央分離帯側の車は、信号無視して走って行ってしまった。すると手前、歩道側に停止していた車もつられて発進。渡ろうとした私は咄嗟に左手を車のボンネットに着き、跳び箱のような感じで、ボンネットに腰掛ける形となった。お陰でバンパーが当たった左足の部分も殆ど痛みを感じなかった。
この交差点で事故に遭ったクリックすると元のサイズで表示します
よく見ると州警察の前…歩道側(赤い車の位置)の車に当てられた。

車が動き出したのも、当事者の私にとっては、スロービデオで観ているような感覚だったが、驚いたのは、直ぐ後ろに居た友人と、運転していた男性、そして助手席のその人の奥さんだった。奥さんは、ご主人に向って怒鳴っていた。私は青の歩行者用信号を指差し、へらへらとしていたが、一部始終を見た友人は、肝を冷やし「寿命が縮む思いだった」と言っていた。友人は日本の医師なので、すぐ診立ててくれたが、異常は無かった。私は運が良かった。しかしこの事を機に、自ら充分気をつけようと心に誓った。ボディ・ワールドを観ながら、あの時、手や足の関節が壊れなくて良かったとしみじみ思った。
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