2006/6/5

W杯まで後4日…ブラジル・強さの秘密(アドリアーノ)  サッカー&ワールドカップ・ドイツ大会

サッカーワールドカップ、ドイツ大会…。その優勝候補として最も注目されているのが、ブラジルチームのセレソン(ブラジル代表の愛称)達である。そのメンバーの中で、先に足技の宝庫…「ロナウジーニョ」について書いた。しかしながら、ブラジルの強さは、1人の選手の突出した技術だけでなく、FWの選手だけでも、秀でた選手が既に5人揃って居り、監督も誰を先発として選ぶか?嬉しい悲鳴をあげているようだ。その布陣の発表は、13日の対クロアチア戦まで封印されたままでいる。そんな中、「全国民が代表監督」と言われる程に、老若男女がサッカー通のブラジル…。サンパウロ市内で「自分なら誰を出場させるか?」とNHKの番組がアンケートを取った所、何と前回のW杯、得点王の怪物・ロナウドでさえ、控えにまわすという人が多かったという。
クリックすると元のサイズで表示します 「オルデン・エ・プログレソ」・多民族の秩序と進歩を表す国旗。

それは、昨年、W杯の前哨戦として開催されたコンフェデレーションカップで、ロナウドを欠いたまま、優勝した実績にも裏付けされている。そのコンフェデ杯で大活躍し、ブラジルを優勝に導いたFWの4人を地元では「カルテット・マジコ」(4人の魔術師)と呼んで讃えた。ブラジルでは、過去、W杯スペイン大会で活躍した、ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾを黄金の4人と呼んだそうだが、その4人を上回る技術と評されている。その「カルテット・マジコ」の4人とは、まず、ロナウジーニョ、そして前回大会では補欠で参加し1試合に出場した貴公子、カカー。チーム最年少でドリブルの名手、ロビーニョ、重戦車と呼ばれる体格を誇る、アドリアーノである。先日、NHK、BSで放送された特集番組を観ながら、その「カルテット・マジコ」の選手達の事を書いてみようと思った。(ロナウジーニョについては先に書いた為あえて割愛する)。
クリックすると元のサイズで表示します ボールで遊ぶアドリアーノ(左)と
ロナウジーニョ(右)。


さて、コンフェデ杯で、ロナウドに代わって得点王となり、最優秀選手賞に選ばれたのが、アドリアーノ・レイテ・リベイロこと、アドリアーノであった。アドリアーノは、リオレジャネイロでも極貧の街、ファベーラで生まれ育った。ファベーラは、貧困ゆえ麻薬に手を出し、ギャングの手下となって売人となる若者が後を絶たない街である。アドリアーノの父、アウミールさんは、そんな子供達が犯罪に手を染めない為には、夢中になるスポーツが必要だ…と、地元の人達と協力して、サッカーグランドになる空き地を整備した。更に自らコーチとして子供達にサッカーを教え、試合では審判を務めたりしていた。そんな環境下でアドリアーノは、既に2才からボールで遊び始め、効き足の左でボールを蹴っている写真が残されていた。アウミールさんはそのグランドを、「ファベーラから、ブラジルサッカーを背負って立つ選手が育つように…」と願いを込めて、ブラジル国旗にも記されている言葉から取って『ordem e progresso 』(秩序と進歩の意)と名付けていた。

そんなアミウールさんの努力の甲斐があって、アドリアーノは、7才の時、プロのサッカーチーム、かつてジーコも所属していたというフラメンゴの傘下である、サッカースクールに入る事が出来た。アドリアーノは、ここで初めて、裸足ではなく靴を履いてプレーする事となった。しかし、その3年後、アドリアーノが10才の時、アウミールさんに悲劇が襲った。街で起きた警察とギャングの抗争の銃撃戦に巻き込まれ、被弾し一命は取り留めるものの、一家の大黒柱としては2度と働く事が出来なくなったしまったのだ。アドリアーノの母、ロシウラさんは、家事を祖母のバンダーさんに任せ、清掃業として働きに出る傍ら、屋台でお菓子等を売って生計を立て、アドリアーノがサッカーを続けられる為に労苦をいとわず働き続けた。家族の誰もが口に出来なくても、アドリアーノには、お肉を食べさせていたという。 

重戦車の異名をとるアドリアーノ(青) クリックすると元のサイズで表示します

アドリアーノは、家族と街の人々の期待を担い、フラメンゴチームで活躍し続けた。初めは、体格を買われてDFを務めていたが、15才の頃から左足のキック力を認められFWに転向後は得点に絡む大活躍をし、19才でスカウトの目に留まって、セリエAのFCインテルへ入団した。その後ACパルマに移籍し、アドリアン・ムトゥ、中田英寿選手らと共に前線を形成し、得点を量産した。現在はFCインテルでプレーしているが、レアル・マドリッドがスカウトの手を伸ばしているらしい。アドリアーノは、189cmの身長を生かした高さのあるヘディングと、まるでラグビー選手のような突進力を武器にし、スピード、パワー、全てを兼ね備えた世界初の全能のFWとしてW杯のピッチに立つ。ファベーラ地区初のブラジル代表選手…アドリアーノは、亡き父の夢を乗せて、ドイツの皇帝、ベッケンバウアー氏が大会委員長を務めるその地で、ブラジルでの通称…「インペラトーレ=皇帝」の名を、ヨーロッパの人々にも、いや世界中に認めさせる瞬間が、きっとまもなく訪れると信じている。

(ロビーニョとカカーについては、明日書く予定です)

◎参考
NHK BS 特集 『ブラジル 攻撃サッカーで2連覇を目指す』より

◎当ブログ内「フットボールジャグラー、ロナウジーニョ」の記事
http://diary.jp.aol.com/hotarudesu/332.html</a>

◎こひ〜さんのブログ…ブラジル優勝を占う「3964の法則」について。

http://blog.livedoor.jp/kohhy_pajero/archives/50681675.html
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2006/6/4

サッカーW杯まで5日…「ナカタドットネットカフェ」に思うこと  サッカー&ワールドカップ・ドイツ大会

東京の北青山、紀伊国屋跡地に、4月26日から期間限定でオープンしているという、「ナカタドットネットカフェ」……。ワールドカップ開幕当日の9日午後には、開幕記念のイベントが企画されているそうだ。大会のマスコットゴレオ君のDVDで、吹き替えの声を担当した、イタリア人タレント、パンツエッタ・ジローラモ氏と、元日本代表で、サッカージャーナリストの武田修宏氏が来店し、開会を宣言、その後、今大会の見所や注目選手、優勝の行方予想、日本チームへの思い等を語る。このカフェには、東芝の最新技術を駆使した47インチ液晶TV「REGZA」や、HD DVDプレーヤー」を多数設置し、カフェを訪れた人が、日本に居ながらにして、大会の臨場感を味わえるように様々な思考が凝らしてある。
クリックすると元のサイズで表示します ドイツ大会のマスコット……
「ゴレオ6世」とボールの「ピレ」


また、開幕日のその液晶大画面では、アメリカ、フランス、スイス、スペイン出身のボーカルユニット「イル・ティーヴォ」が歌う、今大会の公式ソング「タイム・オブ・アワ・ライブス」のプロモーションビデオも流される。このビデオには、往年の選手の名場面も収録されており、サッカーファンには堪らない貴重な映像のようだ。更に、2002年にも営業した際、同カフェで好評だったインターネットコーナーでは、東芝のAVノートPC「Qosmio」(コスミオ)10台が設置され、ネットでの情報収集や、地方に居る仲間とのライブチャットなども楽しめるという。

サッカー・ワールドカップは、開催国のドイツの各競技場で観戦するサポーターファンの他に、全世界で述べ300億人(中日新聞による)以上の人が、テレビ観戦すると言われている。私も寝不足になりながら、きっと自宅でテレビ観戦する1人となるだろう。更に放映されない国や地域では、インターネット上で、試合を追いかける人々も多いと思われる。そして、野球のWBCの時から既に注目されて来ているスポーツバーに出かけ、仲間と共に観戦する人も増えると予想されている。「ナカタドットカフェ」は、そんなスポーツバーに集う日本のサッカーファン達の聖地のような存在となるようだ。いよいよ5日後、1ヵ月に及ぶ世紀の祭典…「ワールドカップ」が開幕する。スポーツ観戦が大好きな私にとって、開幕が近づき気持が盛り上がって来ると、やはり、オリンピックと同じように、どんなドラマが生まれるのか?と高鳴る胸の鼓動が抑えられず、今からドキドキ、ワクワク、ときめいている。

★東芝のホームページ内で詳細が紹介されている
  「ナカタドットネットカフェ」

http://www.toshiba.co.jp/soccer/nakata_j/index_j.htm

★中田英寿選手・オフィシャルホームページ
http://www.nakata.net/jp/

◎お願い!
アメリカで暮らしている方々にとっては、W杯のテレビ観戦が、かなり厳しいようです。
リアルタイムに、ネットで動画を配信しているサイトをご存知の方…(有料でも可)
おいでになられましたら、御手数ですが、コメント頂くか、
メールを頂けると嬉しいです。どうぞ宜しくお願い致します。

★ボストン在住Yさんより頂いた情報です。ありがとうございました。
スポーツ専用チャンネル「ESPN」で全試合放映するとの事です。
アメリカ在住の方々は、以下のHPをご参照下さい。
http://soccernet.espn.go.com/worldcup/
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2006/6/3

サッカーW杯まで1週間…日本チーム・ジーコ監督に思う事  サッカー&ワールドカップ・ドイツ大会

ワールドカップドイツ大会まで、後一週間を切った。ベルリンでは、W杯の展示館「サッカー・グローブ(地球儀の意)」が、最終展示場所のブランデンブルク門前に開館した。2003年10月からミュンヘンなどW杯ドイツ大会の開催12都市を巡回し見学者は延べ74万人に昇った。このグローブは、2F建てで、高さ15メートル、重さ60トンあるという。2002年W杯、ドイツ代表GKカーンの手袋などを展示してあるそうだ。決勝戦が行われる7月9日まで公開される。日本代表は、怪我の為帰国した田中選手に代わって、急遽召集がかかった茂庭選手も合流し、大雨の中で、ジーコ監督の見守られながら、ランニングやダッシュ等、身体的(フィジカル)強化に取り組んだようだ。
クリックすると元のサイズで表示します ベルリン会場の「サッカーグローブ」

ドイツでは、ここ最近、天候が良くなく低温が続き、選手達の体調管理が懸念されている。テレビのニュースで流される雨天の映像に、ジーコ監督も風邪など引かれなければいいが…と思ってしまった。ジーコ監督…本名はアルトゥール・アントゥネス・コイングラ。愛称のアルトゥールジーニョ(やせっぽちの意)が、簡略化されて「ジーコ」と呼ばれるようになったそうだ。ブラジルのリオデジャネイロ市郊外に、6人兄弟の末っ子として生まれたジーコ監督は、6才まで母の母乳を飲んでいたような甘えん坊だったという。勝利の為なら、何の躊躇いもなく自分の意志を貫き通すジーコ監督にその面影すら微塵も感じない。一昨年、W杯に向けて、コーチ陣を整える際も、日本サッカー協会の川渕会長から、選手と意志の疎通がはかれる日本人コーチの入閣を提案されたが「外からガタガタ言われる程、集中できなくなる事はない」ときっぱり断った。サッカー選手としても、職人気質であったが、その頑固一徹な気質は、監督になってより一層強くなった気がする。

そんなジーコ監督は、現役時代、W杯に苦い思い出がある。1986年、メキシコ大会。ジーコ監督が選手として出場した最後の大会だった。準々決勝のフランス戦…膝の故障を抱えたまま、途中出場をしたが、勝ち越しの好機だったPKを外し、勝敗の責任を負う事となった。「(故障を抱えていても)国の為という周囲の圧力で出場したが、あのPKで自分のイメージを汚してしまった」。そう、振り返るからこそ、今回の代表メンバーの人選で、両足首の怪我でコンデションが良くない不動のエース、久保選手を外した事も納得できた。ジーコ監督は、そのトラウマと戦いながら38才で来日し、現役復帰と共に「鹿島アントラーズ」の前身「住友金属」に入団した。当時監督の鈴木氏の采配にも、注文をつけ、試合後は選手交代の意途など、しつこく尋ねて来たのだそうだ。
ジーコ監督と選手達(ドイツ・ボンにて) クリックすると元のサイズで表示します

Jリーグ開幕を翌月に控えた1993年、クロアチアとの練習試合で鹿島が1対8で大敗すると、自分の意志を通し抜き、自ら選んだ選手と新布陣を採用させ、結果チームをJリーグ創立年初優勝に導いた。当時の発言「私が監督だった」は、波紋をよんだが、勝利の為にと、貫いた信念に結果、誰にも文句を言わせなかった。そんなジーコ監督が日本チームの選手達に教えたのは、型にはまった組織プレーではなく、選手の個性を重んじ、自分で考えるサッカーだという。ジーコ監督は、私生活から流儀を重んじる。遠征先のホテルでは、旅装を解くと、持ち込んだ本や雑誌も、机の端に揃えて置かないと気がすまない。朝食のクッキーは1枚ずつ専用台に並べてから口に運ぶそうだ。そのこだわりを持った性格が監督としてのジーコにもよく表れている気がした。「肉体は騙せない」。ジーコ監督のトラウマから生まれた強い信念の元、例年より寒いドイツでの選手達の体調が気になる所だ。監督始め選手達が怪我をしないよう、病気にならないように…と祈りながら天候の回復を願っている。

因みに深夜のニュースでは、去る5月27日、マグニチュード(M)6クラスの地震に襲われたインドネシアのジャワ島で、家族や近所で助け合い、生活再建への一歩を踏み出す様子の中、避難している子供達が、1つのボールを追いかけてサッカーをしているシーンが報道された。子供達の表情には笑顔があった。スポーツは、時として夢と希望を与えてくれる。あの子供達は、W杯を観る事ができるのだろうか?是非、見せてあげたい…その為に、私が出来る事は無いだろうかと考えつつ、W杯に参加する全ての選手達が、怪我や病気にも見まわれず、ベストを尽くせるように…と、願ってやまない。


◎ジーコ監督 公式HP
http://sports.nifty.com/zico/

◎参考 中日新聞・中日スポーツ紙面より
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2006/5/29

サッカーW杯まで11日…ブラジル・ロナウジーニョの足技  サッカー&ワールドカップ・ドイツ大会

足技や頭、肩などを使ってまるで、曲芸師のようにボールをリフティングする選手を「フットボール・ジャグラー」と呼ぶそうだ。なるほど、ボールを自在に操る様は、ジャグリングのパフォーマンスに似ている。しかし、サッカーに於いてのフットボール・ジャグラーは、必ず目の前にいる敵をかわさなければ芸人の粋とは言われない。それが試合中、曲芸のような技を使って相手をかわしゴールまで決めてしまう選手が、今ブラジル選手の中に1人いる。その選手の名は、ロナウジーニョ…。2006年ワールドカップドイツ大会は、「フットボールジャグラー」ロナウジーニョの技を堪能する大会だとも言われている。ロナウジーニョの足技で最も有名なものが、NIKEのCMで見せている『エラシコ』という技だ。『エラシコ』とは、ポルトガル語で「輪ゴム・ゴム紐」という意味で、アウトサイドでボールを動かした方向へ行くと見せかけて、つられた相手を抜き去るという、フェイント技である。
クリックすると元のサイズで表示します 華麗な足技師・ロナウジーニョ。

『エラシコ』は、練習を重ねれば大体の選手が出来るようになるらしいが、試合で実際に通用させるのはとても難しいという。 『エラシコ』ばかりしていては、相手に読まれてしまうからだ。ロナウジーニョの『エラシコ』が有効に働くのは、彼の足技が豊富で、「インサイドフック」「アウトサイドフック」「クライフターン」を始め、ロナウジーニョが少年時代のフットサルで編み出した「シャペウ」(ポルトガル語で帽子の意)という大技など、何が飛び出すか?予想不可能である為に、相手は技を読みきれずどうしても引っかかってしまうそうだ。また、ロナウジーニョは、「ダブルタッチ」「ラボーナ」「マルセイユ・ルーレット」という技も巧みに使いこなし、相手を翻弄してしまう。正にブラジルが生んだ世界的にも著名なプレーヤー、ペレやジーコ、ガリンシャらのような伝説的プレーヤーの再来と言えるようだ。

ロナウジーニョ、本名ロナウド・デ・アシス・モレイラ(ロナウジーニョとは小さいロナウドという意)彼にも、ブラジルの多くの少年と同じように、1才の誕生日にはサッカーボールが贈られた。ロナウジーニョには、9才年上でかつてJリーグ、コンサドーレ札幌でもプレイした、ホベルト・ジ・アシス・モレイラという兄が居る。その兄のアシスは、ロナウジーニョにとって、尊敬するプレーヤーであり、大親友でもありライバルだった。特にロナウジーニョが8才の時、溶接工だった父が急逝してからは、父親代わりでもあった。現在兄アシスとロナウジーニョは、ブラジルの地元で、サッカークラブ「ポルトアレーグリFC」を立ち上げ、サッカーのプロ選手育成だけでなく、例えプロのサッカー選手になれなくても社会人として自活して行けるように、大学等と提携して、英語やコンピューターを教えるという、貧しい子供達を支援するプロジェクトに取り掛かっている。また、ロナウジーニョは世界食料計画の親善大使も務めている。

兄のアシス氏は、中日スポーツ誌の記者に語っている。 「1つのボールは、22人の幸せを広げる。サッカーボールは子供達の喜びなんだ。ロナウジーニョにとっても、ボールは初めて出会った情熱だった。毎日触れて、何かを発見したり、生み出したり、ボールは彼の人生最大の親友なんだよ」…と。28日放映のNHKスペシャルでもロナウジーニョが特集されており、小さい頃からボールと共に暮らしていた映像も流されていた。その映像の中で、幼いロナウジーニョは、犬とも一緒に過していた。犬とボールを取り合って楽しみながらテクニックを磨く事は、現在も変わりなく続けているという。

名誉の『10番』を背負うロナウジーニョクリックすると元のサイズで表示します

更に、映像から観られるロナウジーニョの魅力とは、2005年の年棒総額が、2300万ユーロ(約32億4300万円)となり、過去3年間、王座に君臨していたベッカムを抜いて、サッカー界の“富豪番付”のトップに立ったにも関らず、とても庶民的である事だ。人気に溺れず謙虚であり続ける姿は、画像で映し出されたサッカーを愛する子供の頃の心のままなのだ。貧しい子供達に、ボール1つあれば…と、サッカーの喜びを教える為への投資は、惜しまない。自分の活躍が子供達の夢に繋がる…と、嬉しそうにブラジルの名誉のゼッケン『10番』のユニフォームにサインしていたロナウジーニョ。サインの大きさも控えめだった。今回の大会は、ブラジル代表として『11番』をつけ出場した4年前とは一味違う。サッカーの王様ペレが、神様ジーコが背負ったゼッケン『10番』でキャプテンとして臨むワールドカップ2連覇達成はなるのか…?それとも2連覇を阻む国は何処だろうか?その試合の行方と共に「フットボール・ジャグラー」ロナウジーニョの技を観られるのも最大の楽しみである。

○箸休め
こんな凄い選手と、予選リーグで戦う事が出来るという日本選手は、幸せだなと思う。勝敗は蓋を開けるまで分らないが、3戦目に最高潮に仕上げて来る…と報じられているブラジルチームの芸術とも言われる攻撃陣を如何に防ぎ、貴重な1点を取れるかどうか?が課題である。

◎参考 
・中日スポーツ5月26日紙面、・NHKスペシャル「魔術師・ロナウジーニョ」
・「世界スーパープレーヤー列伝 ロナウジーニョの技」 学研スポーツムックサッカーシリーズ より


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2006/5/28

サッカーW杯まで13日…選手交代のルールの歴史に思う事  サッカー&ワールドカップ・ドイツ大会

サッカー・ワールドカップ日本代表チームが、いよいよ日本を26日出発し、27日、ドイツ、ベートーベンの生まれた街・ボンへ入った。何と言ってもワールドカップは、サッカーの単一競技の大会であるにも関らず、大会への参加国数、テレビ観戦者数、大会の顧客動員数、収益金の額、全てに於いてオリンピックに勝っており、文字通り世界最大のスポーツイベントと言える。そのワールドカップを後13日後に控え、テレビや新聞紙面上でも、様々な特集が組まれている。その中で、私自身知らなかったルールの歴史について、書いて置こうと思う。サッカーと言えばその反則に対して、審判が出す「イエローカード、レッドカード」があり、柔道の{教育的指導}という言葉のように、そのオリジナリティ溢れる言葉とされているが、実はこのカードのルールが使用されるようになったのは、1970年のメキシコ大会からだそうだ。ワールドカップのルール等規定の歴史は、このメキシコ大会で大きく変わったようだ。
ドイツ・ボンに入ったジーコ監督と選手達 クリックすると元のサイズで表示します

このメキシコ大会から、試合中の選手交代も認められるようになっており、それ以前は、かなり激しいプレーの中、故障者を出しても交代できず、退場した場合、少ない人数でプレーするのが、当り前だったようだ。実際に1966年のイングランド大会では、エースFWのペレを擁するブラジルの三連覇が確実とされていたが、グループリーグ最終戦のポルトガル戦で、ペレが相手チームの激しいタックルによって足を負傷し、ピッチに立ち続ける事が出来なくなった。結果、そのままチームも1-3で敗れてしまい、まさかのグループリーグ敗退というハプニングとなった。

1958年・1970年ブラジル優勝に貢献した、ペレ選手(現在65才) クリックすると元のサイズで表示します

また試合内容が激しくなっている現状の上に、メキシコ大会の会場では、その大部分が標高2000メートル級の空気の薄い高地だという事と、ヨーロッパのテレビ放映が炎天下の正午という暑い時間帯という悪条件が重なった為、選手のコンディションを懸念したFIFA(国際サッカー連盟)が、この大会より、5人の選手のベンチ入り、そのうち2人の交代を認める決定をした。現在では、各国のリーグや国際試合事に、それぞれ違いはあるが、主な国際大会やJリーグの場合は3人まで交代出来るとされている。メキシコ大会以前のワールドカップは、40年前に思いを馳せてみると、如何に選手にとって過酷で激しいものであったかが、うかがい知れる。現在は、選手達にとって、ルールだけでなく、道具・設備共に恵まれた環境下である。選手達の最高のパフォーマンスに期待したい。
JALのチャーター機 クリックすると元のサイズで表示します 

★以下、ドイツ滞在中のスパイラルさんの、現地からのレポート。
クリックすると元のサイズで表示します 前回ワールドカップがドイツで開催されたのは'74西ドイツ大会ですから32年ぶり、東西ドイツ統一後初の開催となります。この時の優勝国がフランツ・ベッケンバウアーを擁する西ドイツ。そのベッケンバウアーは今大会の組織委員長を務めています。また、現在の優勝トロフィーはイタリアの彫刻家"Silvio Gazzaniga"が制作したものですが、これが初めて使われたのは、やはり'74西ドイツ大会から。今回のドイツ大会からは”純金”で新しく鋳造したものが使われるそうです。このトロフィ−、世界各地で巡回展示され、日本では2月ごろ公開されていましたね。

ドイツが次に優勝したのは'90イタリア大会。'89年11月にベルリンの壁が崩壊したあとの大会ですが、優勝時はまだ西ドイツ。この年の10月に東西ドイツの統一が達成される事になります。トリノ五輪ですっかり有名になったルティアーノ・パバロッティの「トゥーランドット・誰も寝てはならぬ」が世界的ヒットとなるきっかけとなったのが'90イタリア大会でした。

先週4月のFIFA世界ランキングが発表され、日本は18位、ドイツは19位。今まで開催国が1次リーグを突破しなかった例はあまり有りませんが、これを占う意味でも5月30日の日本対ドイツの親善試合が注目されています。Jリーグは運営面でドイツのブンデスリーガ(Fußball-Bundesliga)をお手本にしましたが、日本のサッカーは本当に強くなりましたね。
クリックすると元のサイズで表示します ユニフォーム第1位メーカー「プーマ」

最後に現地メディアからユニフォームについて。出場する32ヶ国のユニフォームのメーカーは多い順番に1位"PUMA"2位"NIKE"3位"adidas"だそうです。 先に”アディダス”を設立したのが弟の「アドルフ・ダスラー」、続いて兄の「ルドルフ・ダスラー」が設立したのが”ルーダ”ですぐに”プーマ”と改名。今回のワールドカップ・ユニフォーム部門ではお兄さんの”プーマ”の勝ちとなりました。

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2006/5/26

サッカーW杯まで15日…スタジアムの芝生に思う事  サッカー&ワールドカップ・ドイツ大会

ワールドカップまで、後15日、半月となった。今日はサッカー場の芝生について書いてみようと思う。サッカー場に芝を生やすのは、選手達の体を保護するのが第一目的である。今回W杯が開催されるドイツでは、至る所に天然芝のサッカーグラウンドがあるそうだ。土の校庭で、練習をしている日本の子供達に比べると、羨ましい限りだが、その芝と思われるグリーンをよく目を凝らして見ると、その芝の半分が雑草だと言う。スライデングしたり転倒したりしても痛くないようにと、芝を張っているのだから、半分が雑草でも、まめに刈り込んで行けば、ゴルフのパターの時のように、芝目を気にする程の繊細さは必要ないと思われていて、問題がないらしい。
ベルリン・オリンピア・シュタディオン  クリックすると元のサイズで表示します
 
しかしながら、今回開催されるW杯の会場となるスタジアムの芝には、雑草は混じっていないという。それどころか、芝のコンディションを最良に守る為に、開会式と開幕試合の場所を、ベルリン(オリンピックスタジアム)とミュンヘン(アリアンツ競技場に分けて、それぞれ別の会場で行う事になっている。これは、式典で芝が踏み荒らされ、その直後の試合ではボールの動きに影響が出るのでは…?と、懸念されたからだそうだ。更にベルリンの会場では、翌日以降試合が開催される為、当初計画された大掛かりなイベントを中止し、簡素な式典にして芝を守るという徹底ぶりだ。ドイツでは、芝は「選手達の最高のパフォーマンスを可能にする為のもの」という考え方が行き届いているのだ。

式典という華やかなセレモニーで、国をアピールするよりも、見た目は地味でも「自分達のゴールを守り、相手のゴールを落とす」という唯一無二の目的にかなったサッカーをするというドイツ人の考え方が背景にあり、ドイツ選手のプレーにも、その考え方は、反映されているそうだ。サッカー界もグローバル化が進んで、国々の枠を超えて選手が行き来をするようになった為、一昔前の「個人技の南米、組織のヨーロッパ」という分類が、一概には出来なくなった。それでも、W杯として国代表選手が集まると、そのプレーの端々に国民気質が見え隠れするので、その国々の特徴を探るのも、また楽しみの一つである。
クリックすると元のサイズで表示しますクリックすると元のサイズで表示します 
日本代表ユニフォームとヤタガラスのマーク

国際試合を観ていて気付くが、日本代表チームが着るユニフォームには、3本足の烏「ヤタガラス」(『八咫→八・アタ』という寸法を示す→大きなという意)のマークが付いている。この烏は、『古事記』、『日本書紀』に登場しており、その中では、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫である、日本建国を目指すイワレヒコ(即位して神武天皇)が、現在の和歌山県熊野地方で遭難した時に、高天原から一羽の大きな烏が遣わされ、一行の道案内をしたと書かれている。このカラスの導きがあってこそ、神武天皇は敵を討ち、大和の国を平定した…とされている事から、「ヤタガラス」は「勝利に導くシンボル」として付けられているようだ。「ヤタガラス」に導かれて決勝リーグ進出へ…。日本チームはどんなサッカーを見せてくれるのだろうか?開催国・ドイツの各スタジアムは、芝のコンディションを整えて、各国の選手達を待っている。

◎W杯開催の各競技場ガイド
http://sports.nikkei.co.jp/wc2006/game/stadium.cfm
クリックすると元のサイズで表示します
★以下は、お仕事で現在ドイツ滞在中のスパイラルさんから、ボールについてのコメントです。

六角形20枚と五角形12枚を組み合わせたサッカーボールの形は、13種類ある「アルキメデスの立体」(Archimedean solid)の内の1種で「切頭(頂)二十面体」と言って、正三角形20枚で構成される「正二十面体」の12個の頂点を切り取った多面体です。理論上の起源は、紀元前3世紀頃の古代ギリシアですが、これより遥か昔から「亀の甲羅」は六角形と五角形の組み合わせ。やはり、一番偉大な数学者は「自然界」ですね。

今回のFIFAワールドカップから、アディダスと日本の(株)モルテンが共同開発したボールが使われます。従来の亀甲パネルからデザインも一新されましたが、これは86’メキシコWCでの合成皮革採用ボール(アステカ)に次ぐ大きな変更で、今大会のボールの名前は"+Teamgeist"。確か日韓WCでは「フィーバーノヴァ」。仏WCでは「トリコロール」とか言う名前でしたね。採用が検討されていたゴール判定用のICチップは誤作動が多すぎ採用見送りとなりましたが、ゴール判定にICチップとはコッリーナさんが去ったあと審判力が問われていると言うことでしょうか。

ベルリンで決勝戦用の"Final"と書かれた金色のボールを見ましたが、縫い目がスムース過ぎて「空気力学的に不規則な揺れを生じGKに不利」と言うのが分かるような気がします。その他のWC試合球は一個一個にスタジアム名・チーム名・試合日・キックオフ時間が刻印されたものが使われるそうです。 

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2006/5/24

サッカーW杯まで17日…審判に思う事(コリーナさんを讃えながら)  サッカー&ワールドカップ・ドイツ大会

ワールドカップに参加する国は、各地区の厳しい予選を勝ち抜いてこそ参加となるのは、周知の通りだが、ワールドカップで笛を吹く審判の座をかけても、厳しいテストが行われているようだ。4年前、日韓共同開催の前大会で、その堂々たる審判ぶりが印象的だったコリーナ審判(イタリア語ではコッリーナと発音)は、2005年、45才で定年となられて現役を退かれてしまい、失礼ながら選手よりもコリーナさんファンの私としては、その勇姿が観られないのはとても残念だが、前大会の決勝戦、そして因縁対決「イングランドVSアルゼンチン」の大会でも主審を務められたコリーナさんに敬意を表しながら、W杯の審判にスポットを当ててみたいと思った。
クリックすると元のサイズで表示します 2002年W杯・アルゼンチンVSイギリス
因縁試合の開始時、握手を笑顔で見守る主審のコリーナさん(右から2人目)


サッカーの試合を観ていると、選手はそれぞれポジションがあり、若干構えている時間もあるようだが、主審ともなると、常にボールと共に動き、選手より運動量が、かなり多い事に気付く。よって審判のテストは、始め健康診断からスタートし、最後は運動能力テストに終わるそうだ。この運動能力テストには2種類あり、短距離走として、40メートルを6.2秒以内で6回走り、スタートラインまで戻る時間は合わせて1分30秒というスピードを求められる。更にもう1つのテストでは、150メートルを30秒以内で10回走り、その間、次のスタート地点まで50メートルを35秒以内で歩かなければならない。勿論コースから出てしまえば失格となり、そのスタミナと回復力が求められている。

勿論、FIFA(国際サッカー連盟)の委員会による、ルールについての筆記試験や面接もある。計20分間の英語の選択試験の後、試合ルールに関する試験を、30分間受ける。更にビデオによるテストでは、24の事例を2度見せられ、どのような判定を下すかを、即答しなければならないそうだ。今回ドイツ大会に向けても先々月、フランクフルトで行われた最終テストに、世界38カ国から44人の国際審判がW杯審判の座を目指した。ドイツ大会と前回の大会との最大の違いは、同じ国、または同じ連盟から3人以上の審判チームを採用し、過去にあったような誤解を無くそうとしているという点だ。この審判のチーム制を導入する事により、審判とアシスタントの意志の疎通を計り、過去にあったような誤解を避けようという試みである。このアシスタントのテストも先月末に行われ、審判チームの中の1人でも不合格になれば、チーム全体が失格になるという厳正ぶりだったようだ。W杯に参加できるのは、選手達も一握りの過ぎないが、審判の方達も、想像を超える程の厳しいテストを通り抜けなければならないのだ。
敗者に温かいコリーナさん・中田選手と…クリックすると元のサイズで表示します

素早い判断力と運動能力を必要とされる審判の仕事…。私は、サッカーはプレイした事が無いので、まったくもって妙な発想をしたのだが、前回のワールドカップの時、コリーナさんが出ている試合でコリーナさんは、常にプレイの先を読み、どちらのチームの選手から見ても、絶好の位置にいる気がして、『そこでコリーナさんにパス!』と、つい叫んだりしてしまっていた。後でTVの特集を観て知ったが、コリーナさんは、予め受け持つ試合のチームの試合をビデオで観て、チームの戦術や各選手の特徴を掴んでから試合に臨んだと言う。当時、その審判としての徹底したプロ意識にも脱帽した。更に試合も後半になると、選手は苦しそうな表情を見せる中、涼しい顔で走り回っていたコリーナさんばかりを目で追いかけていた。そして、コリーナさんが決勝戦の審判を勤めると知った時は、嬉しさ半分、コリーナさんの体調管理の事さえ、心配してしまった程のファンになっていた。今回の運動能力テストに協力したドイツの医師、エルンスト・ヤコブ氏は語った。「トップレベルの国際試合で、笛を吹いている審判というのは、皆フィジカルコンディションもトップクラスであるという事が証明されています」。

★ピエルルイジ・コリーナ
1960年2月13日生まれ、イタリア出身。イタリア語、英・仏・西と4ヶ国語を話す。1977年審判としてデビュー。1995年FIFAの国際審判となる。1998年から6年連続で世界最優秀審判に選ばれた。スキンヘッドの風貌と、猛抗議にも屈しない毅然とした態度で有名。24歳で脱毛症という病気になり、判定に不服を抱いたドイツの選手から嫌味でドライヤーを贈られた事もある。専用ホームページで海外の審判の相談に答える等、世界最高の主審として人望も厚い。九州のたこ焼きチェーン「八ちゃん堂」のテレビCMにも出演した。 2005年6月18日、イタリアの審判定年制に基づき引退。定年を延ばす特例を出すと引退惜しまれたが、名審判は最後までルールを守りぬいた。本業はファイナルシャルアドバイザー。趣味は読書。
★信条…「試合に関る全ての人との良好な関係を築けば、良い試合になる。」 


因みにドイツ大会では、日本から2大会連続で上川徹氏が、名誉ある主審審判として選ばれた。以下は、決定後の上川氏のコメント。
「再び夢のフィールドに立てる事に、大きな喜びと誇りを感じています。経験を生かし、平常心でしっかりと試合をコントロールしたいと思います。また、私の活動を支えて下さった皆様に深く感謝申し上げます。」川上氏にも、コリーナさんのような毅然とした審判ぶりを期待したい。

◎コリーナさんのエピソードについては、イタリア在住のスピンさんが書いて下さった、昨日の記事のコメント欄を、是非お読み下さい。
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2006/5/23

サッカーW杯まで18日…「オフサイド」について思う事  サッカー&ワールドカップ・ドイツ大会

サッカーのワールドカップまで、後18日となった。ワールドカップは、体操も、レスリングも、そしてウィンタースポーツのスキー等、他の種目でも開催されているが、単に「ワールドカップ」と聞くと『サッカー』を一番に想像する人が多いだろう。地球規模で考えると、サッカーは、世界一愛されているスポーツと言っても過言ではないほど、多くの国々でプレイされているスポーツである。しかしながら、このサッカーというスポーツ…。夢中で観ていると私の中で、何故かじれったいような矛盾が生まれて来る。それは、本来、点数を取って競い合うスポーツでありながら、得点が入りにくいようなルールが設けられている事だと気付く。そのルールの代表が『オフサイド』である。この『オフサイド』とは、主にサッカーやラグビー等、フットボールに設けられたルールで、相手との相対関係で決まり、絶対位置は基より設定されていない。

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この『オフサイド』を簡単に説明すると、「ボールより前でプレーするのを厳しく制限する」ルールで、例えば、攻撃するチームの選手がパスを後方から受ける時に、必ず前方に守備側の選手が2人以上いなければならない…即ちパスを受ける時にゴールキーパーと1対1になってはいけないというもので、実に得点が入り難い…一見不合理とも思えるルールなのだ。何故こんなルールが生まれたのだろうか?と、そのルールの歴史を紐解くと、それはサッカーの起源とも言われている、中世まで遡る。サッカーの起源は諸説あるようだが、今回はイギリスの祭事として始まった説を有力説として記載して行こうと思う。日韓両国で開催された前回のワールドカップの際にも、その情景がNHKで特集された記憶もあった。

さて、その祭のイベントとして競技された当時はまだ、手を使って居り、どちらかと言うとラグビーに近いものであったようだが、村をあげて何百人単位で楽しんだ。競技場は、村全体を使用し、数キロ離れた村の端の門や水車がゴールだった。村人達は、二手に別れ、1つのボールを巡って組んず解れつ、川を越え、岡を越えて運んだが、村には外出禁止令を出し、参加者には、死者も出るほど荒っぽい祭事の競技だったらしい。勝敗は、片方がゴールすれば決し、競技は終わる。ゆえに1日かかってゴールする事もあれば、あっと言う間にゴールしてしまう事もあったらしいが、結果、お祭りの最大のイベントとして、一日中たっぷりと楽しむ為に、お互いにゴールさせないという暗黙の了解が出て来たようだ。そして、例えば待ち伏せ行為等をして、自分のチームサイドを離脱してボール奪い取り、簡単にゴールする事を「オフサイド」と呼んで禁止した。
クリックすると元のサイズで表示します W杯ドイツ大会・公式ボール(レプリカ)

その祭事の競技が、やがて村の広場へと会場を移し、学校の校庭へと移動してプレイされるようになり、サッカーとラグビーに分かれて行ったのだが、双方ともに起源である祭事の「オフサイドの精神」が残されて来たとされている。このように正に、オフサイドとは、待ち伏せ行為を禁止させるような…正々堂々とプレイするというルールである反面、得点・勝利には極めて禁欲的なルールである。しかし、このじれったさがあるからこそ、そのプロセスを大事にし、1点の価値が極めて重く、ゴールが得られた時、より一層、その歓喜が弾けるのだろう。特に日本代表チームは、国際試合等、大きな大会では、ゴール欠乏症に陥ってきている。ジーコ監督は「便秘のようなすっきりしない試合」と例え、今回ドイツ大会の人選では、FWの選手選びにかなり悩んだようだ。ワールドカップでは、日本選手による「ゴーーール」の声を是非、何度も聞きたいものである。

 ◎以下は、イタリア在住のスピンさんが、書いて下さったコメントより、サッカーのイタリア発祥説…
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サッカーは、イングランドがルーツ国、これサッカーファンの常識ですよね? でも、イタリアの常識は違います。 サッカーもイタリアが最初なんです。全ての道はローマに通じちゃうんです。サッカーをヨーロッパのほとんどの国では"Footballかそれに近い言葉で表しますよね。 これがイタリアでは"Calcio"…カルチョ=蹴るって意味なので「蹴るチョッ!」って感じかしら? 五角形・六角形のサッカーボールだってダヴィンチのスケッチが元になってるとか、ルールはイングランドに合わせてあげているとか言っています。しまいには、イングランドは昔ローマ帝国領だったとか、ユーヴェ"Juventus"は初代ローマ皇帝の"Augustus Caesar"がつけた名前だとか言うけど、なにも紀元前まで遡らなくてもいいのにね。


◎以下イタリアのサッカーについて…起源など詳しく書かれたHP
http://www.h3.dion.ne.jp/~bologna/calcio.htm

◎当ブログ内「サッカー・W杯まで1ケ月半…「ベルリンの奇跡」から70年後に」の記事
http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/20060424/archive
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2006/4/24

サッカー・W杯まで1ケ月半…「ベルリンの奇跡」から70年後に。  サッカー&ワールドカップ・ドイツ大会

クリックすると元のサイズで表示しますサッカーのワールドカップまで、後約1ヶ月半となった。サッカーが日本に伝来したのは、明治維新後で、当時日本の海軍兵学寮に、教官として来日したイギリス人将校ダグラス少佐が、日本海軍の軍人たちにサッカーを教えたという記録が残っている。その後、全国に教師養成の為に作られた、師範学校を中心に、サッカーのクラブが設立されるようになった。そして、師範学校を卒業したサッカー選手が、全国各地で学校の先生となってサッカーが広く全国に広まった。その結果、1918年(大正7年)に、現在の高校選手権日本最初のサッカー大会が大阪でスタート。また1921年(大正10年)には、現在の日本サッカー協会のもととなる「全日本蹴球協会」が設立された。そして第1回の「全国優勝競技大会」(現在元旦に決勝戦が行われる天皇杯全日本選手権大会の前身)が行われた。

1936年、ドイツ・ベルリンで行われたオリンピックに日本サッカーチームは参加する事となるが、この経緯には、次の開催地として東京が決まっており、ドイツとの繋がりの政治的背景もあって急遽参加が決定、申し込むという、かなり無理なシチュエーションがあった。結局、大学生の選抜チームとして、当時関東大学リーグ3連勝中の早大から10人と、東大からOBも含めて3人、慶応と東京高師と京城普成専門から各1人ずつ選ばれた16人だった。その中には、左のMFとして戦後長い間、韓国サッカー界の神格的な存在となった金容植選手もいた。当時は朝鮮半島も日本であった為であるが、強烈なフリーキックを持ち、ボールをヘディングしながら、また頭に乗せたままピッチを一周出来る等、力強さと器用さを兼ね備えた選手だったようだ。
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1936年8月1日、第11回オリンピックが開幕した。サッカーの種目に参加申請した国は16カ国だった。現在では各大陸予選を経て、本大会出場の16カ国を決定しているが、当然ながら参加する全ての国が本大会に出場する事となった。そして8月4日、日本は初めて国際大会のピッチの上に立った。場所はベルリンのヘルタープラッツ・スタジアム。観衆は約6000人を集め、記念すべき日本の初戦の相手はスウェーデンだった。スウェーデンは、優勝候補に挙げられていた強豪で、下馬評ではドイツよりも強いとされていた。現地での予想はスウェーデンを圧倒的有利とし、東の果てから初めて世界の舞台に登場した日本チームは、勝てるはずがないと予想されていた。この模様は、私もTVの「その時歴史が動いた」で再現フイルムを観たが、新聞もラジオも、スウェーデンの勝利を確信したように報道されていた。

試合は、予想通りスウェーデンの2点リードとなった。しかし2点のビハインドを背負った後は、GK佐野選手がスーパーセーブを連発して防ぎ、日本チームは、豊富な運動量にものを言わせ、決してスウェーデンにペースを握らせなかった。スウェーデンのラジオ放送のアナウンサーは「ヤパーナ、ヤパーナ」(そこにも日本人、ここにも日本人の意)を連呼した。そして、後半、風上に立った日本が反撃を開始。同4分、FW川本選手が追撃の右足でゴールを決めると、同18分にはFW右近選手がこぼれ球を押し込んで同点とし、更に終了5分前には、カウンター攻撃からFW松永選手が決めて、3―2と逆転。やがて試合終了のホイッスル…それは初めて世界の舞台に立った日本が優勝候補を破った瞬間だった。コーチを務めていた竹腰茂丸氏は「潜水艦が戦闘機に勝ったようなものだ」と言って涙を流した。
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その模様を東京報知新聞は「日本蹴球軍の快勝に全観衆沸き立つ 警官隊出動して漸く整理」と題して以下のように報じた。

「大会4日目の話題を独占した胸のすく日本蹴球軍の快勝-- 日本蹴球軍が優勝候補の呼び声が高かった強豪スウェーデン軍を3-2で破ったのは、誰も予想していなかっただけに大きなセンセーションを巻き起こした。慣習約2000、黄と紺のスウェーデン軍、紺と白の日本軍、しかも敵軍に比べて子供のような日本軍が、前半敵軍リードのまま後半に入って猛然と立ち上がった姿に、観衆は呆然となった。たちまち3点を奪って1点のリード、ホイッスルが戦いの終了を告げた瞬間、我が選手はグラウンドの真中でうれし泣きに泣いた。観衆はものにつかれたようにスタンドを飛び降り、「日本、日本」と叫びながら幾重にも幾重にも選手団を取り囲んだ。この興奮は巡査の出動でようやく静まった程だった」(1936年8月6日付)


それから13年後の1949年、日本人として初のノーベル科学賞を受賞した湯川秀樹博士が、ストックホルムで行なわれた授賞式に出席された。そのインタビュー時に、スウェーデンの新聞記者は「1936年にベルリンで、日本チームはスウェーデンチームに勝ちましたね。貴方はその日本から来た方ですから、勿論サッカーをなさるのでしょうね」と言い、サッカーボールを差し出した。ボールを笑顔で受け取った湯川博士は、ポンポンとヘディングをして見せ喝采を浴びた。最早日本ではサッカー関係者の中だけでの伝説となっていたこの「ベルリンの奇跡」は、第二次大戦を経た13年後にもストックホルムでは、まだ忘れられていなかったのだ。

その「ベルリンの奇跡」から70年、同じドイツで行われるワールドカップ…日本チームには、欧州諸国が「ベルリンの奇跡」を思い出す程の戦いぶりを期待したい。

◎2004年5月12日放送「その時歴史が動いた」HP
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/
◎参考サイト
http://www.walkerplus.com/worldcup/japan/
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