2007/10/4

大黒屋光太夫記念館を訪れて…No5 帰国…そして故郷へU  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

江戸に着くと、お目付け役の取調べを受け、やがて吹上御殿での将軍家斉との拝謁が決まった。拝謁はロシアでの服装でという事で光太夫は、外套を着て黒ビロードの帽子を抱え、胸にはエカテリーナからの金メダルを下げて出かけた。幕府の高官達はロシアの国情について尋ねたが、国を閉ざして300年、質問は随分と焦点のずれたものであったと推察される。それでも光太夫達は、キリスト教の事、空気銃の事、大砲の事、ガラスや羅紗の製造過程の事、そして種痘の事などを話した。この時の記録が桂川甫周の『漂民御覧之記』である。甫周はこの後も将軍の勅命によって光太夫達を訪ね、ロシアの天文、地理、風俗について『北槎聞略』(ホクサブンリャク)として書き残し、幕府の書庫深く納めたという。尚、『北槎聞略』の冒頭には「他見を禁ずる旨を以ってこれを借りる密書なり。よって至って秘すべくもの也。寛政六年申寅五月是を書く」と記されている。
クリックすると元のサイズで表示します 将軍と謁見する光太夫と磯吉の図。
『漂流民御覧記』(1794年)桂川甫周(北海道大学付属図書館北方資料室蔵)


光太夫と磯吉は、江戸の薬草園に居を与えられ、幕府から生活費を貰って暮らしていた。訪れる蘭学者達と西洋について語り、薬草園に出ては花を眺めながら遥かロシアの友人、キリルや庄蔵、新蔵に想いを馳せた。光太夫達の江戸での処遇について、1986年(昭和61年)以前は、江戸に幽閉されたまま生涯を閉じた…と思われていたが、その年、当時若松小学校の校長だった故・弓削弘氏が、小学校の百年史を作成するに当たり、南若松の古い倉庫から見つけた古文書によって、光太夫達が里帰りをしていた事が判った。『大国屋光太夫らの帰郷文書』(鈴鹿市の文化財指定)と名付けられたその書によると、磯吉は、亀山藩お預けという形で1ケ月間、母親の元へ帰郷し、光太夫も40日間の帰省で、実姉に会い、神昌丸の船主、一見諫右衛門の元へ船を無くした詫びに行ったり、伊勢神宮への参拝も果たした。また2人共、消息を絶って2年で建てられた自分達の墓にも参ったという。
神昌丸乗組員の墓と光太夫実家の墓クリックすると元のサイズで表示します
建立は神昌丸の荷主で伊勢商人、長谷川次郎兵衛(後の三井財閥の祖)


光太夫は78才まで生き、妻を娶って亀二郎(後の蘭学者、大国屋梅陰)という男子をもうけたが、亀二郎は結婚する事無く早逝した。光太夫の帰国後の足取りが途絶え、遺品が少ないのは、子孫がいなかったから…とも言われている。また根室で亡くなった小市の遺品は、幕府の温情により、若松に遺した妻の元に送られ、菩提寺だけでなく、彼方此方の仏閣、大須観音でも法要が行われた。それは法要とは名ばかりの小市の遺品の展示会で、神社仏閣の金儲けとも囁かれ、そうこうして巡るうち、63点あった遺品も今では10数点となってしまったらしい。また磯吉は光太夫の10年後に亡くなったが、磯吉が語ったロシアについては『魯斉亜国舶聞書』『極珍書』として書き残されている。
クリックすると元のサイズで表示します 菩提寺前の小市の碑
小市の遺品…図録よりクリックすると元のサイズで表示します

そして、ロシアに残った庄蔵は早逝したが、新蔵はロシア人と結婚し、3人の子供も儲け、日本語学校の教師として少尉まで出世して、ロシア文で『日本及び日本の貿易について』という著を書き残している。残念ながら、光太夫らが晩年を迎えた頃、日本は、ロシアとの通商を結ぶどころか『異国船打ち払い令』まで出して臨海の船を攻撃したり、益々国を閉ざして行ったが、それは進んだ違う世界を民衆に見せる事によって江戸幕府が揺らぐのでは?という幕府の懸念=エゴそのものだったに違いない。やがてペリー来航で開港を迫られる事となるが、罪も無く鎖国の犠牲になって帰国出来なかった、多くの漂流民達の悲しみが伝わってくるようで光太夫の銅像も、少し淋しげな表情に思えた。
クリックすると元のサイズで表示します遠くを見つめる光太夫の銅像。
大黒屋光太夫顕彰碑クリックすると元のサイズで表示します
「開国曙光」←題字は徳川家達(15代徳川慶喜引退の後、徳川宗家を相続・公爵)
撰文は、光太夫研究の先駆けの新村出(文学博士・「広辞苑」の編者)昭和51年(1976年)建立。


※追記
大黒屋光太夫の人柄についてヨーロッパで紹介された本
フランスのルイ16世の命を受けて、大航海士ラペルーズによる北西海航路発見の旅に出ていたジャン・レセップスは、カムチャッカで光太夫達と偶然遭遇し『レセップスの旅行日録』(1790年パリで刊行)の中で光太夫の事は「活発な精神と優しい心の持ち主、賢く意思の強い指導者」と記し、逸早くヨーロッパに紹介した。その日録をエカテリーナ女帝は読んでいたかもしれない。尚、ジャン・レセップスは、後にスエズ運河建設に携わったフランスの外交官、フェルナンド・レセップスの叔父にあたるという。

※参考 
・「おろしや国粋夢譚」井上靖著
・「大黒屋光太夫」 吉村昭著
・大黒屋光太夫記念館発行 図録 ・(同)大黒屋光太夫便り

※大黒屋光太夫記念館公式HP
http://www.edu.city.suzuka.mie.jp/kodayu/

※ご協力
 大黒屋光太夫顕彰会


★長くなってしまいましたが『大黒屋光太夫記念館を訪れて…』は、この記事にて終了です。
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2007/10/3

大黒屋光太夫記念館を訪れて…No5 帰国…そして故郷へT  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

西暦1792年10月7日、大黒屋光太夫、小市、磯吉ら漂流民3人と、アダム・ラクスマンを始めとするロシア人39名の総勢42人を乗せたエカテリーナ号は、蝦夷(北海道)の根室沖に着いた。それは伊勢の白子を神昌丸に乗って経ってから丁度10年目の秋だった。アダムは下船すると蝦夷を治めていた松前藩の役人にこの使節団来航の趣旨を藩主に届けてくれるよう依頼した。記録によると松前藩の役人達は、光太夫一行が日本から漂流して帰国したとは信じ難かった。特に若かった磯吉は、ロシア語を使い慣れていて、役人の質問の応えにロシア語が出てしまった。その為日本人を装った異国人だと思われたという。
クリックすると元のサイズで表示しますおろしあ船図 複製(1825)秋山広画
光太夫は疑心の目の中、文字を書けば判って貰えると考えた。自分は漢字も書けるし小市も磯吉の平仮名で自分の名前くらい書ける…。しかしまだ重苦しい雰囲気は続いた。やがて使節団1人1人の前に箱膳が用意された。光太夫達は箸を手に取り、懐かしい日本の味に舌鼓を打った。ロシア人達は初めて持つ箸に戸惑い、四苦八苦していた。この光景を見て、箸使いの上手い下手でやっと日本人とロシア人の区別がつき、日本人と認めて貰えた(吉村昭著「大黒屋光太夫」より)という逸話がとても興味深い。松前藩から江戸に向けて光太夫達帰還の報が送られ返事を待つ事となった。ロシア人達は一旦上陸を許され小さな小屋を建てて暮らし始めた。光太夫達には帰国しても蝦夷で足止めをされている悔しさもあったが、長い間、帰国の許しを待ったという忍耐に比べれば比ではなかった。
光太夫達の行程図(クリックで拡大)クリックすると元のサイズで表示します
(大黒屋光太夫記念館)


蝦夷の地にも少しずつ春の兆しが訪れ始めた4月、悲しい出来事が起こった。当時冬の野菜不足で蝦夷開拓者の中でも、流行っていた壊血病で小市が亡くなった。光太夫達は「ここまで来て…」と悲しんだが、異国の地で果てた他の仲間からすれば日本国の地に埋葬されるのは…と、諦める事しか出来なかった。待てど暮らせど江戸からの返事はなかなか届かなかった。そしてやっと6月になって、函館の松前藩の屋敷にて、3度の会談が行われ、アダムが持ちかけた日露通商協定は、暗礁に乗り上げさせたまま、幕府側は、とりあえず長崎入港許可証を発行して、アダム一行を乗せたエカテリーナ号を長崎へと向かわせた。その後、光太夫と磯吉は、役人の付き添いで江戸へ向かう運びとなった。新緑の陸奥路は、索漠たるシベリアの原野を見てきた光太夫達にとって、帰国の喜びを更に感慨深くした事だろう。
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2007/10/3

大黒屋光太夫記念館を訪れて…No4 エカテリーナと謁見、帰国まで  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

伊勢から船出、ロシアのナムチトカに漂着し、海獣獲りのロシア人達とロシア大陸に渡った光太夫は、生き残った5人の仲間をバイカル湖の畔の街、イルクーツクに残して、ペテルブルグ大学で植物学を専攻するキリル・ラックスマンと共にロシア帝国の首都ペテルブルグへと着いた。ペテルブルグは、フィンランド湾を望んだネヴァ川河口の三角州にある都で、寺院がそびえ建ち、煉瓦作りの建物がびっしりと建ち並ぶその様は、「北のベネチュア」とも呼ばれている美しい街だった。光太夫は、高官を通して政府宛の帰国嘆願書を出したが、3ヶ月待っても帰国を許す返事は来ないままだった。
クリックすると元のサイズで表示します 美しいエカテリーナ宮殿。

キリルは、ロシア帝国の女帝、エカテリーナに直訴する事を考え、側近の政府高官に願い出た。当時日本という国に興味深かった政府高官は「日本国の地図が書けるか?」と光太夫に取引を持ちかけた。この時、光太夫は、藩別に城壁や港等を詳細に描いた地図を書き残しているが、当時にして、現在の地図と比べ、方向感覚に長けた船乗りとは言えども、その精巧さに驚かされる(九州と本州は繋がり、北海道は書かれていない)。そして、その地図が功をなしたか、キリル宛てに「6月28日、光太夫を伴って参殿するように」という知らせが届いた。エカテリーナ女帝は、例年5月から9月まで、避暑を兼ねて、ペテルブルグから24キロのツワルスコエ・セロ(現在のプーシキン)の離宮で過ごしていた。その間、その離宮に全ての高官が集い、事実上政治の中枢となっていた。
光太夫が描いた地図クリックすると元のサイズで表示します
(ゲッチンゲン大学付属図書館蔵 クリックで拡大)


空が青く晴れ渡ったその日、光太夫はキリルに伴い正装して5階建ての宮殿を訪れた。それは漂流から8年の歳月を経た1792年の事だった。役人に導かれて3階の謁見の間(別名、鏡の間)へ通された。光太夫が入った途端、左右に立ち並んだ高官や女官達の視線は、日本から来たという光太夫に一斉に注がれた。光太夫は、予めキリルから習った拝謁の作法を滞りなく済ませた。光太夫の帰国嘆願書を見た女帝は、日本についての様々と漂流の経緯について質問をした。キリルが通訳として補助はしたが、光太夫は流暢なロシア語で答えたと記録されている。女帝は光太夫の話を聞き、身の上を哀れんだ。しかし、ロシアに残って日本語を教えるよう提案する。映画「おろしや国粋夢譚」では、このシーンで光太夫役の緒方拳の迫真の演技が際立っていた。

女帝 :   「そんなに日本へ帰りたいか?ロシアは嫌いか?」
光太夫:   「いいえ、ロシアには大変感謝しております。
       ロシアに来て、沢山の事を学びました」。
       「だからこそ帰りたいのです。日本の国を開くためにも…」
(映画「おろしや国粋夢譚」より)

クリックすると元のサイズで表示します エカテリーナ宮殿、謁見の間。

光太夫はロシアでは無礼だったのかもしれないが、涙を流し土下座をして懇願した。女帝は「良い方法を考えるから、安心して待つが良い」と答え、帰国の許可を下した。そしてその準備が整うまで、光太夫を国賓扱いにし、天文台、博物館、図書館、工場、銀行などを見学させた。光太夫は、短期間に新しい知識を貪るように吸収したという。また、ペテルブルグ大に招かれて日本の風俗について講演をした。更に女帝の勅命でアンガリア学長が編集した「欽定世界辞典」の日本編に訂正を加えた。やがて9月29日、イルクーツクの総督に宛てに女帝の勅命が出された。

1, 漂流民光太夫達を丁重に日本へ送還すること。
1,オホーツクの港に送還船を用意すること。
1,送還の使節団には、キリル・ラックスマンの子息、アダム・ラックスマンを長とすること。
1,使節には、日本政府宛のシベリア総督の国書を奉呈すること。

女帝は、帰国が決まった光太夫に、女帝自身の姿が浮彫された金メダルを与えた。光太夫は、他にも金時計、ダイアモンドの飾られた煙草ケース、金貨、顕微鏡など、多くの人達からの餞別を受けた。光太夫が受けたこれらの持成しを知ると、当時のロシアの人々の心の温かさが伝わってくると共に、光太夫には、国や民族を超えた人としての人徳があった事が伺われる。
光太夫が残したとされる印籠等クリックすると元のサイズで表示します
(エルミタージュ美術館蔵)


光太夫は旅立ってから1年後に仲間が待つイルクーツクへと戻った。帰国の許しが出た事に大喜びの小市と磯吉、しかし、凍傷で両足を失った庄蔵と重い病にかかった新蔵は、心の支えにロシア正教の洗礼を受け、日本では禁じられているキリスト教徒となっていた為、帰国すれば火炙りの刑…。よって帰国を諦めざるを得なかった。その2人との惜別の辛さは幾許だっただろう…計り知れない…。更にオホーツクでは終生の大恩人…キリルとも別れなければならなかった。キリルは息子に友、光太夫を託してイルクーツクへと帰っていった。別れを惜しんだ光太夫の眼前には、2本のマストにロシア帝国の国旗をはためかせたエカテリーナ号が姿を現した。その姿は光太夫達3人にとって、大空から舞い降りた美しい白鳥のように見えたかもしれない。…No5へ続く。

★参照 スピンさんの欧州便り「エカテリーナ宮殿」
http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/20070610/archive
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2007/9/26

大黒屋光太夫記念館を訪れて…番外編、顕彰会元会長様からの便り  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

先日、大黒屋光太夫記念館を訪ねた時、記念館の近くに建つ光太夫の記念碑や、神昌丸乗組員の墓などをご案内下さった、大黒屋光太夫顕彰会、元会長様を勤められていた小田様から、本日一通の封書が届いた。中には、記念館以外の各地に散在する光太夫関係の貴重な資料が掲載された、立派な図録(資料)が2冊入っていた。鎖国の日本に帰国した光太夫は、江戸に軟禁されていたと伝えられているが、その間、将軍徳川家斉は、第6代将軍家宣以降、代々幕府奥医師を勤めた桂川家の甫周(ホシュウ)に、光太夫から聴取したロシアの情報を記録させた。また、一説によると光太夫が、ロシアにて既に桂川甫周の名前を聞いており、光太夫自身が甫周を選んだとも言われている。届いた資料を見た私は、光太夫の事を書くのには、桂川甫周抜きでは語れないという、小野様からのメッセージが届けられた気がした。
クリックすると元のサイズで表示します 小田様…光太夫記念碑の前で9/4

桂川甫周(以下甫周)は、蘭学を学び若干21才の時、前野良沢、杉田玄白、中川順庵らと共に、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳に参加し『解体新書」作成に尽力したり、オランダ商館付医師として長崎の出島に赴任していたツンベルグから、外科術を学んでいた事から、ツンベルグが著した「日本紀行」にも登場しており、ヨーロッパにも広くその名が知られていたという。甫周が幕府の命で光太夫から話を聞きながら、オランダの地理学書『ゼオガラヒ』等を参考にして著した『北槎聞略』』(ホクサブンリャク)は、1994年に2年がかりで完成。ロシアに関する地理、歴史、言語、習慣等が体系的に網羅されており、江戸時代に於いての「ロシア情報の最高峰」と言われてきた。中でも、附図として光太夫達が持ち帰った衣服や道具を描かれた絵図2軸と地図10鋪は、平成5年、国の重要文化財として指定された。
北槎聞略附図より外套(がいとう)クリックすると元のサイズで表示します

※以上、光太夫記念館特別展、図録No1,No2より転写。


帰国後の光太夫は、江戸に軟禁されていたとは言うものの、比較的自由に当時の蘭学者達と行き来をし、ロシア語を始め、当時ロシアへ伝わっていたヨーロッパの情報を提供し、後の蘭学発展に大きく貢献したと言われている。また、また甫周は、光太夫が将軍に拝謁した時も同席し、その際の記録を『漂民御覧之記』という本に著している。甫周が書き残したこれらの著書は、日本とロシア両国の後世にとって、歴史的価値が非常に高いと言えよう。時間が前後してしまうが、明日以降「大黒屋光太夫記念館を訪れて…No4」として、ペテルブルグから帰国、そして伊勢若松に帰省するまでの物語を拙い筆で、また再開しようと思っている。

※大切な資料をお送り頂いた小野輝雄様、本当にありがとうございました。

★ほたるからのご報告とお礼★
2007年9月22日…。自分の思う事、好きな事、興味のある事…等を「ほたる」という名を借りて、勝手気ままに書き残し始めてから、ちょうど2年が経ちました。また25日の深夜(正確には26日)に、アクセスして頂いた数が200万に達しました。100万アクセスの時は、知らないうちに過ぎてしまいましたが、今回は数日前に気が付いて、昨夜はアクセスを表示しながらチェックしていましたら、何と自分の目で、200万と数字が並んだ瞬間を見る事が出来ました。(200万の切り番は、私のPCとは別のIPで、開けて下さった方が、おいでになると思います…)。
クリックすると元のサイズで表示します2007年9月26日午前3時頃のカウント。

記事上で大変恐縮ですが、
今まで読んで頂いた方々を始め、ブログを通して知り合った方々、
そして、コメントやメールで、励ましやお教えの言葉を頂きました全ての方々に、
厚くお礼を申し上げます。
  クリックすると元のサイズで表示しますありがとうございました。 クリックすると元のサイズで表示します

今改めて、2年間を振り返えりますと、ブログを書き続けて来た事によって、自分の視野が広がり、趣味の世界も深まったような気がします。そして、私がこの2年間で得た何よりの宝物は、ブログを通じて知り合えた方々から、学ばせて頂いた数え切れない事柄です。それは、このブログには書き切れない程の心の財産だと思っています。これからも、何にも変え難いこの宝物達を、胸の中で温め続けながら、自分のペースではありますが、また書き続けて行けたら…と思っています。今後共ご指導の程、どうぞ宜しくお願い致します。2007年9月26日.....by hotaru.
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2007/9/25

大黒屋光太夫記念館を訪れて…No3、ロシア大陸横断  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

伊勢の白子から約8ヶ月の漂流の後、アムチトカに漂着、現地で毛皮獲りに着ていたロシア人達と共に、自力で船を造り、カムチャックまで辿り付いた大黒屋光太夫達は、チギリスクから更にオホーツク海を渡り、ロシア大陸の東岸、オホーツクに到着した。その時、白子を出航した16人の仲間も次々と栄養不良や寒さの為、帰らぬ人となり遂にたった6人となっていた。光太夫達は、暫くオホーツク滞在して毛皮装束等の身支度を整え、帰国の嘆願書を持って、ロシア政府の漂流民担当が居るというイルクーツクまでソリで向かう事となった。(一説によると途中のヤクーツクまでは政府から与えられた馬車で行ったと言われている)。厳寒期には−60℃にもなるヤクーツク(北緯60度…北半球で最も低温地帯)から、イルクーツクまでの雪の道には、80キロ毎にソリを乗り継ぐ小駅があったという。光太夫達はレナ湖に沿って極寒のシベリアの雪原を、ソリで走り続け約4ケ月、年が明けた2月7日、ようやく氷に閉ざされたバイカル湖面の果てに、イルクーツクの町が蜃気楼のように見えてきた。
クリックすると元のサイズで表示します冬のバイカル湖…流れ出るアンガラ川は凍らない為、温度差によって水蒸気が立ち登り幻想的。

オホーツクから4000キロ、この極地の旅は想像を絶する困難な旅だったと、光太夫は書き残している。イルクーツクに辿り付いたのは、大国屋光太夫、九兵衛文小市、庄蔵、新蔵、磯吉、の6人。イルクーツク着くと、この町にも漂流民が暮らしていたという痕跡があった。南部藩(現在の岩手)から漂流して来たという久吉は、ロシアの女性と結婚して、イルクーツクの日本語学校で教えていたが、早逝してしまい、その日本語学校も不完全なままとなっていた。イルクーツクの総督は、光太夫達を帰国させるより日本語学校の教師にしようという目論見があった為、住まいと生活費を与え、手厚く持成した。

国境の町、イルクーツクは、人家も3千戸以上あり、教会、学校、病院、官公署の建物が建ち並んでいた。その町に、ペテルブルグ大学の教授のキリル・ラックスマンが、極東の植物を調査する目的で滞在していた。キリルは、ロシア政府では官位大佐待遇のフィンランド系の博物学者だったが、当時から『黄金の島』と呼ばれていた日本に強い憧れの念を持ち、密かにサハリンから日本への渡航を試みようと考えていた。そんな時、息子のアダムがイルクーツクへ光太夫を送り込んで来たのだから、大いに喜び早速光太夫に会った。そしてキリルは、光太夫から日本の事を学び、光太夫達は、キリルから地球儀を見せられたりして世界の広さを学ぶ事となる。映画「おろしや国粋夢譚」では、緒方拳演ずる光太夫達が、キリルの部屋に招かれ、日本の小ささ、そして広大な世界を見せ付けられて、カルチャーショックを受ける様子が有り有りと描かれていた。
イルクーツクのロシア正教会クリックすると元のサイズで表示します

光太夫達のロシア語の吸収力の早さ、ロシア文化の学習能力の高さ…その姿を観たキリルは、学問をまともに学んでも居ない、一介の船乗り達がこんなに賢いとは、日本人は優秀な民族なのだと確信し、益々日本への想いは熱くなっていった。キリルは漂流民返還を名目に、日本への通商使節派遣しようという筋書きを立て、光太夫に帰国の嘆願書をイルークツクの総督に出すよう申し出た。しかし半年も待って届いた返事にはロシアに永住するように…と書かれていた。日本語学校に士官すれば、税金も免除するという優遇も書かれていたが、光太夫の絶対に帰国するという信念は揺らがなかった。それは海に散り、異国の土となった仲間10人の叶わぬ想いを胸に抱き続けていたからだと思った。

その後、光太夫は3度帰国の嘆願書を出した。政府は生活費を打ち切ったが、光太夫の帰心は揺らがなかった。一方、凍傷にかかり両足切断によって帰国も厳しくなった庄蔵は、仲間にも心を閉ざしてしまっていたが、ロシア正教に入信する事によって生きる希望を見出そうとしていた。しかし日本ではキリシタンは火炙りの刑…庄蔵は帰国を諦め日本語学校の教師として生きる道を選択せざるを得なかった。その頃、九兵衛文と新蔵は熱病にかかり年長者の九兵衛文が亡くなってしまった。光太夫達がイルクーツクに着いて約1年、町はまた新年を迎えようとしていた。
クリックすると元のサイズで表示します 光太夫のロシア大陸横断図。
オホーツク→イルクーツク→ペテルブルグまで…青緑のライン。(クリックで拡大)


その頃、光太夫の元にキリルが朗報を持って来た。それは「近くペテルブルグに上がる用意が整ったので一緒に行って直接国王に帰国を願い出よう」という途方も無い計画だった。光太夫達はそれは日本の将軍様に会うようなもの…日本なら打ち首と一瞬怯むが、ここに滞在したままでは、何時まで経っても埒があかないと、光太夫1人がペテルブルグへ向かう決心をした。1月15日、光太夫達が白子を出てから10年目の冬、光太夫はキリルが用意した官軍の馬ソリに乗って一路ペテルブルグへと旅立った。イルクーツクからペテルブルグまで6200キロ。しかし官軍使用の8頭立ての馬ソリは1日200キロというスピードで、西シベリアからウラル山脈を越え、ロシアの広大な大雪原を、鈴の音も高らかに西へ西へと進んでいった。官用ソリは36日目にフィンランド湾を望み運河を湛えたロシア帝国の美しい首都…ペテルブルグに到着した。尚、光太夫がオホーツクからペテルブルクまで結果的に往復する事となる距離…約1万キロは、地球を半周する距離に及ぶという。…No4へと続く

※トラックバックは大黒屋光太夫記念館を訪れて…No1 、No2
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2007/9/23

大黒屋光太夫記念館を訪れて…No2、北の離島からオホーツクへ  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

天明2年伊勢の白子を出航し嵐に遭って漂流約8ヶ月、アムチトカの島に漂着して毛皮獲りに来ていたロシア人達…ニビジモフ達と出会った光太夫達15人は、ニビジモフ達の温かい持成しを受け、長い漂流の疲れを癒したのも束の間、海が荒れて錨を降ろしていた神昌丸の真っ二つに割れた残骸を目の当たりにする。光太夫は身振り手振りを使って、ロシアからの船が何時来るかを聞いたが、ニビジモフは丸印を24書いただけで、それが24日か24ヶ月かさえも分からなかった。途方にくれる光太夫達にニビジモフは、穴倉を1つ住まいとして、提供してくれた。時は8月、暫くは魚を獲り草木を食べて暮らしていたが、ここは北の果て…。9月ともなると周囲の海は凍って何も獲れなくなると知らされる。その頃、年の若い磯吉が「エトチョア」という単語が「これは何?」という意味だと知り、光太夫は色々な物を絵に描き「エトチョア?」と聞きながらロシア語を覚えて行ったようだ。この光太夫の絵の上手さは、後々様々な形で光太夫自身にも、またロシアにも功をなす事となる。
クリックすると元のサイズで表示します 賢くリーダーシップもあった光太夫
(大黒屋光太夫記念館前の銅像)

アムチトカは、9月末になると吹雪が続き灰色の世界となった。想像を超える寒さの中、残り15人の内、5人がアムチトカの土と化して行った。当時の日本人は、動物の肉を食べる事=地獄に落ちると思っており、長い漂流の疲れと栄養失調が原因だったと推察される。ニビジモフは日本人に病人が出たと聞くと、動物の肉を光太夫に与え「生きる為に食べろ」と言い続けた。光太夫も生き伸びて日本へ帰る為に…と、禁断の肉を口にするのだった。やがて氷が溶け始める頃、光太夫はロシア人達と共に、オットセイ、海豹、ラッコ等の海獣狩りに参加し始める。機知に富んだ光太夫は、皆に生き抜く為に最も必要な気持ちの張りを与えた。2年も経つと誰もが一人前の海獣漁師になっていた。(この間1名のみ死亡)。そして7月、いよいよ5年に1度訪れるというロシア本国の船が着く時期となった。

光太夫は、ニビジモフに日本経由でオホーツクに戻ってくれるよう、一旦は交渉するが、方角も分からない上に、日本が鎖国をしている事情もあり、諦めてまずロシアに渡りロシアの偉い役人に依頼して帰国させて貰う…という計画に変更した。しかし、そのロシアからの出迎えの船も嵐の為、難破してしまった。生き残った乗組員はボートで上陸したが、光太夫達は神昌丸の難破の時以上に絶望の底へと突き落とされたように思えたという。しかし、光太夫は無学の船乗りではなかった。次何時来るかも分からないロシアからの船を待つより、自分達で船を造ろう…と考え始めたのだ。神昌丸に使ってあった船具、ロシアの船の残骸、流木等を集め、石灰と麻、海藻等から作られた当時の建築材料の接着剤である「漆喰」は、貝殻を砕いた物と海草を煮て混ぜた物で代用した。この船の設計図も光太夫が書いたと記録されている。

外で働ける僅か3ヶ月の北の果てで何処まで造れるのか?誰もが思っただろうが、悲境を乗り越えて来た海の男達はひるまなかった。そしてその姿を見ていたロシア人達も手伝う事となり、とうとう2年目の7月、帆は衣類を継ぎ剥いで作り、600石位の新造船を進水させるに至った。1787年7月18日、船はアムチトカを離れ、アレウト列島(太平洋戦争末期にも登場するアッツ島沖)に沿い、島を飛び石のような目安にして、航海30数日、カムチャッカ半島の東岸、ニジニ・カムチャックという港に辿り着いた。この時、光太夫達が乗って来た船を見て、役人は「こんな船で荒波を…!」と驚愕するも、担当の役人は都に行って帰国させる権限は無いと、帰国願いを却下してしまう。ところが当時のロシアには漂流民には生活費が支給されるという温かい配慮があった。光太夫は、時期を待ってシベリアの都…役人の居るイルクーツクを目指そうと決心した。
光太夫達が辿った絵図。クリックすると元のサイズで表示します
アムチトカからオホーツクまで…ピンクの線(クリックで拡大)


その冬は、日本でも天明の飢饉が起きた寒さで、食糧の輸送ルートが途絶え、ニジニ・カムチャックは食糧難となり、ここで光太夫達は、また3人の仲間を壊血病で亡くしてしまった。光太夫達は、3人の亡骸を丁重に弔い、春になるのを待って、共に海を渡ってきたロシア人達と共にカムチャッカ半島の西海岸、チギリスクへと向かった。チギリスクでは後に光太夫の大きな後ろ盾となる=キリル・ラックスマンの息子、アダム・ラックスマン(光太夫の帰国と共に来日)と出会い、アダムはオホーツクまでの船を用意してくれた。しかし漂流民を担当する役人は、オホーツクから更に4000キロ先のバイカル湖の畔のイルクーツクに駐在していると知る。光太夫達は藁をも掴む思いで、イルクーツクへ向かう事にした。その旅程は、夏の足としては馬車しかなく、夏は川が氾濫したりして時間が長くかかる為、川や湖が凍りつく冬がトナカイを使用したソリを使用出来て速い。ゆえに冬に極寒のシベリアを横断するという過酷な旅を選択せざるをえなかったのだった。

当時ロシアは、1555年にイワン4世がウラル山脈を越えたのを契機に、1639年には、オホーツクの沿岸まで制していた。ロシアは、このオホーツクを拠点に、シベリア大陸という極寒の地に食糧提供可能な日本との交易を望んでいたという背景があった。よって既にピョートル大帝がロシアを治めていた頃、先に漂流民としてロシアに辿り着いていた「デンベイ」をペテルブルグに召抱えて日本語学校を開設していた程であった。そして光太夫達が目指したイルクーツクは、国境の街として、支那、満州、朝鮮との交易の拠点となって栄えていた。…No3へ続く。

トラックバックは大黒屋光太夫記念館を訪れて…No1 No3
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2007/9/14

大黒屋光太夫記念館を訪れて…No1伊勢から船出、漂流へ  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

私の敬愛するジョン・万次郎こと中浜万次郎が、西暦の1927年に土佐で生まれ、まだ2才にもならず、恐らく土佐の浜をよちよちと歩き始めた頃、万次郎より一早く「世界」を体感し帰国した日本人が、江戸(東京)の番町薬草園内で、静かに息を引き取った(享年78才)。その人の名前は、大黒屋光太夫…。万次郎と同じく太平洋の荒波に人生を翻弄され、方向こそ異なって国は違ったが漂流民としてロシアへ渡り、厳しい自然と闘いながらも、エカテリーナ女帝と謁見までして、祖国へ帰郷する想いを貫き通した人…であった。私は井上靖氏の原作「おろしや国粋夢譚」(ロシア夢物語)を読み、1992年に緒方拳主演で、映画化された同題名のDVDを観て、是非、三重県鈴鹿市に2005年新設された「大黒屋光太夫記念館」を訪れたいと思い、休日に車を走らせた。
クリックすると元のサイズで表示しますエカテリーナに帰国を懇願する光太夫
エルミタージュ宮殿にて熱演する緒方拳


光太夫は、1751年伊勢の国若松村(現在の伊勢市南若松町)に亀屋という旅籠(はたご)の息子として生まれた。成長するにつれてその俊敏性と統率力を認められ、回漕問屋(船舶で旅客や貨物を運ぶ問屋)である大黒屋の養子となって、白子(しろこ)港から江戸へ紀州米、伊勢木綿等を運ぶ神昌丸の船長として31才となった12月13日、江戸へ向けて出港した。当時の白子(現在・鈴鹿市白子町)は、紀州領として、江戸幕府特定の重要港湾であった。この港は、伊勢はもとより、伊賀、志摩、尾張、美濃、飛騨、近江から江戸へ向かう貨物船が出航していたが、全てこの港を関所として、査証(パスポート)を貰い江戸へ向かわなければならなかった。
大黒屋光太夫記念館全景。 クリックすると元のサイズで表示します

神昌丸の乗組員は船長の光太夫を入れて16名、積荷は先に述べた幕府に収める紀州米350石(一石=約150キロ)、瓦150石の他、木材、伊勢木綿等を搭載していた。船の大きさは、長さ約30m、幅約8m、帆船の帆の高さ約25m。所謂「千石船」であった。記念館には神昌丸の模型も展示され、子供達向けに解り易く一般のお風呂の1000杯分の大きさと記されていた。その時代、漂流民が嵐に遭っても助かったという背景には、当時の木造船技術の素晴らしさが見え隠れする。しかし、頑強な千石船も遠州灘に差し掛かった所で三日三晩嵐に揉まれて、舵は折れ、帆を揚げる帆柱も傾いて転覆寸前になった。船員達は、瓦などの荷を捨て帆柱を切り捨て船のバランスを保ち生き延びた。だが嵐が止んだその時には、かすかに見えるはずの日本の山々の姿も遥か海の彼方となっていた。尚この嵐によって遠江の駿河沖で遭難した船は24隻に及んだという。

舵と帆を失った神昌丸は、黒潮に乗せられて東北に流され、やがて北緯45度辺りから太平洋海流に巻かれて漂った。光太夫達は、暦では6月に入るというのに、暖かくなるどころか、氷雨まで降ってくる状況から「北へ流されている」と察知した。また当時から船乗り達が目印としていた北斗七星も夜毎に高い位置となっていた。漂流間の、食料としては、積荷の米が充分あり、水は雨水を溜めて飲み、海流の魚を釣り上げて食べていた。しかし野菜は採る術も無く、アメリカへ漂流した音吉達と同様、2ヵ月も経つとビタミンCの不足で元気を失っていった。7月15日、初の犠牲者が出た。幾八(若松出身、当時42才)だった。光太夫達は、自分達の辿る運命を予感する暗い思いで、幾八の亡骸を海に葬ったという。
クリックすると元のサイズで表示します 千石船「神昌丸」の模型。

その日から数日後、見張り役をしていた磯吉(17才、若松出身)が、鳥が飛ぶ姿を見つけ、島が近いと騒ぎ出した。かすかに見えた島は白い雪を被っていたが、光太夫達は、約8ヶ月ぶりに見る島影に絶叫して喜び、船板に跪いてひれ伏し拝んだ。その島は北海の果て、アラスカとカムチャッカを結んでいるアレウト列島のアムチトカという島だった。光太夫達は神昌丸に碇を降ろし、伝馬船に米2表と鍋釜や衣類を積んで乗り込み、島へと上陸した。時は雪解けの頃、所々に土も見え、雑草が生えていた。この島は当時ロシア領であったが、アレウト人と呼ばれる原住民も住んでいた。彼らは言葉こそ通じないが友好的でジェスチャーにより「来い」という仕草をした。光太夫は比較的元気だった5人を連れ、アレウト人に着いて行く事にした。
漂流した海路を示す地図(黄色)クリックすると元のサイズで表示します

半里(2キロ)程歩くと、光太夫達が今まで見た事のない深紅の洋服に身を包んだロシア人が立っていた。光太夫達を見ると持っていた銃を天に向かって発砲…。光太夫達は驚嘆したが、それはロシア流の礼砲だった。光太夫達は彼らの住まいに案内された。首領らしいロシア人が微笑みながら光太夫の手を固く握り、自分を指して名乗った。「ニビジモフ」。光太夫も臆する事無く「ニッポン国の光太夫です」と丁寧に名乗った。まもなく浜に残った他の9人も呼び食事が持成されたという。光太夫達も感涙に咽んだが、私はこの史実を知った時点で、当時から言葉は通じなくとも、国境を越えた人間愛があった事に感動して涙が止まらなかった。しかしこの時、このニビジモフとの出会いが、北の果てから限りなく厳しく、かつ果てしなく長い旅が始まる序章に過ぎない事を、光太夫達は知る由もなかった。

…No2へと続く。(写真はクリックで拡大)

※ご協力 大黒屋光太夫顕彰会
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2005/11/11

173年ぶりに帰国した?音吉の運命を乗せた船  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

9月27日のこの日記で、今年2月に中部国際空港へ(遺灰が)帰国した、漂流民、音吉の事を詳しく書いたが、本日11月10日付の中日新聞が、その時の船を再現し、そのレプリカとしての宝順丸を再び渡米させる試みがあると、報じていた。日本ボーイスカウト兵庫県連盟が、姉妹都市、ワシントン州の博物館「マカー文化研究センター」に寄贈するというニュースだった。このレプリカは、音吉の乗った千石船(宝順丸)が、1年2ヶ月間、太平洋の荒波を乗り切れたという、如何に「頑丈な造り」であったかを物語っている。同連盟は既に、ジョン万次郎よりも、一足早く米国の地を踏んだ日本人達の記念碑を、漂着し、インディアンの捕虜になりながら半年間過した地の傍、「フォート・バンクーバー国立史蹟公園」に建立していた。(1989年)更に同連盟は、赤穂市の船大工に依頼して、実物の役10分の1にあたる「宝順丸」を造らせたのだそうだ。
クリックすると元のサイズで表示します 宝順丸等「千石船」と呼ばれた船の絵

その船へ正に運命までを乗せられてしまった、音吉らの望郷の念の儚さは、三浦綾子さん著「海嶺」にも、記されている。2度の帰国を試みるも、幕府の「異国船打ち払い令」に阻まれる。その下りは涙無しでは、読むことが出来ない。結局、彼らは故郷の地を踏めぬまま、音吉はシンガホールに移り住み、貿易の仕事で成功した資金を、後の漂流民達を助け、帰国させる資金に費やしている。その中の帰国した一人に音吉が語った言葉が、残されている。

「我16才(数え年)にて漂流し、父母へ一つの孝養も得遂げざるのみか、
却って大いなる嘆きを掛けたれば、朝夕これのみを思いつづけ、
心に忘るる隙なし。この上せめて、国の漂流民を世話して帰国せしめ、
父母の冥利とも致さんと思う。」


「私は、16才で、漂流してから、親孝行の一つもできず、かえって大きく悲しませてしまっている。朝に夕にこの事のみ、思い続けて来た。せめて、自分の母国の漂流民を救い、親の恩に報いたい」と、このような気持ちで、自分の無念さを、帰国する者に託したのであろう。私は、万次郎然り、日本の歴史上に、このような史実を、もっと登場させるべきだと、思っている。彼ら知名度が低すぎるのは、やはり漁民という当時は、身分が低い立場てあった所以だろうか。。。
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話は逸れるが、ジョン・万次郎は、アメリカでは「アメリカ建国200年に貢献した外国人29傑」の1人に選ばれ、敬愛されているのだ。特に万次郎が暮らしていた、マサチューセッツ州、フェアべヴン近郊では、一万円札の福沢諭吉より、知名度が高く、渡米後、僅か3年間の間にアメリカでの高校卒の学力を身に着けた天才児として、更に捕鯨の達人としても、尊ばれている。私がフェアヘヴンに行った時は、日本人である事が誇りに思える程の歓迎ぶりであった。この万次郎については、日を改めて記することにする。
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さて、音吉ら3人には、先の日記にも記述したように、日本人で、初めて聖書の翻訳をしたという偉業も残っている。半年間のインディアンの捕虜生活から、インディアンと貿易をしていたハドソン湾社のイギリス人の手によって解放され、日本人として、初めて渡英する事になったのだが、その英語に対する解釈の仕方がとても、面白かったので一部記して置きたい。

音吉(14才)ら3人は、ハドソン湾社を通してイギリスに入国し、マクラフリン博士の家へ案内される。

「カム、オン。カム、オン。」 と言う、マクラフリン博士。
久吉(15才)が、船頭の岩吉(28才)に向かい
「舵取りさん(岩吉のこと) あの旦那が、『かまわん、かまわん』と言っとるで。
『かまわんから、上がってこいや』ということや ないか?」
岩吉は「違う、あれは異国の言葉や。」と一言。
「なんや、『かまわん』と言っとるのと違うんか。俺もそう聞こえたわ」と音吉が言った。

クリックすると元のサイズで表示します    三浦綾子著「海嶺」より引用
尚、更に新聞の記事によると、寄贈者側の同連盟、元理事長の佐野氏は「漂流して生き抜いた3人のうち、音吉と久吉は、ボーイスカウトのメンバー達と同じ世代。望郷の念に、かられながらも、世界を回った不屈の精神力と忍耐力、そして国際理解を身につけた彼らの史実を、学んで行って欲しい」と話していたそうだ。飛行機が世界各国を身近にした現代、ボーイスカウトの若者達が、この寄贈を契機にして、音吉達のような柔軟性のある心で、世界へ大きく羽ばたいて欲しいと、心から願っている。
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◎参考 千石船とは?
元々は、ただ「米を千石」積む船であればそれを千石船と呼び、特定の船型があった訳ではない。しかし江戸時代になって千石積級の荷船(廻船)がごく普通に使われるようになると、大型廻船を代表するという意味で、千石船の呼び名が普及して行った。
○このダイアリー内で、音吉について詳しく書いているページ
URL  http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/20050927/archive
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2005/9/27


25日、大盛況のまま幕を閉じた、愛知万博。
3月の万博開幕に先駆けて、2005年2月17日、中部国際空港が開港した。
開港、間が無い2月20日、
その新しい滑走路へ、シンガポールから、一機の飛行機が降り立った。
その飛行機には、173年ぶりに、正式帰国を遂げた人が乗せられていた。
その人の名は、知多郡美浜町出身の船乗り、音吉
正しくは、彼の遺灰である。

時は、日本が鎖国中の天保3年(1832)音吉らを乗せた、
千石船・宝順丸は、尾張藩からの貨物を名古屋港で積んで鳥羽港へ向かい、
またそこから江戸を目指した。しかし、鳥羽港出向後、遠州灘(難所)で
嵐にあい、舵を損傷し遭難、太平洋を14ヶ月漂流の後、アメリカ西海岸、
現在のワシントン州、フラッタリー岬に、流れ着いたのである。
漂流民としては、無事帰国を果たした
ジョン・万次郎の漂流時より、約9年前の事であった。


宝順丸の積荷は米と陶器で、また海水を真水にする「ランビキ」の技術もあった為、
餓死の心配は無用だったが、出航当時、14名居た乗組員は、
ビタミン不足により、次々と壊血病を発症。漂流途中、11名が死亡した。
生き残った3名は、28才の熟練した船乗り、岩吉。
炊(かしき)の見習い、15才の久吉。そして同じく14才の音吉であった。
フラッタリー岬に流れついた一行は、その地で、インディアンの奴隷となる。
一方、音吉の地元では、数ヶ月に渡り、各地の舟問屋に
宝順丸の行く先を、問い合わせていたが、結局船の消息はつかめず、
地元の良参寺という寺に、乗組員一同の墓を建てていた。
   以下、石碑脇に建てられている看板
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2005/9/27


 
アメリカに漂着した音吉達は、インディアンの捕虜として暮らしていたが、
インディアンと毛皮の取引をしていたハドソン湾社の英国人に発見された。
ハドソン湾社の太平洋地域総責任者、ジョン・マクラフリンは、
彼らをハワイ(サンドイッチ諸島)経由で英国に連れて行った。
イギリスに着いた3人には、1日だけ上陸許可が下りて、
日本人と初と思われる、ロンドン市内見物をした。
ハドソン湾社側には、彼らを足がかりに
日本と国交を開きたい、という思惑があったが、
英国政府側には、その気がなく、
結局3人は、ハドソン湾本社のジェネラル・パーマー号で、
マカオ(ポルトガル領)へ送られる。

彼らはマカオにつくと、ドイツ出身の宣教師のカール・ギュツラフに預けられた。
このギュラツフは、熱心な宣教師で、語学にも興味が強かった為、
彼ら3人の協力を仰ぎ、聖書の和訳に取り組んだ。
「ヨハネ伝福音書」と「ヨハネの手紙」を訳し、初の和訳聖書として残っている。
この偉業は、日本キリスト教史上に記録を残した。
このギュツラフの元、音吉ら3人が、聖書を訳して行く様子は、
三浦綾子さん著「海嶺」にも、書かれているが、
当時の彼らの概念で、ゼウスの存在自体を、
一番相応しい言葉を探そうと、討論している下りがあって、
とても面白く、興味深い。

彼等がマカオに着いて2年後に、
九州出身で、南シナ海で35日間漂流後、フィリッピンのルソン島に漂着、
原住民に1ヶ月ほど捕らえられ、スペイン船に乗せられて来た、
庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松の4人と合流する。

その7人の存在を知った、アメリカ商人、C・W・キングは、
彼らの帰朝を足がかりに、日本政府と国交を持とうと考え、
7人の日本送還計画を、立ち上げる。
1837年7月(日本の暦で天保8年6月)、
彼らを乗せたアメリカ船、モリソン号が日本へ向かった。
翌年、7月30日(旧暦6月28日)モリソン号は、
江戸湾浦賀港に近づいた。それは漂流から5年ぶりの事だった。
しかし、その時代は、幕末の鎖国下「異国船打払令」が
出ていた一番厳しい時期だった。
非武装の貨物船モリソン号は白旗を掲げたが、砲撃を受けてしまう。
富士山を眺め、故郷を想う、音吉達の胸中は、幾ばかりであったか。。

砲撃を受けたモリソン号は引き返し、8月10日に鹿児島湾に入り、
九州出身の庄蔵らが一旦上陸し、出先役人からは、労いの言葉を受けたが、
船に戻ると、翌日また、砲撃を受けてしまう事になる。
江戸幕府からは、藩に対し、外国船が来れば砲撃するように
と、伝達が来ていたのである。こうして、2度に渡る砲撃を受け
断腸の思いのまま、音吉達は、再びマカオへ戻る。 
彼らはこの日を境に祖国を捨て、今や外国で自立しなければならなかった。
7人は、それぞれ、中国や香港で結婚し、新たな人生を歩んだのである。

音吉は、しばらくイギリスの船に乗り各国を回ったが、
後に上海のイギリスの貿易会社に勤務、同じ職場のイギリスの女性と結婚した。
そして新たな漂流日本人が来ると、自分が帰国できなかった悲しみを乗り越えて、
中国船で彼等が日本へ帰国出来るようにと、外国と折衝し、その中継基地の役割を、果たした。
音吉の尽力で、帰国した一人が、音吉が次のように語ったと記録している。

「我16才(数え年)にて漂流し、父母へ一つの孝養も得遂げざるのみか、
却って大いなる嘆きを掛けたれば、朝夕これのみを思いつづけ、心に忘るる隙なし。
この上せめて、国の漂流民を世話して帰国せしめ、
父母の冥利とも致さんと思う。」

音吉はその後2回通訳として日本(長崎)へ来ているが、
1回目は捕まることを恐れ、中国名・林阿多(リン・アトウ)を名乗り、
2回目の時には、既に妻子がいたので、帰国の意思はなくなっていたという。
音吉はイギリス人妻と死別した後、マレー人と結婚、シンガポールに引っ越した。
時代は移り変り、ペリー来港後の、1862年(文久2年)、
開国に向かって動き出した、日本の遣欧使節団が、
シンガポールに寄った時には、音吉が市内を案内し、
途中音吉の自宅へも寄らせ、手厚く持て成している。
(この使節団には、福沢諭吉らが居た) 
その記録によると、シンガポールで貿易事業を成功させており、
家は庭付きの邸宅で、男女の召使がおり、馬車も所有していたという。
1864年ジョン・マシュー・オトソンとして、イギリスへ帰化。
1867年、遂に故郷の地を踏むことなく、病気にてシンガポールにて没。
   享年50才であった。
音吉始め、彼ら鎖国中の漂流民の人生に於いては、
海の荒波の中は生き抜いても、歴史の荒波をくぐり抜けることはできなかった。
             ☆
音吉の故郷、美浜町には、日本福祉大学付属高校がある。
同校の和太鼓クラブ「楽鼓(らっこ)の会は、2003年から、
著者 三浦綾子さんのご遺族の了解を得て、
音吉の生涯を題材にした「海嶺」という曲作りの励んでいるそうだ。
海嶺」とは、いわば大洋底に聳(そび)える山脈。
人目にふれずとも、海の底で厳然と聳える山は、
人目にふれない庶民の生きざまに似ていると、三浦綾子さんは書いている。
太鼓演奏曲「海嶺」は、11月6日に初披露があるそうだが、
是非、拝聴すべく、足を運びたいと思っている。

◎参考書籍
三浦綾子 著 「海嶺」
春名徹 著 「にっぽん音吉漂流記」 

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