2007/4/4

上巳の節句…柳川の「さげもん」と尾張徳川の雛飾りに思う事  日記(今日思うこと)

今日は満月、花冷えの空に満月が煌々と輝いている。各地区で開催されている雛祭りの行事も、4月3日または、今週末で終了する所が多いが、今年の旧暦の3月3日は4月19日にあたっており、和歌を伝承し続けてきた京都の公家の旧家、冷泉家では、今頃から雛人形を飾り始め、旧暦3月の上旬の巳の日(上巳の節句=桃の節句)まで飾られているという。私が是非一度は訪れてみたいと思っている「柳川雛祭り・さげもんめぐり」は、残念ながら3日をもって終了してしまったが、名古屋市内の徳川美術館での企画展「尾張徳川の雛祭り」は、4月8日まで開催されている。
クリックすると元のサイズで表示します 北原白秋邸の雛飾りと「さげもん」

先に書いた「柳川雛祭り・さげもんめぐり」は、水郷の街「柳川」で、北原白秋家を中心に開催され、お雛様水上パレードもあり、街全体が美しく艶やかに飾られる。柳川と言えば、現在料理旅館として美しい庭園を誇る、旧柳川藩主・立花氏の別宅「御花」。そして江戸時代末期から、柳川藩主の腰元達の手慰みとして伝授されて来た「柳川鞠」が、私の記憶の中では浮かんでくる。「柳川」は、祖母が元気な頃、数少ない旅行自慢として話してくれていた街であった。「柳川鞠」は、女の子の無事な成長を願って一針ずつ刺し込んで作られ、やがてお雛様と共に飾られるようになったという。これが柳川名物、手作りの「さげもん」である。

庭先に飾られた「さげもん」→クリックすると元のサイズで表示します
クリックすると元のサイズで表示します 柳川鞠の豪華な「さげもん」

此方は「さるぼぼの雛飾り」→クリックすると元のサイズで表示します 
※飛騨高山のお土産に頂き、お店に飾ってあります。


また、徳川美術館へは、先月訪れる事が出来たが、数あるお雛様の中でも、目玉?は、秩父宮妃・勢津子様の雛飾りであった。勢津子様は、松平(会津藩)常雄氏の長女で、幕末に活躍した松平容保(かたもり)の孫。昭和3年(11928年)に秩父宮雍仁(やすひと)親王と御結婚され、平成7年(1995年)に薨去された。妃殿下として日本赤十字社を始めとする御公務に携わられる傍ら、美術品にも造詣深く、徳川美術館にも何度か訪れられているそうだ。妃殿下御愛蔵の雛人形、及び雛飾りは、形見分けの1つとして実妹の尾張徳川20代、義知夫人の正子様に遺賜され、平成8年に正子様より徳川美術館へ寄贈されたものである。皇室のお雛様に相応しく、男雛の冠は立纓(りゅうえい=天皇のみ許されたとされるシテ)で、装束も天皇のみに許されたとされている黄櫨染(こうろぜん=黄色の中に赤を混ぜた色)の御袍(おんほう=束帯の上着)を着用している。
クリックすると元のサイズで表示します 秩父宮勢津子様のお雛様

福君の雛道具「鏡台セット」
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そして毎年、人気を博しているのが、尾張徳川11代目夫人の福君様(さちぎみ)の雛道具である。「菊折枝蒔絵雛道具」と呼ばれるその精巧な雛道具は、梨子地に菊の蒔絵を配し、所々に御実家の近衛家の家紋である「抱牡丹紋」と徳川家の「葵紋」を散らしたデザインになっており、金具は全て銀製、現存する大名家の雛道具の中でも、最も華麗で格調高いと言われ、当時製作した職人達の意気込みを感じる事が出来る。福君は、嫁いだ年の3年後の天保10年に夫の斉温が病没すると落飾して「俊恭院(しゅんきょういん)」と改めるも、癪(胃痙攣)に苦しみ翌年10月に21才の若さでその生涯を閉じたと記録されている。福君は、その名に反して薄幸であったが、雛道具からは、当時の最高位の姫君の婚礼にこめられた思いが伝わって来て、暫し時の経つのを忘れてしまう。

◎参考
福岡県・北原白秋記念館の栞、JAF Mate No4、
徳川美術館発行「尾張徳川のひなまつり」より
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2007/4/3

私の火傷…火傷の深度と応急処置についてと五条川の桜  日記(今日思うこと)

先週一週間、お店のスタッフが相次いで高熱を出したりし、毎日通常の半数のスタッフで営業していた。週末になってやっと寝込んでいたスタッフも復帰した。休日を翌日に控え私は少し気持ちが緩んだのだろう…。火傷を負ってしまった。仕上げに使用する業務用カールアイロンの電源が抜けてい為、コンセントをさし、電源onにしようとした。その後だった。アイロンが乗っていた台に左手を置いた途端、違和感が…。「痛み」とか「熱い」というより、違和感そのものだった。スタッフが気を効かせ他の場所で「max190℃」に暖め、そのまま移動して来たばかりのアイロン…それに私は手を着いてしまったのだった。
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急いで水道水を流し、患部を冷やし続けた。スタッフを呼んで仕上げを交代して貰った。30分以上経っても水道水から手を離すと激痛が襲った。だからひたすら冷やし続けた。そそっかしくドジな私ではあるが、手を使うこの仕事に着いてから、手だけは大事にして来たつもりだった。指を鋏で切りバレンチノのマークが残ってはいるが、仕事に支障をきたすような怪我をした事はなかった。困ったと思った。しかし不幸中にも幸いが沢山あり、偶然医療関係のお仕事の方がお客様でいらしていて、手当ての指示をして頂いた後、火傷専門の医療機関を手配して貰った。そして友達が飛んで来て病院まで車を運転、連れて行ってくれた。火傷は2〜3日経たないと正確な診断は難しいという。とにかく「今は患部を冷やして安静にする事が大切」と指導され、帰路についた。そして今日も別の友人の運転で病院へ行き、現時点では「左手指3本と掌の一部に2度の火傷」と診断を受け、明日も診察に行く事となっている。

◎以下、某病院の救急外来に貼ってあった資料より、
『火傷の深さと応急処置について』

★1度の火傷
熱湯が跳ねて肌についたり、日焼けによる火傷。火傷部分が赤くなり、ヒリヒリした痛みがある、ほぼ数日で治り、跡は殆ど残らないが、火傷した直後にしっかりと流水で冷やす事が大切。大人であれば病院に行かずとも自然治癒する。(子供の日焼けは日射病も伴う事が多いので注意が必要)

★2度の火傷(浅2度と深2度に分類)
高熱の物に触ったり、鍋やヤカン等をひっくり返して熱湯を被った場合は、2度以上の火傷を負うことが多い。

○浅2度
表皮から真皮にかけての火傷。火傷部分が赤く腫れるだけでなく、水膨れが出来、患部がジュクジュクしたりする。強い痛みが伴ったり、患部を熱く感じる事もあるが、感覚が麻痺してしまう事もある。約10日位で治り、火傷跡も残り難いが、火傷後のケアによっては跡が残る事もある。

○深2度
見た目は、浅2度と大きな違いはないが、真皮まで火傷している状態。赤く腫れ、水膨れ等もおきるが、水膨れの下の皮膚は白くなる。深めの2度の火傷は完治するまでに約1ヶ月間かかる。また、跡が残ることも多く、場合によっては皮膚移植をする事もある。

★3度の火傷
皮下組織や筋肉まで火傷を負っている状態。火災や爆発、小さな子供であれば、熱湯を被ってしまった場合でも3度になる事が多い。肌の表面は壊死してしまい、白っぽくなったり、炭化してしまったりする。痛みを感じる事は少ないが、自然治癒が出来ない為、火傷専門医師の下での治療が必要。跡は盛り上がったり、ケロイド状に残る事が多い。完治しても皮膚が引っ張られるような感覚や、機能障害が起きる場合がある。

※応急処置として
・患部は衣服の上からでも、素早く水をかける。
・手足であれば、水の中に痛みがなくなるまで漬け続ける。
※患部には、勝手に薬(味噌・アロエ)等を塗らず、
  清潔なカーゼ又はタオルで包み、冷やしながら病院へ行く事!。

★また火傷はその範囲も大変重要で、大人で全体の20%以上、子供で10%以上火傷してしまうと、命の危険がある為、掌位の範囲を体の1%と目安して、範囲が広い場合は(特に子供は)救急車を呼ぶ必要があるそうだ。


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◎箸休め
エイプリルフールの日、「4月馬鹿」をしたのは、その日が誕生日の弟ではなく、ドジな私だった。情けない話だが、自分でドジをして自分が痛い思いをするのは当たり前で、大事に至らなかった事を有難く思い、緩んだ気を引き締めなければと言い聞かせた。私の友達や知人は優しい?人達ばかりなので、「馬鹿だねー」と叱咤激励してくれたり、(私の)「代わりに花見に行って来た」と桜の写真を送ってくれたり、食べ物を差し入れてくれたりした。また、無事な右手だけで、PCのキーも速く打てるようになった。これを「怪我の功名」と言うのだろうか?。

クリックすると元のサイズで表示します 五条川の桜(愛知県岩倉市)
(画像はクリックで拡大)


五条川の桜は延長7.6km、1600本の並木になっている。桜の種類は、染井吉野が中心で、昭和24年頃から植えられて現在に至っており、市民の散歩道として親しまれると共に桜の保全にも、市が積極的に取り組んでいる。また五条川では、伝統的な鯉幟の糊落としの作業…「のんぼり洗い」が、寒の頃から桜の咲く頃にかけて行われ、昔ながらの風情を見る事が出来る。

「のんぼり洗い」…友人撮影。クリックすると元のサイズで表示します
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2007/3/18

『鈴渓義塾』Vol.6..ソニー創業者の盛田昭夫と井深大No5  日記(今日思うこと)

昭和25年、終戦時に焼け野原のなっていた東京も少しずつ復興の兆しを見せていた。そんな頃、闇屋などで大儲けをした金満家を相手に、商品を売り込もうとしている29才の昭夫がいた。井深と創めた東通工が開発したテープレコーダーG型(GはガバメントのG、以降G型と記す)は『テープコーダー』と登録商標を得て売り始めていた。皆「自分の声が聞けるとは面白い」と喜んだが、宴会の余興に使われるだけで、誰も買おうとはしてくれなかった。昭夫は、方々の宴会場から呼び出しが来る度に、45キロもあるG型を持ち込んだ。商品の性能には自信があったが、価格は16万円。当時大卒の月給が6〜7千円だった頃、決して安いとは言えなかった。
クリックすると元のサイズで表示します盛田昭夫展(中部国際空港にて2006年2月開催)より。

一方、テープの磁器開発の要となった木原は、音感の鋭い音楽学校でデモンストレーションしていた。「テンポが遅く、音が低いです」…等、生徒達から鋭い指摘が飛び、その度に手を加えて改良して行った。関西地区は交流電流が60ヘルツである為「テープが早く回って音が割れる」事も判り、50ヘルツ用と60ヘルツ用のキャプスタンも用意した。東通工の未来を担う「テープコーダー」は、改良を加えられ社員総出で営業活動をしていたが、相変わらず売れない日が続いていた。

そんな頃、昭和25年10月、東京の国会図書館で『新しい日本の技術』という展示会が開かれた。展示会は天皇皇后両陛下も来賓として出席されていた。G型の説明員には、倉橋正雄が着いていた。倉橋は横に皇后陛下が立たれた時、ここぞとばかりに皇后陛下のお声を録って聞かせようとした。しかしG型は、ウンともスンとも言わない…。緊張と焦りで倉橋は冷や汗を流しながら、機械の彼方此方を叩いた。結果、真空管の接触が悪かっただけで事なきを得たが、倉橋の慌てふためく姿があまりに可笑しかった為、皇后陛下がお笑いになってしまった。

この事が翌朝の新聞で写真付のニュースになった。見出しには『自分のお声を聴いて、お笑いになる皇后陛下』と書かれていた。倉橋は、写真を見て一瞬冷や汗を掻いたが、その記事のお陰もあってか、国会図書館から注文が入り、名古屋の高等検察庁が購入、その長官は最高裁で使用できるのでは?と紹介状を書いてくれた。当時裁判の速記係りは少なかった為、G型が代わりとなるかもしれないという意見からだった。紹介状を持って法務省へ売り込みに行ったのは、井深だった。井深は、テープの切れには裏打ちして判子を押すなど、証拠なるべくアイデアを出し、24台の注文を貰い受けて来た。

この報告を受けた昭夫は、これで一息つけると安堵したが、一般向けのポータブルな物を開発しようと井深に提案し、すぐに木原はポータブルな試作機を作り上げた。出来上がった試作機は不完全だったが、改良すれば物になると確信した井深は、木原を中心に開発チームを作り、熱海で缶詰にして「完成するまで帰るな」と命じた。厳命された木原チームは苦労の末『普及型テープレコーダーH型』(HはホームのH)を完成させた。重さは13キロ、持ち運びも容易だった。昭夫は販売のターゲットに学校を選び、タイミングよく開催された『放送音楽研究大会』にH型を惜しみなく貸し出した。そしてピアノを学校に納めていた日本楽器を販売店とした販売網が出来上がり、各県の学校に売れて行った。

昭夫は、アフターケアにも力を入れた。人手の足りない東通工にとって12人のエンジニアを社外へ出す事は痛手だったが、初めての商品で扱いの慣れていない消費者に対して親切でありたいと、東京・名古屋・大阪・広島・福岡・札幌の6ヵ所にエンジニアを常駐させ、定期的に部品を持って巡回サービスに回った。更に送る時の梱包も、社内で落下テストを繰り返して工夫を重ね、木箱に詰めて頑丈にした。これによって、学校の教師達の間で「東通工の製品なら安心だ」と評判が高まりH型の普及に拍車がかかり、売れ行きは順調に伸びていった。
Densuke-T-C-M-Z. クリックすると元のサイズで表示します
ショルダー式テープレコーダー。(1951年)


しかし、テープレコーダー成功の陰で、昭夫達はある恐れを抱いていた。それは『高周波バイアス法』の特許の期限切れが迫っており、市場の独占は厳しくなる事だった。その予感は的中、昭夫と井深の元に「松下電器がテープレコーダーを作り始めた」というニュースが届いた。松下電器は早急に製品を作り上げ、全国に販売キャンペーンを実施して来た。井深は「松下のような大手が相手では販売競争に勝てる自信がない」とその時、盛田九ヱ門の「井深さんの一人ぐらい面倒を見てあげます」という言葉を思い出したという。

ところが予想外の現象が起きた。松下が販売キャンペーンを行う度に東通工のテープレコーダーの売り上げが伸びていく…。昭夫は「信じられない事が起こっています」と井深に報告した。「良かったね。これであなたのお父さんの世話にならずに済む」。井深も冗談を言える余裕を取り戻していた。この不思議な現象から2人は教訓を得た。『一企業の独占ではなく、多くの企業が参加する方が、市場はよりエキサイトする』、『競争相手が出来ても、製品さえ優秀なら何も恐れる事はない』。昭夫はこの時、次のステップに進む決意をしていた。「井深さん、アメリカという大マーケットをこの目で見て来ます」。そう言った昭夫を乗せた飛行機は、昭和27年3月、アメリカに向かって飛び立った。それは、やがてソニーとなる東通工の限りない夢に向かっての大飛翔であった。

◎盛田昭夫氏については一先ず終了致します。
「鈴渓義塾」関係の方については、また改めて書かせて頂きます。
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2007/3/17

『鈴渓義塾』Vol.5..ソニー創業者の盛田昭夫と井深大No4  日記(今日思うこと)

井深大と盛田昭夫が創めた東京通信工業(東通工)は、資金繰りに苦しむ自転車操業ながらも、3年目を迎えようとしていた。当時昭夫の生家、盛田酒造を任されていた弟の和明も、会社内に電気部を設け、東通工の製品販売を後押ししたが『電気座布団』以来、一般大衆向けの製品が開発されて居らず、井深と昭夫は「もっと大衆に直結した商品を作って、会社を安定させたい」と考えていた。当時大衆商品の雄とされていたラジオは既に他の多くの会社が手がけていた為、2人は『今までに無い商品』を作り出そうと思案した。井深は戦時中、日本電気の多田正信からワイヤーレコーダーを貰っており、陸軍が使っていたワイヤーレコーダーを分解して参考にしようと提案した。昭夫はアメリカにいる友人を通じてウェブスター社のワイヤーレコーダーキッドを入手、組み立てを試みた。
クリックすると元のサイズで表示します 晩年の井深…井深大と本田宗一郎展より

組み立て上がったレコーダーは、当時開催されていた、ロサゼルスオリンピックで、「フジヤマのトビウオ」…古橋広之進が400メートル自由形で、世界新記録の樹立を報じるNHKのラジオ放送を録音する事に成功した。昭夫は縁起がいいと更に研究を進めようとしたが、ワイヤーレコーダー製造のワイヤーの材料となるステンレスは、物資のない時代にニッケル不足で不可能だった。だが昭夫は諦めなかった。ある日、何を作っているか視察に訪れたアメリカ人将校に「ワイヤーレコーダーを作りたいと思っています」と告げた。昭夫達が音声調整卓の改良で高い技術力があると知っていた将校は「アメリカには黒い粉末を塗布した紙のリボンから、音を再生する機械がある」と教えてくれた。そのアメリカ人将校の詳しい話によると、旧ドイツ軍が開発した録音機械を持ち帰り、ミネソタ社(後の3M社)が研究開発して製品にしているという。

将校によって東通工に持ち込まれたそのテープレコーダーの音を聴いた井深と昭夫は、その音に「我々が作る物はこれだ」と確信した。しかし2人が見積もった開発資金は30万円で、盛田酒造から送り込まれていた経理担当の長谷川の渋い顔が目に浮かんだ。更にテープレコーダーに関する資料は皆無に近かった。唯一役員室の本棚に本田光太郎著の『磁石』という本があるのみだった。その時、井深と昭夫がレコーダーの開発担当に選出した木原信敏が「これだ!」と叫んだ。木原はシュウ酸第二鉄に注目した。昭夫は早速、自分の知っている神田の薬品問屋へ向かいシュウ酸第二鉄の入った黄色い瓶を買い求めた。木原は炊事の小母さんからフライパンを借りて来て、シュウ酸第二鉄の粉をしゃもじでかき混ぜながら炒ってみた。欲しいのは酸化第二鉄、炒りすぎると四酸化鉄になってしまう。何度も炒り続けるうちに木原のフランパン芸?は高まって行った。その姿を見ながら社員に笑顔も戻ってきた。

こうして酸化第二鉄の粉末は出来たが、今度は紙テープに付着させる方法が問題になった。炊事の小母さんは「そりゃ糊でしょう。ご飯粒をつぶして糊にすれば」とアドバイスした。木原は貴重なフライパンとしゃもじを借りていた手前頭が上がらず、早速潰したご飯に酸化鉄の粉末を混ぜて塗ってみた。しかし乾くとバリバリになって使い物にならなかった。次に木原はペンキ屋が使っていたスプレーガンを思い浮かべ、透明ラッカーに粉末を溶かして工場の床に紙テープを貼り付けスプレーガンで吹き付けた。結果、紙テープに付着させる事は出来たが、大切な工場の床を真っ黒にしてしまった。また、狸の毛で出来た筆で塗りつけるとか、化粧品の粉白粉の原理を応用しようとしたり、試行錯誤を繰り返す内に何となく要領を得て、音のようなものが出るようになった。

1950年製テープレコーダー。 クリックすると元のサイズで表示します

次はテープそのものの開発だった。昭夫は大阪の本州製紙にいる従兄の小寺五郎に連絡を取り、6ミリの幅の薄くて強度のある紙作りを依頼した。小寺はクラフト紙に麻を混ぜて強度を増した紙テープを製作し昭夫に手渡した。その麻入りクラフト紙の表面はセロハンのように滑らかだった。少しずつテープレコーダーの部品が揃いつつある中、井深はテープレコーダーの開発には必要だった「交流バイアス法」の特許を譲り受けるべく、東北大学の永井健三郎博士を訪ねたが、既に安立電気(現アンリツ)が買っている事を知った。安立電気の磯英治社長は、井深とは中学時代からの無線友達だった事から売ってくれると快諾したが、50万円という金額に手が出ないと困り果てた。しかし、この時も日電の多田正信が、うちでも何れ磁器録音機を作りたいからと半額を持ってくれる事となった。このように東通工は、例え障害が立ちはだかっても、昭夫と井深の人間関係に助けられ解決されて行ったのである。

そこで、井深がテープを回す強力なモーター開発を買って出た。井深は徹夜に継ぐ徹夜を繰り返してヒステリシスモーターを開発、電圧と周波数が下がってもテープの回転に変化がないモーターを作成した。昭和25年1月、録音時間1時間の業務用「G型」と30分用の家庭普及型「A型」の試作機が完成。昭夫と井深が将校のテープレコーダーの音を聴いてから1年、ようやく社員の苦労が形となって日本初のテープレコーダーG型が発売されるに至った。この画期的商品は、飛ぶように売れるに違いないと、昭夫は目論んでいたが3ケ月を過ぎても1台も売れなかった。続く…。
※No5で終了予定です。
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2007/3/16

『鈴渓義塾』Vol.4..ソニー創業者の盛田昭夫と井深大No3  日記(今日思うこと)

昭和21年5月7日、資本金19万円で東京通信工業(東通工)が設立された。社長には昭夫の実家である小鈴谷の盛田家へ一緒に訪れた井深の義父・前田多門、井深は技術担当の取締役・専務、昭夫は盛田家での銀行や取引先との交渉術を買われて、取締役・常務で営業担当となった。総勢20名の小さな会社ではあったが、井深は、会社設立時の挨拶で「大きな会社と同じ事をやったのでは、我々は適わない。しかし技術の隙間は幾らでもある。大会社が出来ない事をやり、技術の力で祖国復興に役立とう」と言い、将来のソニーを予感させるものであった。
クリックすると元のサイズで表示します 中部国際空港にて2006年2月開催、盛田昭夫展より。

東通工の資金の殆どは、息子達の冒険?を祝福した盛田九ヱ門が名古屋の土地を売って工面した。裕福な盛田家といえども終戦後で手持ちの現金が払底していたからであった。更に九ヱ門は2人が技術屋である事を懸念して、盛田酒造から経理担当の長谷川純一を送り込んで人材も支援した。盛田家の支援を受けたものの、東京の焼け跡からスタートした東通工は、工場は借りる事は出来たが、その後の運転資金繰りに苦労する事となった。会社創立1ヶ月後、昭夫は帝国銀行(現さくら銀行)に融資を依頼するのだが、生まれて初めてお金を借りる事の難しさを知った。帝国銀行の会長は、万代順四郎で祖父の代から昭夫の顔見知りだったが、15万円以上の貸し出しは許さなかった。

しかし帰路につこうとする昭夫を見て万代は言った。「昭夫君、君がお金を借りに来るようになったとは、随分大きくなったものだねぇ」と。すると昭夫は胸を張って答えた。「はい。私の夢は東通工の技術を高めて、祖国復興の役に立つ事です。その為に会社を潰す訳には行きません。お金を借りる為なら何度でも伺います」。万代は、現実の厳しさを教えながらも、旧家の跡取り息子が会社設立の苦労を知って逞しくなったと、目を細めながら見送ったという。また昭夫が資金繰りに苦労した事には別の原因もあった。昭和21年2月に出された政府のインフレ対策=『金融緊急措置令』で、今までの通貨を封印して新しい紙幣を発行した。新円になったのと同時に、普通預金は封鎖預金となり、通常1人1ヶ月500円までしか引き出せなくなったのだ。よって現金を得る為の新円稼ぎ…一刻も早い商品開発が必要だった。

昭夫は井深に新円稼ぎの商品作りを依頼した。昭夫の懇願で生まれたこの商品は、2枚の美濃和紙の間に、ニクロム線を入れて糊付けし、それを皮のクロスで覆った『電気座布団』だった。だが断熱用の石綿も無ければ、サーモスタット等の安全装置も着いていない、かなり恐ろしげな商品だった(情熱の気風より引用)。井深も流石に危険性を懸念したらしく、東通工の名前をつけるのは気が引けて『銀座ネッスル(熱する)商会』という更に怪しげな仮の会社名をつけたという。しかし、まず資金をと、この座布団作りには社員の家族も総出でミシンがけをして協力し、その甲斐があってか?戦後の物のない冬に売れに売れ、新円稼ぎに一役買った。

ところが、この座布団は乱暴に扱かったり、二つ折りにすると中のニクロム線が折れ目で切断されて火花が出た。舞い込む苦情を聞いた昭夫は売る際に、必ず言葉を添える事にした。「電気座布団は、絶対に二つに折り曲げないで下さい」。昭夫の添えた言葉が功をなしてか?その後苦情は減り、この恐ろしげな商品は東通工の財務に大きく貢献した。勿論、まともな商品も作られた。焼け跡に転がっている鉄屑から作った『蓄音機用レコード針』であった。この鉄は、焼夷弾で焼かれている為、焼き直す必要がない事に注目され、リサイクル商品として作られた。正に経費節約の商品だったが、全て手作りだった為、音が良く『クリアボイス』という名前で売り出された。商品を入れる箱など無い時代、昭夫は新聞紙で丁寧に包んで秋葉原や神田へ持って行き、お店の中で針の本数を数えて手渡した。昭夫は、このように作り手が直接売り手となり、買い手に手渡す直販の方法が、やがて自分達の将来を担うと確信していた。
エジソンが開発した蓄音機。 クリックすると元のサイズで表示します
そして、この東通工の小回りの効く仕事ぶりが、NHKの目に留まり、テーブルと呼ばれる「音声調整卓(ミキサー)」の改修を注文して来た。当時の進駐軍のアメリカ向けのディスクジョッキー形式の放送には、高いレベルのミキシング効果が要求されていた。NHKの音声調整卓はそのレベルに達しておらず、進駐軍から不満が出ていたのだった。この仕事を音の仕組みを知る為に面白い仕事だと思った昭夫は、幼い頃聴いた電気蓄音機の音を思い出していた。九ヱ門は、音楽好きだった昭夫の母に輸入された国内初の蓄音機を買ってプレゼントしていた。よって昭夫の耳は機械が奏でる音に対し、既に聴き慣れていたと言えよう。井深も昭夫に賛同し、NHK既存の音声調整卓とラックが持ち込まれ、開発が始まった。その後、東通工の工場を訪れた進駐軍の准将は「何故、あんなボロ工場にやらせるんだ」とNHKの担当者を怒鳴りつけたが、仕上がった音声調整卓の出来栄えは、アメリカ本土のホワイトハウスの将校らが認め、一挙に東通工の信用は高まった。このようにして東通工はNHKの仕事を請けながら、オーディオの何たるか?を学び、やがてテープレコーダーの開発へと歩んでいく。続く…。(文中、敬称略)
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2007/3/15

『鈴渓義塾』Vol.3..ソニー創業者の盛田昭夫と井深大No2  日記(今日思うこと)

日本敗戦の玉音放送を盛田昭夫(以降昭夫と記す)は、実家の小鈴谷村で聞いた。昭夫は小鈴谷で戦艦大和の艦長…森下信衛が大和と共に沈んだが重油の中から部下に助けられ、九死に一生を得て呉に留まり『呉海軍復員収容部長』として、諸外国にいる日本人を帰国させる仕事についていると風の便りで聞いていた。森下も常滑で生まれ『鈴渓谷義塾』から巣立っていった一人であった。昭夫は井深大に会いたいと思っていたが、家業を手伝いながら世の中を静観していた。昭夫の家は、戦災に遭わず大きな屋敷も残っており、造り酒屋という事から食べる米にも不自由していなかった。しかし、戦争によって盛田で作る品物は配給制になってしまい、全国に張り巡らせた直売網は機能しなくなり、家業は縮小せざるを得なくなっていた。昭夫は、敗戦から一ヶ月半が過ぎた頃、人手が足りていた盛田家を父・久左ヱ門らに任せて、恩師の服部教授の誘いで、東京工業大学の講師となるべく上京した。

クリックすると元のサイズで表示します 古い酒造りの道具や樽等、
右には電話もある。(写真は全てクリックで拡大)


昭和20年10月6日、昭夫は朝日新聞の『青鉛筆』という記事を目にして、嬉々とした。『元早稲田理工科講師の井深大氏は、このほど日本橋白木屋の3階に東京通信研究所の看板を掲げ、一般受信機の改造、または付加装置による短波受信機を普及させようとスタートした』…喜治隆一記者によって書かれたこのコラムは「一般家庭にある受信機でも少し手を加えれば短波放送が聞ける」という耳寄りなニュースと記していた。昭夫は「井深さんが東京にいる」と喜び勇んで手紙を書いた。井深も「おお盛田君(昭夫)も無事でいてくれたか」と返事を書き、日本橋白木屋で再会を果たす事となった。この時、昭夫は24才、井深は37才になっていた。

井深は、満州投資証券社長の三保幹太郎に事業の支援を依頼し、白木屋の3階に「東京通信研究所」の看板を掲げて、「ソニー」の前前身の事業をスタートさせていた。昭夫は東京工業大学の講師をする傍ら、無給で東通研の仕事の手伝いをし始めていた。昭和21年、元海軍の技術中尉だった昭夫は「公職追放令」によって大学講師を辞めざるを得なくなった。そこで昭夫は井深と共同で株式会社を作る計画を立て始めた。しかし、昭夫には大きな壁があった。350年続く旧家の盛田家では、代々長男が当主として跡を継ぐ……。昭夫は15代目当主になるべくして育てられたはずだった。井深は小鈴谷ま出向き、昭夫の父・14代目当主・久左ヱ門に「一緒に仕事をさせて欲しい」と願い出る決意をした。
終戦当時の合資会社「盛田」と一族。クリックすると元のサイズで表示します
拡大すると左より昭夫・九ヱ門・和昭と並んでいる。


井深は自分一人では信用度も低いと、元文部大臣を務めていた前田多門に同行を依頼し、昭夫と3人で夜行列車に乗った。「盛田家15代目当主を貰い受けるのは至難の業、だが誠意を持って話をすれば」と決意し、盛田家の門をくぐった。盛田家は代々続いた旧家らしい豪壮な佇まいを見せていた。玄関を上がる時、井深は大きく深呼吸したという。座敷に通されると、父親の久左ヱ門と次弟の和昭が鎮座していた。造り酒屋の当主=頑固一徹だとイメージしていた井深に、久左ヱ門は遠くまで来てくれた事に敬意を示してこう言った。「夜行列車は大変だったでしょう。田舎で何もありませんが、温かいパンでも召し上がって下さい」…。井深は、東京では三等米も手に入れ難い時代に、ここでは進駐軍の食べているようなパンが出てくる。井深は、久左ヱ門の優しい言葉に拍子抜けしたが、「これは、体よく追い返す為の持成しだ」と気を引き締め、パンには手をつけず「盛田君(昭夫)と一緒に会社を始め、日本復興の役に立ちたい」と、丁寧に語った。話終わった井深に久左ヱ門は、静かに言った。「昭夫がやりたいと言うのならそれも良いだろう。しっかりやりなさい」。

意表をつく久左ヱ門の答えに井深は戸惑った。こんなに簡単に許しが出るとは思っていなかったからである。更に久左ヱ門は続けた。「資金も幾ばくか応援致しましょう。そしてあなたが食えなくなったら、いつでも小鈴谷にいらっしゃい。あなたの一人くらい何時でもうちで食べさせてあげます」。この時点で久左ヱ門が簡単に許したのは、実は2人の作る会社がこの先発展するとは、微塵も考えて居らず、日本復興の役に立つどころか、直ぐに潰れるだろう。その時は井深の一人位、面倒みようと考えていたからだった。しかし横で聞いていた弟の和昭は、この時点で家業の跡を継ぐ決意を固め、兄を支援して行こうと誓いを立てていた。
クリックすると元のサイズで表示します 古い酒樽と現在の「盛田」の商品。

盛田和昭は、戦時中に早稲田大学政経学部に入学したが、その直後に海軍飛行隊に志願した。和昭は硫黄島に派遣された、市丸利之助少将の指導の元、鈴鹿航空隊で硫黄島に手紙を運んだ根本正良中尉らと同じ「一式陸上攻撃機」のパイロットとなっていた。戦争末期には特攻隊へも志願していたが、特攻隊は小回りの効く一人乗りの「零戦」から出撃を命じられ「一式陸上攻撃機」のパイロットは後回しにされて予期せず生き残れた。和昭は、せっかく助かった命を家業の隆盛と兄の支援の為に使おうと決意したのだった。こうして昭和20年4月、知多半島の小鈴谷村の盛田家の屋敷で、父・久左ヱ門と弟・和昭の暖かい支援を受けてソニーの前身・東京通信工業の設立が許され、昭夫と井深は、夢への第一歩を踏み出した。尚、和昭は、その生涯を兄の支援に尽力し、あくまでも当主は昭夫として、第15代目当主代行を名乗り続けたという。続く…。(文中、敬称略)
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2007/3/14

『鈴渓義塾』Vol.2..ソニー創業者の盛田昭夫と井深大No1  日記(今日思うこと)

先日訪れた「鈴渓義塾」の創設に尽力した盛田命棋は、盛田昭夫(以降昭夫と記す)から4代前の高祖父に当たる。昭夫は、大正10年、盛田酒造、第14代目当主の盛田九左ヱ門の長男として名古屋で生まれた。昭夫が名古屋生まれだったのは、父が家業改革の為に名古屋に住所を移していたからで、本籍地は「鈴渓義塾」のある盛田酒造本拠地の、小鈴谷村であった。昭夫は15代当主となるべく育てられていたが、生まれつき体が弱かった事から、父母は昭夫の体を鍛える事を第一の教育方針として、春休みや夏休みになると小鈴谷の自然の中で過ごさせた。昭夫は午前中を勉強に費やし、午後は海に出て、水泳に熱中し、時には村の猟師達に混ざって地曳網を引く手伝いもしたという。
クリックすると元のサイズで表示します盛田「味の館」内、盛田昭夫の銅像。

また、海に入れない時は、裏山で竹を切って来ては、細く割って竹ヒゴを作り、竹ヒゴを蝋燭で温め少しずつ曲げながら翼の形にし、雁皮紙という薄い紙を貼ってゼラチンを塗って仕上げた模型飛行機を作って飛ばしていた。プロペラも竹を削って手作りし、動力にはゴム紐を束ねて使ったという。模型飛行機の後は、熱気球作りに没頭した。先に使用した雁皮紙と竹ヒゴで直径1メートル位の気球を作り、気球の開口部には家業で使用していた竹製の箍(たが→桶の周囲にはめ、その胴が分解しないように押さえつける金や竹で作った輪)を取利付け、その箍に釣りで使用する錘をつけて、気球のバランスを図った。気球が完成すると、土管を煙突代わりにして下で炭火を起こし、熱しられた空気を気球に送り込んだ。昭夫は、当時から家や自然界にある物で創意工夫する少年だった。昭夫の作る熱気球には、盛田酒造で働く若者や村の若者も協力し、皆で気球を追いかけ、村中を走り回ったそうだ。

このようにして健康になった昭夫は、当時始まったラジオ放送に興味を持ち、愛知一中(現在の旭丘高校)に進学し、自宅にあった色々な器具を分解し組み立てて、遂に真空管ラジオを作り上げた。電気通信の不思議の虜となったように機械いじりをする昭夫を見ていた、弟の和昭は『家業を継ぐ気があるのだろうか?』と、この頃から、不安な気持ちを抱いていたという。その和昭の予感は的中、昭夫は父に旧制第八高等学校の理科への入学を願い出た。酒造会社の社長になるには、経済学、或いは、理科系を選ぶにしても農学部の醸造科に入って欲しいと思っていた父親は失望したが、「どうやら昭夫は新しい物にチャレンジするという命棋翁の血筋をそのまま受け継いでいるようだ」と納得した。その後昭夫は大阪帝国大学、理学部物理学科に進学する事となる。昭夫が理科に進みたいと申し出た時、もし父親のリベラルな考え方が無かったら、現在のソニーは無かったかもしれない?と考えると、その選択が昭夫にとっても、日本の家電業界にとっても、運命の分かれ道だったと言っても過言ではないと思った。

命棋が造った銘酒「子の日松」 クリックすると元のサイズで表示します
(後に「ねのひ」と改名)


昭和8年、日本が開戦に踏み切ろうとして緊迫していた世情の中、昭夫は海軍の委託学生(大学卒業後に軍の技術将校となるという条件で、軍から学業資金が降りる学生)となり、卒業後は横須賀にある海軍航空技術廠(ショウ)に入隊した。物理学の秀才として『戦時研究会』に属し『熱線探知機』や『熱線爆弾』等の研究に取り組んだ。それは敵機が発した熱線を、サーモカップルと呼ばれる熱電対で受け熱の変化を増幅して爆弾の舵を自動的に切るという「マルケ」と呼ばれる兵器で、その開発に携わったのである。ここで昭夫は生涯の仕事のパートナーとなる井深大(以降、井深と記す)と出会う事となったが、実は、昭夫は中学時代『科学画報』という雑誌を愛読しており、「早稲田の大学生が『走るネオン』を発明した」掲載された記事を読んでいた。その大学生こそが井深で、昭夫は井深の発明を覚えていたのである。

更に井深の『走るネオン』は特許を取り、1900年、パリで開催された万国博覧会で優秀賞を受賞していたが、何と昭夫の実家の盛田酒造もパリ万国博に酒・味噌・醤油、そして当時開発されていた「カブトビール」を出展し、金賞を受賞していたのであった。品は違うが「パリ万博での受賞」という偶然の一致に昭夫は驚き、2人の話はその話題を契機に、物理科学という共通の話題で盛り上がった。また2人に共通した考えとして、昭和19年当時「神風が吹く」と精神論をかざし劣勢を認めなかった大本営に対し「この戦争は負ける」と研究会内で口にしていたという。井深は、自身で組み立てた短波受信機で、海外の日本向け放送を密かに聞いていたのだった。

その後『戦時研究会』は、B-29の東京への空襲とともに解散せざるをえなくなった。最後の会は山梨で行われ、会の後、昭夫と井深は富士駅で別れ、井深の乗った列車が先に出発した。暫くして駅には、井深の乗った列車が、敵の艦砲射撃を受けたという知らせが入った。「井深さんは大丈夫だろうか?」昭夫は気が気でなかったという。しかし幸いな事に井深の乗った列車は、運転士の機転でバックしてトンネルに入り、難を逃れていた。やがて終戦後2人は再会を果たし、東京通信工業(東通工)を発足するに至るが、2人で会社発足する願いを昭夫の父に告げ許可を得る為、井深が小鈴谷を訪れた際や、会社が軌道に乗るまでの2人の悪戦苦闘の珍道中?については、また、明日以降書く事とする。続く…。(文中、敬称略)

◎参考
盛田酒造パンフレット・「情熱の気風」より
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2007/3/10

『鈴渓義塾』Vol...1『鈴渓の心』を受け継ぐ小学校を尋ねて。  日記(今日思うこと)

ここ数日、各学校の卒業式の仕事を承っていて、お陰様で忙しい日を送って居り、ブログの更新も出来ずにいたが、実は私の頭の中が飽和状態で、整理がつかない状態であった。それは、今週の連休、久しぶりに2日とも外出し、春の嵐のような天気だった月曜日(5日)は『ねのひ』のお酒で知られている『盛田の味の館』へ行き、その後、盛田家の15代目の当主となるはずべく育ち、その影響を受けた私塾…『鈴渓義塾』の精神を受け継ぐ、常滑市立小鈴谷(こすがや)小学校を訪れ、資料を見せて頂いた。
クリックすると元のサイズで表示します 盛田酒造…味の館。

盛田酒造が実家の盛田昭夫。クリックすると元のサイズで表示します
(小鈴谷小学校資料室にて撮影)
 

そして翌6日は念願だった『ノリタケの森』、『徳川美術館』へ行く事が出来た。しかし、これだけ中身の濃いお休みを過ごすと、まるで和風懐石、フランス料理のフルコース、更にしゃぶしゃぶ懐石を朝、昼、晩と食べたような?感じで、私の脳のCPUは飽和状態になってしまった。恐らくこの3ケ所の施設については、私のつたない筆で何処まで表現出来るか全く自信がない。まだまだ頭の中が整理できている訳ではないが、少しずつでも、書き始めようと思った。『鈴渓義塾』…開国間もない明治5年に、小鈴谷村郷小学校としてスタートを切った。当時は、尋常小学校より高等の教育を受ける為に作られていた学校は、知多半島には、半田一校が作られていたのみで、通学が困難な子供達の為に、盛田昭夫氏の4代前の当主、盛田命祺は、私財を投じて私塾『鈴渓義塾」を作るに至ったのであった。

クリックすると元のサイズで表示します小学校玄関の「鈴渓義塾」の文字。

その時の塾長には、村郷小学校の校長として盛田翁に呼ばれていた、伊勢神宮の神官の子息で、国漢文は勿論の事、数学、ドイツ語、物理学に長けていた溝口幹が就任した。盛田翁と親交があった福沢諭吉の作った『慶応義塾』に比べると、『鈴渓義塾』は現在の小学校高学年から、中学校低学年の少年少女の教育の場となっていたが、教えられたいた内容は、現代の高校生並みにレベルが高く、英語、数学、理科、国文、漢文、簿記、体操などが教えられていた。体操では、当時殆ど行われていなかった野球も教えられており、文明開化を迎えたばかりの日本、それも知多半島の田舎の小鈴谷村でこんな教育が行われていたと知った私は、何かで頭を殴られた程のカルチャーショックを受けてしまった。

『鈴渓義塾』の卒業者名簿を見ると、更に目を見開いてしまう。トヨタの大番頭としてトヨタ自動車中興に貢献した石田退造、戦艦大和の艦長だった森下信衛、「標準語の父」と呼ばれた文学博士の石黒魯平、敷島パン(PASUCO)の創業者である盛田善平、東芝会長の岩田弐夫、元文部事務次官の伊東延吉…等、錚々たるメンバーの名前が、連なっている。『鈴渓義塾』についての著書、二宮隆雄の『情熱の気風』によると、某新聞社の取材では、『鈴渓義塾』のあった小鈴谷村を「尾張の教育村」と記した上で「お百姓の老人でも、かなりの英語を話し、数学、国語に至るまで達者だという珍しい村がある」と小鈴谷村の事が書かれている。また、展示室には、多くの文献、資料が残されており、溝口幹自ら墨書した英語、数学の教科書、更に顕微鏡の見方の本や、溝口幹が愛用した品々が展示されていた。
クリックすると元のサイズで表示します 英語の教科書と答案用紙。

溝口直筆の顕微鏡の見方の本。
クリックすると元のサイズで表示します

また、溝口幹は、人としての生きるべき姿を自ら率先して生徒に見せ、『鈴渓義塾』の名前に恥じない人間味のある教育を目指したという。それは子供達の長所を認め、得意な分野を伸ばすよう指導した。トヨタ自動車創業を経済面で支え続けた、石田退三は、溝口幹の言葉を『情熱の気風』の中でこう振り返っている。

「これから あなたが自分の長所を認めてもらいたいのなら、
 まったく逆の人の長所も認めてやる、大きな気持ちが必要です」


『鈴渓義塾』の卒業生については、それぞれ少しずつ、書き記していくつもりだが、私が訪れた小鈴谷小学校の先生方は、突然の訪問者の私を温かく受け入れて下さり、貴重な資料を見せて頂けただけでなく、校長室で校長先生とも、お話する事が出来た。小鈴谷小学校では、現在でも『道徳』の時間を設け、有徳人、盛田命棋、塾長で教育者の鏡であった溝口幹が築き上げた『鈴渓の心』を子供達に語りついでいるという。私は小鈴谷小学校に、本物の『学校の姿』を、そして先生方のお姿に本物の教育者の姿を見つけられた気がして、心が洗われる思いであった。5日は春の嵐のような一日だったが、学校から出る頃には、嵐のような天気は収まり、雲の切れ目から一筋の光が刺していた。その光を見つめながら、この学校を訪れて良かった…と心から感謝した。

クリックすると元のサイズで表示します小学校入り口の『鈴渓の心』の石碑。

※温かくお迎え頂いた小鈴谷小学校の山田校長先生、職員の皆様に厚くお礼を申し上げます。

※お詫び
盛田昭夫氏は『鈴渓義塾』の創設者・命棋翁の精神を引き継いだようですが、住民票は名古屋にあった為、卒業していないそうです。お詫びして訂正させて頂きます。メールにてご指導下さった小鈴谷小学校の山田校長先生に、改めて深くお礼申し上げます。

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2007/3/4

花を愛したモナコの王妃…グレース・ケリー展  日記(今日思うこと)

三方をフランスに囲まれ、一方は地中海に面した世界で二番目に小さな国…「モナコ」。この国の名前を聞いて人それぞれ、何を思い浮かべるだろう?。車の好きな人は「F-1グランプリ」や、「モンテカルロ・ラリー」。アメリカのラスベガスの人気に負けじとも劣らないカジノ。いやきっと「モナコ」という国の名前を世界に知らしめたのは、モナコ公国のレニエ公に嫁いだ、当時アメリカのハリウッド女優だった、グレース・ケリーに違いない。「モナコ」=グレース・ケリーと思い浮かべる人は、きっと多いと思っている。「モナコ」の美しさは、限りなく澄み切った空の下、太陽の光をふんだんに浴びた国土には、季節の花が絶えず咲き誇り、バロック形式やネオ・バロック形式など趣向を凝らした建築物が立ち並ぶ。そして眼前には地中海の紺碧の海が広がっている…。国全体が"リヴィエラの真珠"と呼ばれ『地上の楽園』とも言われている。その「モナコ」に、より一層の輝きを与え、世界中の人々から注目を浴びさせたのが、グレース・ケリーのシンデレラストーリーだった。
クリックすると元のサイズで表示します ガルニエのデザイン…グラン・カジノ

レニエ公とグレース・ケリーの出会いは、1955年、グレース・ケリーがオスカー賞を受賞してカンヌ映画祭へ出席した際、「パリ・マッチ誌」のお膳立てで、モナコ公国を訪問、レーニエ公に紹介された。2人は意気投合し、グレース・ケリーがアメリカに帰った後も手紙による交際が続いたという。そして、1956年4月18日、壮麗な装飾が施された戴冠の間で、レニエ公とグレース・ケリーの法的結婚式が行われ、翌19日、カテドラル教会に於いての宗教的結婚式が執り行われた。特別に注文された19世紀のレースと上質のシルクタフタで造られた豪華なウェディングドレスと、無数のパールが散りばめられたヴェールに身を包んだグレース・ケリーは、高貴な美しさに満ち溢れ世界中の人々を魅了した。
クリックすると元のサイズで表示します ハリウッド時代のグレース・ケリー

可愛さと気品溢れるウェディングドレス姿。 クリックすると元のサイズで表示します

レニエ公は、7世紀の歴史を誇る名門・グリマルディ家の血を引き、26才の時、祖父の後を継いでモナコを治めるようになった。若いレニエ公は、内気で口数も少なかったが、真面目でモナコの国をこよなく愛し、国土開発にその若き情熱を注いだ。斬新な建物を次々と建て、文化、産業を支援しながらモナコ経済を豊かにして行った。モナコ国民はそんなレニエ公に尊敬と感謝の気持ちを抱いていたという。その君主が素晴らしい女性と出会い、妃として迎えた。しかしグレース公妃は結婚当初、フランス語も話せず国民から部外者扱いをされたように孤独感を感じていたが、バラ園を造るなど花を心から愛し、文芸に深い知識と関心を持つ知性を高め、フランス語、ドイツ語も身につけて行った。
クリックすると元のサイズで表示します 公妃に捧げられたバラ…プリンセスオブモナコ

公妃が作成した押し花 クリックすると元のサイズで表示します

中でも「押し花〜Pressed Flowers〜」のアーティストとしては、世界的に著名であり、何冊かの著作本も発表、ピアジェはグレース公妃のデザインした押し花を、スカーフにデザインして発売している。また、彼女のファッションは、ドレスに始まり、帽子、バッグと小物に至るまで、世界中の注目を集めた。そして、現在も彼女の名を残す、エルメスのケリーバッグ…。これは公妃が長女、カロリーナ公女を妊娠した際に、マスコミに妊娠を悟られないよう、エルメス社のバッグ「サック・ア・クロワ」で腹部を隠して公務に出席したを契機にして、世界的に有名となり「ケリーバック」と名付けられた。また公妃は、病院、老人ホームへの訪問など、慈善事業にも力を注ぎ、53才という若さでこの世を去るまで、モナコ公妃としての全ての役割に、全身全霊を注いだという。
クリックすると元のサイズで表示しますデイオール(右)とシャネルのドレス(左)

公妃が愛用したケリーバック。 
クリックすると元のサイズで表示します

グレース・ケリー展は、名古屋では、2月16日から26日までJR高島屋特設会場で開催された。公妃が残したプレストワークの作品の数々、そしてこれまで、門外不出だった公妃愛用のケリーバッグを含め、帽子、手袋、スカーフ等の小物から、イブニングドレスの数々、レニエ公と初めて会った時のドレス、法的結婚式に着用したツーピース等、多数の公妃所縁の品々が出品されていた。これら王室の私蔵品は、日本で開催された本展示会が、この後開催されるモナコ、アメリカでの展示に先駆けての世界初公開となった。尚この後、大阪、東京、広島、神奈川、北海道と全国を移動し展示公開される。
クリックすると元のサイズで表示します

◎グレース・ケリー展 公式HP
http://www.vogue.co.jp/gracekelly/
◎写真は、パンフレットを転写。一部友人撮影。
グレース・ケリーの名前は結婚後「公妃」と記載した。
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2007/3/1

従姉の便り(トルコ旅行)から…ヒエラポリス・パムッカレ  日記(今日思うこと)

7年前、周囲の反対を押し切ってイスラエルへ旅行に行った従姉は、以降すっかり地中海東部の国へ旅をするのが趣味となった。従姉は判事という仕事を持って居り、何やら昨年は新聞に名前が載る程に?出世したらしく、ここ暫く、かなり忙しかったらしいが、年が明けて少し時間が出来たからと、今度はトルコへ行って来た…という便りとお土産が届いた。忙しい中、滞在日数を最低限にして、無理を押してでもどうしても行きたかったと言う場所は、パムッカレ…。ヒエラポリス・パムッカレは、トルコ西部のアナトリア高原に広がる、ユネスコの世界遺産の複合遺産 (文化、自然と両方の価値を兼ね備えた遺産)に指定された石灰棚の広陵地帯である。

クリックすると元のサイズで表示しますパムッカレの石灰棚…水が青く輝く。

この温泉水が作り出した幅2キロメートル、高さ200メートルにも及ぶ石灰棚は、一万年前から現在に至るまで成長し続けており、その美しい景観を独り占めにするかの如く2世紀頃には、ローマ帝国の都市…ヒエラポリスが造られた。パムッカレとは、トルコ語で「綿の城(宮殿)」という意味で、地中から沸き出た鉱泉が石灰の崖を流れて、空気に触れ石灰華として結晶化され、純白の棚田のような景観を生み出したという。この純白の石灰棚は、水の部分が光を写して、朝陽によって青白く、夕陽には茜色に染まる…。このように刻一刻と色を変えていく様は、見る者を虜にし、時間を忘れさせてしまうらしい。
クリックすると元のサイズで表示します

純白の石灰華を下から眺める。クリックすると元のサイズで表示します

ヒエラポリスは、ローマ帝国の温泉保養地として全盛期には、5万人の人々が住み、ローマ帝国の東の拠点として栄えた。何度も地震に襲われ、その度に復旧を繰り返すが、1954年の大地震(震度5と推定されている)で完全に崩壊…。温泉水に飲み込まれた遺跡群は、歴代のローマ皇帝が一時の癒しを求めて暮らした夢の跡と言えよう。この温水プールは、深い所で4〜5メートルあるそうだが、水は澄んでいて、沈んだ遺跡の支柱等がよく見えるという。また、陸の上に残された遺跡には、15000人収容出来たというローマ劇場の跡、当時は社交の場であったとされているローマ浴場跡や、神殿跡、共同墓地等がある。このヒエラポリス・パムッカレには、毎年、多くの観光客が訪れており、石灰棚は一部が開放されて、裸足で歩く事が出来るらしいが、人が足を踏み入れる事による石灰質の破損や、水質の変化が懸念されているという。
クリックすると元のサイズで表示します お土産の一つ…陶器の壁掛け。

◎TV放送 TBS系『世界遺産』(ヒエラポリスとパムッカレ)
BS-iで、3月2日 23:00〜23:30まで放映予定。

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