2007/2/27

博物館「酢の里」を見学して…ミツカン創業の酢…『山吹』  日記(今日思うこと)

土手には土筆が顔を出していた。寒い週末が明けて暖かさが戻った26日、私は「はんだ蔵のまち 雛祭り」が開催されている半田市内の半田運河沿いにある『清酒・国盛』の「中埜酒造」と、酢の生産高全国一を誇る「ミツカン酢」周辺を散策した。そして、その散策の第一目的は、酒粕から造られる「ミツカン酢」創業の契機となった『三ッ判 山吹』を購入する事だった。私は半田に住んでまもなく「半田の繁栄を担った商品だから」と、この酢をお客様から頂いた。初めて目にした時、その色から一瞬「黒酢?」と思ってしまったが、実は酒粕から熟成された希少価値のある酢だと知った。その時「酢」の造り方にも非常に興味を持ち、「ミツカン酢」が経営する私設博物館『酢の里』を訪れる事となった。そして今回は、それ以来2度目の訪問であった。
クリックすると元のサイズで表示します 酒粕から造られる『三ッ判 山吹』

酢の歴史を辿ると、世界的には紀元前5000年に、古代メソポタミア南部のバビロニアで、ナツメや干しブドウを原料とした『酢』が記録として残されており、世界最古の調味料とも言われている。その名前も、フランスで「ビネーグル」(VINAIGLE)は、「ぶどう酒」(VIN)と「すっぱい」(AIGRE)を語源として、ワインを貯蔵して置いたら発酵して『酢』となった事に由来する。また、漢字の『酢』も「酉…酒を入れる器や酒」+「乍…重ねる」の意で「酒が日数を重ねて出来た物」を表しているという。その『酢』の製法が中国から日本へと渡って来たのは、5世紀頃の平安時代とされており、貴族達が生魚や干し魚を酢や塩につけて食べたと記録されている。更に鎌倉時代になって、調味料として料理の味付けに使われるようになり、やがて江戸時代、東京湾で獲れた生魚を酢や塩で締めて腐敗を防ぎ、酢を混ぜた飯に乗せるという「江戸前寿司」と呼ばれた握り寿司が、一世を風靡して定着し、現代に至っていると言われる。(以下の写真はクリックで拡大)
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当時の寿司の模型↑と説明→ 
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この江戸時代の末期、1804(文化元)年、造り酒屋の息子だった中野(四代目より中埜と改名)又左衛門は「酒を作った後に残る大量の酒粕を生かす道はないか?」と考え『粕酢』を考案した。この酒粕のリサイクルから生まれた『粕酢』は、独特の芳ばしい風味と、なめらかな舌触りで、当時流行っていた「江戸前の寿司」によくマッチしたそうだ。飴色の『粕酢』を混ぜた酢飯は、褐色を帯び、その色から『山吹』の名前がつけられたという。又左衛門の作る『山吹』は、尾張国知多郡半田村の港から船によって江戸に運ばれた。『山吹』が人気を博した背景には、この海運の便に恵まれた半田の立地条件も大きく寄与していたと言えよう。当時から現代まで使用されているミツカンの工場一帯は『酢』の香りを漂わせ、この蔵達が歴史的遺産として…ではなく、現在も生きて呼吸している証のように思える。
クリックすると元のサイズで表示します半田運河沿いに建つミツカンの建物
※電線が運河の下に埋めらている為クリックすると元のサイズで表示します
『姿三四郎』等、時代劇の撮影にも使用された。


そもそも『酢』とは、お酒から出来る産物であり、原料も酒と同じの「穀物」と「果実」に分類される。また、農林水産省による品質表示基準によると『食酢』は、「醸造酢」と「合成酢」に2分され、その中の「醸造酢」は、穀類、果実、アルコール、砂糖を酢酸発酵させた液体調味料であると表示されている。穀物酢は、主にその原料から「米酢」「米黒酢」「大豆黒酢に分けられ、果実酢としては「りんご酢」「ぶどう酢」などが挙げられる。ミツカンでは「ミツカン酢」と呼ばれる「穀物酢」が大量生産され、「酢」の代名詞として日本のみならず、世界各地に輸出されているが、本社のみで、創業時の酢…『山吹』を生産している。近年になってネットでの直販も出来るようになったが、以前は本社と半田市内限定のお店でしか手に入れられなかった。このまろやかな酸味を特徴とした酒粕酢=米酢に分類される『山吹』は、その香りを味わう為にも、酢の物、酢飯、和え物、酢漬けなど、加熱しないで使用する調理に向いているとされ、「ミツカン酢」は、穀物酢のすっきりした酸味を生かして、酸味スープ、酢豚、さっぱり煮など、加熱する調理に使用するよう…推奨している。

日本で唯一の酢の総合博物館…「酢の里」では、古の昔を偲ばせる佇まいの中、酢造りの技と道具、方法を模型や図解で紹介しながら、倉人達が作り上げてきた酢造りの精神を学ぶ事が出来る。また、医学の父と呼ばれた古代ギリシャのピポクラテスも注目していたとされる酢の効能も、現代では、ミツカン中央研究所にて科学的に分析、紹介されており、健やかな暮らしぶりを追求している現代人にとっても、先人達が残した贈り物の価値が高いことを証明している。尚、外国の「酢」の種類として、アメリカの「ホワイトビネガー」、イギリスの「モルトビネガー」、イタリアの「バルサミコ酢」なども紹介されていた。また、この一帯には、中埜グループの「国盛り 酒の文化会館」もあり、東海地方の醸造酒の歴史も学ぶ事が出来る。

◎ミツカンお酢ショップより…『三ッ判 山吹』の出来るまで。
http://shop.mizkan.co.jp/special/howto/index.html 

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2007/2/24

もうすぐ雛祭り…雛祭りの思い出と姪の為の手作り雛  日記(今日思うこと)

私がこの時期、毎年訪れる場所がある、それは名古屋市の徳川園の中に造られている「徳川美術館…。2月初旬より4月の第一日曜日まで、企画展として展示されている『尾張徳川家代々に伝わる雛飾り』の展示を観る為である。徳川美術館は、昭和6年、当時侯爵であった徳川義親の寄附によって創立され、尾張徳川家の歴代相伝の「大名道具」が収められている。今年は、この企画展が20周年を迎え、会津・松平恒雄氏の長女で、秩父宮雍仁親王のお妃となられた勢津子様のお雛様も展示されているという。来月になったら是非、足を運びたいと思っている。
クリックすると元のサイズで表示します 名古屋市東区にある徳川美術館。

さて、雛祭りといえば、私の育った家は新暦(グレゴリオ暦)の3月3日ではなく、旧暦の3月3日(現在の4月)まで飾られていた。元々「桃の節句」とは、旧暦の雛祭りの日の前後に桃の花が咲く事から呼ばれていた…というのが、祖母の言い分で、床の間には桃の花も必ず生けてあった。雛飾りの私にとっての思い出は、出してお人形に冠などを飾り付けて行くのは楽しいが、片付ける事が大変で、いつも私と祖母の仕事?とされており、4月に入ると少し憂鬱になった記憶がある。そもそも我が家では、生みの母が違う為、妹も雛飾りを持っていて、私の雛飾りが「屏風形式」であったからと、妹の品は「御殿形式」であった。「御殿式」は、組み立てるのも容易ではなかったが、解体して、小さな部品を一つ残らず書き記された箱へ、間違いなく入れていくのは、実に大変だった。しかし毎年、組み立てと解体を繰り返していた私は段々慣れて行き、将来「宮大工さん」になろうか?と思った程だった。
生後8ヶ月の私とお雛様。クリックすると元のサイズで表示します
(変色していたカラー写真を、スピンさんのお友達が、色を再現して下さいました。
結果、実物とほぼ同じ色になって感激しました。スピンさん、ありがとう♪)


雛祭りは、その歴史を辿ると起源は、平安時代中期(約1000年前)だという。当時は3月初旬の巳の日に、上巳(じょうし、じょうみ)の節句と読んで、無病息災を願う祓いの行事をしていたらしい。陰陽師を呼び、神に祈りを捧げ、季節の食物を供えて、また人形に自分の災厄を託して海や川に流したのだそうだ。また、当時の上流の女の子達の間では「ひいな遊び」が行われており、「ひいな」とは「お人形」のことで、紙などで作った人形と、御殿や、身の回りの道具をまねた玩具で遊んでいたという。この人形を使った「ひいな遊び」は、紫式部の『源氏物語』や、清少納言の『枕草子』の中にも書かれており、やがて江戸時代にその「ひいな遊び」と、前記した「節句の儀式」が一緒になって、現在のような雛祭りの形となったそうだ。そして徳川家に嫁いだお姫様のように、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的な意味で、嫁入り道具の重要な家財の一つとされたという。
クリックすると元のサイズで表示します 縮緬で作られた兎のお雛様。

昨年、姪が初節句を迎え、お祝いを何にしようか?と考えていた頃に、スタッフの子が、お店の中に手作りのお雛様を飾ってくれていたので、私は「同じような物を作って欲しい」とお願いした。しかし昨年のこの時期彼女は、独立の準備で公私共に忙しく、作る事が出来なかった為、今年になって忙しい中、その約束を果たしてくれ、今夜、私の手元に届けてくれた。心を込めて、一針ずつ縫われて作られた兎のお雛様は、とても可愛く味わいがある。そして世界にたった一つしかない、姪の為に作られたお雛様である。私は並べ写真を写して、弟夫婦にメールを送った所、早速明日、取りに来ると返事が届いた。姪の持っているお雛様の横に、愛嬌たっぷりのこの兎のお内裏様とお姫様が並べられると思うと、何だか今からわくわくしてしまう。

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一人?ずつ撮影。 クリックすると元のサイズで表示します

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後ろ姿。尻尾もあって愛らしい…。 クリックすると元のサイズで表示します
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2007/2/21

祖母の旅立ち…天国へ  日記(今日思うこと)

先週母方の祖母が、長い肝臓癌の痛みとの闘いの末、
天国へと召されました。お蔭様で最後は眠るように逝きました。
通夜、葬儀、そして、その後片付けでバタバタしており、
頂いたコメントの返事及び、ブログの更新をお休みさせて頂いています。
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ご心配のメールを頂きまして、感謝させて頂くとともに、
メールの返事など、遅れました事、深くお詫び申し上げます。

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明日から、通常通りの生活に戻る予定です。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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2007/2/16

友より届いたイーストボーン・セブンシスターズの写真に思うこと  日記(今日思うこと)

ロンドンから南東約100キロにあるEastbourne(イーストボーン)の美しい街…。その街の西の海岸沿いのドーバー海峡沿いに続く、白亜の断崖=ホワイトクリフは、一目見た人を虜にする美しさだという。7つの凹凸がある事から、白い衣装をまとった7人の修道女に見立てられ、別名Seven Sisters(セブン・シスターズ)とも呼ばれている。1991年、アメリカ制作の映画「ロビン・フッド」のイギリスへの上陸シーンにも登場するこの断崖は、全長約5キロ、高さ最高、約120メートル(350フィート)あるそうだ。この地層は、約15000年前から6500年前の白亜紀に形成されたとされ、白亜とは石灰岩のことを言い「白亜紀」という名前もこのホワイトクリフに由来しているらしい。この地層は、プランクトンの死骸の殻が、長い長い年月をかけて海底に蓄積し、このような石灰岩の白い地層ができ上がったという。(写真はクリックで拡大します)


クリックすると元のサイズで表示します Eastbourne・Seven Sisters

太陽光に反射して、ひときわ美しい クリックすると元のサイズで表示します

考えるだけで気が遠くなりそうだが、白亜紀とは、地質年代区分用語でK-T境界(白亜紀=Kreide:ドイツ語と新生代、第三紀=Tertiaryの境目)と呼ばれ、巨大隕石の落下説、または、地殻変動によって気候が変化に伴う植物相の変化で動物の餌の不足説等で、恐竜等を代表とする大型爬虫類が大量絶滅したと言われている時代である。世界的な暖冬で異常気象が続く中、人類を含む生き物自体、小さな塵のような存在にも思えて、大自然の力には太刀打ち出来ないと改めて感じさせられる。友達から届いたこの写真は、大自然が作り出す美しさ、壮大さに圧倒され、言葉を失くす程であった。
(以下の写真…ネットより)
 
クリックすると元のサイズで表示します wandelpaden.comより
  
人との対比でその壮大さが判る…。クリックすると元のサイズで表示します
photo by David Sellman. (ネット情報の提供:コロコロさんより)


   人間は、自然によって生かされてきた。
   古代でも中世でも 自然こそ神々であるとした。
   このことは、少しも誤っていないのである。


                      ― 司馬 遼太郎 ―
                     (『21世紀に生きる君たちへ』より)


◎お詫び、
セブンシスターズの壁の高さは、350フィート(約120メートル)だそうです。
お詫びして訂正させて頂きます。    2月16日 1:20PM by hotaru.

◎WIKIPEDIAより(英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Seven_Sisters,_Sussex
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2007/2/13

梅を愛でた休日…岐阜「梅林公園」を訪れて  日記(今日思うこと)

建国記念日の振替休日、私は久しぶりにお休みが一緒になった友達と「和服を着て何処かへ行こう」を合言葉に、岐阜市にある「梅林公園」へ出かけた。岐阜城のある金華山の山麓にある「梅林公園」は、明治初期の1982年、岐阜の上加納(かみかのう)の素封家(位は持たないが代々の財産のある家)の当主・篠田祐助氏が、この地を開き木を植え私邸の庭園を作り、一般に開放した「篠ヶ谷園」を祖とする。やがて1948年(昭和23年)、篠田祐助氏の孫、篠田祐八郎氏(現、平成薬品社長)が、先代の志を継ぎ、岐阜市に寄贈して、「梅林公園」と命名された。その後、市が南側を拡張して2.9ヘクタールとなり、梅は約50種類で、白梅700本、紅梅600本の合計1300本が植えられている。毎年1月末頃から早咲きの梅が咲き始め、見頃は3月上旬頃となる。昭和26年から3月の第1週目の土・日に梅祭りが開催され、遅咲きの梅は、桜の蕾がほころぶ3月下旬頃まで咲き、訪れる人達を楽しませてくれる。

クリックすると元のサイズで表示します ←筆者。後千両、前びっくり?

◎以下、2月12日現在梅林公園内に咲いていた主な梅の種類

※早咲鶯宿   【野梅系野梅性、色→白、形状→八重、時期→早咲き】
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早咲鶯宿など、野梅系野梅性の特徴は、原種に近く樹の勢いは強健で枝は細く
短枝は針状である。葉は小さく、僅かに軟毛が生えている。

※難波紅  【野梅系難波性、色→紅、形状→八重、時期→中咲き】
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内側の花弁が、中側に巻きこむように咲く為、花全体に丸みがあって、
色も淡いピンクでとても可愛く人気の品種。

※青軸(月の桂)【野梅系青軸性、色→白、形状→一重、時期→中咲き】
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野梅系の中で、がくや新枝(剪定後新しく伸びた軸)が、緑色を帯びる。
花弁も緑がかった白で花びらは普通五弁だが六弁になっている割合が高い。

◎鹿児島紅   【緋梅系緋梅性、色→紅、形状→八重、時期→中咲き】
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紅梅の中では最もよく知られる品種の一つ。蕾も一段と濃い色で目立ち易く、
花つきも極めて良い。

梅林公園内には、岐阜県を代表する15の歌人・書家らの歌碑があり、中でも1988年、岐阜市政100年を記念して建てられた、大沢碧水 (1911〜1989)の碑は、公園内の中央の池付近にあり、歩く人の足を留めていた。

クリックすると元のサイズで表示します

  「梅林は心のふる里
春にさきがけて花を見せる
梅はわが心を洗い
勇気をよびおこしてくれた
梅林はわが心のふる里 」


◎大沢 碧水
本名、大沢繁信 山県郡美山村(現在山県市美山町)出身の書道家。
県書道作家協会会長として多くの書道家を育て、県下の書道界を発展させた。自身も昭和27年から49年まで日展に連続入選し、調和体の近代詩文を大成させた。

公演を散策しながら、金華山の麓に近づくと、手入れが行き届いた大きな松が梅の木の中、その勇姿を見せ圧倒的存在感を見せる。この松は、「太夫松」と呼ばれ、篠ヶ谷園の創園者、先に記した篠田祐助氏の長男、祐喜氏が大切にしていた松だそうだ。以前は上の池の渕にに植えられていたが落雷で樹が折れた為、現在地へ移植したという。

太夫松の前で…。  クリックすると元のサイズで表示します 

更に奥へ歩いて行くと、山麓には大正12年創業の料理旅館「植東」がある。このお店は、白味噌と赤味噌を両面に塗った木の芽田楽と菜飯が有名で、私も幼少時の頃より、ここの田楽が大好物だった。もう少し暖かくなると、野点でも食べられるようになっていて味わいがある。建物は数奇屋造りとなっており、梅林公園の景観と一体化している。私達は梅の形のテーブル前に座り、田楽に舌鼓を打った。梅は、春に先がけ、寒い冬の薄日のもとに花を開かせ、芳しい香りを放つ…。古来、世界に類を見ない東洋独自の花と言われており、遠く奈良時代においては、花と言えば「梅」を意味し、万葉集に歌われた数は、桜を遥かに凌いでいる。私達は、4人揃って大島紬を着て出かけ、風は冷たかったがよく晴れ渡った早春の一日を堪能した。

クリックすると元のサイズで表示します 「植東」の入り口。

田楽とつぶ貝の串焼き クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します 漆塗りの梅形のテーブル。

◎箸休め
大島紬に帯や小物をコーディディネートして出かけた私達であったが、寒気に負けてショールを取って撮影する事を忘れてしまった。更に昼は名古屋市内の「銀座天一」で天麩羅を食べ、夕方には田楽を食べたが、食い気に負け料理を写す前に食べてしまった。ブログに写真を載せる事をすっかり忘れてしまっていた私は、まだまだブロガー?としての修行が足りないと思った。

クリックすると元のサイズで表示します 筆者のコーディネート。(携帯カメラにて撮影)
泥大島に梅模様の八掛け付き着物、唐織半巾帯、梅形の帯留使用。
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2007/2/6

バートランド・ラッセルの名言  日記(今日思うこと)

幸福になる秘訣をお教えしよう。
できるだけ 色々なものに興味を持ち、
物事であれ、人間であれ 興味を感じるものを無視せず、
できるだけ 好意的に接することだ。


                  ― バートランド・ラッセル ―
                     (イギリス哲学者)


バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell(1872年〜 1970年)は、イギリスの首相を1846年から1852年、そして1865年から1866年と2度務めたジョン・ラッセル伯爵を祖父に持つ、論理学者であり数学者、哲学者である。1955年、アインシュタインら11名の科学者と共に、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた宣言文…「ラッセルアインシュタイン宣言」の提唱者であり、第一次世界大戦以降、1970年に97才でその生涯を閉じるまで、現実主義的な平和主義を通した。尚、1967年、ベトナム戦争に対しては「沈黙は犯罪である」と唱え、サルトルらと、アメリカの対ベトナム政策を糾弾する民衆法廷=ラッセル法廷(国際戦争犯罪法廷)をストックホルムにて開廷し、世界の世論に戦争の犯罪性をアピールした。また1961年には、イギリスの核政策に対する、国防省前の座り込み等で、2度目の懲役刑をうけている。1950年、「世界五分前仮説」等で、哲学者としてノーベル文学賞受賞。
 
クリックすると元のサイズで表示します 「自伝的回想」1970年刊の新装版。

◎「バーラント・ラッセル」オンライン・ライブラリィ(英語)
http://russell.thefreelibrary.com/

◎箸休め
買い物に行ったら、可愛い長靴と傘達が色別に並べられ、綺麗なグラテージョンをかもし出しているコーナーを見つけた。空気が乾燥して、インフルエンザが蔓延しつつある中、この傘や長靴達は、雨や雪が降るのが待ち遠しそうだった。

全色揃えて飾りたい…可愛らしさ。 クリックすると元のサイズで表示します

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2007/2/1

2007年…年が明け慌しく走り抜けた1月を振り返って・・・  日記(今日思うこと)

今日は月末…帳簿の数字と戦った私は、精魂使い果たした感じです。もうすく確定申告もあって、頭が痛いのですが、気分を落ち着かせる為にも、この1月を振り返って見ました。今年の成人の日は、最も早い1月8日…そして市町によっては、7日の日曜日に式を開催した所も増えました。近郊の市町ではアンケートを実地した結果、来年は日曜日になる可能性が高いです。来年度の予約は既に頂いているのですが、開催日が決まらない限り、まだ予約時間が読めない状況です。
クリックすると元のサイズで表示します 成人を迎えられたKさんの後姿。

Yさんの豪華な帯での帯結び。 クリックすると元のサイズで表示します

成人の日が終って、大エルミタージュ展へ行ったり、イタリアの調度品を売っている店に行き、ヴネチュアンガラスでも最も技法が難しいと言われているレースの器や、スワロフスキーがふんだんに使用された陶器も観て来ました。慌しい1ヵ月でしたが、映画を何本か観たり、何とか充実して過せました。そうそう、お正月には午後からですが、久しぶりに和服で出かけました。また、ブログではスピンさんが貴重な写真を送って下さり、拙ブログに知性溢れる彩りも添えて頂きました。1月もあっという間に終ってしまいましたが、充実して過せたと思っています。コメントを書いて下さった方々や、読んで下さった方に感謝すると共に、1ヵ月間の無事にも感謝したいと思います。

クリックすると元のサイズで表示しますスワロフスキーが装飾された陶器。

繊細なレースガラスのワイングラス。 クリックすると元のサイズで表示します 

さて、いよいよ2月に入りますが、今月12日には和服を着て、梅を愛でてきたいと思っています。大島紬や真綿紬などお洒落着を着ていくつもり…。和服の似合う友達も、お母さんの形見を来て一緒に行ってくれる予定です。また、時間が許す限り「ノリタケの森」や「イタリア村」、「蘭の館」などにも是非、足を運びたいと思っています。明後日頃から寒くなるとか…。皆様もお元気で過して板だけますように…と願いつつ、私も床につきますが、今夜は、どうも数字に追い駆けられそうな夢を見そうです。

ギュスターブ・ヨンゲの『散歩の後』 クリックすると元のサイズで表示します
(大エルミタージュ展より)


※頂いたコメントの返事が、遅れていました。ごめんなさい。
ようやく書かせて頂きましたので、読んで頂けたら嬉しいです。
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2007/1/30

湯川秀樹博士生誕100年…ラッセル・アインシュタイン宣言  日記(今日思うこと)

去る2007年1月23日は、中間子理論で日本人初のノーベル賞に輝いた湯川秀樹博士の生誕100年にあたる日だったという。振り返ると2005年の愛知万博…7月8日〜11日に、私は出向く事が出来なかったが、長久手会場のロータリー館で「国際平和美術展」が開催され、湯川博士夫人のスミさん(世界連邦運動協会名誉会長、世界連邦全国婦人協議会会長、WFM名誉会長、)が来館されて特別講演会を開かれた。友人はその講演会に出かけ、湯川夫人は、当時95才とは思えない程に張りのあるお声で「地球平和の為に、50年も前に非核宣言をしたのにも関らず、いまだに核兵器はなくなっていない。核兵器をなくし平和を実現する為には、私達一人一人が自覚し行動する事です」と熱く語って居られたと話してくれた。残念な事に湯川スミさんは、昨年5月胃癌の為、他界されてしまったが、命尽きる最後の時まで、世界平和を訴えておられたという。

クリックすると元のサイズで表示します 愛知博を走るリニモ。

そもそも、スミさんの活動は、湯川博士の遺志を継ぐもので、湯川博士は日本人としてただ一人の「ラッセル・アインシュタイン宣言」の共同署名者でもあった。湯川博士はその署名について「私の本来的性格からしますと、何とか純粋に学問だけしておりたいのです。しかし…科学者として知らん顔は出来なかった」と答えている。「ラッセル・アインシュタイン宣言」 (Russell-Einstein Manifesto)とは、イギリスの哲学者であり、論理学者、数学者のバートランド・ラッセル伯爵と、アメリカの物理学者アルベルト・アインシュタイン博士が中心となった科学者ら11人によって、1955年に提示された、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた宣言文である。そしてその3ヵ月後にアインシュタイン博士が亡くなった事から、アインシュタインが人類に遺した遺言とも言われている。(著名者全員がノーベル賞を受賞)。

非核・反戦について語る湯川スミさん(当時95才)クリックすると元のサイズで表示します

アインシュタインは、ドイツ系ユダヤ人として、ヒトラーが政権を握った1933年にナチス・ドイツを逃れてアメリカへと移民した。その後、第二次大戦が勃発した1939年、ユダヤ人迫害を進めていたドイツが、原子爆弾開発に着手した情報を耳にし、数名の科学者達の代表として、当時のフランクリン・ルーズヴェルト大統領に原爆の開発を進言したという説が残されている。原爆開発に博士の直接的な関与はないとは言われているが、博士のE=mc2という公式で有名な、特殊相対性理論=「エネルギー・質量保存則」は、物質がエネルギーに変換されうる事を示しており、原爆は、正にこの公式の現実化であった。しかし実際に原爆が完成し、日本に投下される計画を知ると、猛反対をしたそうだ。

アインシュタイン博士は、大正11年、出版社の招きで来日し、その航路の途中の船上でノーベル賞受賞の吉報を受け取っていた。そして、約1ケ月半の日本滞在中に、東京・大阪・神戸・京都・名古屋・横浜 等で講演をし、各地で日本人のアインシュタイン・フィーバーと呼ばれる程の歓迎ぶりを目の当たりにした。博士は当時、日本の美しい国土と、純粋な国民性に感動し、大の親日家であった。周知のように残念ながら、原爆は投下されてしまったが、彼はそのニュースを痛恨の思いで聞いていたという。終戦後、やがてアメリカは、ソビエト連邦との冷戦時代を迎える。そこで博士らは、前記した「ラッセル・アインシュタイン宣言」を1955年に提示し、1957年、カナダのバスコシア州で、全ての核兵器及び全ての戦争の廃絶を訴える、科学者による国際会議… 「パグウォッシュ会議」(正式名=科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議)を開催した。以降、核戦争の危険とその回避方法に関する運動(パグウォッシュ運動)がアメリカ、イギリス、ドイツ、日本で組織された。この会議自体も団体として1995年にノーベル平和賞を受賞している。
クリックすると元のサイズで表示しますカナダ、パグウォッシュ村の灯台。
(photo by Kenta.Y)


科学開発によって生み出されたものは、ノーベル賞を創設したアルフレッド・ノーベル博士の発明したダイナマイト然り、その使い方如何で、例えば工事現場での岩盤の破壊で作業の効率化をして産業に貢献する反面、戦争に使用され人を殺す兵器として使用されてしまう。戦争に於いても、科学の進歩したゆえに、武器開発が進み、相手を見る事無く差別に大量殺できる…そこに人としての心の関与が少なくなっていったという悲しい歴史を刻んで来た。戦争を始める者は、最前線に居ない者…先週、映画のアカデミー賞作品賞のノミネートされた「硫黄島からの手紙」を観ても痛感した。しかしながら、このように書いている今この時も、戦争は続いている。対テロの「予防戦争」とも呼ばれたイラク戦争も、長引いた結果、米大統領の米軍増派という方針となった。その分、武器開発以外の科学開発費用は、国家予算から大きく削られているという。ノーベル博士、アインシュタイン博士や湯川博士を始め、先人の科学者達の純粋な平和への想いは届いていないのか…と悲しく思う。このニュースを聞いて湯川スミさんも天国で悲しんで居られるに違いない。スミさんの言葉…「平和を実現する為には、私達一人一人が自覚して行動する事」を噛み締めた。

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2007/1/19

大エルミタージュ美術館展へ出かけてVol...2 好きな絵画  日記(今日思うこと)

ロシアのエルミタージュ美術館に納められている、膨大な数のヨーロッパ絵画セレクションの中から、『都市と自然と人々』をテーマに厳選された絵画…80点が、名古屋市美術館に展示されている(3月4日まで)。絵画には造詣が深くない私だが、その中で、一番魅かれた絵は、19世紀のドイツの画家、ルートヴッヒ・クナウスの「野原の少女」だった。その構図の中には、殆ど空は描かれておらず、カンヴァス一杯に広がる野原から、草花の香りが漂って来そうだった。そしてこの絵の主人公…無心に花を摘む少女は、今にも動き出しそうなくらい、実に写実的に描かれていた。この絵を観ていると、まるでタイムスリップしたかのように幼い頃、レンゲ畑や、クローバーがぎっしり生えた空き地で、夢中になって花を摘んだ事を思い出させてくれ、その少女と幼い頃の自分の姿を、オーバッラップさせてしまった。童心に帰せてくれた…懐かしくそして温かい絵であった。

クリックすると元のサイズで表示しますスピンさんご提供…再び実物を観たい。
(クリックで拡大します)


※ルートヴッヒ・クナウス (1829〜1910) ドイツ画家 
ヴィースバーデンで修行した後、1845年から1852年にかけてデュッセルドルフ・アカデミーで学び、デュッセルドルフ画壇の風俗画家と交流して風俗画家としての基礎を磨いた。1853年、パリのサロンで金賞を受賞、1857年夏には、パリ近郊のブージャヴァルで制作活動をして、ベルリンのL・ラフェネギャラリーに展示した。1857年頃からイタリアを訪問し、1861年から1866年までベルリンに滞在。その後、母校のデュッセルドルフ・アカデミーの教授となった(1884年に辞任)。若きデュッセルドルフ画壇のリーダーとして、またドイツを代表する風俗画家として認められた存在だった。(カタログより引用)

◎大エルミタージュ展公式HP…開催日程、エルミタージュ美術館等について…。(絵画の説明有り)
http://www.ntv.co.jp/hermitage/main.html

◎当ブログ内、エルミタージュ美術館関連記事。
★大エルミタージュ美術館展へ出かけて Vol...1
http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/20070112/archive

★GPファイナル浅田真央選手SP首位発進とサンクトペテルブルグ。
(スピンさんが、実際にエルミタージュ美術館へ出向かれ、撮影された貴重な画像を掲載)

http://diary.jp.aol.com/applet/hotarudesu/20061216/archive
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2007/1/18

被災地から誕生した還暦プロゴルファー古市忠夫氏と被災した妹  日記(今日思うこと)

12年前の1月17日、早朝5時46分、私は当時15日だった成人の日の仕事を無事に終えて、岐阜県高鷲(たかす)村にあるスキー場の宿泊施設の2Fにいた。その直前、私は伝わってくる振動を感じて目を覚まし、一緒に眠っていたスタッフ達を揺起こした。ドドドーッと揺れるその揺れ方は、かつて私が体験した事の無い地震だった。岐阜県と長野県の県境にある活火山…御嶽山が噴火したのかと思いつつ、テレビのある階下の娯楽室へ降りていった。ニュース速報が神戸での地震だと伝えていた。岐阜県でこの揺れ…私は胸騒ぎがして、公衆電話から当時大阪府豊中市に住んでいた妹に電話をかけた。幸運にも電話は繋がり妹が出て、無事は確認できたが、「全ての家具が倒れ部屋の中は無茶苦茶、あまりに大きなドーンという音に大阪ガスの爆発かと思った」と妹は声を震わせ泣いていた。
クリックすると元のサイズで表示します 平山譲著、映画の原作「ありがとう」

「阪神淡路大震災」…その時、神戸市長田区の商店街でカメラ店を経営していた古市忠夫氏は、倒壊した自宅&店舗から妻の千賀代さんと2人の娘を避難させた後、消防団のヘルメットを被り、災害救助にあたろうと瓦礫の街を歩き周った。そこには、あるはずの建物が押し潰されて形を変え、多くの人々が家屋の下敷きとなっていた。やがて火の手があがり、生き埋めになった人々を次々に呑み込んでいった。平山譲氏著の「ありがとう」の中にその時の様子が赤裸々に書かれている。…迫り来る炎、家の瓦礫の下で、妻が夫に「逃げて」と言う、でも夫は「助けたるからな」と瓦礫を退かし続ける。古市氏も手伝うが、現場は火の海となり、2人で救うには時間がない。「奥さん ごめんな」と泣きながら夫を羽交い絞めにして現場から引き離した…。

古市氏の店舗があった鷹取商店街の火は、三日三晩燃え続け、995棟が全焼して105名の方が命を落としたそうだ。地獄絵のような焼け跡の中、古市氏は、街の復興に向けてボランティア活動に取り組み始めた。「わしら、生かしてもろてんねん。生かしてくれた人に感謝せな。文句言うたらあかん」(「ありがとう」より)。街の人々を励まし、励まされながら奔走する日々が続いた。そんなある日、古市氏は、自分の車が焼けずに無事であると知る。駐車場だった場所に向かい車のトランクを開けると、古市氏は愕然としたという。トランクの中には無傷のままのゴルフバックが横たわっていたのだ。古市氏は、「奇跡や!」と、焼け残ったそのゴルフクラブで、復興活動の合間に猛練習を始め、プロテストを受ける事を決心した。その時、古市氏は55才…。家族は呆れるばかりだったが、街の人々は見守り応援を続けた。
平山譲 著「還暦ルーキー古市忠夫」 クリックすると元のサイズで表示します

やがて古市氏は、2000年の秋、2度目の挑戦で日本プロゴルフ協会(PGA)資格認定プロテストに、59歳11ヶ月の史上最年長で合格した。古市氏の合格は「被災地から誕生した還暦ゴルファー」として新聞各紙で報道され、そのプロゴルファーへの行程は、平山譲氏によって執筆、出版された。そして2005年、赤井秀和氏主演による映画化が決定、12月の制作発表の会見には、来日していたタイガー・ウッズも駆けつけた。以下タイガー・ウッズのコメント。

「…前略…阪神大震災には、ずっと心を痛めていました。古市忠夫という人の存在を知り、興味を持っていました。彼の物語は、勇気と希望の映画になると思うので、是非応援したいです…中略…喪失感の底から立ち直る、それは物凄く辛い事だらけだったと思いますが、それをすべて乗り越えた古市さんを讃えられるこの場所に居られる事を、凄く嬉しく思います」。

クリックすると元のサイズで表示します タイガーウッズと古市氏 (Yahoo photoより)

そして会見の翌日、古市氏は、宮崎のフェニックスカントリークラブ、トムワトソンコースにて、タイガーとの夢の競演を果たした。この試合は、タイガーの他に、マイケル・キャンベル、星野英正、宮里優作、宮里藍、横峯さくら、元MLBプレーヤー佐々木主浩ら(敬称略)が参加し、マッチプレーによるトーナメント方式で行われた。最終結果、優勝はタイガーだったが、古市氏はタイガーと1回戦で対戦、そして何とタイガーと引き分け、決着を付ける為のアプローチ合戦(サドンレス)まで持ち込んだそうだ。映画は、2006年11月25日に、封切りとなり全国に「還暦プロゴルファー古市忠夫」の名前を知らしめた。

古市氏は、現在もシニアツアーで活躍しつつ「プロゴルファーである前に一住民でありたい」と、長田区若松町11丁目の自治会長としてもその活動を続けている。12年前のその日、電気を含め文明の利器が何も役立たない状況下で、「昔ながらの町の人々の助け合う姿は見事だった」。そう語る古市氏…。想像を絶する逆境の中にあっても、心の有り方一つで、奇跡は起こせる…古市氏の12年の歩みは、人と人が支えあえばこその「強さ、逞しさ」も教えてくれる。神戸では今、被災者で作る非利益法人…『1・17 希望の灯り』が、空爆を受け肉親を失ったレバノンの子供達に救援物資を送る等、支援活動の輪も広がっている。現在東灘区に住む妹は、古市氏に会いお話を聞いた事があるそうだ。今日は久しぶりに妹から電話があり、妹も及ばずながら「生かされている事への感謝を忘れないで、何か役に立てたらと『1・17 希望の灯り』の会を訪ねた」と語っていた。

◎映画「ありがとう」公式HP
http://www.arigato-movie.jp/
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