後白河院政の開始と共に、信西は院の近臣筆頭として、いよいよその権力を揺るぎないものにしていたのです。しかし、権力の強大なるが故に、これに恨みを抱く人々が現れ始めたのも当然のことだったのかも知れません。
その一人が、鳥羽法皇の近臣藤原忠隆の子で、後白河上皇の近臣として異例の昇進を遂げた藤原信頼です。保元二年から二年弱の間に、位は従四位下から正三位へ五段階上昇、官職も武蔵守から検非違使別当まで駆け上がるというすさまじさでした。とはいえこの急速な昇進は、上皇の「アサマシキ程」(「愚管抄」)の寵愛を頼りに実現したもので、要は上皇との男色関係を後ろ盾とした昇進だったようです。「平治物語」は、こんな信頼を「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と散々な評価を与えていますが、時の執政信西も信頼には不信感を抱いていたようです。信西は、寵におごった信頼がさらに大臣(大納言か?)と近衛大将を希望した際にこれを阻止し、さらに信頼の危険性を上皇に伝えるべく、唐の玄宗皇帝が安禄山を重用して国を滅ぼした故事を「長恨歌絵巻」に描いて、暗に後白河に諌言したほどでした(しかし、後白河はこれに全く気づかず、後に信西に「和漢に比類なき暗主」と陰口を叩かれました)。大臣・近衛大将を阻止された信頼は、信西を激しく恨むようになります。
信頼が打倒信西の武力として頼みにしたのが、保元の乱の殊勲者・源義朝でした。義朝も信西に取り入ろうと、信西の息子を自分の娘の婿にしたいと持ちかけますが、すげなく断られていましす。 しかし、一方で信西が息子の成範(高倉天皇との悲恋で名高い小督の父)を清盛の娘と婚約させたことを知るにおよび、義朝は信西を激しく恨んだといいます(「愚管抄」)。信西憎しの一念が信頼と義朝を結びつけたわけですが(信頼が武蔵守だったことと義朝が武蔵国を関東における地盤の一つにしていたことから、二人の提携は恒常的なものととらえる説もある)、さらにここに二条天皇の側近グループが加わります。
天皇の外戚である権大納言藤原経宗と天皇の乳母の子で信頼の叔父でもある参議藤原惟方、鳥羽法皇の寵臣藤原家成の三男藤原成親(鹿ヶ谷事件の首謀者)たちでした。二条親政を目指す天皇側近にとって、後白河院政の懐刀である信西はやはり邪魔な存在だったわけです。こうして、信頼、義朝、二条天皇側近グループによる信西討伐のクーデター計画が着々と進められていった結果が平治の乱の火種だったのです。

六条河原

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