
山縣神社正面
野山獄の一年間では、読書と思索にふけり、百六冊の本を読み十一人の囚人に孟子の講義をしたりした松蔭だが、彼はまだ少年時代から教育を受けた水戸学の影響から抜けてはいなかった。
兄の梅太郎に出した手紙にも「幕府への忠節は、すなはち天朝への忠節にこれなく候」とかいたように、「君は君道もて臣を感格し、臣は臣道もて君を感格すべし」という臣としての厳格な立場を守っていたのである。
このころ、ハリスは下田に着任して、大統領の国書を将軍に奉呈しようとさかんに運動中であった。開国か攘夷かの論争が、京都でも江戸でもようやく活発になった頃で、志士の活躍も目立ってきた。
松蔭は僧月性とも親しく、月性に送った手紙にはこう書いている。
「天子に請うて幕府を討つことは、不可である。大敵が外にあるいま、国内相せめぐ時ではない。諸侯と心を合わせて幕府を諌め、強国たらんとするはかりごともなすべきである、、、。」
つまりこの頃の吉田松陰の思想は、どこまでも「諌幕」であった。その手段としては、「藩主を通じて幕府をいさめる。幕府が聞き入れないときには、はじめて藩主をおし立てて討幕にのり出す」ということだ。
こうして萩に来た默霖と、三畳間に蟄居する松蔭との間の手紙のやり取りによる論争も、その内容が急所に近づきまた、対立も深刻になった
参考文献
筑摩書房・日本の思想17 歴史読本・第18巻8号 講談社山岡荘八著・吉田松陰 新潮文庫山本周五郎著・明和絵暦・夜明けの辻 山県神社誌 飯塚重威著・山縣大弐正伝 成美堂出版徳永真一郎著・吉田松陰 山県大弐著・柳子新論 川浦玄智訳注

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