祇園社大事件
この年の六月十五日、清盛はかねてからの「宿願」を果たすために、祇園社(八坂神社)に田楽を奉納しようとしました。その際、田楽を演奏する楽人に、護衛として郎等を付き添わせたのですが、彼らが武器を帯びて社内に入ろうとしたため、これを制止しようとした社家の下部との間でいさかいとなりました。しかし、事件は“いさかい”というレベルではとどまらず、郎等の放った矢は神殿に当たり、神人にも傷を負わせてしまうという騒ぎにまで発展してしまったのです。

八坂神社
しかも、ことはそれだけではおさまりませんでした。同二十四日、怒った祇園社と本寺の延暦寺が、このことを鳥羽法皇に訴えたのです。訴えを聞いた忠盛は、すぐに下手人を検非違使に引き渡しましたが、そんなことで祇園社と比叡山の怒りはおさまりません。その二日後、比叡山大衆は鎮守の日吉社と祇園社の神輿を担ぎ出して、忠盛・清盛親子の流罪を要求し、入洛をはかったのでした。しかし、法皇はあくまで忠盛親子をかばうつもりで、強訴に備えて検非違使や軍兵を派遣しました。結局、この時は大事には至らず、法皇の取りなしで衆徒はいったん帰山しました。
三十日、摂政藤原忠通、内大臣藤原頼長をはじめとする公卿十六人が集まり、事件についての議定を開きました。実際、清盛は直接事件には関与しておらず、ほとんどの公卿は忠盛親子に同情的でした。しかし、頼長だけは大義名分論をたてに忠盛親子の有罪を主張し、同時に祇園社側の下手人も罰すべきだとして、祇園社に実地検分の使者を派遣するなどしました。朝廷はあくまで忠盛親子をかばおうという意向が強く、崇徳上皇も手書を送って頼長をなだめようとしましたが、頼長は「理をまげることはできない」として聞き入れませんでした。
頼長の主張が通ったのか、七月二十七日にようやく事件の裁断が下りました。結局、大衆の要求した流罪にはいたらず、清盛には贖銅(銅を納めて罪をあがなう一種の罰金刑)三十斤が課せられることになりました。延暦寺の上層部はこれで納得しましたが、おさまらないのは流罪を要求した衆徒でした。衆徒等は怒りの矛先を、自分たちに同心せず積極的に動かなかった座主に向け、僧坊を焼き払うなどしました。そして面白いことに、騒ぎは比叡山の内紛という思わぬ方向に発展していき、清盛への追及はうやむやになってしまったのでした。
しかし、この事件は清盛に有意な教訓を与えることにもなりました。今回は、軽い罰金刑で済んだから良かったものの、寺院勢力を敵にまわしたらとんでもないことになるということを、身をもって知ったのです。専制君主として君臨した、かの白河法皇ですら山門の強訴には手も足も出ませんでした。後に清盛は、朝廷内において圧倒的な力を得てからも、比叡山の扱いには特に注意を払い、協調の姿勢を堅持しました。そうした山門に対する妥協的な態度も、この時の苦い経験があったからではないでしょうか。
参考文献:五味文彦・著平清盛 吉川英治著・新平家物語 元木泰雄著・平清盛の闘い 池宮彰一郎著・平家 安田元久著・後白河上皇 下向井龍彦著・日本の歴史7 武士の成長と院政 関幸彦著・武士の誕生〜坂東の兵どもの夢

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