
茨城県岩井市神田山にある「延命院・胴塚」
一族間の“私闘”の拡大と終焉
この時代の記録としては、初めての軍記物語といわれる『将門記』、藤原通憲(信西入道)が鳥羽上皇の命によって撰述した年代記『本朝世紀』、乱の当時朝廷の中心人物だった摂政藤原忠平の日記の抄本『貞信公記抄』など信憑性の高い資料が数多くあり、これらの資料を通してこの乱の大略を掴むことができます。
先述したように、平高望には国香、良持、良兼、良正、良文らの子息がおり、貞盛は国香の子、将門は良持の子です。従兄弟同士だった二人は、ともに若い頃から京で働いていました。貞盛は、御所の御厩の馬や馬具、諸国の牧場の馬を管理する馬寮において、左馬允(允は六位〜七位に相当)という職に就いていました。将門は、左大臣だったころの藤原忠平に家人として仕えており、その忠平の推挙により滝口として天皇警衛にあたっていました。滝口は、御所の警護や御所内の宿直を主な仕事としているため(庭に草木を植えたりということまでしたらしい)、武芸に長じた者を試験によって選抜しました。武勇に長けた将門らしい仕事といえます。
より高い官職をめざし、貴族の仲間入りをするべく働いていた二人でしたが、将門のほうは父良持の死を機に、その遺領を受け継ぐため帰郷します。ところが、下総国に帰った将門を待っていたのは、叔父たちとの果てしのない争いでした。良兼が自分の娘と将門との婚姻に反対したことがきっかけだったようですが、国香と良兼が良持の遺領を乗っ取ろうとしたことも、争いの原因としてあったようです。
承平五年二月、将門と一族との戦いの火ぶたが切って落とされました。国香や良兼、良正らと姻戚関係を結び平氏一族と深い関係にあった前常陸大掾源護の一族と合戦に及び、護の子息の扶や隆、繁をはじめ、姻戚関係から護に味方した叔父の国香を殺害、その邸を焼き払いました。父の訃報を聞き、急遽貞盛は帰郷します。しかし、貞盛は父を殺されたにもかかわらず、国香の遺領の保全の約束を将門と交わして和睦をしました。おそらく、これは在郷勤務を続けるための処置で、この行動から中央での立身を重視する貞盛の姿勢が見て取れます。あるいは、良持の遺領を横領しようとした父の行為を知っていて、将門に負い目を感じていたのかも知れません。この間、源護は自分の息子たちを殺した将門を朝廷に訴え、同年十二月、政府は将門召喚の官符を下しました。
しかし、翌年六月には、貞盛は良兼、良正、源護らと共同戦線を張り下野国境付近で将門と戦います。前回の和睦から、どのようないきさつで合戦に及んだのかはわかりませんが、合戦終了後、将門は国衙の官人に良兼のほうから「無道の合戦」を仕掛けたと国庁の日記に記させているところから、良兼が率先して起こした戦だったようです。十月、将門は先の召喚官符に従って上京し、検非違使庁で裁判を受けます。しかし、罰はいたって軽く、しばらくの間拘束されると翌正月には大赦によって赦され、五月に帰国します。
しかし、将門を待っていたのは、またもや泥沼の私闘でした。八月に良兼が息子の公雅・公連、源護、貞盛とともに、将門の支配下にある豊田郡の御厩や百姓の私宅を焼き払うと、九月、今度は将門が真壁郡にある良兼館と良兼の味方の私宅を焼き払い報復します。きりのない戦いに辟易したのか、将門は下総国衙に良兼の罪を訴える解文を作ってもらい政府に提出しました。すると十一月には、中央から武蔵・安房・上総・常陸・下野の諸国に、将門に良兼・護・貞盛・公雅・公連を追捕させよという旨の官符がおります。勇躍する将門でしたが、諸国の受領からは将門に協力する姿勢は見られませんでした。十二月になると、良兼は将門の従僕・小春丸の手引きで下総国猿島郡の石井の営所を夜襲しますが、これは失敗に終わります。
ここに来て、これ以上一族の私闘に関わることが自身の立身の妨げになると判断したしたのか、はたまた将門の動きを封じるために上訴を企てたものか、天慶元年(938年)二月、貞盛は密かに東山道から上洛しようとします。自分との和睦を反故にして貞盛が良兼に荷担したことを怒っていた将門は、急ぎ貞盛を追撃、信濃国の千曲川に追いつめます。将門の攻撃の前にさんざんに討ちなされた貞盛は、這々の体で山中に逃れました。こうして、貞盛は京に退避し、翌年六月に良兼が病死すると、平氏一族間の泥沼の私闘は一端の終息になるのです。
参考文献:五味文彦著・平清盛 吉川英治著・新平家物語 元木泰雄著・平清盛の闘い 池宮彰一郎著・平家 安田元久著・後白河上皇 下向井龍彦著・日本の歴史7 武士の成長と院政 関幸彦著・武士の誕生〜坂東の兵どもの夢 竹内理三著・日本の歴史6 武士の登場

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