所領を献上白河院と結ぶ
そんな正盛が一躍、京の政界に躍り出るきっかけとなったのが、永長二年(1097年)の六条院への所領献上です。六条院は、白河上皇の第一皇女提子内親王の邸宅を、内親王の死後に仏堂に改めたもの。白河院は内親王をことのほか寵愛しており、内親王が夭折した際には、近臣の制止を振り切って、逝去翌日に出家してしまうほどでした。それほどまでに白河院の思いのこもった六条院に、正盛が伊賀国の鞆田村と山田村の田畑、邸合わせて二十町余りを御料として献上したのですから、院が喜んだのはいうまでもありません。ちなみに、正盛は受領(隠岐守)の順番待ちをする間、白河院の近臣藤原為房の郎等となっており、この所領献上も為房の仲介によるものではないかといわれています。
もっとも、六条院への寄進は、所領の保全を図るための権門勢家への名目的な寄進という側面もありました。正盛は伊賀・伊勢のほか大和国にも荘園を持っていましたが、いずれの国においても東大寺と所領争いを演じており、鞆田村についても六条院への献上の直後、領有権を巡って東大寺が正盛を訴えています。この時は、白河院という後ろだてがついていたうえに、在地農民が正盛を支持したことから東大寺は敗訴しますが、他の在地領主同様に、正盛も所領保全に汲々としていたのです(山田村についても伊勢大神宮から抗議を受けていたようです)。
しかし、この所領献上は予想以上の効果を発揮し、その翌年、正盛は隠岐よりもはるかに実入りの良い若狭守に躍進することになるのです。これが出世の足がかりとなり、今度は若狭からの収入で白河院の御願寺である尊勝寺の曼陀羅堂を造栄して献上し、その功により若狭守を重任(ちょうにん)するのです。任期終了後には、また因幡守に任じられるなど、着々と受領として勢力を蓄えていったのです。そして、遥任(現地に目代を派遣して自身は京にとどまる)の国守として正盛自身は京に留まることになり、北面の武士として白河院の身辺警護に務めながら、白河院の信頼は増大して行きます。
参考文献 上横手雅敬著・源平の盛衰 梶原正昭編・平家物語必携 和田英松著・新訂官職要解 五味文彦著・平清盛 吉川英治著・新平家物語 元木泰雄著・平清盛の闘い 池宮彰一郎著・平家 安田元久著・後白河上皇・平家の群像 下向井龍彦著・日本の歴史7武士の成長と院政 関幸彦著・武士の誕生〜坂東の兵どもの夢 竹内理三著・日本の歴史6武士の登場

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