素養を武器に発展した忠盛

厳島神社回廊
忠盛が最初の海賊討伐を命じられた大治四年(1129年)、崩御した白河院に代わって鳥羽院による院政が開始されています。新たに「治天の君」となった鳥羽上皇は、白河院政への反発から前政権の近臣の多くを退けますが、そうした中においても、忠盛は御厩預の地位を命じられたり、待賢門院や祇園女御への成功により鳥羽院政最初の叙位で正四位下に叙せられるなど、引き続き院の近臣として重用され続けます。
鳥羽院自身も平氏の武力と忠盛の政治手腕を高く評価していたからなのでしょうが、時代の分岐点において、忠盛はさらなる発展への足がかりを得ることに成功したのではないでしょうか?
鳥羽院の信任の厚さを示す最大のエピソードは、前述の「内昇殿」です。長承元年(1132年)、忠盛は鳥羽院御願の千体観音堂(得長寿院。中央に丈六の観音像を安置し、その左右に五百体の観音像を建てたもので、御堂は三十三間におよぶ。清盛の建てた蓮華王院はこれをならったもの)を造営し、その功により内裏清涼殿への昇殿を許され、晴れて殿上人となりました。
宣旨のあった十日後、忠盛は藤原宗忠に会い「今日始めて御前に奉仕する」と語っており、それを聞いた宗忠は「未曾有の事」としてその驚きを日記に記しています。得意の絶頂にある忠盛の姿が目に浮かぶようです。
もっとも、忠盛の心中は察して余りあるものがあります。忠盛は、武門の棟梁として武功を上げるだけでなく、舞や和歌など宮廷人としての素養を身につける努力も怠りませんでした。
清盛が生まれた翌年の元永二年(1119年)、忠盛は賀茂臨時祭に舞人として奉仕しますが、その姿を見た藤原宗忠は「舞人の道に光華を施し」たと絶賛しているほどです。和歌についてはさらに精進を重ねたようで、『平忠盛朝臣集』を編むほどの和歌を残したほか、『金葉集』にも入集しています。鳥羽上皇の「明石の月はどうか」との問いに対して、即座に「有明の月もあかしのうら風に なみばかりこそよるとみえしか」という名歌で答え、上皇の御感に預かったこともありました。そして、忠盛の昇殿に対する思いを表しているのが、『金葉和歌集』所収の「思ひきや雲井の月をよそにみて 心の闇にまどふべしとや」の歌です。「雲井」とは宮中を雲の彼方に見立てた比喩。殿上人になれず心が晴れない胸の内を和歌に託すほど、「内昇殿」に対する忠盛の思いは強かったのです。
殿上人となった忠盛に対する貴族の嫉妬は激しく、その様子は『平家物語』の「殿上闇討」に詳細に語られています。その年の十一月の豊明の節会(新嘗祭の最終日に行われる宴会)で貴族たちが自分に危害を加えようとしている事を知った忠盛は、銀箔を張った木刀を懐に忍ばせて襲撃者を牽制しますが、天皇の御前で舞を披露している最中に「伊勢平氏はすがめなりけり」と嘲笑され、悔しい思いを抱くのです。後年、清盛が位人臣を極めたことを誰よりも喜んだのは、草葉の陰から見守る忠盛だったに違いありません。忠盛在世時の平氏は、まだ地下人と蔑まれていた武士のイメージを払拭しきれないでいたのでした。
参考文献 上横手雅敬著・源平の盛衰 梶原正昭編・平家物語必携 和田英松著・新訂官職要解 五味文彦著・平清盛 吉川英治著・新平家物語 元木泰雄著・平清盛の闘い 池宮彰一郎著・平家 安田元久著・後白河上皇・平家の群像 下向井龍彦著・日本の歴史7武士の成長と院政 関幸彦著・武士の誕生〜坂東の兵どもの夢 竹内理三著・日本の歴史6武士の登場

0