「荒川の畔にお住まいの兄上には、別に自慢にもなりますまいがー」
「いやいや。荒川の水だとて、さして変わる筈もない」
昌樹は笑った。
片羽御門外の荒物屋吉右衛門の井戸水は、場内廓外を問わず、名水として持て囃されていた。
が、、金峰山に源を発し、昇仙峡の奥の畳なわる山々の岩根を流れてくる、荒川の早暁の水の青冽さには比ぶべくもなかった。
しかし、昌樹はそのことよりも、興ありげにあたりを眺め回していたが、やがて感慨深そうに、
「もうすぐ母上の五年忌になるのう」
母(月桂妙鑑大姉)が死んだのは、延享三年(1746)八月のことであった。
殊に軍治は勉学の余勢を駆って街に兵学を講じたり、兵書の執筆に没頭していたので、時々のぞく兄の昌樹の心には、この家に女手を一つ殖したい念願が湧くのであった。
そして、やっと勧めて縁戚関係にあたる巨摩郡北山筋龍王村の斉藤家から、息女・さだを軍治の妻に貰い受けたのだが、今年になって軍治が病気で伏枕するようになってからの数ヶ月を、もし女手がなかったとしたらー そう思うと神方便のような気がするのであった。
べつに、家中の何処が違っているというのではなかったが、母の在世中のころのように、何も彼も片付いて、落ち着いていた。
昌樹は、さだの入れた薄茶を飲み終わると、
「結構なお手前ー」
と、義兄らしい貫禄でやさしく褒めた。
和歌や管弦の師匠である昌樹には、茶道や華道にもふかい嗜みがあった。九年前の寛保二年(1742)京都にのぼって、花山院、高倉、日野、白川、綾小路等の諸家から、有識故事を習得して来ていた。
そういう日本伝統の有識故事を通して、和歌や管弦を追求している芸術家らしい、しっとりとした人柄が、何故ともない安らかな雰囲気を漂わせていた。 続く
石井計記著 黎明以前より転載

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